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2007年9月23日 - 2007年9月29日

2007年9月29日 (土)

御厨貴『馬場恒吾の面目』

御厨貴『馬場恒吾の面目──危機の時代のリベラリスト』(中央公論社、1997年)

 馬場恒吾(1875~1956年)は戦前から戦後にかけて、主に政治評論で健筆を振るったジャーナリストとして知られる。彼の論調を意地悪に見て、戦前は微温的、戦争中は表舞台から引っ込んでいただけ、戦後は吉田茂政権に協力した保守主義者というイメージで捉える向きもある。しかし、議会政治の擁護という点では一貫しており、戦前における右翼、戦後における左翼という両極論にぶれずに筋を通したあたりは、オールド・リベラリストとしての面目躍如たるものがある。

 本書は、馬場が『読売新聞』で政治コラムの執筆を始めた1932年以降に焦点がしぼられる。すでに齢五十七であった。この年には五・一五事件がおこっており、軍国主義の暗雲が日本中にたなびきつつある中、政党政治の再生を願って論陣を張った。彼のコラムはとりわけ政治家の人物評論として好評を博していた。政党政治の原理原則論から鋭利な批判を加えつつ、同時に政治家個人の人間味あふれる個性も描き出す筆致に魅力があった。しかしながら、言論そのものが制限される中で、1940年、コラムは終了。本書は馬場の政治評論を通して1930年代の政治状況を活写してくれる。

 戦争中は憲兵に監視され逼塞していた馬場だが、戦後は再び脚光を浴びることになる。戦後における馬場を論じた第七章のタイトルは「戦う民主主義者」。公職追放となった正力松太郎に代わって読売新聞社長に就任した馬場は読売争議に直面するが、左傾化著しい組合側の無茶な要求には一歩も引かず切り抜けた。

 友人だった正宗白鳥は馬場の追悼文の中でこの読売争議で彼の示した手際に言及し、かつての評論家的な傍観者から当事者へと跳躍したことへの驚きを漏らしている。言論の自由が軍部によってむざむざと奪われたことへの無念の思いがバネとして働いたのだろう。なお、正宗は『読売新聞』で文壇人物評論を執筆していたことがあり、馬場の政界人物評論と共によく読まれていた。

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2007年9月28日 (金)

近藤ようこの作品

 近藤ようこの漫画作品を初めて読んだのはいつ頃だったろうか。確か『見晴らしガ丘にて』(ちくま文庫、1994年)だったと思う。母親の本棚にあった。私の母は離婚した後、幼い私を連れて祖父母の家に住んでいた。近藤の作品には、事情を抱えた娘と母親との葛藤をテーマとしたものが多い。当時の私は深くは考えてはいなかったが、最近になって改めて近藤作品を読んでみると、母が様々な気持ちを重ね合わせていたであろうことに思い当たるシーンが時折あり、今さらながらに感慨をもよおす。

 松岡錠司監督「アカシアの道」(2001年)という映画を観たことがある。主演の夏川結衣が好きだったので観に行ったのだが、この映画の原作者が近藤ようこだった(青林工藝舎、2000年)。アルツハイマーの母と、その母に対して複雑な想いを抱えた娘とを描いていた。この前話をなす『HORIZON BLUE』(青林工藝舎、1990年)は、母親から愛されていないと思い込んだ娘が、その葛藤の激しさのあまり親子関係、姉妹関係、夫婦関係を崩してしまい、そして自らの娘をも虐待してしまう心理的機微を細やかに描き出している。

 『鋼の娘』(祥伝社、2002年)もやはり母の呪縛に苛まされる娘が主人公。いずれの作品でも、自分の抱えている問題は他ならぬ母親自身もまた苦しんでいた問題であったことに気付き、たとえそうした葛藤は終わらないにせよ、少なくとも受け入れていく可能性がほのめかされているところに救いがある。

 『兄帰る』(小学館、2006年)という作品は好きだ。ある日突然、失踪してしまった男が交通事故で死んだ。婚約者を、兄を、息子を失った人々が、彼は何を思って失踪したのかという戸惑いの中、その足跡をたどる。不本意な人生と決め付け、嘆きたくなることもある。人はそれぞれのしがらみに絡め取られながら生きているが、理由探しをして断罪してもそれで問題が終わるわけではない。あきらめということとは違う。たとえ許せなくとも、自らに否応なくまとわりつくしがらみを直視し、受け入れながら今を生きていくことは十分にできる、そんなことを考えながら読んだ。

 他人がそれぞれに心に痛みを抱えながら生きていることは意外に分からない。むしろ、分かったようなつもりになっているぶしつけな善意は、その無理解ゆえの落差に愕然とすることがある。『移り気本気』(青林工藝舎、2005年)は全11話、オムニバス形式の短編集。前作で端役として登場した人に次作で焦点が合わせられるという形でチェーン状につながっている。様々な人物を交錯させることで、傍目にはさり気なくとも他ならぬ当人にとっては切実な葛藤がよく浮かび上がっており、この作品も結構好きだ。

 『アネモネ駅』(青林工藝舎、1998年)も日常における感情の機微をたくみにすくい取った短編集でなかなか良い。

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2007年9月27日 (木)

藤村安芸子『石原莞爾──愛と最終戦争』

藤村安芸子『石原莞爾──愛と最終戦争』(講談社、2007年)

 政治史・軍事史などキナ臭い関心から取り上げられることの多い石原莞爾だが、本書はむしろ感性的なレベルから彼の内在的な思索に迫ろうと試みている。かなり抽象的な論考で、文章がこなれている割には必ずしも読みやすくはないが、独特な石原莞爾イメージをつくり出しているのは新鮮に感じた。

 キーワードは“へだて”と“かかわり”、そして“結びつき”ということになるのだろうか。男女という個人的なレベルであっても、対米関係という世界史的なレベルであっても、互いの間に深い溝が横たわっている。そして、現世において究極的にはなかなか感得できない“真理”の世界。そういった“へだて”を乗り越えようとするところに人間の本質がある。

 その乗り越えるという努力の根源的な表われとして石原は戦争を捉えているのだという。無論、戦争という悲惨事は避けるにこしたことはない。しかし、悲しいことに人間というのは不完全な存在で、抽象的にではなく、具体的に身を以て訴えかける形でなければ何も分からない。つまり、一対一での全力を尽くした戦いを通してこそ、互いの“結びつき”の契機が現われる。この積み重ねによって、日本は天皇を中心にまとまり、最終戦争を通してやがて世界は一つとなる。同時に戦いは、目に見えて手で触れられるものしか理解しようとしない我々が、死力を尽くして自らの身を投げ出すことで“超越”へと迫るきっかけともなる。

 つまり、石原が一貫して求めていたのは、他者との“かかわり”、そして絶対的な真理との“かかわり”のあり方であって、“戦争”はその不可避的な手段として位置づけられていたという。

 地図=大地を歩くイメージや妻・銻の存在をクローズアップしたあたりにも本書の特色がある。どこまで説得力を持つのかにわかには判断しかねるが、少なくとも石原莞爾という人物について多面的な読みの可能性を開いた点では興味深い作品だと受け止めている。

 「再発見日本の哲学」(菅野覚明・熊野純彦責任編集)というシリーズの一冊だが、他にも廣松渉、大森荘蔵、小林秀雄、折口信夫、北一輝、平田篤胤など私自身興味を持っている魅力的な人物がラインナップに並んでおり、楽しみにしている。

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2007年9月26日 (水)

写真集をネタにとりとめなく雑談

 昼休み、少し足をのばして銀座コアのブックファーストへ行った。店舗面積はそれほど広いわけではないが、美術書のコーナーが見やすく充実しているのでよく立ち寄る。例のごとく、写真集を立ち見。

 “傷”をテーマとした写真集2冊が正面に面陳されていた。1冊は、石内都『Innocence』(赤々舎、2007年)。モノクロームで撮影された手術痕、切り傷、ケロイド──。体に刻印された傷そのものに人それぞれの生のありようを見つめていく。以前、竹橋の国立近代美術館だったと思うが、石内の写真展を見た覚えがある。その時以来、この“傷”シリーズは気になっていた。

 もう一冊、岡田敦『I am』(赤々舎、2007年)はリストカットした男女の裸体を様々なアングルから写しだす。意外と落ち着いた表情と、内腕に刻まれた無数の切り傷の痛々しさとのギャップが印象にやきつく。女性の局部などもありのままに写っているのだが、芸術的意図があれば倫理規定はクリアできるのか?

 今年に入って、大山顕・石井哲『工場萌え』(東京書籍、2007年)をはじめ、産業もの写真集が相次いで刊行されたのが目立った。萌えるかどうかは別として、複雑に配管のめぐらされたメカニックな立ち姿はそれぞれに個性的で、意外と目を引付ける。サルマル・ヒデキ『東京鉄塔』(自由国民社、2007年)も風情があっていい。歩調を合わせたかのように銀林みのる『鉄塔武蔵野線』(ソフトバンク文庫、2007年)が復刊されていた。他にも、萩原雅紀『ダム』(メディアファクトリー、2007年)、佐藤淳一『恋する水門』(ビー・エヌ・エス新社、2007年)など、普段は意識しないだけに、一つのテーマとして打ち出して並べられるととても面白い。

 小林伸一郎『最終工場』(マガジンハウス、2007年)は日本の経済発展を支えてきた末に用済みとなった工場の姿を写している。こうした廃墟の風景に私は非常に引付けられる。そういえば、小林も含め何人もの写真家たちが長崎の軍艦島をテーマとした写真集を出しているな。

 NHKで夜中に放映している「サラリーマンNEO」を時々見ることがある。脱力的なコメディーで、あまり笑えないのだが、なぜか習慣的に見てしまう。この番組で最近、「サラリーマン体操」という奇妙なパントマイムをやっている。これを踊っているコンドルズというグループの公演シーンを集めた『第2ボタン コンドルズ写真集』(扶桑社、2007年)、およびリーダーを被写体とした野村佐紀子写真集『近藤良平』の2冊を見かけた。なんか妙な人たちだなあと思っていたのだが、意外にすごいダンス・グループだったんですね。

 以上、すべて立ち見です。書店の方、申し訳ございませんでした。夕暮れの雲に映えた色合いが好きなので、鷹野晃『東京夕暮れ』(淡交社、2007年)だけ購入しましたので、お許しください。

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2007年9月25日 (火)

「tokyo.sora」

 通勤などでいつも使う電車に乗っていたときのこと。電車が高架路線にさしかかると、空間が開け、空がとても広々と感じられる。ある夕暮れどき、新宿の高層ビル群を遠景に雲が薄紫色に染まっているのを見て、心底、美しいと思ったことがある。地方に行けば星空の美しさに感じ入ることもあるが、そういうのとは違う。普段、ささくれ立った気持ちを抱えて地にはいつくばりながら、屋根のすき間、ビルの谷間から狭い空を見上げることはあっても、たいした感懐はわかない。しかし同じ空なのに、自分のそうした日常を大きくくるむように広がっていて、ほんの一瞬ではあっても美しいと胸に迫ってくることがあり得る。そのことが胸を締め付けるように響いた。気が滅入っていて、感傷にふけりたい精神状態だったのだろうが。

 「tokyo.sora」は東京に暮らす六人の女性たちの姿を描いた映画である。それぞれに孤独な彼女たちは、互いに微妙な距離ですれ違い合いながら、ひっそりと自らの想いを秘めて、この巨大な迷路のような街の片隅に暮らしている。

 話題の展開はセリフでは示されない。会話のシーンもあるのだが、それ自体としては意味を持たず、風景の中にとけこんでいる。彼女たちの生活光景そのものをパッチワークしながら、いわば映像抒情詩とも言うべき形で、東京という都市が一面において持つ切ない息遣いを静かに浮かび上がらせている。

 ほこりっぽい高架下の通路、古い木造アパートの六畳間、洗濯機のうなり声がうるさいコインランドリー、ランジェリー・パブの楽屋代わりに使われている裏階段──。そういった生活光景のディテールを積み重ねて醸し出される情感が私は好きだ。

 そして時折、間奏曲のように空が映し出される。部屋の窓から見上げる狭い空。屋上から東京を広々と見渡す、その背景としての空。映画の進行に従って色合いも変化し、登場人物の心情と空の表情とがあたかも感応しあっているかのような錯覚にも陥る。

 何よりも素晴らしいのは、女性たち一人一人の表情の捉え方だ。もちろん、六人とも美しい、もしくはかわいらしい女性ばかりなのだが、そういうことではない。たとえば、中国人留学生の、言葉は伝わらないのだが自分に気づいてくれたときの嬉しそうなうなずき。美大生がデッサン・モデルの均整の取れた肢体に注ぐあこがれの眼差し。ランジェリー・パブでのバイトを掛け持ちする美容師見習いの、疲れたような、物事をあきらめてしまったかのような横顔。誰もが生活の中でふと見せることのある、感情のゆらめきが自然にかつ切迫して流れ出てきたがゆえの魅力的な表情というのは、それがたとえ憂いのこもったものであっても、確かにこうした美しさを帯びるのだろうと感じられた。

 私はこの映画が本当に好きで、折に触れて繰り返し観ている。なぜこれほどまでに強い思い入れを持つのか、スマートな言葉で表現できないのがもどかしく、悔しい。

【データ】
監督:石川寛
出演:本上まなみ、孫正華、仲村綾乃、高木郁乃、板谷由夏、井川遥、西島秀俊、香川照之、他。
2001年/127分
(2007年9月22日、DVDで)

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2007年9月24日 (月)

連休中の動静

 土曜日は朝から国会図書館につめて調べもの。ここでは、いかに効率的に時間を組み立ててコピーできるかが勝負。とにかく疲れた。退館する頃には、大量のコピーを前に、何やら一仕事終えたような錯覚に陥る。本当の作業はこれからなんだけどね。

 翌日曜日の朝。昨晩、というよりも今暁未明、布団に転がって本を読んでいたら、いつしか眠りに落ちていたようだ。寝返りをうつと腹のあたりに本のかたさを感じた。散らかった部屋を見回す。どうも気分が滅入っているようで、自分の人生の不毛をつくづく感じ始めた。こうなるとやばい。とにかく、居場所を変えたい。関東近郊温泉案内のムック本を引っ張り出し、パラパラとめくる。特に深い理由もなく、奥秩父の両神温泉という所に決めた。電話連絡したら宿も取れた。観光目的ではなく、何も考えずにボーっと取り留めなく読書したいと思い、リュックサックに7冊ばかり詰め込んで出発。

 まずは池袋へ。とりあえずジュンク堂書店、リブロと回っているうちにいつのまにか5冊買い込んでいた。合計12冊。半分は文庫本とはいえ、リュックの重みを背に受けて、何だか本の行商にでも行くような気分。

 12:30池袋発、西武秩父行きのレッドアロー号に乗車。車中で梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』(角川文庫、2007年)を読み終え、次に川本三郎『東京の空の下、今日も町歩き』(ちくま文庫、2006年)。先ほどリブロで買ったうちの1冊だ。何も考えずに手にとったのだが、そういえば、本を持って一泊小旅行というのは川本のエッセーを読んで触発されたことだったと今さらながらに思い出した。この本の出だしも青梅の一泊旅。今朝、行き先を考えていたとき、実は奥多摩方面という選択肢も検討していたのであった。川本の町歩きエッセイは、町の風景をつづりながら「そういえばこの作品にこんな描写があった」という感じに様々な文学作品や映画から縦横無尽に引用してくるのが魅力的で、いつも感心している。

 飯能でスイッチバック。後向きのまま山中の渓流沿いの風景が流れていくのも妙な気分だ。空はどんよりとした雲が立ち込め、小雨が降っている。「歩くぞ!」と意気込んでいたならばこうした雨雲は非常に厭わしく、できることなら吹き飛ばしてやりたいものだが、今回はとにかく宿でぼんやりしたいというのが目的なので気にならない。むしろ、雨の温泉というのも風情があってよさそうだ。

 13:45頃、西武秩父着。秩父鉄道に乗り換え、終点の三峰口へ。14:20くらいに到着。ここからバスに乗るのだが、あらかじめ調べておいた時刻表によると、次は15:26発車。時間つぶしがてら駅前のそば屋に入った。ハイキング姿、中年男女10人くらいのグループが盛り上がっていた。山菜そばを注文。中学生くらいの女の子二人が手伝っており、注文を取りにきた子にバス停の場所を尋ねた。夏帆を思わせる素朴にかわいい子だった。

 15:00ちょっと前くらいにバスが来た。発車まで30分ほどあるが、小雨が降っているので運転手さんに頼んで乗せてもらった。運転手さんはタバコでも吸いに降りていったが、ラジオをつけっぱなしにしてくれていた。ちょうど自民党総裁選開票作業の実況中継が流れており、福田康夫の名前が読み上げられた。まあ、順当な結果だろう。私は麻生太郎という人がどうにも好きになれない。安倍首相辞任前後のはしゃぎぶりは傍目にも非常に不愉快で、反麻生派の巻き返しに溜飲を下げた。何よりも、魚住昭『野中広務 差別と権力』(講談社文庫、2005年)を読み、麻生が野中の出自をとらえて人格中傷的な発言をしているのを知って、政策云々という以前に人間として信用できないという印象を受けていた。

 さて、行先は国民宿舎両神荘。最寄のバス停で降りて歩いていたら、なぜか唐突に巨大な中国風の建造物が目の前に現れた。あっけにとられて近寄ると「中国山西省友好記念館・神怡舘」となっている。埼玉県は山西省と姉妹都市連携をしているそうで、ここはその縁で建てられた山西省の風土や文物を紹介する博物館のようだ。350円払って入ると、施設そのものは割合と新しくて展示スペースはきれいに整っている。しかし、人影は皆無。山西省出身ということで関羽の立像があるのだが、その前にたくさんの小銭が置かれていた。どういうわけか中国では関羽は商売の神様とされており、横浜中華街の関帝廟でもお賽銭を投げた覚えがある。こんな所まで華僑の人たちが来るのだろうか。それにしても、意図のよく分からぬ妙な施設だ。

 で、このお隣が両神荘。部屋に荷物を置いてから、早速、温泉につかった。効能はよく分からないが、露天風呂が目玉。檜の屋根と塀に仕切られた浴場、すぐ脇では深く切れ込んだ渓流が水音をたてている。小雨がシトシトと降っており、屋根に垂れる雨音と、崖際の木の葉のサワサワいう音とが不思議と静寂な雰囲気を醸し出す。ひんやりとした空気が火照った体に心地よい。

 ロビーに行くと本棚があった。学研の学習マンガ「○○のひみつ」シリーズが30冊ほど並んでいる。手にとってパラパラめくると、実になつかしい。沢木耕太郎『深夜特急』など旅先ではうってつけの読み物だが、高橋和巳、ポール・ニザン著作集、『チボー家の人々』というのは果たして読む人がいるのだろうか。なぜか羽仁五郎『都市の論理』なんてのもある。昔はやったらしいが、今では古本屋でもゾッキ本扱い、1冊100円でも売れない。

 夕食は19:00からなので、それまで部屋に戻ってまったり。梨木香歩『ぐるりのこと』(新潮文庫、2007年)を読み終え、『西の魔女が死んだ』(新潮文庫、2001年)を手に取った。

 定刻になって食堂へ移動。見回すと、50~60人くらいは来ているだろうか。家族連れか熟年夫婦がほとんど。子供か中高年ばかりで、私の同世代などいない。夕食はそこそこ。宿泊費・朝夕二食・入湯料込みで約1万円なので、少なくとも不満はない。ビールを飲み、日本酒は好きではないのだがせっかくなので地酒も一合飲んだ。哲学書や社会科学書もリュックに放り込んできたのだが、こうなるともう難しい本は読めない。歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫、2007年)を読み始めた。今朝、リブロの文庫コーナーを物色していたとき、「2004年度このミス1位」という謳い文句で買った本だ。

 酔いがさめてきたら本をおき、窓から入ってくる秋の涼風に身をゆだね、思いつくよしなしごとをノートに書き留めつつ、いつしかまどろみの中に意識は消えていった。

 翌朝6:00起床。そそくさと露天風呂に行ったら、すでに先客は3,4人ほど来ていた。9:30にチェックアウト、西武秩父駅直通のバスに乗る。10:25発のレッドアロー号で11:50頃に池袋到着。宿泊費・交通費等ひっくるめて1万5千円前後で行けるので、気分転換には手頃な方法であることを確認できた。

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