« 2007年9月9日 - 2007年9月15日 | トップページ | 2007年9月23日 - 2007年9月29日 »

2007年9月16日 - 2007年9月22日

2007年9月20日 (木)

ジグムント・バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』

ジグムント・バウマン(中島道男他訳)『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)

 社会全体を束ねる国家目標に向けて人々を動員するという考え方がもはや時代錯誤であることは、今現在生きている我々にとって当然のごとく皮膚感覚にまでしみわたっている。“国家”という呪縛から解放された戦後日本においては、天下国家のためでなく自分自身のために生きること、そうした意味での個人主義が推奨された。自律的に判断し、自らの“夢”に向けて打ち込むという人間類型が一つの理想となった。しかし、それとても趨勢としては芳しいとは思えない。上の世代が“しらけ”と呼んで嘆いてみせてからすでに久しいが、精神論で片付く問題ではない。“夢”に向けて頑張る人の美談は今でもよく語られるが、その口調にはどこかノスタルジックな響きすらこもる。

 ポスト・モダニティ(後期近代)とは個人化が徹底された時代であり、バウマンはリキッド・モダニティ(液状化した近代)と呼ぶ。この時代に、もはや人々が求めるべき確固たる目標はない。激変する環境に適応すべく、個人一人一人もまたカメレオンのように変わり続けなければならない。そればかりか、競争で優位に立つためには率先して変わる努力を続けなければならない。何のために、ではなく、変化そのものが、目新しさそのものが価値を持つのである。社会レベルでも、個人レベルでも、固定的な目標は嫌われる。彼が変わるから私も変わり、私が変われば彼も変わる、そうしたエンドレスのゲームが繰り広げられる社会。従って、流動的、液状的というイメージ。こうした社会には市場原理主義が最も適合的であり、その動きが国境からあふれ出してグローバリゼーションが進む。

 市場のゲームからはじき飛ばされた人々、あるいは最初から参加資格が認められない人々はどうなるか。グローバルには難民が、ドメスティックには貧困層の問題がある。彼らが市場の液状的なゲームに再参入することはほとんど不可能である、つまり社会生活的にリサイクルできない存在=“人間ゴミ”(wasted lives)とみなされる。

つまり、市場のゲームに参加する能力をもたないことが、だんだんと犯罪者扱いされる傾向にあるのである。国家は、自由市場の論理(あるいは非論理性)から生じる脆弱性と不確実さから手を引いており、そうした脆弱性と不確実性は、今では私事として、つまりは、諸個人が私的に所有している資源によって処理し対処すべき問題として定義しなおされている。ウルリヒ・ベックが言うように、諸個人は今やシステムの諸矛盾にたいして個人史のうえで解決を探し求めることが期待されているのである。(本書、89ページ)

 どんな事情があろうとも、出自も含めてほんの偶然の不幸に過ぎなかったとしても、はじきとばされたこと自体がお前のせい、ということになる。結果として市場のプレイヤーとして振舞えるか否かだけが問題となるのであって、その経緯は一切問われない。個人中心なので国家による再配分・再教育の機能を正当化する根拠も乏しい。しかし、はじき飛ばされた人々の抱く不満は潜在的な危険となる。ゲームのプレイヤーを守るため、難民や貧困層に対しては、社会内において統合を図るよりも、隔離という対策を取る方が効率的となる。つまり、社会的排除の問題がここに現われる。

 バウマンの示した見取り図は悲観的で、どこかニヒリスティックですらある。無論、現実には市場主義の行き過ぎによる弊害に対して何らかの対策を取ろうという努力はされているが、なかなか実を結ばない。何か具体的な原因があれば対策の立てようもある。しかし、近代という時代の性格に深く根ざした問題であるだけに、ただただ途方にくれるばかり。感情をこめずに淡々と進めるバウマンの論述を見て、社会学というのも結構残酷な学問だなあ、という妙な感想も持った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月19日 (水)

最近読んだ小説

松尾由美『雨恋』(新潮文庫、2007年)
 海外出張に出たおばのマンションで留守番代わりに暮らすことになった渉。ところが、雨降りの日になると、誰かの気配を感ずる──。3年前、この部屋で殺された千波の姿なき声に頼まれるまま、渉は犯人探しを始めた。真相が判明するたびに、彼女の姿が足の方から少しずつ見えてくる。姿が見えるにつれて二人の気持ちが揺らいでいく様が、露骨なシーンはないのだけれども、不思議とエロチックでなかなか良い。

横山秀夫『深追い』(新潮文庫、2007年)
 ある地方の警察署を舞台とした人間模様を描きだす、7つの作品を集めた短編集。横山の小説は、単に警察を舞台とした推理サスペンスというにとどまるのではなく、嫉妬や愛憎など人間同士の様々な葛藤を的確に描写しているのが魅力的で、私は結構好きだ。表題作は以前、テレビドラマで観たことがある。

本谷有希子『江利子と絶対 本谷有希子文学大全集』(講談社文庫、2007年)
 コミュニケーション断絶状態の純情が暴走するとこうなるんだろうなと思わせる「江利子と絶対」。異形の切ない絶望感、「生垣の女」。なぜか唐突にスプラッター・ホラー、「暗狩」。以上3作を収めた短編集。いずれもテンションが極めて高く、徹底して救いがないほどにグロテスク。はまるか、さもなくば投げ捨てるかのどちらかだな。

本谷有希子『生きてるだけで、愛。』(新潮社、2006年)
 “善意”の押し付けがましさ、暑苦しさを意地悪に茶化しているのは相変わらずだけど、本谷にしてはちょっとおとなしい感じがした。芥川賞候補作だそうな。

長嶋有『夕子ちゃんの近道』(新潮社、2006年)
 フラココ屋なる古道具屋に集る、まったりとした人間模様を描く。読後感は悪くはないけれど、印象は薄い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月18日 (火)

保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』

保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』(中公文庫、1989年)

 1941年、東条英機内閣成立から開戦にいたる経緯を、当時陸軍省軍務局にいた高級課員・石井秋穂と局長・武藤章を軸に描いたノンフィクションである。武藤は、GHQと取引きした田中隆吉(開戦時の陸軍省兵務局長)と犬猿の仲だったため、戦後、田中の意図的な讒言により東京裁判で死刑判決を受けたといわれている。

 武藤自身もともと主戦論者ではあったが、日米間の物量的に圧倒的な差をみて、何よりも天皇が戦争回避を望んでいるのを知って、より強硬な主戦論で気炎を上げる参謀本部を説得しようとギリギリの調整に努力していたことは本書で初めて知った。しかし、参謀本部の感情論はなかなかおさまらないばかりか、海軍や文官を相手にすると、むしろ同じ陸軍としてのシンパシーが作用してしまう。明治憲法に規定されたいびつな政軍二元体制を頂点とするセクショナリズムのせいで日本は破滅への道をたどったと言っても過言ではあるまい。

 軍務局というのは二・二六事件後に設置された比較的新しい部局で、陸軍側の意向を広めるため他省や議会に根回しをするほか、マスコミとつるんで世論対策も行っていた。予算案において陸軍の枠を拡大させるという、“国益”よりも“省益”を守るために強硬論をぶち上げていたものが、本来の思惑をはるかに飛び越えてヒョウタンから駒という感じに戦争は当然という風潮につながってしまった。

 参謀本部などはそれを信じ込んでしまっている。陸軍の中でも割合と冷静な軍人たちは開戦の可能性を考えてむしろ躊躇してしまうのだが、戦争やむなしと信じ込んでいる観念論者に理屈で反論することはできない。そうした雰囲気の中、石井は日米交渉の電文が解読されているのではないかと気付いていたのだが、それを言い出せないでいた。そんなこと言おうものなら“軟弱者!”となじられてしまう。まさに、“空気”の支配で対米戦争に突き進んでいく様が本書ではヴィヴィッドに描かれている。開戦がほぼ避けられないと見て取った武藤が「政治将校の時代はこれで終わりにしなければならない」と漏らしているのが印象深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月17日 (月)

「長江哀歌(エレジー)」

「長江哀歌(エレジー)」

 “改革開放”のスローガンのもと中国が経済的に大躍進を遂げ、それにつれて地域間格差の問題も周知のこととなりつつある。長江沿岸の古都・奉節は、三峡ダム・プロジェクトによって段階的に水没する運命にあった。そこへやって来た二人の男女、一人は十六年前に別れた妻と娘を探す炭鉱夫のサンミン。もう一人は、事業を手がけて成功しているものの二年間も音沙汰のない夫の様子を見に来たシェン・ホン。この二人を軸に、滅びゆく街に暮らす人々の姿を描いた作品である。

 日中、用事をすませてから夕方になって映画館に駆け込んだので少々疲れており、最初、ウトウトしていた。ところが、ふと目に入った映像の美しさに息をのみ、すっかり目が覚めてそのまま見入ってしまった。

 住民が強制退去されて空き家となった建物の解体作業が行なわれている。街のあちこちで鎚を振るう音が響き、時にはダイナマイトの爆音が人の耳を驚かす。瓦礫の散らばる街並みと、一方で、まさに山水画そのものと言っていい、ボヤッと薄霞のかかった長江沿岸の風景。そうした両方が組み合わさって、どこか現実離れした、実にファンタジックで美しい世界が描き出されていた。主役二人のセリフまわしは総じてもの静かに抑え気味で、それだけ街の雰囲気にとけこんでいる。映像作りはよく工夫されており、UFOが飛んでいたり、奇妙なモニュメント的建造物がロケットになって発射されたり、なぜか関羽(?)たちがゲームに興じていたりといったシーンが挿入されているあたり、遊び心もおもしろい。

 じんわりと胸にしみこんでくる美しさは映像だけによるのではない。タバコ、酒、茶、飴という四つのモチーフでストーリーが区切られているのだが、人をもてなす道具立てと捉えていいのだろうか。訪問者としてのかりそめの出会い。夫婦として理解しあっているように思いたくても実は遠かった心の距離。それを否定したり肯定したりしようというのではない。人が出会い、そして別れ、そうした一つ一つを表情としては淡々と受け入れながら、しかし同時に、切にいとおしく胸に刻み込んでいく。滅び行く街、それゆえにこそか、さり気なく織り成される人情の綾が静かに琴線に触れてくる。それは、“お涙ちょうだい”的に大げさなものではなく、山水画のように淡くしっとりと美しい。

【データ】
監督:賈樟柯(ジャ・ジャンクー)
2006年/中国/113分
ベネチア国際映画祭・金獅子賞グランプリ
(2007年9月17日、日比谷、シャンテシネにて)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年9月16日 (日)

「エヴァンゲリヲン新劇場版 序」

 エヴァンゲリオンが社会現象ともいうべき一大ブームを巻き起こしたのは私が大学生の頃だった。保守系論壇誌の『諸君!』ですらエヴァの小特集を組み、宮崎哲弥や切通理作が寄稿していたのを覚えている。アニメに詳しい知己が身近におらず情報に疎かったのだが、そんな私にすら評判が聞こえてきた。どんなものかいな、と観てみた。ミイラ取りがミイラになってしまった。その頃の私自身が、ウジウジしたシンジ君のように精神的にまいった状態にあったのでシンクロしてしまったのかもしれない。

 エヴァは従来的なロボット・アニメの構図ながらも、それを換骨奪胎して少年のビルドゥングス・ロマンとなっているのが多くのファンを引き付けた理由の一つだろう。哲学、精神分析学、神話学などぺダンチックなモチーフが見え隠れするのも、単にアニメとして斬って捨てられない雰囲気を出していた。あちこちに散りばめられた謎、そしてネルフ上層部が時折もらす「シナリオ通りだな」というセリフには、自分たちが目の当たりにしているのとは位相の異なるロジックが働いている、そういう意味での世界観の奥行きが感じられて、目が離せなかった。“昭和”を思わせる風景と近未来的な廃墟とが不思議に共存した映像も私は好きだった。

 今年に入ってある日曜日の午前中、近所の喫茶店で本を読んでいたら、何やら“綾波レイ”とか“初号機”とかいう言葉が耳に入ってきた。なつかしい話題を語らっているなあと思いつつ、それにしても声が老けている。見やると、初老の紳士二人がエヴァ特集のムック本を前にして、一人がもう一人にエヴァについてレクチャーしていた。さすがに驚いた。エヴァ再映画化を私が知ったのは、それから一、二週間くらいしてからだった。

 今回は四部作構成の「序」、アスカ登場直前までを戦闘シーン中心に駆け足でまとめている。映像は一新されているのでいわゆる“総集編”的な感じはない。リリスや渚カヲルが一瞬だけ姿を見せ、物語の奥行きをほのめかす。次回予告が最後に映るのだが(例の「サービス、サービス!」では客席に爆笑がわきおこっていた)、見たことのないキャラがいて、この後の展開はだいぶ変わりそうだ。

 私は割合と丹念にエヴァを観たつもりだったが、その全体像を把握できているかといえば心もとない。そもそも、庵野秀明自身、半ばこわれた状態で自転車操業的に作っていたらしいが、そのほころびがかえって思わせぶりで、色々な読み込みの可能性が開けていたのが一つの魅力だった。今回の映画化では、そうやって出されてきたアイデアを一貫した物語にまとめ上げているのだろうから、どんな見せ方をしてくるのか、この先の展開に興味津々。

【データ】
総監督・原作・脚本:庵野秀明
2007年/98分
(2007年9月15日、新宿ミラノにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年9月9日 - 2007年9月15日 | トップページ | 2007年9月23日 - 2007年9月29日 »