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2007年11月11日 - 2007年11月17日

2007年11月17日 (土)

台湾に行ってきた⑥(台湾高速鉄道で高雄へ)

(承前)

 二・二八和平公園を歩き、国立台湾博物館に向かう。公園の北のはじっこにある。公園入口から道路をはさんだ向かい側に古い建物があったので撮影(写真18)。現在は土地銀行が入っているが、帰国してから戦前の地図を確認したところ、三井物産株式会社となっていた。

 写真19が国立台湾博物館。戦前は台湾総督府付属の博物館であった。自然史(博物学)や原住民に関する通常展示のほか、随時企画展示も行なわれている。私たちが行った時にはチェコの人形劇について特集展示が組まれていた。チェコ・アニメーションのファンは日本にも結構いるが、その源流は人形劇にある。ファンタジックな雰囲気をなかなか楽しそうに工夫を凝らして出しているのでゆっくり見たいところだが、時間的な都合から駆け足で通り過ぎる。自然史コーナーは少々しょぼかった。原住民に関するコーナーも色々と興味深いのだが、中国語のキャプションを読むにも手間取るし、やはりじっくり見るには時間が足りない。

 公園近くの台北医大病院前駅からMRTに乗り、中山駅で下車。デパートが立ち並ぶ、東京で言うと日本橋のような所だろうか。Hおすすめということで、新光三越西南店の上にあるレストラン欣葉で遅めの昼食をとる。再び中山駅に戻り、地下通路を歩いて一駅隣の台北駅まで戻る。ちょっとした地下街になっていた。

 MRT、台湾鉄道(台鉄)も含めて台北駅は完全地下化されており、台湾高速鉄道(Taiwan High Speed Rail=HSR、高鉄)も地下駅から出発する。15:00台北発、左営行きに乗った(写真20)。いわゆる台湾版新幹線である。本来ならば2005年開業予定だったらしいが、色々とトラブルが続き、今年の一月にようやく開業したばかりである。乗り心地は悪くない。ワゴン販売を何気なく見やると、ロッテの「コアラのマーチ」「ポッキー」といったカタカナが目に入ってきた。韓国系企業がつくった日本製商品を台湾の新幹線で売っているというのも不思議な感じだ。定期的にゴミ収集の人も通りかかる。

 車窓の風景を眺める。日本の新幹線と同様に、在来線とは離れた所に路線が敷設されているので、都市では見られない台湾の姿が一瞥できる。台北盆地から台湾島西部の平野に出るまでの山地はトンネルが多い。鬱蒼と茂る木々の緑が目に瑞々しく映える。いったん平野に出てしまうと、あとは広々とした田畑が広がっている。溜池が散在しているのが目立つ。台湾中部の大都市、台中市が見えてきた(写真21写真22)。横を通り過ぎると、再び田畑の広がりの中をひたすら走る(写真23写真24写真25)。このあたりの水利が、八田與一のイニシアチブで整備された嘉南大圳であろう。やがて夕日が空をあかね色に染める中、台湾第二の大都市圏、高雄市へと近づく(写真26)。

 台北から左営まで高鉄で約一時間半ほど。台鉄の自強号という特急列車では3,4時間くらいかかるというから、だいぶ便利になった。我々のように日帰りのプランを気軽に組める。ただし、高鉄は台鉄の高雄駅までは直結していない。終着駅の左営はその手前。日本の新横浜や新大阪みたいな感じか。台鉄の新左営駅とつながっており、こちらから2駅目で高雄駅に着く。ただし、台鉄の本数は少なく、接続はあまりよくない。現在、地下鉄を建設中だが、開業は今年の末くらいになるそうで、とりあえずタクシーを使うのが無難だろう。なお、左営のように「営」という字の入った地名を時折見かけるが、鄭成功の率いた軍隊の屯所が置かれたことにちなんでいるという。

 高雄はかつて打狗(ターカオ)といった。日本の支配下に入った後、“犬をぶつ”なんて町の名前として宜しくないということで発音だけ音写して“たかお=高雄”と改称された。日本人はついつい“たかお”と言ってしまうが、中国語での発音は“カオシュン”である。司馬遼太郎は『台湾紀行』の中で、司馬がうっかり“たかお”と言ってしまうのに対して、親日家の“老台北”こと蔡焜燦氏が訂正こそしないものの、敢えて“カオシュン”という発音で会話を続けていたので司馬は恐縮してしまったというエピソードをつづっている。

 高雄はやはり暖かい。空気は少しムワッとする感じだが、夕方は適度に涼しく、今の時期が一番過ごしやすいのではないか。きっちりと区画整理されて街路も広いせいか、台北よりもきれいに整った印象がある。Hおすすめの海鮮料理店で食事をしてから六合夜市へと足を向けた。台北や基隆の夜市と比べ、道路が広いので歩きやすい(写真27)。果物やフルーツジュースを売る屋台のヴァリエーションの豊かさが目を引く。どら焼きの屋台ではドラえもんの歌が流れていた。Hが海賊版DVDをせっせと買い込むのを私は横目で睨みつける。

 写真28は夜の高雄駅。台鉄で新左営に出る。時間があったので駅中のコンビニをひやかしていたら、日本語の雑誌、とりわけ女性向けのファッション雑誌が多いことに気付いた。高鉄左営から21:15発の台北行きに乗車(写真29)。窓の外はまっくら。隣のHはウツラウツラ。二・二八紀念館でもらった許文龍『台湾の歴史』を通読した。

 22:50頃、台北駅に到着。さらにMRTに乗って剣潭駅で下車。今度は士林の夜市を歩く(写真30)。一晩のうちに高雄、台北と二大都市の夜市を歩くというのもなかなか得がたい経験である。私はこういう騒がしい雑踏を歩くのはあまり好きではないので、Hに引っ張られなければ来ることはなかっただろう。その点では彼の強引さもありがたい。

(続く)

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2007年11月16日 (金)

台湾に行ってきた⑤(二・二八紀念館)

(承前)

 総統府近くの二・二八和平公園に行った(写真14)。ここで二・二八事件に触れねばなるまい。日本の敗戦後、国民党の軍隊が台湾接収のため上陸した。当初、台湾の人々は解放者として期待をふくらませて歓迎したが、やがて彼らの腐敗体質、恐怖政治に不満を募らせる。そして1947年2月28日、反国民党の暴動がおこり、台湾全島に広がった。国民党は大陸からの増援部隊を得てこれを徹底的に弾圧、1か月の間に公式の数字として2万8千人が殺されたと言われている。日本では侯孝賢監督の映画「悲情城市」の背景をなす事件として知られているが(「悲情城市」の記事を参照のこと)、台湾の人々にとってこの二・二八という日付は特別な意味を持つらしい。

 1995年になってようやく当時の李登輝総統が国家元首として公式に謝罪。これを受けて、1997年、陳水扁市長時代の台北市政府によって二・二八紀念館が設立された(写真15写真16写真17)。ここはかつて日本の放送局だった建物である。二・二八事件のとき群衆がここを占拠して、台湾人の決起を呼びかける放送をしたという。北京語の放送が途中で台湾語に切り替わる様子を録音したテープが館内で聞ける。

 館内に入ると、3人ほどのグループを前におじいさんが説明をしていた。その言葉が日本語であるのをいち早く聞き取ったHが、「おう、ついて行こうよ」と私の袖を引っ張ってくれた。このおじいさんのお名前はCさんという。日本語は完璧なまでに流暢で現在の日本事情にもだいぶ通じているようだった。

 二・二八紀念館には日本統治時代の背景から敗戦時の混乱、そして二・二八事件の詳細な経緯、その後の人権問題について展示されている。上陸直後の国民党は経済的に無策で、ハイパーインフレが進行。ヤミが横行するのは当然ながら、とりわけ俸給生活者は貨幣価値の急激な下落で生活が成り立たず、自殺者が相次いだという。警官はヤミタバコを取り締まるが、没収したタバコを横流し、再び取り締まる、なんていうマッチポンプも平気でやった。こうした滅茶苦茶な無法状態に耐えられるものではなく、二・二八事件へとつながる鬱積した不満を台湾人は抱え込まざるを得なくなった。

 台湾全島をかたどった大型の模型地形図があり、主要都市にランプがついている。日付ごとのボタンを押すと、その日に騒動のあった都市が点灯し、反国民党運動の広がりが一目で分かるようになっている。三月八日のボタンを押しながらCさんはつぶやいた。「この日は忘れられません…。」大陸からの増援部隊が上陸した日である。台湾省主席・陳儀はいったん融和的な素振りを見せていたが、この日を境に強硬姿勢に転じた。

 日本統治時代、制限された形ではあったが台湾人からも市議会議員等に選出された人々がいたし、実業家として力を持ちつつある人、そして医師、弁護士、学者などの知識階層は新しい国づくりを真剣に考えていた。本来ならばそうした地方の政治的・社会的指導層が戦後の台湾社会を担うはずだったが、国民党は彼らを有無を言わせずに逮捕、街中で公開処刑した。国民党は二・二八事件を好機とばかり、意図的に知識人を狙って殺したとも言われている。鉄道の乗車賃を払わなかったことを注意されて逆ギレした軍人が部隊を引き連れてそこの駅員を皆殺しにしたという事件もおこった。警察に連れ去られてそのまま行方不明になった人は数知れず。手足に銃剣で穴をあけ、そこに針金を通して十人前後を数珠つなぎにし、端から撃ち殺しながら海に突き落とすという殺害方法も行なわれた。運よく生き残った人の証言が館内のパネルで示されている。

 何か理由があって逮捕するのではなく、とにかく殺して台湾人を威嚇し、怯えさせるのが目的だったという。死体は街中に放置され、見せしめのため片付けるのは許されなかった。死体は腐敗して悪臭を放ち、伝染病が広がる。「私はこの眼で見ました。本当にひどかった…」とCさんは一瞬、言葉をつまらせていた。今でも時折、山の方で白骨死体が発見されることがある。「国民党は日本人がやったと言うが、そんなの嘘だってことは誰でも知っている。自分たちのやったことを平気で日本のせいにする。中国人は嘘つきだ。」Cさんもやはり蒋介石が大嫌いなようで、蒋介石が軍帽をとって閲兵している写真を指差し「私たち、ハゲと呼んでました」。また、「中国人は本当に残虐だ」とも言う。総統府でガイドをしてくれた男性もそう繰り返していた。

 勿論、一般論としてそんなことは言えない。ただ、台湾の人々が事件のこうした苛酷な経過を目の当たりにして、自分たち“台湾人”は“中国人”とは違うという自覚が明確になったことが窺える。かたわらのHは「二・二八事件ってのがこんなにおおごとだとは思わなかったな。確かに、中正(蒋介石)国際空港を桃園国際空港と名前を変えたくなる気持ちは分かるよなあ」と今さらながら感慨深げにつぶやいていた。

 Cさんは語る。「李登輝さんが国家元首として初めて謝罪してくれました。しかし、李登輝さんも台湾人です。実際に手を下した人間は今でも生きている。だけど、彼らは一人として謝ってはくれない。どこで殺して埋めたのか場所も教えてくれない。政府発表では2万8千人が殺されたことになっていますが、少なくとも5万人以上はいるはずです。しかし、今となっては正確な数字は分かりません。」総統府のガイドの男性は20万人と言っていた。

 よく台湾人は親日的だと言われる。だからといって、日本の植民地支配が良かった、いや悪かったという二者択一に集約されるものではない。Cさんはこう言う。「植民地が良かったと言うつもりはありません。やはり差別がありました。ただ、日本の後に来た国民党があまりにもひどすぎた…。日本時代は差別はあったけれど、少なくとも法治国家として安定した生活を送ることができました。しかし、国民党には法の観念などなかった。蒋介石が命令すれば根拠もなく殺して奪う。だから、私たち台湾人にとって日本時代が本当になつかしかったのです。」

 台湾は日本と国民党という二つの苛酷な支配を経験した。相対的な比較の問題として、国民党に対する憎悪が激しいあまり、その反転として日本への好意が強まるという感情面での力学が働いたと言えるのだろうか。

 一緒に話を聞いて回ったグループにいた女の子がどうやら在日韓国人らしく、Cさんは時折こんなふうに語りかけていた。「国民党は日本時代を思い出させるものをことごとく壊そうとしました。お国ではどうですか? 日本時代のものはもう残ってないですよね。」「朝鮮の方々は反日ですね。しかし、私たち台湾人は違います。」「私たちは戦後も国民党に支配されましたが、あなた方は自前の指導者を持つことができました。朝鮮の方々は幸せでした。」穏やかな語り口なので何気なく聞き流していたが、こうして文字におこしてみると結構きつい言い方だな。

 予想はしていたが、戦後教育を受けた世代の日本人として、どう反応したらよいのか分からず戸惑ってしまうシーンもやはりあった。

 「私は17歳で志願兵に行きました。日本が負けたとき、私は悔しかった。本当にそう思ったのですから仕方ありません。身も心も日本人になりきっていたんです。植民地というのはそういうものです。仕方がなかった…。」若き李登輝前総統の家族写真の前ではこう語る。「この方、李登輝さんのお兄さんはフィリピンで戦死しました。靖国にまつられています。この間、李登輝さんが靖国を参拝して中国人が色々と言ってましたが、あれはおかしい」陳さんは重そうなファイルを小脇に抱えており、そこから靖国問題について訴えるプリントを取り出して配った。また、日本時代の教育制度のパネルの前では「教育勅語」のプリントをもらう。裏面にはしっかりと現代日本語訳が載っている。顔には出さないものの、正直、のけぞった。

 戦後日本の歴史教育を全面否定するつもりはないが、いびつな側面があったことは知っている。そのいびつさとは、一見、良心的な美しさを装いつつも、たとえばCさんのような人々も、その人なりの想いを抱えて生きてきたことを、一つの固定的な判断基準から時代錯誤だと一刀両断に否定しさる冷たさだ。かと言って、Cさんの話をそっくりそのまま私は受け入れられるか。難しい。日本人の耳に快い言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうのは安易な怠慢のように思えるし、“右寄り”と言われてしまうことへの対世間的な慮りもわだかまる。バランスをとって真ん中というのは何も考えていないに等しい。私自身の頭の中にこびりついている様々な雑音をどうやって相対化して振りほどき、虚心坦懐に話を受け止めることができるか──。江川達也『東京大学物語』風に言うと、以上のことが0.08秒の間に頭の中をグルグル空回りした。

 「私たちには“やまとだましい”があります」とCさんは語る。大和魂、日本精神(リップンチェシン)──日本語教育を受けた世代でこうした言葉を使う人々がまだ生きている。ここで注意せねばならないのは、昭和初期の軍部を駆り立てたある種の狂信性とはニュアンスが異なることだ。むしろ、正直、勤勉、時間厳守、そういった生活上の規範意識を意味している(平野久美子『トオサンの桜──散りゆく台湾の中の日本』小学館、2007年を参照)。素朴に言い換えると、ひたむきに生きること。そうした美学が現代台湾人からも、そして日本人からも失われている。「教育勅語」のプリントにそんな気持ちを込めて配っているのかと思うと、怠惰な私としては少々つらい。

 別れ際、Cさんから許文龍『台湾の歴史』という冊子をいただいた。私家版なので日本で入手するのは難しいが、小林よしのり『台湾論』の参考文献一覧に載っていたので、この冊子の存在を実は知っていた(私は本を読むとき必ず参考文献一覧をチェックする。第一に、芋づる式に関連書の幅が広がるから。第二に、その本の傾向や質が一目瞭然だから)。許文龍は奇美実業というパソコン部品メーカーの社長、たたき上げの立志伝的な人物である。彼が社員教育のために行なった講演を中心にまとめられており、台湾の歴史にもたらした日本の功績を強調する内容となっている。帰国後、知人に見せたところ、「何だか松下幸之助みたいな人だね」という感想をもらした。確かに、“日本精神”→勤勉の美徳と捉えるとPHP的な感じもする。

(続く)

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2007年11月15日 (木)

台湾に行ってきた④(総統府)

(承前)

 11月9日、金曜日。朝7時過ぎに宿舎を出た。朝早くから開いている食べ物屋が結構あって、餃子やサンドイッチなどを買い求める姿をちらほら見かける。ファーストフードの文化が発達した土地柄のようだ。ちなみに、サンドイッチのことを“三明治”という。同行しているHお目当ての店に行き、水餃子で朝食をすませた。「これ、作りおきじゃないか」とHは不満げに言う。「店先で餃子を包んでいるのを見かけるだろ。あれをすぐにゆでてくれるとうまいんだ。」

 総統府に向かって台北市内をぶらぶら歩く。清代の役所があったことを示す碑文があった(写真12)。すぐ近くに中山堂という大型建築物があるのだが、うっかり写真に収めるのを忘れていた。戦前の台北公会堂である。1945年10月25日、中華民国代表・陳儀と最後の台湾総督・安藤利吉との間で降伏調印式が行なわれた場所だ。台湾ではこの日が光復節、つまり終戦記念日となっている。

 総統府の一般公開は平日の午前中のみ、10時から受付が始まる。早めに来たのだが、団体客が多くて30分ぐらい待たされた。パスポートを提示し、ボディーチェックを受けて裏口から入館。大陸籍の人は入館できない旨の注意書きがあった。十数人ほどのグループになって見学する。総統府の中には台湾の歴史と歴代総統についての展示があり、日本語のできる人がガイドをしてくれる。

 私たちのグループについたのは70歳代の男性。開口一番、「むかし、台湾、支配者のために国があった。しかし、李登輝さんが総統になって、台湾、変わった。民衆のための総統、だから総統府も民衆に開放する。いま、台湾、世界で一番民衆(民主?)的な国。ホワイトハウスも日本の首相官邸も中は見せてくれない。」

 日本語はそんなにうまくはない。話の強調したいところで「OK!」という感じに親指をたてる不思議な仕草をする人だった。感情の激しいタイプなのか、それとも日本語のボキャブラリーが乏しくて直接的な表現になってしまうのか、極端な言い回しが多い。とりわけ印象的だったのは蒋介石と国民党に対する憎しみの激しさだ。蒋介石の写真の前を通るたびに、「こいつ、卑怯!」「こいつ、臆病!」「こいつ、罰当たり! 蒋介石の子孫、いまは全滅。誰もいない。蒋介石、台湾人をたくさん殺した。罰が当たった。悪いことするの、良くない。」いまや政権が変わったとはいえ、まさか総統府の中で初代総統をここまで悪しざまに罵るというのは意外なことで驚いた。

 同行したHは以前にも総統府を見学したことがある。その時にガイドをしてくれたおばあさんの語り口と比べてだいぶご不満の様子だ。そのおばあさんは日本時代の思い出話を色々と語ってくれたらしい。今回の男性は、比較的に若いせいか(といっても70代だが)、むしろ蒋介石への憎悪とそれに応じて高まった台湾人意識を強調しているのが特徴的だったように思う。

 後藤新平や八田與一(彼らに対しては“さん”付けで呼んでいた)のパネルの前を通る際には、「蒋介石は何も建設せず、奪って殺すだけ。しかし、日本人は鉄道をつくってくれた。ダムをつくってくれた。発電所をつくってくれた。私たち台湾人、日本に本当に感謝しています。」日本人へのリップサービスなのかどうかはよく分からず、戸惑う。パネル展示であちこちとばしている箇所もあった。ひょっとして、日本人にとって不快になりそうなところは説明を省いているのだろうか? 中国語のガイドはどんな説明をしているのか気になった。

 なお、八田與一は日本統治時代の土木技師。当時としては東洋一の規模をほこる烏山頭ダムを完成させ、これによって旱魃に悩まされがちだった嘉南平野に水路を行き渡らせることができた(嘉南大圳)。戦争中、フィリピンに行く船が撃沈されて落命。妻は後を追って烏山頭ダムに投身自殺。八田の名前は日本ではあまり知られていないが、台湾では尊敬を集めているという。台北の書店で購入した李莜峰・荘天賜編『快読台湾歴史人物Ⅰ』(台北:玉山社、2004年)の「大愛無私的奉献者」という章でも八田が取り上げられていた。本書は台湾史上の人物をⅠ・Ⅱ巻合わせて60人取り上げているが、日本人としては八田の他に民俗学者の伊能嘉矩、池田敏雄の名前も見える。

 総統府の建物が完成したのは1919年。周知の通り、かつての日本の台湾総督府である。設計プランは、審査員に辰野金吾や伊東忠太といった錚々たる顔ぶれがそろったコンペティションにより選ばれた。初めての植民地統治にあたってそのシンボルとして威厳を示そうと、中央の尖塔は当初のプランよりも高くそびえ立つ。近隣にこれよりも高い建物は建てさせなかったという。正面は東向き、つまり日本の方向を向いている。空から見下ろすと「日」の字に見える構造。真ん中の空間は、戦前は総督の馬車や職員の自転車置き場となっていたが、李登輝の時代になって庭園として改装された。壁面にはイギリス風の赤レンガを使っているが、それだけでは単調で面白くないということで白い石でストライプが入っている。それこそ“永遠”の使用を前提としていたというだけに非常に頑丈なつくりだ。1945年の台北空襲で標的となって損傷を受けながらも基本構造はしっかりと残り、戦後再建されて中華民国政府の拠点となった。一説によると、蒋介石が戦後の再利用を視野に入れていたので破壊を最小限にとどめるようアメリカ側に求めたとも言われる(片倉佳史『観光コースでない台湾──歩いて見る歴史と風土』高文研、2005年を参照)。

 写真13は総統府を正面から撮影した。台湾の国連加盟を求める巨大な文字パネルがかかっている。台湾社会の支配者として日本、ついで国民党が君臨したシンボル。そこにようやく台湾人の代表たる陳水扁が選挙を通して座り、中でガイドが蒋介石を口を極めて非難する。そうした時代の移り変わりを90年近くにもわたってこの建物はジッとみつめてきたのである。

 なお、この写真を撮った大通りはかつて介寿大道と呼ばれていた。「介寿」とは蒋介石の長寿を祈願するという意味合いを持つ。現在は凱達格蘭(ケタガラン)大道という。ケタガランというのは、昔、台北盆地にいた先住民族である。民進党の陳水扁が台北市長だった頃に改称された。先住民族復権政策の表われであると同時に、蒋介石の記憶を総統府の門前から消し去ろうという意図も働いている。

(続く)

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2007年11月14日 (水)

台湾に行ってきた③(台北、基隆を歩く)

(承前)

 MRT(Mass Rapid Transit=台北捷運)というのは台北市内をタテヨコに結ぶ地下鉄もしくは高架線。料金は最短区間20元から。自販機でトークンを買い、自動改札機にかざして入場する。夕方なのでジャージや制服姿の中高生が車内でワイワイ騒いでいた。本当に日本でも普通にみかける光景だよなあ。

 台北駅で下車。駅からすぐ近くのYMCAホテルに投宿。二人部屋で1泊2,300元。日本円に換算して一人あたり3,000円前後というところか。帰国してから戦前の地図を広げて確認したら、この場所には組合キリスト教会と表示されていた。やはりつながりがあるのだろうか。なお、すぐ近くに新光三越百貨店があるが、ここは日本統治時代、台湾における最高級ホテルの鉄道ホテルがあった場所である。

 荷物を置き、日本でも有名な鼎泰豊で夕食をとることにした。本店は非常に混雑しているということでMRT忠孝敦化駅近くの支店に行った。やはり小籠包がうまい。

 台湾の街を歩いてすぐに目立つ特徴は、歩道がアーケードになっていること。各建物は隣同士ぴったりとくっついて並んでおり、一階の車道に面した一画が歩道用にくり抜かれ、それがつながってアーケードをなすという構造である。各建物ごとに歩道の高さが異なり、足もとに注意しないと段差が危なっかしい。戦前からあるように思われる古い家屋も時折見かける(写真5写真6)。こうした古い家屋にそのまま建て増しして現在の街並みが形成されているようで、たとえば工事で一部分取り除けられた箇所でこんな痕跡も見かけた(写真7)。トマソン発見!とばかりにカメラに収める。

 街行く人々の姿を見ていても日本とそんなに変わらない。以前、ソウルに行った時にも感じたことだが、ちょっと奇妙なパラレルワールドに迷い込んだような気分に陥る。秋葉原にいそうなゴスロリ風の格好をした女の子もみかけた。ただし、髪の毛を染めた人が全く見かけないのは日本と違うところか。電車の中で、もはや東京では見かけることのない制服姿、黒髪の美少女がノートを広げて勉強しているのを見かけ、一人感動したりもした。

 コンビニはセブンイレブンとファミリーマートが中心。他に、ハイマートという現地のコンビニチェーンも多いかな。コンビニの前を通ると、ちょっと独特な臭いがする。台湾のお茶で煮込んだ卵をレジ横で売っており、その臭いが扉から漂い出ている。セブンイレブンでは“関東煮”という名前でおでんも売っていた。関西風だな。ポテトチップやチョコレートなどお菓子は普通に日本語を使った名称の商品が目立つ。台湾社会では現代でも日本語になじみがあるようで、街中の外国語学校の看板を見ても英語と日本語と並べているのが多い。なお、台北市内のコンビニではレジ袋は有料。

 道を歩いていると、時折、血が滴ったような赤い汚れを見かける。最初は何だか物騒な国だなと妙な気分になったが、やがて「ああ、これが檳榔を吐き捨てたあとか」と思い当たる。檳榔というのは噛みタバコのようなもの。クチャクチャ噛んでいると口中真っ赤になるらしい。飛行機の中で読んだ司馬遼太郎『台湾紀行』に、台湾在住歴の長い日本人が檳榔を若い台湾人大学院生にすすめたところ、「若い人はそんなものかみませんよ!」と強い調子で拒絶されるシーンがあった。今では檳榔をたしなむのは年寄りかヤクザ者だけらしい。電車の中でヤクザ風によたった歩き方をする男が口をクチャクチャさせていたが、あれも檳榔か。Hによると、以前は檳榔を吐き捨てた跡はもっとよく見かけたが、最近は少なくなったという。そういえば、台湾高速鉄道の手引書を見たら、車内で檳榔をかむのはご遠慮くださいという趣旨のことが中国語で書いてあった。一説によると、檳榔を噛むのは台湾土着の風習で、大陸と台湾との文化的差異を示す特徴とする考え方もあるらしい。

 台北駅から夜7時頃に出る台湾鉄道普通列車に乗り、海への玄関口、基隆へと向かう。もうすでに暗いので車窓から風景は見えない。30分ほどで到着。基隆は雨の町と言われているそうだが、その言葉通りのお出迎えであった。

 Hに連れられて基隆の夜市を歩く(写真8)。メニューは実に豊富で、台湾風の焼き鳥やら炒飯やら麺やら餃子やら定番があるかと思えば、天ぷら、寿司の屋台も割合に見かけた。臭豆腐の屋台は近寄っただけですぐ分かる。写真9の右側にはカエルが写っているが、そういう私が絶対に食べたくないものもある。中国語と日本語とが並んだプレートが屋台の上にかかっているので、日本人には歩きやすそうだ。ジャージや制服姿の中高生が楽しげに行きかっていた。

 私はあまり腹が減ってなかったし、そもそも屋台で買い食いするのがあまり好きではないのでずっと眺めているだけだったが、Hは水を得た魚のように旺盛な好奇心と食慾をふくらませ、「ここのは昔の給食のカレーみたいでうまいんだよ」とカレーライスをほおばる。ここに来るたびに必ず食べるらしいが、なぜかゴハンを残した。「前の客が食った皿をフキンでふいただけで、そのままよそってるんだよ。」衛生環境は必ずしも良いわけではないが、それを念頭に置いた上で屋台を活用すれば食費は安く済みそうだ。

 基隆港に出た。小雨がしたたるなか暗闇がたれこめ、港の反対側のイルミネーションがちらつくのが見えるばかり。港の水はよどんでいて、ドブのにおい。外洋からは距離があるようで、潮の香りはしない。「ここから日本人が上陸したり、引き揚げたりしたんだよなあ。お前だったらどんなストーリーをつくる?」とHが問いかけてきた。考えてみたら、私自身の祖父母も日本へ引き揚げる際にこの近辺にたたずんだはずだが、そういった感傷めいたものはわいてこなかった。時の隔たりを実感する。

 何やら古そうな大型建築があったので写真に収めた(写真10写真11)。海港大楼。基隆港の税関である。帰国後に調べたら、戦前の植民地時代から税関として使われていたらしい。

 夜9:30頃の列車に乗った。基隆滞在時間は二時間弱。台北に着いたのは10時過ぎ。駅前にある凱撤大飯店という大型ホテルの2階に和民があるのをみかけ、どんなメニューがあるのか確かめようと入ってみた。「なんか新宿で飲んでるみたいだな」と言いつつビールを酌み交わす。

(続く)

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2007年11月13日 (火)

台湾に行ってきた②(故宮博物院)

(承前)

 故宮博物院は周知の通り、世界の四大博物館の一つに数えられている。故宮とは北京の紫禁城を指す。辛亥革命後、清朝は紫禁城に限定して存続を許されたが、軍閥の抗争が相次ぐ中、1924年に馮玉祥が北京に入城、ラストエンペラーこと宣統帝は追放された。翌1925年、清朝宮廷の所蔵品は公共の管理下に移され、一般公開されることとなったのが故宮博物院の始まりである。

 さらに続く軍閥同士の抗争、そして日本軍の侵略と戦火が絶え間ない中、コレクションは上海、南京、四川省の山奥、重慶などと場所を転々とし、最終的には国共内戦で敗れた蒋介石と共に台湾に移転された。当初は戦火が台湾にも及んだ場合に備えて台湾中部の山奥、洞穴状の倉庫に置かれたが、1965年、台北市北郊の士林に新館が完成、こちらに落ち着いて現在に至る。なお、蒋介石が故宮博物院にこだわったのは、その所有が中華民国の正統性を示すと考えていたからである。

 写真1写真2写真3は故宮博物院。同行したHは「何だか新しくなったような気がする」と言う。2005年に故宮博物院創設80周年を迎えたのを機にリニューアルされたらしい。所蔵品は膨大な数にのぼり、常に展示の入れ替えを繰り返している。ミュージアム・ショップで購入した国立故宮博物院編・温井禎祥訳『故宮七十星霜』(台北:国立故宮博物院、1996年)を読むと、この建物がたびたび増築されてきた様子がうかがえるが、それでも間に合わず、現在、南部分院も建設中である。単にスペースを広げているだけでなく、内装は近代的に洗練されていて見やすい。所蔵品は当然のこと、博物館の機能としてのクオリティーも極めて高い。

 今回は時間が間に合わず見られなかったが、別館ではウィーン国立美術史美術館の特集展もやっていた。『故宮文物』295号(2007年10月、台北)をやはりミュージアム・ショップで買った。月刊の博物館報だが、全ページカラーで学術誌としてはきれいなつくりだ。現在行なわれている展示の解説が掲載されている。中国語は苦手だがパラパラめくっていたら、表紙を飾るハプスブルク家王女の肖像画をはじめ、ルドルフ2世、甲冑を身にまとった男性像など、見覚えのある絵が結構ある。5.6年くらい前だったか、東京藝術大学付属美術館でウィーン国立美術史美術館の展覧会を見たのを思い出した。故宮博物院は単に中国古来の文物を保存・展示するだけでなく、総合的な博物館・美術館として様々な企画展示を試みていることを改めて知った。

 本館での特集展示は「新視界──朗世寧與清宮的西洋風」。明末清初にかけてイエズス会の宣教師たちが東アジアに来訪した。布教のため西欧の最新技術を紹介、清の皇帝貴顕は彼らを篤く遇する。とりわけ朗世寧(カスティリョーネ)は康熙・雍正・乾隆の三代にわたって仕え、雍正帝がキリスト教の布教を禁じた後も清に留まった。朗世寧は画家として知られ、遠近法などの絵画技術を伝えたほか、円明園(後にアロー戦争で炎上)を設計した建築家でもあった。清代の絵画や陶磁器のデザインを見ていると、大枠としては中国風なのだが、時に精密なリアリスティックな描写がはめこまれていて目を引くことがある。それは朗世寧たち宣教師のもたらした影響である。

 李澤藩という画家の生誕百周年を記念した展覧会も行なわれていた。初めて知る名前だが、どこかボヤッとした感じのタッチの風景画にしっとりとした余韻があってなかなか良い。経歴を示したパネルを見ると、日本統治時代に生まれ、日本に渡って絵画を学び、二科展にも入選したという。帰国してからネットで検索してみたら、どうやら台湾人として初めてノーベル賞を受賞した化学者・李遠哲の父親らしい。李遠哲は李登輝政権下で中央研究院長を務め、その後、陳水扁政権のアドバイザーとなったことでも知られている。

 本館をぶらぶら歩くだけでも中国の歴史を古代から近代まで通観することができる。時間がそれほど潤沢にあるわけではないのでやや駆け足でまわった。昔、世界史の受験指導をしていたことがあり、中国史の記憶を掘り起こしながら、同行のHに押し付けがましく解説する。私のはしゃぎぶりに辟易したのか、やや迷惑そうだった。申し訳ない。

 ミュージアム・ショップでは、前掲の2冊の他、故宮博物院の展示品からいくつか代表的なものを時代順に並べた解説カタログ『天工宝物──八千年の歴史を物語る長河』『妙華生花──故宮所蔵の書画と文献資料』(共に台北:国立故宮博物院、2007年)も購入した。前者は器物、後者は書と絵画を集めており、日本語版があった。少々大きくてかさばるが、説明は簡潔で読みやすい。

 別館として図書館もある。写真4はその入口前に立つ蒋介石の銅像。すでに閉館時間。近くの原住民博物館にも寄りたかったが、今回はパス。タクシーでMRT士林駅へと向かう。

(続く)

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2007年11月12日 (月)

台湾に行ってきた①(台湾到着)

 11月8日、木曜日。朝6:30新宿発の成田エクスプレス3号に乗り、8:00ちょっと前に成田空港第二ビルに到着。同行するHと合流してカウンターへ。乗るのは9:40発の台湾・桃園国際空港行きのチャイナエアライン。Hの強硬な主張によりダイナスティークラス(ビジネスクラス)。

 私は海外に出かけることが滅多になく、7年ほど前に韓国へ行ったきり。その時もHが一緒だった。腐れ縁である。「海外二度目でビジネスクラスとはたいそうな出世じゃないか」など妙な嫌味を言われつつも、台湾渡航歴十数回のこいつから台湾の歩き方を学ばねばならないのでじっとこらえる(笑)。Hは旅慣れており、出国手続きすらままならぬ私はついつい頼ってしまう。旅行中は色々な場面で助けられた。なお、食事や夜市についてはHのブログが写真つきで詳細に紹介してくれているので、そちらを参照のこと(これ以降のページ)。

 機中で読みさしの司馬遼太郎『台湾紀行』を開く。隣でHは「やはりビジネスクラスはいいなあ。もうエコノミーには戻れない」と賛嘆しきり。私は座り心地とかサービスとかいうのは一切気にしないタイプなので、エコノミーでも構わないんだけどね。ただ、機内サービスのシャンパンは確かにうまかった。

 雲の切れ間から台湾の風景が見えてきた。今日は曇り空、所によって小雨が降っているようだ。田んぼや木々の緑色が湿ったように濃く感じられる。行きは3時間半ほど。時差は1時間。現地時間12:30頃に桃園国際空港に到着。チャイナエアラインは墜落率が高いという噂を聞いていたが、ひと心地つく。ちなみにここ桃園空港はかつて中正(蒋介石)国際空港と呼ばれていたが、2006年に改称された。中正とは蒋介石の号である。

 桃園空港から台北市内までは高速バスで移動する。片道125元。1元=3円弱という換算なので、350円くらいというところか。行きかう自動車を見ていると、ナンバープレートは台北市もしくは台湾省。行政院直轄市の台北と高雄以外はすべて台湾省と一括されている。バスは高速道路を下りて台北市内に入る。セブンイレブン、ファミリーマート、スターバックス、吉野家、モスバーガーetc.と日本でも馴染みのチェーン店がそこかしこにあるので妙な気分だ。サッカースタジアムの壁面には化粧品会社の広告で深田恭子の大きなポスターが張りめぐらされていた。

 当初の予定では台北駅近くの宿舎にまず荷物を置いて、それから故宮博物院に行こうということになっていた。ところが、台北に土地勘のあるHが「あれ、このまま行くと故宮博物院からどんどん遠ざかるな」と気付いた。故宮博物院は台北市北郊にあり、このバスもまさに北側のインターチェンジから南下していた。Hの機敏な判断でバスを降り、タクシーを拾うことにした。

 初めて台北の地面を踏む。周囲の建物のつくりは日本とは微妙に異なるが、店舗の内装には違和感がない。たとえば、洋風のパン屋さんから漂ってくる芳ばしい香りやショーウィンドーの向こうにある調理パンを見ていると、まだ日本にいるんじゃないかという錯覚すらおぼえた。

 道路の流れを見てHはタクシーを拾うには反対側がいいと判断。横断歩道を渡る。スクーターがやたらとひしめいている。右折車両が平気で突っ込んでくるので危なっかしい。歩行者用の信号には秒刻みで時間が表示され、青信号の中で人物が歩いている。5秒をきると駆け足になり、「早く! 早く!」とせかされている感じで面白い。

 タクシーに乗り込み、ガイドブックを見ながら「くおりーくーこん…」と四声を一切無視した“ジャパニーズ・チャイニーズ”で行き先指示をしたら、運転手さんは???という表情をしていた。Hに促されてガイドブックの該当箇所を指差して見せると、ただちに了解。その後、Hのやり方を見ていると、タクシーに乗るたびにメモ帳に行き先を書いて見せていた。漢字を共有した文化圏であることを改めて実感する。

 途中、圓山大飯店の前を通りかかった。かつては蒋介石一族御用達の最高級ホテルだったが、ハイヤットなど外資系にその座を奪われ、今ではそれほどのステータスはないとHは言う。日本統治時代には台湾神宮がここにあり、その跡地に建てられている。

(続く)

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