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2007年10月28日 - 2007年11月3日

2007年11月 3日 (土)

黄昭堂『台湾総督府』

黄昭堂『台湾総督府』(教育社歴史新書、1981年)

 1895年の下関条約により台湾は日本に割譲されることになった。引渡し側の清側全権として李鴻章の息子の李経芳が派遣されたが、割譲反対派の動きに恐れをなして台湾に上陸することができず、結局、日本側の初代台湾総督樺山資紀とは洋上で会談したという。割譲反対派は台北を首都として台湾民主国の成立を宣言。ところが、日本軍が上陸して基隆が陥落し、敗走兵が台北に流れ込んで大混乱、民主国首脳は大陸に逃亡してしまった。日本軍は台北に無血入城するが、台湾全島を掌握するまでには各地で激しい抵抗を受けることになる。

 樺山の後、桂太郎、乃木希典と短命な総督が続くが、明治31(1898)年になって児玉源太郎総督・後藤新平民政長官のコンビが登場、約8年間その任にあった。この時期に、衛生政策、戸口調査、旧慣調査、交通網の整備、製糖業の振興など台湾統治の基礎が築かれ、本国からの財政独立を果たす。また、阿片中毒者の反感を考慮して阿片漸禁策がとられたが、阿片専売制は後藤の思惑とは異なり、むしろ総督府の収入源となってしまう。

 次の佐久間左馬汰総督は内政よりも抗日運動の武力制圧に力を注いだ。その後、安東貞美、明石元二郎と武官出身総督が続いたが、大正7(1918)年の原敬内閣成立によって文官の田健治郎が台湾総督に就任、文官統治期が始まる。同時に総督から軍事指揮権が分離されて新に台湾軍を創設、初代司令官には明石が横滑りした。文官総督には日本本国の政権交代に応じて政党色の強い人事が行なわれるようになる。文官期には下村宏総務長官のもとで比較的リベラルな政策が行なわれた時期もあった。

 台湾は日本本国の憲法体系の適用から除外されており、民法などを選択適用した他は、総督府令によって補われ、法体系は混乱していた。当然ながら、台湾人に参政権など認められなかった。当初の台湾統治の方針は旧来の慣習を尊重しつつ本国とは別扱いするという形を取っていたが、武官統治期に抗日運動をほぼ壊滅させたのを受けて、文官統治期には同化政策が進められる。しかしながら、「一視同仁」といいながらも参政権が許されないのはおかしな話である。そこで、林献堂を中心に台湾議会設置運動が進められたが、妥協として官選の評議会に9名の台湾人が任命されるにとどまった。昭和10(1935)年の地方制度改正により、市会議員等の半数を制限選挙によって選出することになったが、日本人と台湾人が半々、台湾における日本人は8%に過ぎないことを考えると著しくバランスを失していた。また、大正12(1923)年に総督府に採用された劉明朝(東京帝国大学政治科卒)を皮切りに高等文官試験合格者の官吏への登用も始まったが、台湾出身者の昇進には限度があった。

 文官統治期には小学校(日本語使用者向け)・公学校(非日本語使用者向け)から台北帝国大学に至る教育システムが拡充された。しかし、小学校と公学校との区別からもうかがわれるように日本語というハードルが高いため台湾人の高等教育機関への進学は高くはならず、むしろ日本内地留学を目指す人々が多かったらしい。

 日本本国で政党政治が終焉を迎えるのに軌を一にして、昭和11(1936)年に海軍出身の小林躋造が台湾総督に就任、以降、再び武官統治期が始まる。日中戦争が始まったのに合わせて皇民化運動が展開され、新聞の漢文欄廃止、日本語の常用運動、神社参拝の強制、改姓名、志願兵制度などが実施された。また、経済的には軍需用に重工業施設が急増し、台湾の工業化が進んだ。この頃、中国大陸では日本軍の工作によりいくつかの傀儡政権が作られたが、満州国外交部大臣となった謝介石をはじめ台湾人が「日中の架け橋」として登用されることも多かったという。

 昭和20(1945)年には徴兵制度を施行、一方で植民地人の協力を促すため衆議院議員選挙法が改正され、朝鮮半島23人、台湾5人を制限選挙で選出することになった。ただし、日本の敗戦により実現はしない。同時に林献堂、簡朗山、許丙の3名が台湾人として貴族院議員に勅撰されたが、すでに敗色濃く、日本に渡航すること自体が不可能であった。

 著者は、日本の支配と国民党の支配とでは似ている側面があると指摘する。第一に、統治の初期に抵抗運動を武力で制圧して多数を虐殺したこと。第二に、一視同仁を標榜しながらも参政権は事実上与えなかったこと。第三に、台湾語の使用を認めなかったこと。

 こうした指摘を行なうあたりからも分かるように、著者は大陸とは異なった台湾人意識を強調する。理由は五つ。第一に、日本は台湾統治を始めるにあたり国籍選択の機会を与えたため、日本支配下に入ってまで台湾で暮らそうとは思わない者はすでに去っていた。第二に、大陸で「中国人意識」が形成されたのは1912年成立の中華民国以降のことで、その時点ではすでに台湾は日本統治下にあった。第三に、台湾は戦争中に工業化していたが、対して中国の大半は農業社会のままで、生活様式が異なった。第四に、植民地下とはいえ少なくとも「法と秩序」が台湾には備わっていたが、対して中国は軍閥割拠、国共内戦と混乱が続いており、統一国家となったのはようやく1950年代になってからである。第五に、清朝にせよ中華民国にせよ、日本との妥協を繰り返しており、その中で台湾は捨てられたという気持ちがある。とは言え、中華民国は台湾に対して積極的に悪いことをしたわけでもなかったので、日本の敗戦直後はむしろ期待をかけていた。しかし、国民党の腐敗と弾圧を目の当たりにして台湾民族意識が高まったという。

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2007年11月 2日 (金)

台湾先住民をめぐって四冊

 日本はアメとムチとを使い分けて台湾統治を進めたが、そのムチの最たるものとして山地に住む先住民への苛烈な鎮圧作戦が挙げられる。山地先住民はかつてオランダ人にも漢人にも服さず、首狩りや入墨をはじめ独自の習慣を維持していた狩猟採集民であり、台湾全島の支配を目指す日本は激しい抵抗に遭った。ようやく帰順させたものの、文明化という方針の下、彼らの生活習慣に手をつけた上に強制労働に駆り出したこともあって不満がくすぶっていた。

 そうした中、1930年、タイヤル系部族セイダッカが台湾中部の霧社公学校で行なわれていた運動会を急襲し、子供を含め130人余りの日本人が皆殺しにされるという事件が起こった。セイダッカの頭領モーナルダオが日本人警官に侮辱されたことで鬱積していた不満に火がついたことがきっかけらしい。日本側はただちに爆撃や毒ガスも用いた大掛かりな反撃を開始、もともとセイダッカと反目していた他部族も動員された。セイダッカの男たちはほとんど討ち死にし、女性や子供たちは首をつって自殺したという。文字通り滅亡覚悟の反乱であった。これを霧社事件という。セイダッカの生き残り500人は収容所に入れられたが、翌年、セイダッカと仲の悪かった他部族が日本の警察の黙認の下ここを襲撃し、さらに200人余りが殺された(第二次霧社事件)。洋の東西を問わず植民地支配において活用される分割統治の手法が見て取れる。

 その後、日本の軍部はこの事件を通して山地先住民の戦闘能力の高さに目をつけ、太平洋戦争において“高砂義勇隊”を結成させる。植民地時代に生まれ育った世代には“帝国臣民”としての意識が植え付けられていくが、彼らの伝統的な尚武の気風は日本の軍部が鼓吹する“日本精神”と親和的であったともいう。

 柳本通彦『台湾・霧社に生きる』(現代書館、1996年)はこの惨劇の舞台となった霧社を訪ね、事件の記憶を掘り起こすべく人々から話を聞き取ったルポルタージュである。霧社事件に遭遇し、その時の凄惨な有り様を語る先住民女性。彼女の夫は日本人化教育を受けて警察官に採用されていたが、セイダッカの仲間と日本との板挟みになって自殺した。高砂義勇隊に志願したという老人が嬉々として日本語を使い、NHKの衛星放送を楽しみにしているというのも複雑な感じがする。彼は台湾語も北京語もできず、部族の言葉を使う者も少なくなったため戦後の半世紀を孤独のうちに生きてきたのだ。

 日本統治時代の傷跡を戦後もずっと引きずりながら声に出せない人が少なくないが、台湾社会内のマイノリティーたる先住民はなおさらのことである。台湾出身者で日本軍として戦いながらその補償も受けられなかった人もそうだが、柳本通彦『台湾先住民、山の女たちの「聖戦」』(現代書館、2000年)、同『台湾・タロコ峡谷の閃光──とある先住民夫婦の太平洋戦争』(現代書館、2001年)ではとりわけ過酷な運命を強いられた女性に焦点が当てられる。夫や婚約者は高砂義勇隊として南方戦線に送られ、残された彼女たちに「生活が大変だろう」と仕事の口が紹介された。当時、連合軍は沖縄ではなくまず台湾に上陸するだろうと大本営は予想しており、台湾で持久戦の準備が進められていた。彼女たちは軍の関係施設に雑役に雇われたが、だまされて日本兵の夜の相手をするよう強要された。「お国のためだ」と恫喝され、逃げることもできず、つらい思いを戦後も抱え込まねばならなかった。

 台湾総督府は激しい抵抗を示した先住民を警戒し、その管理に意を注いでいた。派遣された警官は教育や農業指導などあらゆる任務を与えられた。生活習慣に手をつけた上、中には横柄な人物もいたため摩擦が生じ、駐在所の焼き討ちも頻発。そこで、日本人警官を部族の頭領の娘と政略結婚させ、その権威を借りて統治を進めるという奇策も実際に行なわれた。下山操子著、柳本通彦編訳『故国はるか 台湾霧社に残された日本人』(草風館、1999年)は、そうした事情の中で生まれた一家が戦後も台湾に残って体験した苦難をつづった半生記である。最初は史料調べのような考えで手に取ったのだが、戦後台湾社会の世相の移り変わりがうかがえるばかりでなく、彼女自身の波乱に満ちた人生に深く感じ入り、いつしか身をのり入れて読み込んでいた。

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2007年11月 1日 (木)

酒井亨『台湾 したたかな隣人』

酒井亨『台湾 したたかな隣人』(集英社新書、2006年)

 台湾の民主化改革において李登輝の果した役割は大きい。だが、恩恵的な“上からの改革”だけでそう簡単に社会が変わるわけではない。台湾政治をウォッチする際、独立か否かという争点に注目が集まり、この軸にそって国民党と民進党との対立関係をまとめるのが日本での一般的な理解だろう。しかしながら、民進党は独立志向というばかりでなく、環境・福祉・人権といったテーマを掲げる中道左派政党としての性格も持っている。こうした主張をもとに“下から異議申し立て”を行う社会運動が台湾社会に根強くあったからこそ民主化の流れが支えられたと本書は指摘する。著者は民進党シンパのジャーナリストである。

 国民党は地方レベルでは利益誘導型の政治を行っていたので、台湾独立志向の人々でも、地域の人間関係の中で国民党支持というケースは多いらしい。総統選挙では独立問題への関心から民進党に投票しても、立法院(議会)や首長など地方レベルの選挙では馴染みのある国民党候補に入れるというねじれも珍しくない。いずれにせよ、国民党と民進党との対立関係=独立問題の是非とは必ずしも言えず、むしろそれ以外の要因で投票結果は左右されることがしばしばある。

 2000年の総統選挙で民進党の陳水扁が当選したが、立法院での民進党の基盤はもろい。そこで、陳は“全民政府”というスローガンを掲げて国民党も政権に巻き込むべく、唐飛・前国防部長(大臣)を行政院長(首相)に任命した。唐は外省人だが性格円満、柔軟なものの考え方ができる人物だという。ところが、閣内不一致で間もなく辞任。ネックとなったのは独立問題ではない。民進党は環境政策を掲げており、国民党政権時代に進められた原発の建設中止を強行したからである。

 少数与党に転落してしまった陳水扁に救いの手を差し伸べたのが李登輝である。国民党は連戦を候補に立てて総統選挙に臨んだものの三位に終わるという惨敗を喫したため(二位は李登輝を批判して国民党を離れ、無所属で立候補した宋楚瑜。彼は後に第二野党・親民党を結成)、責任を取って李登輝は国民党主席を辞任していた。李を支持するグループが国民党を離れて台湾団結連盟(台連)を結成、民進党よりも急進的な独立論を主張する。李登輝は国民党の党籍抹消の処分を受けた。しかし、台連は独立論では民進党と歩調を合わせるものの、内政面では保守的で、民進党内の進歩派とウマが合うわけでもない。また、国民党とて離党者が相次いだことからも分かるように一枚岩ではなく、多元的な政治勢力が台湾政界を彩っている様子がうかがえる。

 そうした中でも、台湾独立志向のトーンは、現状維持か新憲法を制定した上での完全独立かという濃淡の差こそあれ、大方の人々に共有されているようだ。とりわけ、2003年のSARS騒動のとき、台湾は中国の妨害でWHOのオブザーバー資格すら与えられなかったので情報提供を受けられず、被害が拡大した。そのため、親中国派でも台湾意識を強めることになったというのが興味深い。

 民進党も政権をとってから汚職等の問題が起きており、以前のようにクリーンなイメージは薄れている。国民党という巨象に対抗するため、民進党が独立反対派の親民党と手を組む可能性すらあり、独立という原理原則論とは違った局面で数合わせの権謀術数が働く余地もある。しかし見方を変えれば、民進党はそれだけ安定した政治勢力として確立したということだ。政権交代可能な政治勢力が複数あって、はじめて議会制民主政治のダイナミズムは効果的に働く。中道左派の民進党に対して、次は国民党が中道右派政党として生まれ変わることができるかどうか、そこに著者はカギの一つを見ている。

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2007年10月30日 (火)

「戯夢人生」

「戯夢人生」

 侯孝賢の映画を観ていると、どこか飄々とした味わいのあるおじいさんがよく出演している。李天禄という人だ。台湾の民俗芸能に布袋戯(ポテヒ)という人形劇があるのだが、その国宝級の演じ手として有名な人らしい。彼が自らの生い立ちを語るのに合わせ、台湾の現代史を描き出した映画である。

 彼が生まれたばかりの頃、台湾の習俗はまだ清朝風である。警察官がやって来て、辮髪を切れと命令を受けるシーンから始まる。髪形を変えるということは、身体的な風習として直接的なだけに時代の断絶を意識の中に深く刻み付ける。それは近代化の象徴であったが、誰の指示によるかに応じて受け止め方も異なる。日本でちょんまげを切ることは文明開化を意味したが、台湾では植民地になったことを周知させる役割を果たした。劉香織『断髪―─近代東アジアの文化衝突』(朝日新聞社、1990年)という本を以前に読んだことがあるが、日本・中国・朝鮮半島それぞれでの断髪の受け止め方を比較文化史的に考察されていて興味深い。話が脱線するが、イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行─―英国婦人の見た李朝末期』(講談社学術文庫、1998年)にこんなエピソードがあったのも思い出した。日本の命令で断髪令が出され、ソウルから順次実施された。すると地方在住者の間に「ソウルへ行くと髪を切られる、人前に出られない姿になってしまう!」と動揺が広がって流通の動きがストップ、ソウルに食糧が入ってこないなどパニックに陥ったという。

 それはさておき。

 李天禄は小さい頃から才能を見込まれ、布袋戯の劇団に入った。一介の芸人に過ぎない彼もまた時代の動きに翻弄されてしまう。天長節のお祝いに布袋戯をやるよう命じられたが、その日、祖母が亡くなった。帰らせてくれと言っても、「お前の他に誰がやるんだ」と許されなかった。

 日中戦争の泥沼化、対英米戦の兆しが見え始め、長谷川清総督のもと皇民化運動が進められる。布袋戯の野外での上演が禁じられた。台湾語を用いる布袋戯は日本語化の障碍とみなされたからだ。やがて戦意高揚のため布袋戯を利用しようと方針転換され、李天禄もまた皇民化運動に組み込まれる。粗暴な日本人から嫌がらせを受ける。一方で、李に目をかけて、そうした日本人を叱りとばす穏やかな警察の担当課長もいる。

 台湾も空襲を受けるようになり、李の一家も疎開した。ところが、疎開先で「何しに来たんだ」と言われてしまう。「日本は負けたぞ」。日本軍の残した飛行機の解体作業のシーンで映画は終わる。使える部品を売って、芝居を続けるための資金をつくるのだ。日本敗戦後の混乱のなか、病気で息子を亡くした李は「これも運命だ」と言う。翻弄されるような運命を受け入れながら、それを足場に次へと進む、そうした淡々と落ち着きのあるたくましさが印象深い。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:呉念真・朱天文
1993年/台湾/143分

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2007年10月29日 (月)

「恋恋風塵」

「恋恋風塵」

 ワンとホンは幼なじみ。ワンは成績優秀だが家が貧しいので進学できない。台北に働きに出て夜学に通い、後からホンも出て来て仕立屋に勤め始めた。仕事がうまくいかずに苛立ち、職を変えるワン。そんな彼をホンは見守る。二人が連れ立って歩く初々しい姿がほほえましい。しかし、ワンは兵役に取られ、二人の仲は離れ離れになってしまう。やがてホンが別の男と結婚したという知らせが届く──。ほろ苦い青春の細やかな感情の揺れを静かに描き出した作品である。

 貧しい苦学生が印刷所で働くという姿はかつての日本でも見られた。ワンが言うように、活字を拾いながら本が読めるから。宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のジョヴァンニをふと思い出した。町並みの風景も含め、何となく高度経済成長前の日本を想起させる。もっとも、台湾映画に詳しい田村志津枝さんの本を読んでいると、古き日本情緒を重ね合わせるのは台湾の歴史を無視して安易だと突っ込みを受けてしまうのだが。

 いずれにせよ、台湾映画を観ていると、良かれ悪しかれ、日本の影がそこかしこに見えてくるのが気になってしまう。ワンに兵役通知が来たとき、勤め先の親方が語る。俺のときは兵役に行った者の大半が死んで帰ってきた。ジャングルでさまよってな、赤痢って分かるか? 今は三食住まい付きの学校みたいなもんじゃないか、だから心配すんな!という感じに。ジャングル?と気になったのだが、日本統治時代、南方戦線に駆り出されたことだとすぐ気付いた。あるいは、ワンの父は、「俺たち親子は学問につくづく縁がないよな」と語る。「俺なんか、小学校を卒業した途端、言葉が日本語から北京語になっちまったからな」

 中国や韓国の場合、日本の影が見えてくる場面では、決まって抗日愛国のモチーフが明瞭に打ち出される。侯孝賢の作品の場合、日本の影はストーリーの後景にあって、直截な政治主張はしない。あとは観客自身が考えるべきと投げ渡してくる。彼のスタイルは総じて説明的なものを排したところに特徴があるわけだが、映画作りとして成熟した感じで、安心して観ることができる。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:呉念真・朱天文
1987年/台湾/110分

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2007年10月28日 (日)

「パンズ・ラビリンス」

「パンズ・ラビリンス」

 土曜日、雨。朝から母校の図書館にこもって調べもの。作業が難航してムシャクシャし、夕方、暗くなり始めた頃に切り上げ、田町駅前の立ち呑み屋で軽く一杯ひっかけた。何の脈絡もないが、ふと「パンズ・ラビリンス」の評判を思い出して観に行くことにした。

 舞台は1944年のスペイン、フランコ将軍が支配する軍事政権の時代。オフェリアは童話の大好きな女の子。お母さんの再婚相手の任地へと車に揺られている。新しいお父さんとなるはずのヴィダル大尉は、山岳地帯に立てこもる反政府ゲリラ討伐の指揮官である。残虐な手法で鎮圧作戦を進めるヴィダルにオフェリアはなじめない。寂しい思いをしている彼女の前に現われたナナフシの姿をとった妖精。その導きで森に入っていくと、半人半羊のパンに出会った。「王女様、ようこそお戻りになりました」。ただし、彼女が王女であることを証明するために三つの試練に耐えなければならない。

 特殊効果で表現された怪物たちの動きには目をみはる。その点ではファンタジー映画ということになるが、ストーリーはそんなに単純ではない。上映終了後に買ったプログラムにモンスター一覧のページがあった。その筆頭にヴィダル大尉が載っているのを見て、なるほどそういう話かと納得。最も非人間的なモンスターは他ならぬ人間自身であるという逆説は、もちろんありきたりと言ってしまえばありきたりなんだけど、ラストでは不覚にも涙がにじんでしまった。疲れていた上に、アルコールが少々残っていたせいかもしれないが。

 戦乱という形をとるかどうかは別として、ある種の不条理が純粋さを求める心情を押し殺してしまうことがある。この映画に登場する大人たちが「妖精なんていないのよ」とオフェリアに言い聞かせるように、現実生活とは離れた次元に王国を夢見ることは許されないし、また、そうした思考習慣になじむことが大人になる条件とされる。だけど、心の拠り所を、たとえ夢想の世界であっても、どこかに求めなければ生きていくのはつらい。その架橋し難い矛盾をオフェリアの死に重ね合わせていたのかもしれない。

【データ】
原題:El laberinto del fauno
監督:ギレルモ・デル・トロ
2006年/スペイン・メキシコ・アメリカ/119分
(2007年10月27日、恵比寿ガーデンシネマにて)

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