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2007年9月30日 - 2007年10月6日

2007年10月 6日 (土)

適当に町歩き本

 町歩きが好きだ。金はなくともヒマはある人間にとって最適の娯楽である。

 私が町歩きの味を覚えたのは学生の頃。大学の授業から全く興味がうせて、キャンパスを出てふらつき始めたのがきっかけだった。霞ヶ関を通りかかったとき、警官に呼び止められて身分証明やら何やらとソフトな口調ながらネチネチと尋問されたのもなつかしい。Gパンにパーカーという場にそぐわない服装でキョロキョロしながら歩いていたので、“運動”系の学生と思われたようだ。“運動”といっても体育会ではありませんよ。

 赤瀬川原平・編『路上観察学入門』(ちくま文庫、1993年)は私にとってバイブルのような本だ(ちょっと大げさか)。路上観察学のルーツは今和次郎の考現学までさかのぼれるらしいが、直接のきっかけはトマソン探し。

 現代美術の展覧会に行くと、たとえば電柱やら郵便ポストやらが展示品としてなぜか唐突にデーンと鎮座していたりする。マルセル・デュシャンが便座をひっくりかえして出品した「泉」がそうした“作風”の嚆矢として知られている。“芸術”なるものの虚構性に対してデュシャンが放った痛烈なパンチだったわけだが、この“反”芸術がいつしか現代芸術のスタンダードとなってしまった。赤瀬川たちが町を歩きながら、「ここに現代芸術があるぞ」「あっ、あそこにも現代芸術が!」と“現代芸術ごっこ”をやっているうちに“発見”されたのが「四谷の純粋階段」。階段としての機能は果たすのだが、何のためにここにあるのか分からない。そういった町中にある、意図不明だが風格のあるもの、面白いものを赤瀬川たちはトマソンと呼んだ。

 ちなみにトマソンとは、助っ人として来日したが芳しい成績を残せなかったアメリカ人プロ野球選手の名前に由来するという。後姿に漂う哀愁が何ともいえずよかったそうな。赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987年)を参照のこと。路上観察学会メンバーが撮り集めたトマソン物件の集大成『トマソン大図鑑』(空の巻・無の巻、ちくま文庫、1996年)もすばらしい。私自身にはトマソン探知のセンサーがないのでこれを眺めて楽しんでいる。

 路上観察学会メンバーでもある藤森照信『建築探偵の冒険 東京篇』(ちくま文庫、1989年)もはずせない。古めの商店街などを歩くと、藤森の指摘する“看板建築”は今でも割合と見かける。主に関東大震災後に普及したらしいが、銅製の装飾板が緑青にまみれてなかなか味わい深い風格がある。藤森照信・荒俣宏『東京路上博物誌』(鹿島出版会、1987年)は、異様で不可思議な面白さのあるスポットが東京にもたくさんあるのを教えてくれた。とりわけ伊東忠太の妖怪図像をモチーフにあしらった建築装飾に興味を持った。築地本願寺、大倉集古館、一橋大学の兼松講堂などで知られる建築家である。

 川本三郎の町歩きエッセーも好きだ。とりあえずいま手元には『私の東京町歩き』(ちくま文庫、1998年)、『我もまた渚を枕に──東京近郊ひとり旅』(晶文社、2004年)、『東京の空の下、今日も町歩き』(ちくま文庫、2006年)があるが、まだ読んでないのも結構ある。『東京人』連載のエッセーを中心にまとめられている。

 商店街をぶらぶら歩き、古本屋をのぞき、夕方ともなれば酒場にもぐりこんでビールを飲み干す、といった描写が続く。特に起伏のある文章ではない。が、さり気なく引っ張り出してくる博識が心にくい。東京近辺でもビジネスホテルや旅館に泊まって町歩きをするというのは、発想すらしていなかった。見慣れたつもりの東京でも、普段降りることのない駅で下車したり、歩く時間帯を変えたりするだけでもまた違った表情が見えてきそうで面白そう。

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2007年10月 4日 (木)

坂本多加雄『市場・道徳・秩序』

坂本多加雄『市場・道徳・秩序』(ちくま学芸文庫、2007年)

 本書は福沢諭吉、徳富蘇峰、中江兆民、幸徳秋水の四人の言説に焦点を合わせ、近代的社会観、具体的に言うと市場システム及びその担い手としての個人=“市民”という考え方を日本は如何に受容したのかを検討する。

 一昔前の日本近代思想の研究書を図書館であさってみると、西欧近代を基準として日本の個々の思想家を後知恵的に位置づけるという構図を取るものが目立つ。たとえば、幸徳秋水を論じるにしても、権力に反対したのは評価できる、しかしマルクス理解には限界があった、という感じに。しかしながら、一見“西欧近代”的なキーワードを明治期日本人が使っていたとしても、その理解のあり方には彼らなりのバックボーンを踏まえての読み込みがあったはずだ。彼らの解釈の足場となっている伝統的な思考方法を明らかにすることで、逆に西欧もまた西欧なりに踏まえている伝統的な側面を相対的に浮かび上がらせることができる、そうした意欲的な切り口も本書の特色である。

 福沢の思想は端的には「独立自尊」とまとめられる。経済的に誰かに依存していると、その慮りで自由に自分の意見を言えなくなってしまう。従って、自らの独立を確保するためにも自前の生計手段を持たねばならない。「一毫も貸さず、一毫も借らず」という形で独立した個人が“市場”という相互応酬的な関係を通して並立的に結びつくのが一番良いというのが福沢の考え方である。しかし、これは没情誼的で冷たい人間関係だと快く思わない人からの批判も根強かった。

 徳富蘇峰もまた福沢と同様に独立した個人が並立的に結びつくという社会モデルを肯定するが、その一方で人間が私利私欲に走らないよう人格養成をせねばならないと言う。つまり、“市場”の前提として“自律”という道徳問題が出てくると蘇峰は考えていた。

 政治的民主主義という点で個人はどのように位置づけられるのか。西欧における共和主義の源流は古代ギリシアのポリスに求められる。それは、生活上の必要を充足する基礎的な活動は奴隷に任せ、そうした労苦から解放された人々が公共的な活動に参加するという身分格差を前提としたものだった。生きるための具体的・“動物的”な問題に惑わされず、自身に直結した利害から離れた立場で考えることが公共性の条件とみなされていたのである。近代における政治的民主主義の進展とは公共的な意思決定への参加者を全国民レベルまで広げていくことであり、それはすなわち選挙権の拡大を意味したが、初期段階において財産資格が要件とされたのはこうした背景があった。

 これを本書の文脈で整理すると、民主主義の前提として個人の独立性=「独立自尊」を担保するための財産的基礎をどのように位置づけるかという問題意識につながり、福沢の回答は、各自が自前の生計手段を持てということだった。

 中江兆民にしても、その精神的後継者たる幸徳秋水にしても、政治過程への参加者のモデルとして伝統的な「士君子」の人物像を想定していた。つまり、私利私欲を排して「真理」を求める自己犠牲的な高潔さを当然のこととしており、それはポリスにおける貴族のイメージと幾分か重なってくる。

 ところで兆民は第一回帝国議会に代議士として出席したが、民党の議員が政府の買収によってもろくも切り崩されるのを目の当たりにして憤激し、辞職する。その後、兆民は実業に手を出してこちらも失敗してしまうが、生計を立てるための財産問題がクリアされない限り政治活動もままならないという自覚が彼の切実な問題意識として見えてくる。

 幸徳秋水の思想は「志士仁人の社会主義」という表現で特徴付けられることからもうかがえるように、平民主義的な目的意識の一方で、彼自身の自己規定としてはノブレス・オブリージュとも言うべき貴族的道徳意識も強い。私利私欲を離れて社会に奉仕するエリート=“武士”的な矜持を守り、その自覚を全国民的に広げるためには、まず生活基盤において公正な分配が行われなければならない。そのための社会主義ということになる。同時に、福沢が主張しているような没情誼的な市場社会への批判も強く、家族的な情愛の関係を回復することも社会主義の目的となる。ここには、西欧の社会主義者が究極の未来に想定していた牧歌的なユートピアへの夢想とも共通点が見出される。

 本書のオリジナルは1991年に創文社から刊行され、サントリー学芸賞と日経・経済図書文化賞をダブル受賞している。明治思想史として秀逸であるばかりでなく、個人と公共性との関わり方という政治哲学の基本的なテーマを近代日本思想の文脈において論じきったこの名著が文庫本という形で入手しやすくなったのはとてもありがたい。

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2007年10月 2日 (火)

岡本太郎『美の呪力』

 私は岡本太郎の芸術作品については正直なところ、よく分からない。だが、彼の文章は好きだ。読み手の気持ちを鼓舞してくれる明確な強さがある。

 分からない、と言いつつも、好きな絵はある。川崎市の生田にある岡本太郎美術館で見かけた作品で、タイトルは「夜」。魑魅魍魎が蠢くような暗闇を前にして、反り返るように胸を張った少女の後姿。背後に回した手にはナイフが握られている。か弱き存在、しかし圧倒されまいと決然とした横顔の凛々しさ。横尾忠則もこの絵が好きらしく、隣には太郎へのオマージュとして「夜」を横尾なりにアレンジした作品が並べられていた。

 私がまだ小さい頃、太郎がピアノの前で「芸術は爆発だ!」と叫ぶテレビCMの印象が非常に強烈だった。ある意味、太郎の芸術観が端的に表われてはいる。しかしながら、良くも悪くも、“すごい芸術家なんだろうけど変な人”というイメージが世間的に定着してしまったように思われる。

 私が岡本太郎に対して抱いているイメージはちょっと違う。あのまっすぐに突き進む純粋なエネルギーは他の誰よりも凛々しい。

 岡本太郎『美の呪力』(新潮文庫、2004年)にある次の一節が私は大好きで、気持ちが落ち込んだとき、壁にぶつかってめげそうなとき、そのたびに読み上げる。時には涙すら目ににじむ。

…私が実感としていつも感じるのは、人間生命の根源に、何かが燃えつづけている。誰でもが、いのちの暗闇に火を抱えているということだ。そのような運命の火自体が暗いものである。

私は先ほどから、燃えあがる外側の「火」について話してきた。だがどうしてもここで、内的な火、その異様な生命的センセーションについて言わなければならない。それは生きるもの、誰でもが感じている神秘感だと思う。その火がゆらぎ、危機にさらされるとき、人は、“いのち”を実感する。
 しかし、聖火を抱く者は少ない。不断にそれを身の内に強烈につかんでいる者。そうでない者。それを運命として、「神聖なる火」として、抱いている人、そうでない人間がいるのだ。
 純粋な人間は子供ときから身の内側に燃えつづける火の辛さに耐えなければならない。その火の故に孤独である。暗い。それが聖だからこそ、冒される予感におびえる。純粋に燃えているにかかわらず、火を抱いているということは不安であり、一種の無力感なのだ。
 青春期、はじめて人生に踏み込んで、ひたすら運命に身をぶつけようとする。だが、その情熱に対して、社会は必ず拒絶的なのだ。
 「お前なんか駄目だ」……「ああ、その通りです」と頭を下げてしまえば、それで済んでしまう。だが、「違う!」。叫ぶ。炎は一段と燃えさかる。
 燃えあがるのは辛い。絶望的なのだ。
 暗い炎。この世に生れるとき、あるいはもっと遠い過去の暗闇のなかで、それに誓いをたてたのだ。──いつ、──何を、誓ったのか、知らない。ただその誓いによってこそ炎が燃えあがるということしか知らないのだ。
 だが、この聖なる火。もてあましながら、しかし守りつづけ、抱えて行かなければならない。
 だからこそ人間の運命、その火なのだ。もしそれが、間違いなく燃えさかる権威的な「聖なる天上の火」であるのなら、逆にあの暗く言いようのない神聖感はあり得ないはずである。
 しかし、ある日、炎の意味を悟る。この社会の惰性、卑しさに対して、「否(いな)」というべきなのだと。絶望的に模索していた生身のまわり、偽りの皮がメリメリとはがれはじめるのだ。心の内なる炎が突然、殻を突き破り、総身にメタモルフォーゼし、世界に躍り出る。そして否を叫び続ける。世界・宇宙全体が炎に還元する。その激しい姿は当然、他からは「犯す者」として映るだろう。
(本書、185~188ページ)

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2007年10月 1日 (月)

「包帯クラブ」

 “心”の傷に包帯を巻きます。そんな活動を始めた高校生たちの、見えそうで見えない心の機微を描き出した物語。原作は天童荒太(ちくまプリマーブックス、2006年)。大ベストセラーとなった『永遠の仔』(幻冬舎文庫)にしてもそうだが、ストーリー立てがうまいというだけでなく、人の“心”の問題に分け入るテーマ設定は感情移入がしやすいのだろう。ただし、何でもかんでもトラウマの問題にしてしまうのは、私などには少々違和感があるのだが。

 堤幸彦というと「TRICK」や「ケイゾク」の印象が強い。実験的なカメラワークで映像作りにとにかく凝っており、ナンセンスなシーンを随所に挿入して笑わせるあたりもおもしろかった。しかし、今回は割合とおとなしめな作り方。こういう叙情的な映像も作れるというのはちょっと驚いた。出だしのモノローグなどなかなか好きだ。

 原作では関東近県の架空の街となっているが、映画では高崎が舞台。以前、用事があって一度だけ行ったことがある。この映画と同様、からっ風が吹く寒い季節だった。少年少女の孤独な気持ちと、このどこか透明感すら漂う乾いた寒さとが私のイメージとして不思議に結びついて、観終わった後の印象は悪くない。

【データ】
監督:堤幸彦
出演:柳楽優弥、石原さとみ、貫地谷しほり、原田美枝子、他
2007年/118分
(2007年9月30日、新宿オスカーにて)

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2007年9月30日 (日)

ミャンマー(ビルマ)情勢の背景

 ミャンマー(ビルマ)情勢が緊迫している。僧侶のデモに対して発砲するなどという事態は敬虔な仏教国としては極めて異例なことである。また、日本人ジャーナリストが命を落としたが、9月28日現在での報道によると、治安部隊から狙い撃ちされた可能性が高いとのこと。これまでミャンマー(ビルマ)の軍事政権にあまかった日本政府も態度を変えざるを得ないだろう。

 ところで、ミャンマー(ビルマ)とまわりくどい表記をしたのにはわけがある。MyanmarもBurmaも語源的には同じらしいが、クーデターをおこした軍事政権が対外的な英語名を従来のBurmaからMyanmarに変えたという経緯があるため、軍事政権に批判的な人々は敢えてBurma=ビルマという呼称を用いている。国連でアメリカのブッシュ大統領がミャンマーへの制裁強化を求める演説をした際、Burmaと発音していた。とかく言い間違いの多いブッシュだが、今回ばかりはそうではない。軍事政権の正統性をアメリカは認めていないぞ、というニュアンスをほのめかしたものと解される。

 今回のデモの直接のきっかけはガソリンの値上げとのことだが、国内での生活はかなり厳しいらしい。田辺寿夫『ビルマ──「発展」のなかの人びと』(岩波新書、1996年)や田辺寿夫・根本敬『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(角川oneテーマ21、2003年)などによると、単に貧しいというだけでなく、強制労働に動員されたり、あるいは国軍が山岳地帯の少数民族武装ゲリラを討伐するにあたり住民を荷物運びとして徴発する“ポーター狩り”も行なわれている。地雷原を行軍する際に“ポーター”は盾代わりに先頭を歩かされるという。当然ながら、言論の自由はない。人々の間に密偵が紛れ込んでいるので、うかつに政治的な話題を出すことはできない。口には出さねど国中に鬱積してきた不満が今回一挙に噴き出したと言える。

 ビルマは19世紀にイギリスによって征服され、イギリス領インド帝国に併合された。山岳地方に暮らすカチン族やカレン族などの少数民族はキリスト教に改宗し、イギリスお得意の分割統治政策はビルマでも大きな力を発揮した。それは現在でも尾を引いている。第一次世界大戦の頃から独立運動が盛り上がり、とりわけ1930年代におこったサヤサンの反乱が知られている。1937年にはインドから分離され、ビルマ総督が置かれた。

 ビルマの独立運動において日本との関わりは浅くない。僧侶のウーオッタマ(1879~1939年)は日露戦争に大きな衝撃を受け、1907~12年にかけて3度、大谷光瑞の世話で来日している。また、植民地首相となったウーソオ(1900~48年)は、ビルマの自治領への格上げを求めてイギリスやアメリカを回ったものの芳しい成果が得られなかった。帰国途上、ホノルルに寄港したのが1941年12月7日(日本では8日)。日本軍の真珠湾攻撃を目の当たりにして日本との接触を試みるが、イギリス側に気付かれ逮捕、アフリカに抑留された。

 日本も戦略的観点からビルマに目を付けており、反英民族運動の中心的存在だったタキン党(われらビルマ人協会)に陸軍の鈴木敬司大佐が接触した。とりわけアウンサン(1915~47年)に注目、彼ら30人に軍事訓練をほどこし(この時の鈴木大佐を長とする組織が“南機関”である)、彼らを中核としてビルマ独立義勇軍が結成された。こうした経緯はボ・ミンガウン(田辺寿夫訳)『アウンサン将軍と三十人の志士──ビルマ独立義勇軍と日本』(中公新書、1990年)に詳しい。

 ビルマは日本軍の占領下で名目上の“独立”を宣言し、かつて植民地首相を務めた経験もあるバーモウ(1893~1977年)が首相、アウンサンが国防相に就任した。学生の頃、大東亜会議の出席者に興味を持って、バーモウの自伝(横堀洋一訳)『ビルマの夜明け』(太陽出版、1973年)に目を通したことがあるが、なかなかにしたたかな政治家だという印象があった。

 日本軍の敗色が濃くなると、アウンサンたちは反ファシスト人民自由連盟を結成し、抗日に転じた。イギリスとの協議の結果、独立が間近となったまさにその時、アフリカから帰国したウーソオの一派がアウンサンを暗殺してしまう。ウーソオはただちに逮捕され、処刑された。1948年、反ファシスト人民自由連盟のウヌーを初代首相としてビルマは正式に独立を果す。

 アウンサン亡き後は、三十人の志士たちの一人、ネウィンが軍隊を掌握し、1962年にクーデターをおこして1988年まで独裁体制を敷くことになる。ネウィンをはじめ国軍の幹部には日本と人脈的なつながりを持つ者が多いため、経済援助など日本政府との結びつきは強かった。なお、ビルマ国軍が軍艦行進曲を演奏することがトリビア的なエピソードとしてよく語られるが、国軍の基礎は日本軍の南機関によって作られたという歴史的な背景による。

 1988年、学生の些細ないざこざをきっかけに騒動となり、軍事政権に対する不満が一挙に爆発して大規模なデモに発展する。逮捕された学生が狭い車両に詰め込まれて窒息死するという事件もおこり、軍事政権への反発は倍加的に大きくなって、事態を収拾するのが難しくなった。ネウィン議長は辞任したものの、退任声明の中で混乱には実力行使で鎮圧すると言明。言葉通りに流血の事態が続き、国軍は国家法秩序回復評議会(SLORC)を設立、ソウマウンを議長として軍事政権の枠組みは維持された。この政権において国名はビルマからミャンマーへ、首都名はラングーンからヤンゴンへと変えられた(2006年にネピドーへ遷都)。

 SLORCは公約に従って1990年に総選挙を実施したが、アウンサンスーチーが指導する国民民主連盟(NLD)が議席の80%を占めて圧勝した。軍事政権側はこの選挙結果を無視してNLDを弾圧、アウンサンスーチーは自宅軟禁状態に置かれる。その後、SLORC議長はタンシュエに交代、1997年には国家平和発展評議会に改組された。2002年にアウンサンスーチーはいったん自宅軟禁状態を解かれたが、翌年、遊説中におこった襲撃事件で死傷者が出て、再び身柄を拘束された。さらに、NLDとの融和路線を進めていた穏健派のキンニュン首相が2004年に汚職容疑で逮捕され、失脚。代わった現在のソーウィン首相は2003年の襲撃事件の責任者だったと言われる。いずれにせよ、こうした経緯をたどって現在に至っている。

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