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2007年9月9日 - 2007年9月15日

2007年9月15日 (土)

「恋するマドリ」

 デザイナー志望の美大生ユイ(新垣結衣)は、二人暮しだった姉の結婚で急遽引越をした。忘れ物を取りに戻ったところ、すでに新しい入居人のアツコ(菊地凛子)が来ている。アツコのデザインした椅子がすっかり気に入ったユイは、自分のかつての住まいをたびたび訪れることになった。さらに、アツコの元カレ・タカシ(松田龍平)とも出会い、ちょっと奇妙な三角関係が始まる。

 私は映画を観るとき、ストーリーそのものだけでなく、街並とか部屋の雰囲気とか、その中で人が暮らしているディテールを見るのも楽しみにしている。それはとりわけ、引越したばかりの不安と期待とがないまぜになった戸惑いを描き出した作品で印象深い。たとえば、岩井俊二監督「四月物語」(1998年)など好きな作品だ。もっとも、岩井美学で洗練された映像美は、人の息遣いの生々しさを捨象してしまっているが。

 「恋するマドリ」の舞台は北品川や目黒、都心とも下町ともつかぬちょっと微妙な土地柄。しかし、高層ビルを背景とした雑然とした街並は意外と嫌いではない。マンションの煤けた色合い、さり気なく聞こえてくる道路の騒音など、そこに住んでいたらどんな感じがするだろうかと感情移入しやすい。

 ストーリー的には少々苦笑ものだが、まあ、許容範囲内としておこうか。ガッキー目当てで観ただけだし。彼女のせりふ回しはそんなにうまくはないが、表情の素直な動きが本当にかわいい。それから、ユイがかつて暮らし、次にアツコの入った古びた平屋はなかなか風情があって、これだけでもポイントは高い。

【データ】
監督:大九明子
出演:新垣結衣、菊池凛子、松田龍平、内海桂子、ピエール瀧、世良公則、他
2007年/113分
(2007年9月14レイトショー、新宿バルト9にて)

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2007年9月14日 (金)

大屋雄裕『自由とは何か──監視社会と「個人」の消滅』

 実務として法律を運用する場合と、現代社会論として法現象を考察する場合とでは、両者に認識上のギャップがあまりにも大きすぎて私のような法律の素人は頭が混乱してしまう。ざっくり言って、前者は個人の“自由意思”というフィクションに基づき、後者はそのフィクションを暴き出そうとする努力で対峙しているという構図にまとめられるだろうか。

 こうしたギャップが最も顕著なのは、法活動の主体、すなわち“自由意思”そのものの問題である。大屋雄裕(おおや・たけひろ)『自由とは何か──監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書、2007年)は、法哲学の立場から現代社会における“自由”をどのように捉えたらよいのか迫ろうとしている。原理的な概念がかみくだかれており、読みやすい。

 各個人が自ら判断して結んだ契約は尊重されねばならず国家ですら介入できないという私的自治は民法上の根本原則である。犯罪とされる事柄は予め周知されていなければならないという罪刑法定主義は刑法上の根幹をなす。いずれにせよ、各個人は“自由意思”に基づいて自律的・理性的に振舞うはずだという前提がある。

 しかし、人間とはそんなに理性的なものだろうか。なぜ法をみだす者がいなくならないのだろうか。個人の内面で自己完結的に“自由意思”を持つとされるモデルを否定し、人間の行為がむしろ社会的、環境的、場合によっては生得的な要因、つまり個人の“自由”ではどうにもならない外的な要因で左右されてしまうところに法的問題を見出す立場が19世紀になって現われた。新派刑法学である。たとえば、犯罪人類学を打ち出したロンブローゾなどが有名だ。

 さらにつきつめると、法をみだしかねない人間類型やシチュエーションを法則的・確率論的に把握して予め対策を立てておけば法的秩序は確保されるはずだ。すなわち、犯罪をおこさせない環境を物理的・社会工学的に設計するアーキテクチャ(環境管理)的権力を活用しようという発想につながる。たとえば、通路に妙なオブジェを置いてホームレスを制裁的にではなく物理的に排除しようというのがこれである。法には抵触させていないという点で表面的には“自由”を保障しているかのような素振りを示しつつも、行動の選択肢を実質的に狭めることで秩序維持をはかる。

 ここには次の問題がある。第一に、アーキテクチャを設計した者が実質的な支配者となってしまう。第二に、ホームレス排除のオブジェはあからさまなのですぐにわかってしまうにせよ、アーキテクチャ的権力の最たる特徴は、規制を受けた側が、そのこと自体に気付かないこと。行動の選択肢が最初から削ぎ落とされているのに、それを我々は“自由”と呼ぶことができるのだろうか? 

 以上をまとめると、“自由意思”に基づく個人というフィクションを前提として、法や社会規範に基づき違反者に対し事後的に制裁を加えるという法的権力のあり方が一方にある。これが一般に了解された法的秩序だが、素朴な“自由意思”など成り立たないことは現代思想の様々な議論から明らかだろう。あくまでもフィクションに基づくシステムにすぎない。他方、潜在的リスクを予め把握しておき、アーキテクチャ的権力によって事前的に規制を加えていくという手段も現実に取られている。選択肢を狭めることで成り立つ秩序なのだから、本来的に“自由”は期待すべくもない。

 いずれにせよ、実質的に“自由”などあり得ない中で、なおかつ我々は建前であれ何であれ“自由”を基本原則とした社会に生きているという根源的な矛盾がある。これをどのように考えればいいのか? 本書の著者は、“自由な個人”だから責任を負うというのではなく、逆に責任を負うという態度を示したときに“自由な個人”とみなされると述べている(本書、199頁)。フィクションを引き受けて生きる覚悟を再確認するしかないという点で私は説得的に感じた。

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2007年9月13日 (木)

保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』

 先週、瀬島龍三氏逝去の報に接し、新聞各紙や夜のテレビニュースをチェックした。第二臨調で行政改革の根回し役を務めるなど政財界の裏方で活躍したことに肯定的な論評の一方で、半藤一利、保阪正康、魚住昭各氏のコメントが「彼は結局、語るべきことを語らないままだった」という点で共通しているのが強く印象に残った。

 瀬島は何も語らなかったわけではない。『幾山河』という回顧録も出版している。しかし、半藤氏や保阪氏など瀬島に直接インタビューした経験のある人々は、核心に踏み込むと巧みに話をそらされてしまったと不満を漏らしている。瀬島が大本営参謀として立てた作戦の失敗により多くの人々が命を落としたといわれるが、なぜその経緯を明らかにしないのかと厳しく批判する元軍人も少なくなかったという。

 山崎豊子『不毛地帯』の主人公のモデルは瀬島だとよくいわれる。しかし、実際には、取材を進めたシベリア帰りの多くの人々のエピソードを組み合わせて山崎は人物造型をしており、瀬島はその一部分に過ぎない。彼はこの作品に敢えて言及しないことで、その良いイメージが自らにかぶせられていくのを計算していた節もあるらしい。いずれにせよ、この人のことを私はよく知らないので保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』(文春文庫、1991年)を手に取った。

 瀬島は、太平洋戦争において軍部の中枢におり、重要な作戦や軍政についての意思決定の有様を間近で見聞きしていた。彼自身に対しても、自らの作戦立案に不都合な情報を握りつぶした疑いがある。また、シベリア抑留中にソ連側との交渉役として果たした役割、東京裁判でソ連側の証人となった経緯などについてもきちんと語ることはなかった。そのため、ソ連のスパイ説がまことしやかに噂されたほどだ。

 難関中の難関を突破したエリート軍人だけあって、瀬島の頭脳は極めて明晰。場の空気というか、上司の腹のうちを的確に読み、それを踏まえて立案をする能力に長けていた。しかし、第二臨調の時もそうだったらしいが、与えられた課題をこなすために状況を読んで根回しを進める手際は鮮やかであっても、自らの意見を語ることは意外なほどになかったという。それが“昭和の参謀”と呼ばれる所以でもあったろうか。毀誉褒貶は別として、昭和期エリートのメンタリティーが瀬島という一個人を通して窺えるのが興味深い。

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2007年9月12日 (水)

出張ついでに寄り道③綾部

(承前)

 近代日本の宗教史に関心のある人ならばすぐに思い当たるだろうが、綾部には大本教本部の一つがある(他に、亀岡と東京)。ここは大本教の開祖・出口なおが暮らしていたことにちなんで聖地とされている。なお、もう一つの聖地・亀岡は出口王仁三郎が生まれたところである。以前にもこのブログで触れたことがあるが、私は高橋和巳『邪宗門』が好きで、とりわけ第一部のラスト、教団本部が炎に包まれ、信者たちが特高によって次々と検挙されていくシーンが印象に強く焼きついていた。それで、綾部に寄ってみようと思った次第。

 綾部には30分ほどして到着。山陰本線との接続駅なので人はたくさん降りるのだが、駅から外に出る人は少ない。駅前のロータリーに植芝盛平の記念碑があった(写真18、写真19)。合気道の祖である。実は植芝も熱心な大本信者で、綾部に移り住んでいた。合気道の精神性には大本の教義も影響していると言われている。

 駅前の観光案内所に行ったが、市内観光マップのようなものはない。大型の地理表示板で大本本部のだいたいの位置を確認。遠くはないようなので、取りあえず出発。街並みはやはり寂しい。最初、昭和30年代の地方の商店街はこんな感じなのかなと思いながら歩いていたのだが、ところどころ明らかに戦前に建てられたおぼしき店屋がある。タイル貼りの店構えに、やたらと大きなショーウィンドー。しかし、すでに廃業しており、中はほこりだけ。そうした古い店構えでまだ営業中の薬屋さんがあった。写真を撮ろうと思ったのだが、隣の理髪店の腰が曲がったご老人が店先で背伸びしており、気兼ねして素通り。歩きながら何となく、チリンチリンと静かな風鈴の音がこの商店街には似つかわしく感じた。

 大本本部は駅から歩いて15分くらいだろうか。私は信者ではないので入るのに少々ためらいがあったのだが、「犬を連れての入苑はご遠慮ください」という立て札がある。一般人でも気軽に入っていいみたいだ。ここは梅松苑というらしい。弥勒殿という大きな建物がすぐに目に入った(写真20)。その向こうにある池を取り囲むように、鳥居のような社がしつらえてある(写真21)。

 弥勒という言葉には仏教的な末法思想がうかがわれるが、鳥居の横の説明板には神道的な神名が書かれていた。五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』(ちくま学芸文庫、2007年)によると、こうした配置には大本教なりの世界観が表現されているらしい。学生の頃、『大本神諭』(平凡社・東洋文庫、1979年)にざっと目を通したことがある。ただしその時は、「世の立て替え」という言葉だけをピックアップして、近代化に対して土着的な革新を求める反応という枠組みでフィルターをかけて大本教をみていたので、教義の詳細はよくわからない。

 弥勒殿は木造家屋をそのまま巨大化したような感じ。縁側ぞいのガラス戸はみな開け放たれて、中にあちこち扇風機が置いてあるのが見える。何となく、古い湯治場の休憩広間を思い出した。今日は行事などもないようで、事務室以外に人の姿はまったく見えない。

 私は近代の新興宗教団体の拠点施設をいくつか見に行ったことがある。某S学会の本部は信濃町にあるが、八王子もどういうわけだか“聖地”扱いを受けている。S大学やF美術館も含む大規模建築群を見て、よくこんなに金をつぎこんだものだと驚いた。港区飯倉にあるR会の神殿はキッチュな上にとにかくでかくて、何となくスペースオペラのロケに使いたくなる感じ。天理市に行った時の光景は実に不思議だった。全国から集まる信者のために五階から十階くらいまでありそうな大きな宿泊施設が街のあちこちに建てられているのだが、相応に大きな屋根瓦が葺かれている。電車で天理市に入ってくると、それが実に壮観だった。それにしても、建築基準法はクリアしているのだろうか。

 新興宗教団体はそうした感じに大きな建物を立てる傾向があるが、綾部の大本本部をみると、むしろ質素に小作りという印象がある。亀岡や東京は見ていないのではっきりしたことは言えないが。五十嵐『新宗教と巨大建築』によると、戦前の弾圧で建造物が徹底的に破壊された後、記憶を残すため敢えて再建しなかった区画もあるらしい。出口なおの夫・政五郎の職業は大工で、大本なりに建築へのこだわりもあるらしく、「立て替え」という言葉遣いには、大工の家族としての影響があると言われている。

 大本本部から道路を挟んだ向かい側の住宅密集地に、頭一つ突き出た十字架が見えた。行ってみると、カトリックの教会堂だった。近くにはプロテスタントの教会もある。このあたりは宗教的霊性の強い土地柄なのだろうか。「世界が平和でありますように」という世界救世教のお札の貼ってある家も結構見かけた。教祖・岡田茂吉はもともと大本教の信者だった。それから舞鶴で生長の家の施設を見かけたのだが、教祖・谷口雅春もやはり大本教出身者である。

 綾部駅から特急たんご号に乗って京都駅まで戻る。山あいの細長い平地に田んぼの緑が広がり、そこに夕暮れの黄昏色が染みている色合いは、見ていて実に心地よい。

 京都駅から東京駅に向けてのぞみに乗車。ところが、岐阜県の集中豪雨で米原に停車したまま2時間半も待たされた。その間、保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』を読了、同じく保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』を読み始めた。東京駅には夜中の12時過ぎに到着。中央線の終電にギリギリで飛び乗り、何とか帰宅できた。先日、広島からの帰りでもやはり同様に新幹線が遅れて終電を逃しそうになったことがあり、妙なジンクスになりそうでいやな後味の悪さが残った。

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2007年9月11日 (火)

出張ついでに寄り道②舞鶴

(承前)

 翌朝、6:50起床。大きな荷物は京都駅のコインロッカーに入れて、7:47発の嵯峨野線(山陰本線)に乗った。目的地は舞鶴。動機は三つ。第一に、こちらへ来る新幹線の中で保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』(文春文庫、1991年)を読んでいて、シベリア抑留にまつわるエピソードから舞鶴を連想したこと。第二に、先日、広島へ行ったついでに呉に寄ったのだが、いっそのこと旧海軍四鎮守府を制覇してやろうという妙な野心がわいたこと。横須賀にはいつでも行けるので、残すは佐世保のみとなる。第三に、頭がじっとりとかたまって憂鬱なので、とにかく海が見たい!と、解放感を求める魂の叫び(笑)

 京都から舞鶴までは、まず嵯峨野線で綾部まで行き、小浜線に乗り換える。列車本数が少ない上、単線なのですれ違い等による各駅での停車時間も長く、距離に比して時間は相当にかかる。東舞鶴駅に着いたのは10:30頃、3時間近く列車にゆられていたことになる。しかも混雑していて、車窓の風景を眺めることはほとんどできなかった。

 駅を出た途端、雨が降り始めた。初めての町に来た時は、できるだけ足を使って歩き回ることにしている。折り畳み傘はあるものの、気分はすっかりブルー。気を取り直し、市内周遊バスに乗ってまず舞鶴引揚記念館に向かった。

 舞鶴は日本海沿いのリアス式海岸が内陸に入り込んだ二又の湾に面した港町で、東舞鶴と西舞鶴と二つの中心がある。古いのは西舞鶴の方で、細川幽斎や京極氏、牧野氏の城下町として栄えた。これに対して、東舞鶴は明治になって軍港としてつくられた新しい町。かつては旧海軍の鎮守府が置かれ、現在も海上自衛隊舞鶴地方総監府や海上保安大学校がある。東西二つの舞鶴が合併したのはそんなに古くはなく、1943年、戦争遂行のため軍需・民需一体化が求められてのこと。舞鶴市役所は東舞鶴の方にある。なお、時間の都合で西舞鶴には行けなかった。

 日本海に面した最大の要港として、大陸からの引揚者の大半は舞鶴の土を踏むことになった。引揚船の着岸した桟橋、いわゆる“岸壁の母”たちが佇んだあたりだが、そこを見下ろす丘の上に舞鶴引揚記念館は建てられている(写真7)。ただし、周遊バスの発着時間により見て回る時間に制限があり、桟橋まで降りることはできなかった。雨も降っていることだし。館内は、シベリア抑留者が身に付けていた日用品や写真・説明パネルを通して、抑留者もその家族も共に味わわざるを得なかったつらさをしのばせる展示がされている。シベリアや中央アジアばかりでなく、コーカサスや黒海沿岸まで連行された人々がいたのは初めて知った。記念館の図録を一部購入。

 周遊バスが市街地に戻り、昼食休憩時間に入ったところで、運転手さんにことわってグループを離れることにした。一枚500円で施設の入館料(引揚記念館、赤レンガ博物館それぞれ300円)込みなので、すでにもとはとった。何よりも、この辺りは列車の本数がやたらと少ない。帰りを考えるとゆっくりもしていられない。駅前でもらった観光マップを片手にバスにゆられながら、市街地近辺の距離感はだいたいつかんでいる。もう一つの目標、海軍記念館まではそんなに遠くはないと見当をつけ、ちょうど雨もあがったので、歩こうと判断。カロリーメイトとミネラルウォーターでエネルギーを補給してから行動開始。

 舞鶴港はかなり奥まったところにあるので海という実感がわかない(写真8)。舞鶴湾東港沿いに、海上自衛隊の艦船を遠くに見ながら歩く(写真9)。さっきとは打ってかわって陽射しが結構照りつけてきた。汗がワイシャツをジトジトとぬらし、スーツのズボンが肌にはりつく。上着を京都駅のコインロッカーに入れてきたのは正解だったが、ズボンはクリーニングに出さねばならない、着替えのGパンを持ってくりゃよかったなあ、などと取り留めなく考えながら足を進めていたら、赤レンガづくりの大きな建物が見えてきた。赤レンガ博物館である(写真10)。

 ここはレンガをテーマとした全国でも珍しい博物館だ。明治期に建てられた旧海軍の爆薬庫を改装の上活用しており、これは日本に現存する赤レンガの建造物としては最古級のものらしい。辺りは工場地帯となっているのだが、今でも多くの古い赤レンガ建築が現役として使われている(写真11写真12)。赤レンガというと文明開化期日本における産業のシンボルというイメージがあるが、これを舞鶴のまちおこしの素材に使おうとしているようだ。館内の展示はなかなか充実しており、古代文明の発生から現代に至るまで、レンガを軸とした建築史の通史が一望できて面白い。時間さえ許せばもっとゆっくりしたかった。舞鶴は大連市と姉妹都市提携をしているそうで、ヤマトホテルや満鉄本社など、日本人がかつて大連でつくったモダン建築の写真が並べられているのも興味を引いた。

 赤レンガ倉庫群の横をしばらく歩いていくと、再び海が見えてきた。さっきは遠くに見えた自衛隊艦船の近くである。沿岸の桟橋は海上自衛隊の施設となっているのだが、明らかに一般人とおぼしき家族連れがゲートを通って中に入っていく。歩哨に立っている人に聞いたら見学できるという。名簿に名前を記入し、許可証を首にぶら下げて入構。護衛艦すずなみの威容(写真13写真14)。近くから見るのは初めてかもしれない。向こう側には修繕ドックがあるらしく、パナマ船籍のタンカーが見えた。

 さらに歩き、海上自衛隊舞鶴地方総監府に出た。先ほどの桟橋と同様の手続きを取った上で敷地内の海軍記念館に入る(写真15)。戦前に造られたらしい大講堂の一部に海軍関係の展示品が置かれている。歴代の舞鶴鎮守府長官ゆかりの品が置かれているが、とりわけ初代長官・東郷平八郎の顕彰が目立つ。

 記念館入口の前に、まだ入隊間もないのだろうか、白い制服に身を包んだ朴訥とした感じの女の子が歩哨に立っていた。展示を観ても何となくもの足りなかったので、「かつての鎮守府の名残を感じさせる建物は残っていないのですか?」と尋ねた。来館者が近づくたびにハキハキと挨拶していた口調が困ったようによどみ、「あちらの方に古い建物はあるんですけど、職場なのでお見せするわけには…」。了解。お礼を言って立ち去る。

 近くのバス停で時刻表を見たところ、次のバスは30分以上来ない。土地勘はだいたいつかめたつもりなので歩いて駅まで行くことにした。が、やはり自惚れは禁物。迷った。歩いても歩いても、むしろだんだん寂しくなってくる。焦るとますます早足になって傷口をいっそう広げてしまう。引き返そうとしていたら、近くの家から出てきたおばさんが「どちらへいきはるんですか?」と声をかけてくれ、親切に道を教えてくれた。あるいは、不審者と思ったのかもしれないが。

 迷子になった途中、東郷平八郎が仮住まいしていたという碑文を見つけた(写真16)。現在建っているのは何の代わり映えもしない普通のアパートというのも妙に感慨深い。また、赤レンガ造りの大きな自転車・歩行者用トンネルも通った(写真17)。このサイクリングロードは不自然なほどきれいに街を横切っている。気になって、帰宅後に廃線地図で確認したら、予感した通りに東舞鶴駅から沿岸のおそらく旧鎮守府近くにあった中舞鶴駅まで以前は鉄道が延びていた。廃線後にサイクリングロードとして再利用されたのだろう。あの赤レンガ造りのトンネルももともとは鉄道用だったと思われる。迷子は迷子なりに収穫はあるものだ。

 東舞鶴駅に着いたのは14:00過ぎ。土産物売場に寄ったら、「海軍さんの珈琲」を見かけた。先日、呉に行った時も全く同じものを見かけ、シャレのつもりで「戦艦大和サブレ」と一緒に家族用に土産として買った覚えがある。肉じゃがが名物料理というのも同様。ひょっとしたら、横須賀でも佐世保でも全く同じものが売られているのだろうか?

 疲れたので、帰りの特急まいづる号の指定席を取ってから市街地をぶらつくつもりでいた。ふと、発着表示板が目に入った。14:15発綾部行き列車がホームに入っている。その場の思いつきで飛び乗った。

(続く)

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2007年9月10日 (月)

出張ついでに寄り道①大阪

 先週、出張で大阪に行った。初日の夕方、時間があったので北浜の適塾を見てこようと思い立つ。手もとに地図がないので、以前に行った時の「確か淀屋橋駅の裏手にあったはずだが…」というおぼろげな記憶だけが頼り。

 案の定、迷った。しかし、途中、懐徳堂の跡を示す碑文を発見したのは収穫だった(写真1写真2)。もともとは大阪商人たちがつくった学問所だが、幕府からも公認、冨永仲基や山片蟠桃など独特な学者を輩出したことでも知られる。中之島近辺は大阪の行政やビジネスの中心地だが、江戸時代には町人階層と結びつく形でアカデミック・センターでもあったことがうかがわれる。

 さて、何とか適塾にたどり着いたものの、すでに観覧時間は終わっていた。ため息をつき、取りあえず一枚撮っておこうと思ったら、説明板の前に違法駐車の図々しい姿。大阪人の交通マナーの悪さに悪態をつきながらパチリ(写真3写真4)。もう五、六年前だろうか、以前に入館した時の記憶では、大きめだが普通の商家という佇まいで、二階の上に物干し場があったりと割合に生活感があったのが印象に残っている。

 適塾の横はちょっとした公園となっており、緒方洪庵先生の胸像がある(写真5)。背後に映るのは、件の物干し場(写真6)。手塚治虫『陽だまりの樹』(小学館文庫、1995年)は適塾で学ぶ人物群像を描き出しているが、この物干し場にかかる急傾斜の階段を若き日の大鳥圭介(後に幕府陸軍奉行等を経て明治新政府に出仕)が転がり落ちるシーンがあったのをなぜか思い出した。本当にどうでもいい話で恐縮だが。

 ちなみに、手塚は大阪大学医学部の出身だが、適塾の管理も大阪大学。さらにちなみに、適塾の塾頭となり『陽だまりの樹』にもキーパーソンとして登場する福沢諭吉は大阪の中津藩蔵屋敷で生まれている。中之島の西寄りに福沢諭吉生誕碑があるはずで(一応、母校の創立者なのだが、大阪に来てもなぜか忘れてしまい、今回も含めて一度も見に行ったことがない)、こちらも現在は大阪大学の敷地となっている。

 この後、堂島およびヒルトンプラザのジュンク堂書店、梅田のブックファースト、阪急梅田駅下の紀伊国屋書店とハシゴしながら、阪急三番街の古書店を目指した。ところが、何とお休み…。この一画は水曜日休業なのであった。失意の中、お好み焼きとビールで憂さ晴らしをしてから宿舎に戻った。

 土曜日にようやく任務終了。明日は日曜日、せっかく関西まで来ているのにこのまま帰るのはもったいない。現地で上司と別れ、私はひとり京都に向かった。体力的にはどうってことはないのだが、精神的な疲労は激しい。宿をとり、テレビをつけたら黒澤明のリメイクドラマ「天国と地獄」をやっていたので、観ながらウトウト。緊張感から解放されたせいか、いつしかグッスリ。

(続く)

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