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2007年11月25日 - 2007年12月1日

2007年12月 1日 (土)

そういえば、柳田國男が好きだった

 赤坂憲雄『方法としての東北』(柏書房、2007年)を手に取りながら、本書のメインテーマというわけではないが、そういえば私も柳田國男に興味があったなあと思い出した。

 『柳田國男全集』がちくま文庫で刊行され始めたのは私が中学三年生の時だった。高校受験を間近に控えた時期、『遠野物語』や『山の人生』が収録された第一回配本の第四巻をこたつの中でむさぼり読んだ。勉強については割合と寛容なように思っていた親もさすがに見かねたのか、「本なんか読んでないでいい加減に勉強しなさい」と叱られ、意外に感じたのを覚えている。

 高校生になってから、NHK教育テレビで柳田國男についての番組をたまたま見た。赤坂憲雄さんが語っていた。まだそれほど名前が売れていなかった頃だが、赤坂さんの存在を意識するようになったのはこの時からだ。高校一年生の夏休み、一人で遠野をふらついたのもなつかしい。兵庫県福崎にある柳田の生家を訪れたのは20代になってから。

 なぜ柳田國男に興味を持ったのか、我ながら不思議に思う。赤坂さんも記しているが、東京郊外に育った人間として、民俗的なものと体験的につながるきっかけはほとんどなかった。囲炉裏のある暮らし、祭りの風景、正月行事、そういったかつてなら普通に見られた習俗も、私の眼には異文化として映る。柳田を読んでも、いわゆる“郷愁”を感じることはなかった。むしろ、同じ“日本”という括りの中に自分がいることを意識しつつも、見も知らぬ生活世界が息づいていたことに素朴な驚きがあったのだと思う。それは同時に、私自身の地に足の着かない無色透明な生活感覚への違和感を自覚させることにもつながっていた。

 欧化の進む近代日本において“日本人”とは一体何なのかを問うた柳田の民俗学は、いわば新しい国学だとよく言われる。大文字の政治史ではなく、常民の生活文化の中に“日本人”なるものの原型を見出そうとしたところに柳田の着眼点があるわけだが、それは一方で、均質な“日本”という前提が暗黙のうちに置かれている点で、国民国家批判の対象となっている。

 赤坂さんは柳田を出発点として踏まえつつ、均質な“日本”イメージを解きほぐそうとしている。『方法としての東北』の中で、「民俗学とは、内なる異文化と出会うための方法である」と言う。“ひとつの日本”像の自明性に対する問いかけとして東北という地域の見直しを進め、“いくつもの日本”へと思考の転換を図る。しかし、東北にこだわり始めると、今度は東北内部での多様性が見えてくる。“いくつもの東北”、“いくつもの日本”、そして“いくつものアジア”──こうした人間文化の重層的な多様性を掘り起こすことは、単に国民国家の枠組みを超えるというにとどまらず、グローバリゼーションという形で世界の画一化が進展する中、地域ごとの足場をしっかりと組み立て直す視点をもたらしてくれる。

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2007年11月30日 (金)

水谷尚子『中国を追われたウイグル人──亡命者が語る政治弾圧』

水谷尚子『中国を追われたウイグル人──亡命者が語る政治弾圧』(文春新書、2007年)

 トルキスタンは私の小さい頃から憧れの地だった。スウェン・ヘディンやオーレル・スタインの探検記に早くから馴染んでいたし、大学の卒業論文では東トルキスタンのあるオアシス都市国家の興亡をテーマとして選び、中国語で書かれた論文や発掘レポートを、辞書を引き引き読み解いたのもなつかしい。しかしながら、私がそうした甘ったるいロマンティシズムを寄せていた土地ではいま、ウイグルの人々は悲惨な扱いを受けている。時折、新聞の国際面で反政府勢力摘発の記事を目にしてはいたが、それ以上のことは分からず気になっていた。本書は、共産党政権による苛酷な弾圧から逃れた人々の痛切な肉声を紹介してくれる。

 以前、マーティン・スコセッシ監督によるダライ・ラマの伝記映画「クンドゥン」を観たとき、チベットに侵攻する人民解放軍の野蛮さが、中国の反日映画で描かれる日本軍と二重写しになって不思議な気持ちになったのを覚えている。中国側は今でも旧日本軍の残虐さを言い立てるが、同様の蛮行が漢人の公安によってウイグル人に対して現在でも行なわれている。

 私が最も衝撃を受けたのは、中国政府によって行なわれる核実験の被害がウイグル人を直撃していることだ。漢人に被害が及ばないよう、敢えてウイグル人居住地域の近くで実験が行なわれている。死の灰による後遺症が顕著に出ているが、中国政府は「核汚染はない」という立場を崩さないので放置されたまま。少数民族に対する差別政策というレベルを越えて、一種のジェノサイドではないかと恐ろしくなる。告発した医師がこう語るのが重い。「被爆国日本の皆さんに、特に、この悲惨な新疆の現実を知ってほしい。核実験のたび、日本政府は公式に非難声明を出してくれた。それは新疆の民にとって、本当に頼もしかった。日本から智恵を頂き、ヒロシマの経験を新疆で活かすことができればといつも私は考えているけれど、共産党政権という厚い壁がある。」

 ウイグル人にはチュルク民族意識やイスラムを媒介したネットワークがあるのも注目される。国外に出て各国を転々と渡り歩き、たまたま9・11後のアフガンで拘束されてグアンタナモに送られたウイグル人の話も出てくる。テロリストではないのだが、中国に送還されると間違いなく銃殺されるので、アメリカ軍に拘束される方がまだマシと考えたらしい。

 アメリカで活動するラビア・カーディル女史をはじめ、東トルキスタン独立運動は世界各地に散らばって展開されている。漢人の民主化グループと共闘するシーンもあるが、独立問題は微妙な影を落とす。著名な運動家・魏京生氏は寛容な態度を取っているものの、民主化運動に従事する人々の間でもウイグル・チベット・台湾の独立は一切認めないという意見が根強いという。辛亥革命以来、先送りされたままの問題である。

 本来ならば人権問題に敏感であるべき日本の進歩派といわれる人々が、中国の為政者が振りかざす“一つの中国”という公定イデオロギーをそっくりそのまま鵜呑みにしてきたというのは甚だ奇妙なことで、これは厳しく指弾されるべきダブル・スタンダードである。他方、本書の著者が「おわりに」できちんと指摘しているように、中国の“反日”に対する感情的な反発を動機として、こうした政治弾圧問題にとびつくというのもあまり感心できることではない。

 つい先日、私は台湾に行ったばかりで、ある台湾人のおじいさんから話を聞く機会があった。二・二八事件で台湾人を多数虐殺した中国への憎しみと、日本への親しみとを語ってくれた。その話を聞きながら、同行していた友人が素朴に喜んでいるのを傍らで見て、私は微かな違和感が胸にわだかまっていた。おじいさんにではなく、その友人に対して。もちろん、彼の気持ちは分からないではない。ただし、こうした話をナイーブに受け入れてしまうのは、所詮、日本人の自己満足に過ぎず、語り手の置かれた屈折した立場を実は無視することになりかねない、そうした意味での知的怠慢を感じたのである。

 本書で訴えかけてくるウイグルの人々の切実な声に耳を傾けるにしても、それを単純に中国憎しで終わらせてしまっては不毛であろう。語られた言葉の背景をなす歴史的・社会的・政治的な桎梏をしっかりと読み解かなければ、建設的な受け止め方にはならない。

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2007年11月29日 (木)

網野善彦『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』

網野善彦『〔増補〕無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』(平凡社ライブラリー、1996年)

 中学・高校の歴史教科者は政治史中心で、社会史・文化史については付け足し程度に触れられるだけだった。もちろん、時系列整理に便利が良いという理由もある。たが、それ以上に、中央権力=一国・一元的な見取り図が暗黙のうちに前提されてきたことは様々な方面から批判を受け、いまや歴史を複層的にみつめようという姿勢は常識的とも言えよう。そうした潮流を形づくるにあたり大きな転回力を持った仕事として網野善彦の業績を逸することはできない。

 本書は、遍歴する職人や芸能民、遊行僧に遊女、あるいは駆け込み寺や市など、中世日本において一定の支配関係から抜け出しマージナルなありようを示した人々や空間を一つ一つ拾い上げ、それらに通底する感性を「無縁」「公界」「楽」といったキーワードを使って掘り起こそうと試みている。端的には“自由”と言ってしまいたいところだが、この表現にまとわりつく西欧近代的なニュアンスとは必ずしも重ならないので、この微妙なところは本書を通読して感じ取ってもらうしかない。

 織豊政権、さらには江戸幕府と時代環境がシステマチックに整備されるにつれて、こうした境界的な存在はむしろマイナスのイメージを負わされた。「公界」(くがい)は「苦界」となり、「無縁」は無縁仏というように寂しい語感を帯びることになる。被差別民の問題もこうした頃から生じたとされる。

 堺をはじめとする自治都市の性格を把握するに際し、経済的な「私有」の論理によって秩序が確立されたとする見解に網野はかみつく。もちろん、そうした側面は否定できないにせよ、同時に、「無縁」の論理が背後で支えていたのを見落としてはならないと指摘。さらに筆を強め、このような発想には「私有」「有主」の論理による発展を“進歩”と考え、「無所有」「無主」の論理を克服すべき停滞とみなす偏見があるとまで批判する。

 こうしたあたり、網野の資本主義に対する不信感、そしてそれによって人為的に崩されてしまった“自由”な理想郷への憧憬を見出すのは容易であろう。私自身としては必ずしも共感できるわけではないが、そんなのはたいしたことではない。

 歴史を描くにしても、その動機自体に共感できるかできないかは別問題として、ある種の強いパッションで貫かれた筆致というのは読み手に強烈な手応えを感じさせてくれる。“事実”といわれるものの積み重ねがイコール“歴史”なのではない。打ち出された明確なイメージと対峙して、読み手自身の世界観がどこか揺さぶられる強さ、そうした手応えを受け止めたとき、私は素直に面白いと感じる。本書は典拠をふんだんに引いて論証を重ねつつも、どこか青くさい。むしろ、その青くささにこそ歴史書として色褪せない魅力があると思う。

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2007年11月28日 (水)

「花蓮の夏」

「花蓮の夏」

 海辺に三人の男女がたたずむシーンから物語は始まる。服は砂に汚れ、顔にはスリ傷が見える。台湾東岸、花蓮の街。じっとりと汗ばむ夏の陽気の中でも、青々と広がる田んぼや山の木々、海辺に打ち寄せる波音に清涼感があって、暑苦しいという感じはしない。主人公ジェンシンの家は日本式家屋、古い街並の残る田舎町であることがうかがえる。後半、映画の舞台は台北に移るが、密集度が高くて不快指数も高そうな都市空間との対照が際立つ。

 ジェンシン(ブライアン・チャン)とショウヘン(ジョセフ・チャン)は小学生の頃からの親友。優等生のジェンシンが、挙動が落ち着かず嫌われ者のショウヘンと友達になるよう先生から言われたのがきっかけだった。大学受験を控えた時期、ジェンシンはホイジャ(ケイト・ヤン)と付き合っていたが、ホテルに行っても何もできず、自身の同性愛的傾向に気付く。ショウヘンとホイジャは台北の大学に進んで付き合い始めたが、ジェンシンは受験に失敗、鬱屈したものを抱えながら予備校に通う。彼のショウヘンへの想い、恋愛と友情とが重なり合った三角関係。三人の気持ちはそれぞれに無垢であるだけに、否応なく傷つけ合わざるを得ないことに戸惑う。

 全体的に映像のトーンは青っぽい感じで、それが三人の気持ちを痛々しいまでに叙情的に浮き上がらせている。季節は夏。同性愛というテーマからしても暑苦しいストーリーではあるが、観終わってから後味の悪さは全くない。

 以前、ツァイ・ミンリャン監督「青春神話」(1992年)を観たときにも感じたことだが、受験競争の厳しい管理教育社会という台湾の一側面が垣間見えるのも興味深い。

【データ】
原題:盛夏光年 ETERNAL  SUMMER
監督:レスト・チェン
台湾/2006年/95分
(2007年11月25日、渋谷、ユーロスペースにて)

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2007年11月27日 (火)

「転々」

「転々」

 文哉(オダギリ・ジョー)は大学生、身寄りが全くなく孤独な生活を送っている。そこに現われた借金取りの福原(三浦友和)から「俺と一緒に東京散歩に付き合ってくれたら100万円やる」と言われ、半信半疑ながらもついて行く。吉祥寺出発、目的地は霞ヶ関。しかし、何のため? 「女房を殺した。警視庁に自首するから、その前に思い出の場所を歩きたいんだ。」

 東京にうごめく不可思議な人々とすれ違う。途中、福原は拳法が滅法強い時計屋のじいさんから一撃くらい、知り合いのマキコ(小泉今日子)の家に転がり込んだ。マキコの親戚、ふふみ(吉高由里子)も乱入し、四人で過ごす擬似家族体験。そして、二人は桜田門へと歩いていく。

 「ALWAYS 三丁目の夕日」を観た時にも思ったことだが、東京というのは雑居性を特徴とする都市のせいか、“擬似家族”というテーマになじみやすい。人間はたくさんいるのだが、その中で砂粒のように散りばめられた孤独な人々をすくい取る横のつながりが時代は変わっても常に求められているからだろう。

 東京の古い街並を次々とつぶしていくコインパーキングを見て、文哉は自分の過去もこうやって消し去りたいとつぶやく。しかし、そんな彼でも、たった数日間の擬似家族体験を通して表情が活き活きとしてくるあたりは観ていてホッとする。

 私自身、よく東京散歩に出かけるので、その点でもこの映画には愛着を感じた。うかつにも監督の三木聡という名前をつい最近まで知らなかったのだが、「時効警察」は時々観ていた。麻生久美子とオダギリ・ジョーは二人とも好きな俳優だし、ナンセンス・ギャグ的な演出も私のツボにはまっていた。この「転々」も大筋からいえば決して軽いストーリーではないが、深刻になりかねないところを良い意味ではぐらかしてくれて、気持ちよく観られる。チョイ役で色々な人が登場するが、岸部一徳の使い方には笑った。

【データ】
監督・脚本:三木聡
原作:藤田宜永(新潮文庫、2005年)
2007年/101分
(2007年11月25日、テアトル新宿にて)

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2007年11月26日 (月)

「ALWAYS 続・三丁目の夕日」

「ALWAYS 続・三丁目の夕日」

 東京タワーが完成し、高度経済成長で東京の姿も徐々に変わりつつある頃が舞台。夕焼け空があたたかく感じられるのは幸せな時代なのだと思う。いや、“幸せ”なんて表現で片付けてしまうのは適切ではないのかもしれない。この映画ではコミカルなドタバタの中でも、失ったものを引きずる姿が随所に見え隠れするのだから。

 一つは、戦争の影。鈴木オートのオヤジ(堤真一)は戦友の幻を見る。医師のタクマ先生(三浦友和)は、前作ではタヌキに化かされて空襲で亡くした家族の夢を見たが、今回はそのタヌキを焼き鳥でもう一度おびき出そうとしている。

 もう一つは、故郷喪失感。集団就職で上京したロクちゃん(堀北真希)のことは前作ではストーリーの柱となっていたが、今回は一緒に上京したタケオが方言訛りの言葉を笑われてぐれてしまうというエピソードがある。ヒロミ(小雪)は身売りされてストリッパーになった。淳之介とミカの二人にしてもそれぞれに親の事情のため、よその家で寄寓生活を送らざるを得なくなった。そうした人々が集まり、鈴木オートの夫婦(堤真一・薬師丸ひろこ)と駄菓子屋の茶川さん(吉岡秀隆)、それぞれの家でいとなまれる擬似家族的なつながりがこの映画の中心をなしている。

 失ったものがあるから、それを取り返そうと前向きに努力する。故郷や親元を離れ、仕事や生活上の問題ばかりでなく精神的にも孤独感に苛まれかねないところ、擬似家族的な共同体の中に生きていく拠り所を見つける。それぞれに自分の抱えているものと向き合うのに必死だった。同時に、それぞれの背負った傷を互いに埋め合おうとする本能的な智慧を忘れていなかったからこそ、こうした擬似家族がおのずと形成されたとも言える。

 山崎貴の映画は「ジュヴナイル」(2000年)、「リターナー」(2002年)ともに映像効果がたくみで、子供向けSFだからと斬っては捨てられないほどに面白かった。特に「ジュヴナイル」は小学生の頃の夏休みを思い起こさせるようなノスタルジックな空気が漂い、その雰囲気は「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズにもつながっている。やはり見所はVFXで再現された昭和30年代の東京の風景だ。私自身もはや見たこともない街並ではあるが、普段歩き慣れた東京のかつてのたたずまいに少々の感慨もわく。

【データ】
監督・VFX:山崎貴
脚本:山崎貴・古沢良太
2007年/146分
(2007年11月23日、新宿バルト9にて)

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2007年11月25日 (日)

「眠り姫」

「眠り姫」

 冒頭、薄明の色合いを背景に、すでに落葉した木の枝の広がりを映し出した映像が影絵のように美しい。映像に人物は登場しない。どこか寒々とした映像を連ね、そこに声だけでセリフをかぶせながら物語は進む。映画というよりも、映像叙情詩といったらいいのだろうか。音楽は美しいのだが、所々でトゲトゲしく胸をつんざく。嫌いじゃない。

 中学校で非常勤講師をしている青地は、眠っても眠ってもまだ眠り足りない。学校へ行くのも億劫。恋人とも何となく付き合い続けてはいるが、もう面倒くさい。顔は丸くなってきた。時々、変な声が聞こえてくる。同僚の野口に相談しても気味悪がられるだけだ。しかし、その野口も不自然なほどにやせ細って様子がおかしい。

 原作は山本直樹の同名マンガ(『夜の領域』チクマ秀版社、2006年、所収)だが、このマンガ作品自体も内田百閒「山高帽子」(『内田百閒作品集成3 冥途』ちくま文庫、2002年、所収)を原作としている。山本の作品は、かつて東京都の有害図書条例にひっかかったことで知られているように、あからさまな性描写に特徴がある。しかし、単なるエロではない。私はそんなにたくさん読み込んだわけではないが、全体的なトーンとして無表情、無感覚というか、性=生の稀薄感を漂わせた女の子が多く登場するという印象があり、「眠り姫」も含めて、今という時代のある種の空気を汲み取っているようにも感じられる。

 舞台は現代に移し変えられている。時折、微妙に古風な言い回しで語られるが、百閒「山高帽子」のセリフがそのまま使われている箇所である。もちろん、百閒にエロはないし、彼の皮肉っぽい文体は存在の稀薄感なんて感覚からはかなり距離がある。ただ、うつつか夢か、その境界線がぼんやりとした物語設定は、百閒の筆致とはまた違った形で、山本のマンガ、この映画、それぞれの持ち味が活きてくるのが面白い。

【データ】
監督・脚本:七里圭
音楽:侘美秀俊
声の出演:つぐみ、西島秀俊、山本浩司、他
2007年/80分
(2007年11月19日レイトショー、渋谷、ユーロスペースにて)

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