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2007年10月14日 - 2007年10月20日

2007年10月20日 (土)

「十二人の写真家」

「十二人の写真家」

 木村伊兵衛、三木淳、大竹省二、秋山庄太郎、林忠彦、真継不二夫、早田雄二、濱谷浩、稲村隆正、渡辺義雄、田村茂、土門拳という十二人の写真家たちの撮影風景を撮り集めたドキュメンタリー。五十年前に作られた映画なので当時の日本の風景が見られるのが興味深いし、オーケストラによる古風に大げさな音楽もどこかレトロな雰囲気が漂う。私は写真について専門知識はまったく持ち合わせていないが、漠然と好きなので観に行った。

 トップバッターは、カメラを持って街中を歩く木村伊兵衛。フィルムが古いのでコマ送りが速いせいか、セカセカした感じ。人々のさり気ない一瞬を捕らえるリアリティーを求めて早撮りにこだわっているとのことだが、歩きながらとにかく撮りまくる。隠し撮りというほどではないが、懐に抱えていたカメラをいきなり出して撮るので、さり気なくというよりもちょっと怪しい。それがまた妙にユーモラス。

 撮影風景の映像にかぶせるように、写真家それぞれのコメントが朗読される。大抵は自身の撮影スタイルや理念について語るのだが、土門拳は独特だ。──僕はご飯が好きだ、パンは胃に悪い。トンカツもウナギも好きだが、天ぷらはいただけない。塩せんべいをかじると頭にガンガン響いてよろしくない….と好き嫌いについて延々と羅列するだけ。それが子供たちを撮るシーンにかぶさっていて、違和感がないというのも不思議だ。

【データ】
監督:勅使河原宏
49分/1955年
(2007年10月19日レイトショー、ポレポレ東中野にて)

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2007年10月19日 (金)

田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』

田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年)

 映画が政治宣伝の手段として効果的とされていた時代、映画づくりの情熱は、それがたとえ純粋なものであったとしても、本人の意図とは関係なく政治情勢に翻弄される宿命を否が応でも帯びてしまう。それはとりわけ、植民地支配を受けた人々の不安定な立場において切実だった。そうした葛藤をはらんだ様々な個性の群像を、本書は映画というテーマを軸に描き出している。

 本書で“李香蘭の恋人”といわれるのは、台湾出身の映画人・劉吶鴎である。もともと裕福な家庭に生まれ、日本や中国をまたにかけて映画製作に走り回っていたが、やがて日本軍のバックアップで上海に設立された中華電影公司に入る。そこでは、日本人としての忠誠を求められながらも、所詮中国人だ、と立場的に低く見られていた。他方、中国人からは日本の協力者として信用されない。植民地出身者は日本語と中国語の両方ができるので重宝されながらも、同時に双方から疑いの眼差しを受けてしまう。結局、1940年9月、劉吶鴎は漢奸として暗殺されてしまった。この時、彼と会う約束をしていた李香蘭は待ちぼうけをくうことになる。

 同様の運命をたどった台湾出身者が他にも登場する。たとえば、穆時英。モダニズムの文学者として出発したが、中華民国維新政府(汪精衛派)に芸術科長、御用新聞の国民新聞社長として参加。当時の台湾人は日本国籍だが、「日中の架け橋」という名目で日本の傀儡政権で採用されるケースが多かったらしい。しかし、彼もまた漢奸として暗殺される。

 もう一人興味を持ったのは江文也。侯孝賢監督「珈琲時光」は私の大好きな映画だが、一青窈演じるフリーライターが調べていた台湾出身の作曲家というのが彼である。何者なのか気になっていたのだが、本書で江文也のプロフィールを初めて知った。1910年、台湾北部・淡水の生まれ。日本に渡って山田耕筰に師事。映画音楽も担当するなど活躍し、日本の敗戦時には北京(当時は日本占領下)で国立音楽院長を務めていた。東京に家族がいたが、中国に残る。しかし、“文化漢奸”として批判されたり、その後の文化大革命で迫害されたりと不遇な余生を過ごしたらしい。

 上海に渡った日本の映画人には元左翼、たとえば日本プロレタリア映画同盟の出身者などもいた。彼らに対して軍国主義のお先棒を担いだとして著者の視点は厳しいが、彼らもまた映画づくりの場を求めるためやむを得ず迎合した側面があるようにも思える。いずれにせよ、時代に翻弄された葛藤、とりわけ台湾人に対して安易に“親日的”と括ることのできない様々な思いの奥行きを描き出している点で興味深かった。

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2007年10月18日 (木)

「今、教養の場はどこにある? 第1回 ギャップの時代、他者とのつながり」

「書物復権2007 今、教養の場はどこにある? 第1回 ギャップの時代、他者とのつながり」@新宿・紀伊國屋ホール(10月17日、19:00~20:30)

 市野川容孝(医療社会学・障害学)・杉田敦(政治理論)・本田由紀(教育社会学)の三人による鼎談形式のセミナー。市野川さんの司会で進行。メモを取りながら聴いた。

 まず口火を切った市野川さんは、教養=Liberal Artsのliberalの意味を寛大さ、懐の広さと解した上で、自分とは異なる他者の立場に立って想像力を働かせることを指摘。順調に進んでいたものが破綻したとき、問題のありかを認識。きしみに出会って、問題を肌身に感じたときに本を手に取る。そうしたものとして教養を把握。

 医師と患者、社会福祉活動の従事者と障害者との関係において、“専門知”の問題点が見えることがある。専門家としての他者の視点ではなく、患者・障害者という当事者の立場で考えるのが障害学(Disability Studies)。つまり、社会常識的にネガティブなものとみなされている身体状態を一つの個性と受け止めなおしてみる。Disabilityとは、物理的な問題ではなく、身体的特徴を根拠として社会的能力を奪い取られた状態と考える。ただし、この障害学も“学”となってしまうもどかしさ。現場の人たちからは「学者が何を言っている」と白い眼で見られることもあるが、現場から離れた立場だからこそ言えることもある。そこに学としての必要があると主張。

 本田さんは、いわゆる“教養”といわれるものは、知識的な権威をもとにしてむしろ人々の間に立場的なギャップを生み出してきたと指摘。こうした“教養”のあり方を現実態とするなら、これとは違った他者への想像力という点での可能態としての教養が今こそ必要だろう。人間は余裕がないとき、他者への憎悪もしくは自己否定、いずれにせよ自分も含めた誰かに苦しみの原因を帰したくなる。苦しみ、つらさ、不安、そういったものを言葉で表現してみて、誰かに受け止めてもらえれば、それだけでも苦しみのかなりの部分は緩和されるはずだ。自分のつらさ、他人のつらさを分かち合う、そうした意味でギャップを埋めるための言葉のレッスンとして教養が必要だ。たとえば、雨宮処凛のように生活者としてのレレヴァンスを汲み取ることのできた言葉が力を持つのだろう。

 現実の社会には、過度に不可視で、また逆に過度に可視的なものが入り混じっている。経済システムの論理で人間を使い捨てにしてしまうネオリベラリズムがまかり通っている中、「人間力」「美しい国」「愛国心」といったまやかしの言葉でそうしたザラザラの現実を不可視にしてしまう。他方、自分はダメだと見切りをつけてしまう、つまり狭い価値観の枠組みの中ですべてが可視的だと思い込んで自己嫌悪に陥ってしまう人もいる。そうした人々に対しては、人生には不可視な余白もあるんだと提示してあげる。見切りをつける必要はない、他にも手があるはずだという意味で、現実に対して批判的=criticalな視点を示すこと。もし知識人に何かできるとしたらそこだろう、と語っていた。

 杉田さんは、要するに何を言いたいのかさっぱり見えてこなかったので、途中でメモをとるのをやめた。

 最後に一人ずつおすすめの本を紹介。まず、本田さんはデュルケーム『社会分業論』。社会がバラバラに個人化してしまった中で、職業集団の持つ役割に眼をつけた先駆的な古典だという。本田さんは「専門性」の必要を説いている。人間はゼロの状態では何も考えるきっかけを得られない。やはり、土台としての帰属が必要。個人がバラバラになってしまった現代社会ではどうすればいいのか。「専門性」という形で一定の職業意識を持つ集団に帰属することで、出発の足がかりを得られるはずだ。ただし、その職業を一生のものとするとは限らず、可能性の幅を持たせた専門性という意味合いを持たせたいので、スペシャリティー+フレクシビリティー=フレクシャリティーという造語を提案。

 市野川さんはガンジー『私の非暴力』を紹介。抵抗する、戦うということについて、普通の軍隊には資格制限がある。しかし、非暴力の軍隊には年齢も男女の別も障害の有無も一切関係ない、誰もが意志さえあれば参加できる、そのようにガンジーは言っていたと熱っぽくコメントしていた。杉田さんはフィンリー『民主主義』を紹介。

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2007年10月17日 (水)

若林正丈『台湾──変容し躊躇するアイデンティティ』

若林正丈『台湾──変容し躊躇するアイデンティティ』(ちくま新書、2001年)

 台湾が歴史の表舞台に登場するのは17世紀になってからのこと。もともと、マレー・ポリネシア系の先住民族がいたが、漢族が少しずつ海峡を渡って来住し始めた。それにつれて台湾西部の平原地帯にいた先住民族、「平埔族」は徐々に吸収されて消滅してしまい、山岳地帯に残った先住民族はその後の日本統治時代に「高砂族」、中華民国時代になってからは「高山族」「山胞」と通称されるようになった。漢族には福建省から来た多数派の福佬系(閩南語を話す)と広東省から来た少数派の客家系とがおり、多部族が並立する先住民族も含めて複層的な族群関係を当初より台湾社会は特徴としていたことには留意する必要がある。

 17世紀は東アジアの国際環境が大きく動き始めた時期である。一時的にオランダが占領したが、それを追い払った鄭氏が台湾を「反清復明」の根拠地とした。清の康熙帝はこの鄭氏を倒し、台湾は清の版図に組み込まれる。その際に台湾放棄論が出たことから窺われるように、清は台湾経営にあまり関心はなかった。ところが19世紀に入り、アロー戦争の結果として開港を求められた中に台湾の台南と淡水が含まれていたので海外の市場との結びつきが始まり、さらに日本の台湾出兵(1875年)、清仏戦争(1884年)と続く。ここに至ってようやく清もこの島の重要性に気付き、台湾省を設置した(1885年)。しかしながら、日清戦争の結果、下関条約(1895年)により台湾は日本に割譲される。

 台湾としてまとまりあるアイデンティティを持ち始めた最初のきっかけはこの日本統治時代にある。日本は植民地経営の必要から全島規模で交通網・通信網・行政機構・教育システムを作り上げ、これをもとに台湾は一つの均質的な市場空間として統合された。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』で指摘されたような一つの枠組みが出来上がったと同時に、ここには「内地人」(日本人)─「本島人」(漢族系)─「蕃人」(先住民族)という階統秩序意識も組み込まれており、この頃の「台湾人」アイデンティティは日本人への対抗関係として形成されたものと言える。

 1945年、台湾における日本の統治機構を中華民国はそっくりそのまま引き継いだ。日本の植民地支配の間、台湾では経済的にも教育レベルにおいても水準の高い中間階層が成長しており、彼らはようやく自分たちも政治参加できると意気込んでいた。ところが、国民党政権は彼らを「日本によって奴隷化教育を受けている」として排除したばかりか、その腐敗体質は甚だしかった。「犬が去って豚が来た」、つまり、日本人はキャンキャンうるさく威張り散らしていたが少なくとも規律は取れていたのに対し、国民党は食って寝るばかり。経済は混乱し、風紀は乱れ、台湾の人々の間に不満が高まった。

 それを決定的にしたのが1947年の二・二八事件である(「悲情城市」の記事を参照のこと)。この事件で国民党軍は台湾土着のインテリやエリート層を狙って殺害したとも言われており、政治に関わると恐ろしいことになるという意識を一般大衆レベルに刻み付けた。こうした経過の中で、本省人の反外省人・反国民党感情(さらにはこの反転としての親日感情)、これを受けて外省人が本省人に向ける不信感、双方の反発感情がその後の台湾社会に奥深く底流することになる(省籍矛盾)。いずれにせよ、日本支配下では台湾在来の多層的な族群関係の上に日本人が乗っかっていたわけだが、日本人が去った後、国民党率いる外省人が代わって上に乗ったという構図になる。

 国民党政権はマスメディアや学校教育を通して上からの「中国化」政策を進め、1960年代以降その成果は少しずつ表われてきた。暗記中心の受験競争により進学率が高いばかりでなく、日本統治時代に初等教育就学率70%を超えていた学校教育システムを出発点としたことも大きいらしい。いずれにせよ、こうした中から新しい世代の本省人エリートも現れわ始めた。また、本省人は民間レベルでも主に中小企業で頭角を現しつつあった。

 1970年代に中華人民共和国への国連代表権の移転、米中接近、対日断交といった事態が続き、台湾は国際的孤立感を深める。こうした情勢下で父・蒋介石から権力をバトンタッチされた蒋経国は国内を掌握する必要に迫られ、国民党主導の体制に適合的な本省人を取り込む「台湾化」政策へと舵を切った。この時に抜擢された中に李登輝がいる。

 国民党は「一つの中国」というテーゼにこだわる一種のイデオロギー政党であったと言える。中華民国政府の虚構的性格はよく指摘されるが、その最たるものは立法委員(国会議員)や総統選出機関たる国民代表大会のメンバー構成によく表われていた。大陸で選出された議員の存在が中華民国としての正統性の根拠とされていたため、大陸を奪回するまでは任期が無期限に延長された。大陸反攻など現実には無理なのだから、事実上の終身議員である。漸進的な自由化政策を進める蒋経国はこの終身議員の段階的改選に手をつけ、次の李登輝政権において選挙による完全な民主化が実現する。

 蒋経国による台湾化・漸進的自由化路線には保守派からの反発も強かった。政論雑誌『美麗島』に集るグループが逮捕される事件が起った(1979年。この事件の弁護士として名を馳せたのが陳水扁である)ほか、関係者が殺害される白色テロも相次いだ。しかし、こうした人権抑圧状況にアメリカの世論が反応したため、それを無視できなくなった国民党政権は台湾独立派が民進党を結成するのを黙認せざるを得なくなった(1986年)。蒋介石の台湾上陸以来40年近く続いた戒厳令は1987年に解除され、1988年に蒋経国が死去、副総統だった李登輝が昇格して本省人として初の総統に就任。彼は民進党の意見も取り込みながら選挙による民主化のスケジュールを設定した。

 以降の台湾政治は族群政治(エスノポリティクス)として特徴づけられる。1992年の立法院選挙の結果、国民党も含め議員の8割は本省人で占められるようになった。眷村(「童年往時」の記事を参照)を票田とする外省人議員はこうした事態に危機感を強め、「自分たちこそが国民党の正統だ」として新党を結成、1994年の台北市長選挙では有力候補を擁立したが、反民進党を掲げるだけでなく、反李登輝キャンペーンも展開した。そこに表われた外省人意識を見て国民党支持の本省人票は民進党の陳水扁に流れたという。このように選挙による民主化によって本省人・外省人それぞれの自己主張が政治レベルで表面化することになった。

 こうしたエスニックな意識の主張は台湾社会内のマイノリティーにも顕著となった。先住民につけられていた「山胞」という呼称は「原住民」に変更され、漢族名しか認められていなかった戸籍登録に民族名を使用することも認められた(ただし、漢字表記による)。漢族の経済的利権を侵さない範囲内においてだが先住民の文化的復権が徐々に進められる傾向にあると言える。また、「本省人」と一括される中にも多数派の福佬系と少数派の客家系とがいる。閩南語=台湾語とする風潮に対し客家系は「福佬中心主義」と批判、客家語保存の運動も進められている。

 いずれにせよ、政治面では本省人と外省人の対立関係が際立ちつつ、文化面ではマイノリティーとの共存、社会的多元性を確保しようという二つの傾向がある。ただし一方で、これは国民党による上からの「中国化」政策が成功したので、その行き過ぎ是正という側面もあると指摘される。

 1996年、初の総統直接選挙が実施され、李登輝が圧勝した。中国のミサイル演習という恫喝はかえって本省人の意識を高め、民進党支持層からも李登輝に票が流れたのである。この時点で、地方議会から国家元首たる総統に至るまですべての役職が選挙によって選ばれる民主体制が台湾において完成した。著者はこれを「中華民国第二共和制」の出発点と位置づける。台湾ナショナリズムが求めた「台湾共和国」は出現しておらず、依然として「中華民国」(これは「一つの中国」が大前提)のままだが、民主的選挙によって政治権力の正統性が基礎づけられるようになったという質的な変化に注目した呼び方である。ただし、ここにおいて台湾というレベルで形成された「選挙共同体」がこのままネイションとして定着するかどうかは未知数であり、その意味で台湾は「変容し躊躇する」状態にあるとまとめている。

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2007年10月16日 (火)

「童年往時──時の流れ」

「童年往時──時の流れ」

 侯孝賢(ホウ・シャオシエン)自身の少年時代を振り返った自伝的な色彩の強い映画である。

 国民党政権の移転に伴って台湾にやって来た人々の暮らす地域を眷村という。彼らには、引き揚げた日本人の家屋があてがわれた。実は侯孝賢の父親も広東省から来た教育庁勤務の公務員で、侯孝賢自身もまた1947年に広東省で生まれている。その点では外省人だが、大陸にいたのはほんの赤ん坊だった頃で、生活感覚は台湾人そのものだという。彼の映画には日本式家屋がよく出てくるが、眷村で育ったという生い立ちによるところも大きいのかもしれない。

 幼い日々、“阿孝(アハ)”と呼んでかわいがってくれたおばあさんはいつも大陸をなつかしがっていた。彼女は客家の出身。道を尋ねても言葉が通じないシーンがあるし、そもそも“孝”は普通話では“シャオ”であり、“ハ”は客家語の発音らしい。字幕で観ている分にはよくわからないが、こうしたあたりにも家庭内においてすら言語的な分裂があったことが示されているようだ。

 阿孝の家には粗末な家具しかない。いずれ大陸に戻るつもりだったので、いつでも処分できるよう安物しか父が買わせなかったのだという。長引いた仮住まいの果てに、望郷の念を抱えたまま父、母、そして祖母が寂しく死んでいく姿を少年阿孝はじっと見つめる。

 中共のミグ戦闘機撃墜!というラジオニュース。大陸に残った親戚が文化大革命でひどい目に遭っていることを伝える手紙。子供たちのふざけあいの中でも使われる「大陸反攻」という言葉。時代の緊迫した空気は日常生活の中にも伝わってきている。しかし、政治とは異なるところで抱え込んだ思い、そうした機微を包み込むように穏やかな映像にはしんみりと感じ入る。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:侯孝賢、朱天文
1985年/台湾/138分

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2007年10月15日 (月)

台湾映画の背景を簡単に

 戸張東夫・寥金鳳・陳儒修『台湾映画のすべて』(丸善ブックス、2006年)を参考にしながら、台湾映画の歴史的な背景を大雑把にまとめてみる。

 台湾での映画製作の中心を担ったのは中央電影事業公司(略称、中影)で、国民党が経営してきた。成立当初は反共イデオロギーが濃厚で、娯楽性に乏しかった。また、中華民国としての正統性を主張しなければならないため標準中国語が使用された。当然ながら、台湾語しか分からない大半の本省人からは不評で、民間会社の作る台湾語映画が人気を集めたという。

 1960年代に入ると台湾も高度経済成長の軌道に乗り、他方、中国本土は文化大革命の混乱にあったため、反共宣伝映画は時代の雰囲気にそぐわなくなった。そこで中影はイデオロギー色の薄められた“健康写実映画”を作り始め、好評を博する。同時に、民間映画会社の製作本数もこの頃から急激に増加した。

 1970年代は台湾の国際環境が厳しくなった時期であり、それは映画製作にも微妙な影響を及ぼした。1971年に国連代表権が国民政府から中華人民共和国に移り、72年にニクソン訪中、同年、日中国交樹立により国府は日本と断行、さらに79年には米中国交樹立といった事態が続き、台湾は国際的な孤立感を深めていた。こうした中、中影は抗日愛国映画を積極的に作り始める。台湾を孤立化に追い込んだきっかけを生み出したのはニクソンとキッシンジャーであるにも拘わらず、なぜ抗日なのか? アメリカは中共に接近しつつも、依然として台湾にとっては最大の庇護者である事実にかわりはない。従って、反米は御法度である。そこで、この怒りの矛先を身代わりに日本へぶつけたのだという。また、国民党は日本と戦わなかったと中共が宣伝していたため、それへの反駁という意味合いもあった。

 ニクソン訪中後の動揺のさなか、父から権力をバトンタッチされた蒋経国は、政情安定化のため台湾化・漸進的自由化政策へと舵を切った。一方、路線転換には保守派の反発も強く、国民党に批判的な人々に対する白色テロ事件が続発するなど不穏な空気も出てきた。こうした中、中影は改革路線に合わせて新たな映画作りに意欲を示し、1980年代になって侯孝賢や楊徳昌(エドワード・ヤン)をはじめ新人が思い切って起用された。彼らはありふれた生活光景や少年の日の思い出など人生の機微を描き出す文芸的な作風が特徴的で、国際的にも高い評価を得た。こうした一連の作品群は台湾ニューシネマと呼ばれた。

 1987年、ようやく戒厳令が解除され、翌88年には蒋経国総統が死去。副総統から昇格した李登輝の下、民主化改革はより一層の進展をみせた。こうした中で、侯孝賢「悲情城市」(1989年)、楊徳昌「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)など、政治的・社会的問題を正面から取り上げた作品も登場するようになった。

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2007年10月14日 (日)

「悲情城市」

「悲情城市」

 タイトルを直訳すると、“悲しみの街”。台北の北郊、九份という街に暮らすある四兄弟を軸に、日本の敗戦から中国国民党の台湾移転に至るまでの激動期、とりわけ二・二八事件に翻弄される台湾の姿を描き出した映画である。台湾現代史を考える上で逸することのできない記念碑的作品であろう。

 “玉音放送”が流れる中、長兄の文雄の家は出産騒ぎでてんてこまい。生まれた子には“光明”と名づけられるが、この一家に降りかかる運命は実に過酷である。文雄の末弟、文清は子供の頃の病気で耳が聴こえなくなっていた。三男の文良は日本軍に協力した容疑で逮捕、拷問を受けて気がふれてしまう。次男は南方に出征したまま帰ってこない。そして文雄もヤクザの抗争で殺されてしまう。

 日本の敗戦後、カイロ宣言に基づいて台湾は中国に返還されることになっていた。蒋介石は日本留学経験のある陸軍大将・陳儀を台湾省接収のために派遣。ただし、共産党に備えるため精鋭は大陸に残さねばならず、台湾に送り込まれた部隊はかなり質が低かったらしい。国民党には「台湾人は日本によって奴隷化教育を受けている」という侮蔑意識があり、何よりも腐敗体質が根深く、当初は歓迎ムードだった台湾の人々の間には失望感が大きいだけに不満が高まっていた。そうした事情はこの映画の中でかわされる会話のはしばしから窺われる。

 1947年2月27日、台北の街角で密輸タバコを売っていた女性が警官に殴られるという事件がおこった。国民党政権の収奪的政策によって生じた物資不足、何よりも党幹部の腐敗はそのままにして、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか。目撃した人々が憤激して騒ぎ始め、怯えた警官は発砲、一人が即死してしまう。翌28日、専売局が焼き討ちされたのをきっかけに政治的な抗議デモに急展開する。憲兵隊が機関銃掃射して多数の死傷者を出したため、抗議行動は台湾全土に波及した。三月に入って中国本土から完全武装した増援部隊が上陸し、実力行使で鎮圧されることになる。この一ヶ月間でおよそ2万8千人が命を落としたとされ、とりわけ国民党に批判的な台湾土着の知識層(その多くは日本統治時代に教育を受けていた)が多数処刑され、もしくは行方不明になったという。この二・二八事件により、本省人と外省人の対立、いわゆる“省籍矛盾”は決定的となってしまった。

 本省人だけが殺されたわけではない。一家の四男・文清(トニー・レオン)が友人の安否を確かめに台北に行くシーンがある。棍棒を手にした本省人グループから「あなたはどこから来ましたか」と日本語で尋ねられた。本省人なら日本語ができる。できなければ外省人だ、というわけだ。文清は口がきけない。辛うじて「僕は台湾人だ」と声を絞り出すが、イントネーションがおかしい。外省人だぞ、やっちまえ!とばかりにリンチにかけられそうになったまさにその時、友人が通りかかって難を逃れる。日本の植民地統治、台湾人、中国人のデリケートな関係が凝縮されたエピソードである。

 こうした台湾の言語的分裂を示すシーンは他にもある。対日協力容疑で国民党に逮捕された文良を釈放してもらうため、文雄は上海から来たマフィアに仲介を依頼しようとした。その際、文雄は閩南語を使うが、これをいったん広東語に訳し、さらに上海語に訳し直さねばならない。これもまた、台湾の一般民衆が中国本土と一体感を持ちづらいところが端的に表わされている。

 激動の時代を舞台としてはいるが、暴力性を露わにしたシーンは少ない。侯孝賢の叙情性すら感じさせる静けさを湛えた映像構成は、それがかえって物語の背景をなす緊迫感を浮き彫りにしている。

 「悲情城市」が製作されたのは1989年。蒋介石が台湾に上陸して以来四十年にもわたって続いた戒厳令は1987年に解除されている。その翌年、1988年には蒋経国が死去、李登輝が総統に就任して民主化政策が徐々に軌道に乗りつつあった。二・二八事件の犠牲者に対して李登輝が国家元首として公式に謝罪したのは1995年のことである。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:呉念真、侯孝賢
1989年/台湾/159分

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