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2007年9月2日 - 2007年9月8日

2007年9月 6日 (木)

岩田正美『現代の貧困』を読んで

 近年になって社会格差論が急浮上し、その中で貧困の問題も今さらながらにクローズアップされてきた。バブルの崩壊、構造改革の行き過ぎなど原因探しの議論も活発となってはいる。しかし、岩田正美『現代の貧困──ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)によると、かつては“総中流化”といわれる社会的風潮のかげで覆い隠されていただけで、貧困はずっと問題であり続けていた。

 可能性の問題でいうなら、もちろん誰しも人生の転変で貧困状態に陥ることはあり得る。だが、実際には特定の不利な条件を抱えた人々に統計的に集中しているという点で、ある種の構造的な問題であるといえる。

 第一に学歴の問題。中卒、高卒だと現実問題として就業機会に恵まれない。かつて“金の卵”と呼ばれた頃は、企業内でスキルを身に付けさせるという慣行があった。しかし、それは“即戦力”志向の中で崩れてしまい、学歴も含めて教育上の投資を十分に受けてきた者を企業は採りたがるようになった。また、職人のように、学歴がなくとも“腕一本”、技能と経験の蓄積で立っていく自営業も衰退してしまった。こうした人々は不安定雇用に結びつきやすい。

 第二に家族構成の問題。統計的にみると、非婚と貧困は結びつきやすい。それはまず、収入が低いから結婚できないという解釈もできる。ただもう一つ、支え合う家族がいないため、病気、失業など人生上のリスクへ対応できず、そのまま貧困状態に転落してしまうケースが考えられる。離婚したシングルマザーなどは就業上の関門が極めて狭い。

 また、結婚していなくとも、親など家族からの扶助が期待できれば立ち直れる可能性は高くなる。行政の対策も、基本的には家族福祉を織り込んだ上で立てられている。さらに因果関連の問題として考えると、資産や学歴は家族を通して継承される傾向が統計的にもみられ、貧困転落可能性の階層格差は歴然としている。これは、佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000年)をはじめ、多くの論者が指摘するようになってきた問題である。

 自助努力はもちろん正論だが、機会の均等が大前提である。と言うと、規制緩和等の問題に結びつける向きもあるが、資産や学歴、広い意味での社会的ステータスの継承による“見えない格差”がある限り、むしろ格差は幾何級数的に拡大・固定化され、それは“見えない”がゆえに正当化もされてしまう。貧困等の問題を固定化された階層、いわゆる“社会的排除”というキーワードが対象とする人々の間には何をやってもムダだという諦めをもたらし、山田昌弘『希望格差社会』(筑摩書房、2004年)が指摘していたように社会の分裂につながりかねない。

 人間が様々な社会的因果連関の網の目の中にいる一つ一つの要因を腑分けしていくのが社会科学の使命であろう。しかしながら、最近、政府の政策に影響力を持つ一部の経済学の議論では、自己責任を強調するばかりで、前提としての個人のケイパビリティー(潜在能力、ただし意味合いに注意)についての考え方がつめられていない。人間の可能性に全幅の信頼を置くのはまことに結構なことではあるが、その極めて楽観的で単純な人間認識は、それこそ“なせばなる”的な精神論としか思えず、私は理解に苦しんでいる。

 以前、知り合いから誘われてホームレスの実態調査に参加したことがある。社会調査の経験など全くないのだが、人手が足りないからと質問項目のペーパーを渡され、いきなり面接調査をやらされて戸惑った。

 「なんか仕事ないかねえ」「あんたから役所に文句言ってよ」とか話してくれる人はまだいい。そうした中、一人いまだに忘れられない人がいた。老けて見えたが、まだ三十代後半だったと思う。何を尋ねても一問一答に終わってしまう。話が続かず、沈黙の間に私は焦った。季節は春、公園の桜の木が目に入ったので、世間話のつもりで「桜がきれいですね」と語りかけた。「そういう人もいるね。俺には関係ないけど」と、話の接ぎ穂がない。完全に心を閉ざしている。無論、初対面なのだから当たり前だろうが、それでも少しずつ聞き出した。何かをして欲しいということにはもう関心がなく、こんな状態に落ちてしまったこと自体が耐え難い、そしてそれは他ならぬ自分のせいなのだから仕方ない、そういう完全な諦めが感じられた。

 衣食住の問題は財政的な余裕さえあれば何とかなる。仕事に就く上で支障となっている住所や保証人の問題も制度的な対応を考えることはできる。しかし、そういった物理的・法制度的問題はともかく、本人の後悔、自尊心の問題、これは他人には手をつけることはできない。どうしたらいいのかさっぱり分からず、いまだに気にかかっている。

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2007年9月 5日 (水)

ワーキングプアについて

 若き日の鎌田慧が北九州の飯場に潜り込んで書き上げた『死に絶えた風景』(ダイヤモンド社。後に現代教養文庫、1994年、版元倒産)が刊行されたのは1971年のことだった。ピンハネ、低賃金による拘束、そして使い捨て──這い上がる可能性すら完全につまれてしまったアリ地獄のような困窮状態を読み、私自身がまだ生まれてもいない頃の話だが暗澹たる気持ちになったのを覚えている。

 貧困から這い上がることの難しさという点ではアメリカが世界でもダントツだろう。バーバラ・エーレンライク(曽田和子訳)『ニッケル・アンド・ダイムド──アメリカ下流社会の現実』(東洋経済新報社、2006年)は、ジャーナリストである著者が経歴を隠して一定期間、ウェイトレス、清掃婦、スーパー店員などの仕事に就いた体験を記した潜入ルポである。少々あざとくてイヤな感じがしないでもないが、安定した中流生活に馴染んでいた著者のカルチャー・ショックが素朴に浮き彫りにされ、そこが一つの読みどころとなる。たとえば、同僚が1日40~60ドルの簡易宿泊所に泊まっていると聞いて、なんと無駄なことをしているのかと驚く。自分は1月500ドルの部屋を見つけたのに、と。しかし、著者の場合は敷金などまとまった初期費用を予め用意できたからであり、その日暮しの収入しかない同僚にはできない相談であった。貧しさゆえに足もとを見られて節約すらできない、こうした外部からはなかなか気付きづらい日常的なことを一つ一つ描き出していく。

 こういったことは、残念ながら過去のことでも海外のことでもない。つい最近でも、某派遣会社が「データ装備費」なる名目でピンハネしていたり、厚労省調査でネットカフェ難民5千数百人(調査には必ず漏れがあるから潜在的にはもっといるのではないか)という数字が報じられたりしている。社会的弱者にしわ寄せされる構造的問題は、装いを新たにしているだけで基本的には解決されないままである。

 まさに問題となっている今現在の当事者に直接インタビューして生の声を拾い上げているのが雨宮処凛『生きさせろ!──難民化する若者たち』(大田出版、2007年)である。雨宮自身、フリーターとしてイヤな思いをした経験があり、また弟が企業で使い捨てにされて体を壊した経緯も綴られていて、それだけ共感的に話を引き出している。ネットカフェ難民の問題も取り上げているほか、派遣労働の実態など、かつての飯場のシステムを思い起こさせる。雨宮自身の経歴からすれば当然だが、メンタル系の問題を抱え込んでしまった人への思いやりは優しい。「もやい」というNPOの活動を取り上げて、いざとなった時に生活保護を申請するノウハウを紹介しているのは実践的だ。

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2007年9月 4日 (火)

『アルフォンス・ミュシャ作品集』

 アールヌーボーという言葉を聞いて、大方の人が思い浮かべるのはアルフォンス・ミュシャの描く優美な女性像であろう。パリの大女優サラ・ベルナールのポスターをはじめ、洗練されたイラスト風のスタイルは、20世紀初頭、商業美術というジャンルの急速な拡がりと共に文化史において一時代を画した。

 同時代の日本にも影響は及んでいた。今年、「美人のつくりかた」という近代日本の商業ポスターをテーマとした企画展示が印刷博物館で行なわれていたが、明らかにミュシャを意識したデザインのものを見かけた。また、雑誌『明星』の扉にもミュシャ風の女性像が描かれている。

 私はミュシャの絵が結構好きで、『アルフォンス・ミュシャ作品集』(ドイ文化事業室発行、三省堂書店発売、2004年)が手もとにある。興味を持ったきっかけは、三省堂書店で本を買うとはさんでくれる、ミュシャの絵が入った栞。それで目にした「イヴァンチッツェの思い出」という作品の幻想的に暗いタッチで描かれた女性像が印象深く、ミュシャという名前が脳裏に刻み込まれた。三省堂の販売戦略にまんまとひっかかったわけだ。買ったのは紀伊国屋書店だったけどね。

 ミュシャはアメリカ滞在中、ボストン交響楽団が演奏するスメタナ「わが祖国」を聴いて、民族意識を激しく鼓舞するようなインスピレーションを得たらしい。1910年、故郷ボヘミアへ戻り、「スラヴ叙事詩」という連作に取り組んだ。パラツキーの歴史書を紐解き、バルカン各地やロシアを旅行するなど綿密な取材を基に構成された大作群は、かつての優美な作風とは打って変わり、荘厳に重々しい宗教画風。セルビア王ステファン・ドュシャンの即位式のワンシーンなど、明らかにロシア皇帝を模している。

 ミュシャが「スラヴ叙事詩」に取り組んでいる間に第一次世界大戦が勃発し、世界情勢は大きく変わった。祖国は念願の独立を果たすのだが、新生チェコスロヴァキア共和国はマサリク大統領の下、中東欧で最も近代的な先進国家として注目を浴びつつあった。その一方で、ミュシャの大時代的な「スラヴ叙事詩」は同国民から困惑の眼差しを受けることになる。

 アールヌーボーの旗手が民族的土着性に目覚めた途端、一転して中世的な厳かさへと向かったという振幅の極端さがとても興味深い。しかし、いずれにしても現実離れしたファンタジックなイメージという点では共通しており、どちらも私は好きだ。

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2007年9月 3日 (月)

「たとえ世界が終わっても」

「たとえ世界が終わっても」

 集団自殺に参加したOLの真奈美(芦名星)。集合場所に現われた自殺サイト管理人を名乗る妙田(大森南朋)は自殺の手はずを整えているはずなのだが、彼の奇妙な振舞い(おそらく計算されたものだろう)に振り回されるうちに、他の参加者たちは自殺の意欲を失って脱落していった。一人残った真奈美は睡眠薬を飲むが、目覚めるとまだ生きている。再び現われた妙田がこう言った、「どうせ捨てる無駄な命なら、誰かの役に立って死にませんか」。ガンの手術が必要だが金のないカメラマン・長田(安田顕)を紹介され、彼を生命保険金の受取人とするよう偽装結婚を持ちかけられる。

 自殺はいけないことだと口で言うのは簡単だ。しかし、死を望む人にとってそんなお説教は何ら説得力を持たない。説教する側は、死を望むだけの理由がないという特権的な立場にいるのだから、そのギャップを見せつけられて自殺願望者はますます追いつめられる。

 情緒的な意味で自分の足場が崩されていると感じている人は、些細な困難にぶつかっただけでも容易に死を望みやすい。足場を回復できるのかどうかは分からない。人それぞれの問題なのだから。ただ、勘当されていた長田が両親と再会するのを横でみつめる真奈美の視線、眉ツバ的な妙田が語る“前世の記憶”、そういったエピソードには、自身が密接に絡み合っているつながりを想い起こす、もしくは再構築する可能性がほのめかされている。

 無論、普通はこの映画のように美しいものではない。しかし、何か大切に思えるものを自身の中に呼び覚ますことさえできれば、生きるか死ぬかという単純な二者択一ではなく、生きるも死ぬもそのなりゆくままを引き受けることができるのだろう。

 大森南朋の怪演が突出した存在感を持ち、他の出演者がかすんでしまっている。童顔と言ってもいい面立ちが、時におどけ、時に不気味なすごみを放つ変幻自在ぶりに、妙田というトリックスターがストーリー全体を支配している雰囲気が不思議と納得させられる。

 物語としては割合と地味だし、大スターが出ているわけでもないのに、なぜか上映館は立ち見が出るほどの盛況だった。

【データ】
監督・脚本:野口照夫
出演:芦名星、安田顕、大森南朋、平泉成、白川和子、他
2007年/98分
(2007年8月31日レイトショー、渋谷、ユーロスペースにて)

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2007年9月 2日 (日)

上杉隆『官邸崩壊』

 第二次安倍政権の閣僚名簿に与謝野、高村、町村といった名前を見て、不覚にも(?)頼もしく感じたのは私としては奇妙な経験であった。よくよく考えてみると特に感心するような人事でもない。それだけ、第一次政権のぶざまな体たらくが目に余ったということだ。

 上杉隆『官邸崩壊──安倍政権迷走の一年』(新潮社、2007年)は参院選惨敗に至る政権内部の混乱した人物模様を描き出している。どこまで信憑性があるのか確認する術は私にはないが、報道記者や議員秘書を務めた著者の経歴からすると、独自のネットワークも駆使して肉薄しているのだろう。

 安倍晋三という人物個人に対して私は悪意を持っていない。著者も彼の優しい性格を折に触れて書き留めている。しかし、カリスマ的な小泉の跡目をつぐのに力不足だったことは否めない。側近たちの“勘違い”ぶりが政権の傷口をますます広げてしまう醜態を、これでもか、これでもかとばかりに活写される筆致をたどっていると、唖然とするのを通り越して、何やら不可思議な喜劇を見ているような気分になってくる。

 もちろん、側近たちの個人としての力量不足、経験不足がたたっているのは確かだろう。しかし、それ以上に、小泉が従来的な自民党政治を徹底的にぶち壊すことで作り出された例外状況に対応するのは、彼らでなくとも難しかったようにも思われる。それだけに、安倍政権をテーマとしているにも拘わらず、小泉の特異さが浮き彫りになってくるのがちょっと不気味ですらある。

 小泉という人の確信犯的なニヒリズムは政治家としての基準にはならない。本書を読みながら最も印象付けられたのは、安倍首相も含めて、登場人物の誰もがいたって凡人であることだ。政策立案能力という点では、たとえば塩崎前官房長官のような切れ者もいる。しかし、彼らが真に国を憂えているようには思えない。口で美辞麗句を並べるのは誰だってできるが、態度は自ずと表われる。

 かつてマキャヴェリは、フィレンツェという国家の生き残りを図るためあらゆる手段を取らねばならないという強い意志のもと、その前提として自国をめぐる内外の状況をリアルに把握すべく、善悪是非という倫理的判断を相対化させた。政治現象のリアルな認識を求めたという点でマキャヴェリは近代政治学の始祖と目されることになった。しかし、彼にとってそれは、他ならぬ“国家のため”という極めて切迫した動機が一切の楽観を許さなかったからである。つまり、切実な愛国心こそが権謀術数主義を生み出したのである。

 安倍側近たちに戦略は事実上皆無であった。楽観的な判断によって政権の傷口を広げ、個人的な功績争いに浸っているようなゆるい官邸の空気。そのこと自体、切迫した愛国心が欠如した他ならぬ証拠である。

 付け加えると、偉そうにいう私自身は日本が滅んでも構わないと思っている。ただし、その時は一蓮托生、逃げ出さずに心中するつもりでいるが。しかし、“正統保守”を自称する政治家たちがこんなたるい心構えであってはまずいだろう。

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