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2007年11月4日 - 2007年11月10日

2007年11月 7日 (水)

台湾についていろんな本

 ここしばらく台湾関連の記事ばかりなのでいぶかしく思っている人もいることでしょう。実は明日から有休をもらって台湾に出かける予定で、付け焼刃でお勉強していた次第。

 さて、台湾について考えようというとき、肯定するにせよ否定するにせよ、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』(小学館、2000年)を避けては通れないだろう。彼一流の飛躍した極論をどう受け止めるかは別として、情報量という点で読みではある。小林に対しては好き嫌いが明確に分かれるようだが、スタンスの違う別の本を読むなどある程度のリテラシーを養った上で読む分にはそれなりに建設的なものを汲み取ることはできる。だから、毛嫌いする必要はない。鵜呑みにするのはただのバカだけどね。

 台湾について濫読しているうち、私はどうやら言語的アイデンティティーの分裂というテーマに興味がひかれているようで、小林『台湾論』を読みながら次の二つのエピソードに興味を持った。一つ目は、台湾語を文字表記する工夫について台湾人同士で語り合っているシーン。二つ目。日本語教育世代の台湾人が韓国を旅行したときのこと。道を尋ねようと同年配の人に日本語で話しかけたが無視された。「日本語が分かるだろうになんで無視するんだ!」と怒ったところ、「日本語を使うのを若い人に見られると嫌われるんだ」と答えたという。

 台湾は多数派の閩南語、少数派の客家語、先住民に至っては部族ごとに言語が異なるという多言語社会であり、たとえ支配者の言葉であっても日本語が共通語として便利であった。対して、韓国は言語的に均質な社会であり、利便性よりも民族としてのプライドが優先されるのだろう。ただし、そんな韓国でも朴正熙政権が言論弾圧をしていた頃、反体制派の人々は社会主義の文献を日本語で読んでいたというのを何かで読んだ記憶がある。そういえば、若き日の李登輝もマルクス『資本論』を岩波文庫で読んだらしい。

 台湾は1895年に日本語、1945年に北京語と二度にわたって“国語”の切り替えを経験している。土着の母語も含め重層的な言語体験が歴史に織り込まれている点でクレオール的な特徴が顕著な社会だと言えよう。

 1980年代以降の民主化、そして台湾意識の高まりに伴って、過去の台湾文学を見直すことで抗日─皇国・親日という単純な対立軸で切り捨てられてしまった側面を捉えていこうとする動きが始まっている。藤井省三『台湾文学この百年』(東方書店、1998年)、山口守・編、藤井省三・河原功・垂水千恵・山口守・著『講座 台湾文学』(国書刊行会、2003年)の二冊はそうした動向も含め、台湾文学を彩る諸相を通史的に紹介してくれる。

 たとえば、日本統治期、“皇民化運動”にそって親日的な態度を取ったとされる“皇民作家”についても、むしろ引き裂かれたアイデンティティーの苦しみを表現していたと垂水は再評価する。非日本人でありながら日本人と対等になろうという論理と情念を作品化、それが読書市場を通して流通し、台湾公衆に共有された。藤井は、出版市場の成立→“想像の共同体”というベネディクト・アンダーソンの枠組みを援用し、こうした動きに“皇民化”であると同時に台湾大のナショナリズム=台湾意識の芽生えがあることを指摘する。

 朱天文・朱天心のくだりを読んでいたら胡蘭成の名前が出てきた。数学者にして熱烈な日本主義者・岡潔と親しくしていた文学者であり、新学社近代浪漫派文庫で岡と胡は一冊にまとめられている(岡潔については以前に書いた→参照)。朱姉妹の父親も小説家で胡と家族ぐるみの付き合いがあったという。朱天文は呉念真と共同で脚本を担当した「悲情城市」をはじめ、侯孝賢映画で多くの脚本を書いている。侯の映画を見ていると日本に好意的なイメージが描かれていて時折その点が批判されるが(たとえば、田村志津枝『悲情城市の人びと』晶文社、1992年)、朱天文を通して胡蘭成の間接的な影響が出ているのだろうか。

 話題を変える。かなり前のことだが、台湾旅行から戻ってきた友人から「はい、おみやげ」と言って渡されたものを見て妙な気分になったのを覚えている。『新世紀福音戦士・綾波零』──新世紀エヴァンゲリオンのヒロイン、綾波レイの文庫サイズのフォトブックだった。それから、「藍色夏恋」(2002年)という台湾の青春映画を観たら、主人公の女子高生がノートに「木村拓哉、木村拓哉…」とびっしり書きつめるシーンも記憶に残っている。

 アニメやドラマをはじめ日本発の文化にのめり込んだ若者たちを“哈日族(ハーリーズー)”という。命名者は台湾の漫画家で大の日本びいき哈日杏子。彼女の本は日本の書店でも見かける。酒井亨『哈日族──なぜ日本が好きなのか』(光文社新書、2004年)はメディアという側面から台湾社会の現在を示してくれる。哈日族は若年層が中心で本省人・外省人の差もなく、李登輝たち日本語教育世代とは重ならない。従来の台湾ドラマは儒教的倫理観が強く、単調で冗長、それに対して日本のドラマやバラエティー番組の面白さが彼ら彼女らを引きつけた。これを文化侵略と批判する論調もあるらしいが、そもそも北京語教育自体が台湾人にとっては非母語の押し付けであるのを看過していると指摘する。

 片倉佳史『台湾 日本統治時代の歴史遺産を歩く』(戎光祥出版、2004年)と同『観光コースでない台湾──歩いて見る歴史と風土』(高文研、2005年)は日本統治時代の痕跡を写真と懇切な解説とで紹介してくれる。渡辺満里奈『満里奈の旅ぶくれ──たわわ台湾』(新潮文庫、2003年)は台湾の食文化を紹介、写真もたくさん入っていてどれもうまそう。読みながらお茶に興味を持った。亜洲奈みづほ『台湾事始め──ゆとりのくにのキーワード』(凱風社、2006年)は台湾を理解する上で必要なキーワードそれぞれについてエッセイ風につづられており、読みやすくかつ情報量も潤沢で便利だ。

 最後の締めとして、司馬遼太郎『街道をゆく40 台湾紀行』(朝日文芸文庫、1997年)を読んでいるところ。

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2007年11月 6日 (火)

台湾をめぐってノンフィクション四冊

村上政彦『「君が代」少年を探して──台湾人と日本語教育』(平凡社新書、2002年)

 昭和10(1935)年、台湾中部を襲った大地震で大怪我をした台湾人少年が「君が代」を歌いながら死んでいったという。この“美談”は当時の国定教科書に掲載され、映画化までされた。そんなことが本当にあったのか? 本書は当時を知る人を含め様々な人々から話を聞きながら日本が展開した皇民化運動を考える。屈託なく日本語を使う老人が冗談めかして「教育は怖い」という言葉が響いてくる。若い世代からも話を聞いており、北京語世代が日本語世代よりも比較的醒めた見方をしているのも興味深い。

平野久美子『トオサンの桜──散りゆく台湾の中の日本』(小学館、2007年)

 このブログでも呉念真監督「多桑」(トオサン)に触れたことがあるが、日本語教育を受けた世代を“トオサン”と呼ぶことがある。本書はそうしたトオサンたちから話を聞いてまわった記録である。前掲書にしてもそうだが、「日本精神」(リップンチェシン)という言葉をやたらに使う老人が多い。礼儀正しさ、正直、時間厳守、そういった勤勉さを意味するようだが、台湾からも日本からもこの「日本精神」が失われた、と喝を入れられると、怠惰な私など恐れ入ってしまう。ただし、「日本精神」→親日的な台湾人という枠組みで受け止めてしまうのは短絡的だろう。日本語から北京語に切り替わって取り残された疎外感、そして国民党の白色テロで理不尽にも人生を棒に振ってしまった惨めさ、そういった諸々の悲哀が込められているのを見逃してはいけない。

平野久美子『テレサ・テンの見た夢──華人歌星伝説』(晶文社、1996年)

 世代がずれるので私はテレサ・テンのことをよく知らない。本名は鄧麗君。両親は台湾の外省人、国民党の軍人の娘として生まれた。本書で、蘇軾「但願人長久」に現代風にメロディーをつけたエピソードを読み、ふと気になってフェイ・ウォンのアルバムを確認した。ウォン・カーワイ監督「恋する惑星」の主題歌「夢中人」が好きなので手もとにある。このCDでフェイ・ウォンが「但願人長久」をカバーしていた。彼女もテレサ・テンのファンだという。国民党軍の慰問にも訪れて「歌う公務員」とも言われたそうだが、数億人単位で散らばる華人社会、それを分断する国境を越えてテレサ・テンの歌声は広く愛された。とりわけ、共産党支配下の大陸には情緒に訴える歌がなかったので、人々の殺伐とした心をなごませたという。戦争の影を引きずる日中関係においても「日本で成功した歌手」として、流行歌を通して大衆文化交流に貢献してくれたことも特筆される。

柳本通彦『明治の冒険科学者たち──新天地・台湾にかけた夢』(新潮新書、2005年)

 日本の台湾併合後、鳥居龍蔵や牧野富太郎をはじめ、この未知の領域へと様々な学者・冒険者たちも入り込んでいった。その中でも無名の三人に焦点を当て、当初の動機は政治的であっても徐々に台湾の魅力にのめり込んでいった彼らの事蹟を本書は掘り起こす。伊能嘉矩はまだ首狩りの風習の残る山地に分け入って細かく彼らの生活を観察した。台湾全土の実地踏査や清朝以来の文献資料の徹底的な蒐集によって台湾研究の基礎をつくった。その遺稿『台湾文化志』は柳田国男、福田徳三の序を得て出版され、台湾史の古典として今も残る。熱帯植物研究の田代安定は不遇をかこつ中でも未開のジャングルに植物園をつくった。森丑之助は原住民社会に深く入り込んで彼らとなじんでいた。その頃、佐久間左馬太総督が原住民の討伐作戦を進める。森の研究成果が利用されるばかりか、その案内役も務めなければならなくなるので台湾を離れた。その後、台湾に戻るのだが、基隆港で失踪してしまったというミステリアスな成り行きにも興味がひかれる。

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2007年11月 5日 (月)

「グッド・シェパード」

「グッド・シェパード」

 エドワード・ウィルソン(マット・デイモン)はCIAの対敵諜報部門の責任者。第二次世界大戦中、サリヴァン将軍(ロバート・デニーロ)にスカウトされてOSS(戦略事務局)の創設に関わり、冷戦が始まってその後継たるCIAに入った。1961年、反カストロ派亡命キューバ人グループがCIAの支援の下キューバ上陸を試みたが、事前に情報が漏洩して失敗。いわゆるピッグス湾事件である。その後のキューバ危機(1962年)の前哨戦とも言える。情報を漏らしたのが一体誰なのか特定せよとせっつかれるエドワードのもとに匿名で一本のビデオテープが送りつけられた。その解析作業を進めながら、自身が情報機関に入った道のりを振り返る。

 CIAという組織内における葛藤を描いた映画としてロバート・レッドフォード、ブラッド・ピットの出演していた「スパイゲーム」(2001年)を思い出す。最後のドンデン返しにスカッとする面白さがあった記憶があるが、対して「グッド・シェパード」は直球勝負と言おうか。

 任務は極秘、誰も信用できず、完全な孤独。何のため、誰のため? あるイタリア人移民が語る。「私には故郷がある。ユダヤ人には伝統が、黒人にだって音楽がある。君たちには一体何が?」「アメリカ合衆国だ」とエドワードが答える。しかし、愛国心と言葉で言ってももろいものだ。それこそアメリカのように社会契約的に合理的に構築された抽象的な国家モデルは、多様な人々を受け入れるという長所は持ちつつも、皮膚感覚に訴える忠誠の対象となり得るのだろうか。

 佐藤優がどこかで書いていたが、イギリスの情報機関は、国王からじかに認めてもらえる、つまり国王に直結した忠誠心がこの孤独でつらい仕事の動機付けとして働いているという。しかし、エドワードは家族にすら仕事のことを話すことができず、誰からも認めてはもらえない。

 もう一つ、この映画を見ていると、秘密の共有→仲間意識を持つというシーンがよく出てくる。アイビーリーグの優等生を集めたスカル・ボーンズ・クラブもそうだが、敵であるソ連のスパイとも息子の不祥事について個人的に処理しようというやり取りがあった。「いつ味方が敵になり、敵が味方になるか分からないからな」。母国での立場がまずくなった時に亡命を受け入れてもらう保険ということなのだろう。

 忠誠心、自分の拠り所、それを求めようにも常に裏切られる可能性と紙一重。しかし、冷徹なリアリストであっても拠り所をどこかに持っている。スパイの条件は何か? 映画の中で、冷静さ、それからロマンチストであることと自嘲的に笑うセリフがあったが、それもむべなることかなと納得。

【データ】
監督:ロバート・デニーロ
出演:マット・デイモン、アンジェリーナ・ジョリー、ロバート・デニーロ、ジョン・タトゥーロ、マイケル・ガンボン、他
2006年/アメリカ/167年
(2007年11月4日、新宿プラザにて)

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2007年11月 4日 (日)

歴代の台湾総統について

 台湾は正式には中華民国となっている以上、その現代史をみるにはまず大陸の情勢から説き起こさねばならない。第二次世界大戦が終わり、間もなく国共内戦に揺れる1947年に中華民国憲法が公布、翌1948年には間接選挙によって正副総統選挙が実施される。総統には蒋介石が当選、副総統には孫文の息子の孫科を蒋はおしていたが、僅差で李宗仁が選出された。国民党内の分裂が明らかとなったばかりでなく、内戦でも敗色が濃くなって蒋介石は下野、李宗仁が代理総統となったものの中華民国政府はすでに崩壊同然。そうした状況下、蒋介石は腹心の陳誠と息子の蒋経国を台湾に派遣、ここを最後の拠点にすべく準備を進めていた。この時に故宮博物院の収蔵品も移転された。

 1949年10月1日、北京を首都として中華人民共和国が成立。李宗仁はアメリカに亡命、12月になって蒋介石は台湾へ渡り、翌1950年に総統に復職した。国民党の再編成が行われ、陳誠を行政院長(後に副総統)、蒋経国を特務組織の責任者に据えた。共産党を反乱軍と規定して反乱鎮定動員時期臨時条項によって憲法を棚上げ、総統に非常大権を集中させた臨戦態勢の中華民国政府が台湾社会の上にそのままのっかったという構図が五十年近くにわたって続いたことに留意する必要がある。アメリカは反共の砦として米華相互防衛条約によって台湾にてこ入れしつつも、蒋介石の夢見る大陸反攻という無謀な企てに同調するつもりはなく、海峡を挟んだにらみ合いが固定化された。

 その後、蒋介石を頂点とした独裁体制が続くが、1969年に交通事故に遭って以来、体力的にめっきり衰弱し、蒋経国への権力移譲が徐々に進められた。蒋経国という人物は、特務機関のトップとして恐怖政治の立役者であったと同時に、漸進的な改革への路線転換を成し遂げたという二つの相異なる顔を持っている。リアリスティックなマキャヴェリストとして、父とは異なり大陸反攻など不可能なことを熟知しており、政権維持のため台湾化路線を選択したと言える。

 彼の経歴はなかなかユニークだ。若い頃、ソ連に留学し(当時は第一次国共合作が続いていた)、ロシア人と結婚。共産主義に心酔し、父・蒋介石を批判したこともある。父・蒋介石が1927年の上海クーデターで共産党の弾圧を始めたため、経国は人質扱い、シベリアに送られた体験も持つ。1936年の西安事件によって第二次国共合作が成立した時に中国へ帰国、その後は父の腹心として活動、とりわけソ連赤軍に在籍した経験を買われて軍隊に対する政治的統制を進め、特務機関を任されて赤狩りを行なった。

 蒋経国への権力のバトンタッチが行なわれつつあった頃、1971年の国連代表権の喪失、72年のニクソン訪中、同年の日中国交正常化、79年の米中国交正常化及びこれに伴う米軍の撤退と続き、台湾は国際的に孤立感を深めていた。こうした中、十大建設(鉄道、空港、発電所など大規模インフラ整備)をはじめ経済的な巻き返しに成功。また、万年議会の部分的改選、本省人エリートの起用など台湾化政策も着々と進めていた。1987年には50年近くにわたって続いた戒厳令を解除した。

 しかしながら、蒋経国自身の健康状態が悪化して政務に眼が行き届かなくなる中、党内タカ派が暴走して美麗島事件、林義雄・台湾省議会議員の家族惨殺事件、在米作家・江南殺害事件などが相次いで起こった。病床からこの様子をじっと見ていた経国は、一時的に容態を持ち直した時に人事を一新、タカ派は失脚し、李登輝を副総統に抜擢した。李は野心のない安全パイとみられていたらしく、意中の後継者を明確にしないまま経国は1988年に死去した。

 李登輝の総統への昇格は、彼は野心のない学者と見られていたこと、外省人幹部同士のパワー・バランスを崩さないようにとの配慮があったこと、国民党内でも台湾人社会の世論に敏感になりつつあったことなどからすんなりと進んだ。彼の国民党主席への就任に対しては宋美齢から横槍が入って外省人幹部は躊躇したが、宋楚瑜のイニシアチブで空気が変わり、李登輝は名実ともに台湾のトップに立つ。

 司馬遼太郎との対談で「居候、三杯目はそっと出し、と言うでしょ」と語るように(『台湾紀行』朝日新聞社)当初は低姿勢だったが、徐々にしかし確実に李登輝は動き始めた。国民党だけでは改革が進まないことは分かりきっていたので、国是会議を開催、ここに野党・民進党も巻き込んで、事実上の無血革命を行なう。同時に、国民党内反対派への押さえとして軍の実力者である郝柏村を行政院長に任命、ただし軍籍離脱を条件とすることで彼を軍から引き離す布石にするというしたたかさを見せた。その後、総統の直接選挙を実施、2000年には民進党の陳水扁へと政権交代も実現する。

 若林正丈『現代アジアの肖像5 蒋経国と李登輝』(岩波書店、1997年)は、蒋経国と李登輝という二人の強烈な個性を軸に台湾現代史を描き出している。本田善彦『台湾総統列伝』(中公新書ラクレ、2004年)は、蒋介石・蒋経国父子の良い側面にもバランスよく筆を進めつつ、他方で李登輝・陳水扁に対しての評価は辛い。とりわけ、李登輝については不正蓄財疑惑や、台湾人としての過去の怨念にとらわれた政治手法は独断専行的かつポピュリスティックだと指摘、台湾社会内と日本とでは彼への評価に大きなズレがあるという。

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