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2007年8月19日 - 2007年8月25日

2007年8月24日 (金)

広島に行ってきた③

(承前)

 翌朝、7:30頃に宿舎を出た。市電に乗って広島港へ行く。江田島まで船で行くつもりなのだが、ちょうど8:07発が出航してしまったばかり。次の便は9:24までない。旅客ターミナルは割合と新しく、パン屋兼喫茶店のような店があったので朝食がてら時間をつぶす。

 ファーストビーチ号に乗り込み、江田島の小用港へ向かった。広島湾には小島が多く、潮の香りはするものの、見た感じは海というよりは大きな湖という印象を持った(写真51)。小用港までは20分ほどで到着。港前のバス停にちょうどバスがいたので乗り込み、海上自衛隊第一術科学校前で降りた。見学ツアーが10:00から始まることは事前に調べてあったのだが、ギリギリ間に合った。意外と大勢集まっている。案内者は、おそらく退役間近なのだろうか広報の腕章をつけた年配のおじさん。適宜ダジャレを織り込みながら一人一人に語りかける話術は磊落にユーモラスで好感を持った。

 江田島にかつてあった海軍兵学校は陸軍士官学校と同様にエリート軍人養成校であり、旧制高等学校以上の難関だったことで知られる。イギリスのダートマス兵学校、アメリカのアナポリス兵学校と共に世界三大兵学校と言われたそうだ。現在は海上自衛隊の幹部養成校および第一術科学校となっている。

 当時から残っている大講堂(写真52)や校舎を一通り見る。赤レンガの校舎(写真53)はイギリスのダートマス兵学校を、もう一つ白亜の校舎はアメリカのアナポリス兵学校を模して建てられている。沿岸へ行くと、戦艦陸奥の大砲(写真54)や高射砲、砲弾などが記念碑のような感じに置いてある。ここから練習艦にじかに乗り込むことができ、卒業式の日にはそのまま遠洋航海に出かけてしまうそうだ。教育参考館という建物も古そうだが、現在、改装工事中。脇に、いわゆる“人間魚雷”回天(写真55写真56)・海竜(写真57写真58)の2機が置かれていた。説明板での表記は“特殊潜航艇”となっている。教育参考館の仮設展示室には、ゆかりの海軍軍人たちの史料、そして特攻隊として散華した人々の遺影及び遺書がある。

 小用港に戻り、フェリーに乗って今度は呉に向かった。瀬戸内海はどこもそうなのだろうが、対岸が見えるので海という実感がわかない。呉港に近づくにつれて、大型船、工場のクレーン、海上保安大学校などが見えてきて、いかにも軍港というイメージを裏切らない。

 港湾旅客ターミナルに隣接する大和ミュージアムに入った。かつて呉海軍工廠で戦艦大和が建造されたことにちなんだ博物館である。海軍の歴史と呉の街の成り立ちとを絡ませた展示は情報量という点でなかなか充実している。とりわけ技術水準の高さをアピールするのがこの博物館のコンセプトのようで、船の力学を遊びながら体験できるコーナーなどよく工夫されている。名誉館長の一人として松本零士も名前を連ねており、「宇宙戦艦ヤマト」に絡めて未来の科学をテーマとした展示もあった。家族連れで込み合っていた。

 道路を挟んで向かい側にある、海上自衛隊史料館「うみのくじら館」にも寄る。新しくできた施設で、潜水艦の仕組み、機雷と掃海活動の重要性の解説など、海上自衛隊の任務についてのPRを目的としている。潜水艦の実物(写真67)が置かれていて、艦内を実際に歩いて体感できるのが面白い。

 呉の市街地を歩く。思っていた以上に都市としての規模は大きい。高い所から眺めると、住宅地が平地に収まりきれず、山すそをいくぶんか登るあたりまで広がっている。海軍呉鎮守府の城下町として、軍需産業を中心に発展した過去がうかがえる。かつては市電が走っていたらしく、道路の幅員は広いのだが、その分、閑散と寂しい感じもした。私は観ていないのだが「男たちの大和」「海猿」といった映画のロケが行なわれたらしく、観光案内を見ると町興しのテーマとして強調されている。

 もう二時を過ぎたので昼食を摂ろうとI屋に入った。“海軍さん”の味を売り物にしている店だ。昔の洋食はこんな感じだったのかなあと思いながらハヤシライスを食べた。肉じゃがはなかなかうまかった。

 入船山記念館へ行った(写真59)。呉鎮守府司令長官の官舎が記念館として一般公開されている(写真62写真63)。和室と洋室が組み合わされた典雅な建物だ。他にも、衛視詰所(写真60)や弾薬庫(写真61)など、旧海軍を彷彿とさせる建物を実見できる。東郷平八郎の暮らした家(写真64)というのも移築されていた。

 ここからさらに海寄りの方向へ歩くと、海上自衛隊呉方面総監部の前に出た(写真65)。この敷地内にかつての呉鎮守府の建物がある。見学時間からははずれていたので、近くの歩道橋の上から撮影(写真66)。戦前ならスパイ容疑で連行されたろうな。

 広島は陸軍の街、呉は海軍の街、それぞれ軍都としての性格を戦前は持っていた。不幸にして原爆が投下され、廃墟から再生した広島には、戦後、平和のシンボルとしての役割が期待されることになった。対して呉は、軍事の中でも技術という側面に誇りを持たせようとしているのが特徴的である。戦後再出発した日本の二つのイメージ、“平和国家”としての日本と“技術立国”としての日本が、この隣り合わせの二つの街に象徴的に表われているようにも感じられる。

 呉駅に行き、15:45発の快速電車に間一髪のタイミングで飛び乗った。広島には16:20頃に着。乗車予定の新幹線は19:26発なので、もう少し広島の市街地を歩くことにした。旅先では必ず書店をチェックすることにしているので、JR広島駅前福屋百貨店上のジュンク堂と、紙屋町の紀伊國屋を見て回った。両方ともそれなりに充実している。市電に乗って広島駅に戻ろうとしたら、雲行きが怪しくなってきて空に稲妻が走るのが見えた。嫌な予感がしていたら、案の定、落雷による送電線事故で新幹線のダイヤが大幅に乱れていた。東京駅には夜中の12:30頃に到着。中央線の終電にギリギリ間に合い、何とか帰宅できた。

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2007年8月23日 (木)

広島に行ってきた②

(承前)

 昼を過ぎた。昨晩から何も食べてないことを腹の腑が訴えてきたので、地下街のMという店に入り、広島焼きで朝食兼昼食を済ます。再び暑い地上に出て、市街地を南下。袋町小学校(旧袋町国民学校)平和資料館へ行った(写真26)。

 本川国民学校と同様、こちらも当時としては珍しいコンクリート造の建物なので爆発の衝撃波にも耐え、校舎の一部が残されて資料館となっている。行方不明者の消息を尋ねる伝言が一面に書きつめられた壁が保存されている。ボランティアのおじいさんが親切に解説してくれた。生徒たちはほぼ全滅したが、原爆が落ちた瞬間にたまたま地下室に下りていて助かった生徒のことは手記か聞き書きかで読んだ記憶がある。その地下室も保存されており、資料ビデオが流されていた。行方不明となった親族の名前をここの壁に残された伝言で見つけたという人を取材した番組だった。

 たまたま東京の大学生と同席していて、被爆地を訪れた人々のアンケート調査をしているので協力して欲しいと頼まれた。真面目な口ぶりだったので了解。「広島へ来た理由は何ですか?」うーん、言葉につまる。「気になっていたから」と漠然とした返答。「実際に来てみて、初めて知ったことはありますか?」「うーん、知識として驚くことはなかったが、ただ、遺品の原物を見て、現地で足を踏みしめて、まさにここで亡くなったのだという実感があったかな。」当たり障りのない陳腐な返答だ。だから言葉に出したくない。「それでは、国民投票法が制定されて、三年後以降、憲法改正が可能となりますが、第九条についてはどのようにお考えですか?」頭の中で、“出た!!!”とエクスクラメーションマークが3つ並んだ。もちろん、顔には出さない。「うーん、難しい質問ですねえ。取り敢えずペンディングというか、護憲・改憲双方ともそれなりに筋が通っていると思うので、現時点ではどちらとも言えません。」

 彼は色々と興味深い話を聞かせてくれた。外国人と日本人とでの意識の違いが浮き彫りにならないか、それをテーマにインタビューしているという。あるイタリア人など、広島はまだ焼け野原のままだと思っていたらしく、大都会ぶりに驚いていたらしい。「日本人はまだチョンマゲを結っている、みたいな発想なんですかねえ」という彼の突っ込みに納得。海外の人は割合とフランクに答えてくれるようだが、日本人観光客に話を聞こうとすると、胡散臭げに見られてなかなか難しいという。暑い最中、本当に大変だ。

 しばらく雑談しながら、先ほどのアンケートで違和感を持った点を率直にぶつけてみた。「原爆の問題と憲法問題、どちらに力点を置いているのか? 質問の流れとして、非核三原則や核拡散の問題を尋ねるなら分かるが、憲法問題は唐突な印象があった。広島の原爆の問題と憲法第九条の問題とは、君の頭の中ではどのようなロジックで結びついているのだろうか?」彼は「広島のことを考えるにしても、今現在の問題を絡めたかった」という。もちろん、平和問題というテーマで概括できるという前提を自明なものとみなす気持ちは分かる。だが同時に、憲法問題には微妙な政治性がにじんでいる。日本人観光客が忌避しようとしたのはそうした政治性への無意識的な拒否反応だったのではないかという印象を私は感じていた。ただ、付け加えておくと、彼は、たとえば平和記念資料館で遺品を見てショックを受けた直後の人には、感情的にたかぶった状態に土足で踏みにじるのは避けたいのでインタビューしないという。そういう配慮はきちんとしている。「頑張ってください」と声をかけて別れた。

 近くの頼山陽史跡記念館に寄る(写真27)。山陽が脱藩騒ぎをおこして幽閉された居室がここにあったらしい。ここで『日本外史』執筆に着手したという。戦前に記念館が建てられたが、原爆により大破。収蔵品の多くは焼失してしまったが、1995年に現在の形で開館した。ちなみに、岩波文庫版『日本外史』は一応持っているのだが、ほとんど目を通したことはない。古典読解の訓練を受けていないのでなかなか難しい。展示されている書を見ても、実のところよく分からない。

 先日、中島岳志『パール判事』(白水社、2007年)を読んで本照寺という日蓮宗のお寺にパール判事の碑文があることを知ったので地図をみながらたどり着いた(写真28)。原爆慰霊碑にある「過ちは繰返しませぬから」をパールは見て、主語を曖昧にしてアメリカの責任を濁していることは、戦後日本人のアメリカ依存の表われだという趣旨の感想を述べたという。それを聞いたここの住職が碑文をお願いしたらしい(写真29)。英訳は通訳のA・M・ナイル(彼はラシュ・ビハーリ・ボースの秘書役を務めていた)による。

 広島赤十字・原爆病院へ行った(写真31)。ここの建物は爆風に何とか耐えたが、その後建て替えたため一部だけ保存されている。爆風で歪んだ窓枠(写真30)。壁に突き刺さったガラス片が生々しい。被爆者の手記を読んでいると、ガラス片がびっしり体中に突き刺さったという描写がよく出てくるが、コンクリート壁に深くめり込んだ様子を見ると、そのすさまじい勢いが窺われて恐ろしい。なお、この病院の保管庫にあったレントゲン撮影用のフィルムが感光していたことからおびただしい放射能が放出されたことが分かり、広島に落とされたのが原子爆弾であったと確認された。

 東へ歩き、広島大学旧校舎へ行った。戦前の広島文理科大学で、東京文理科大学(後の東京教育大学・筑波大学)と並んで教育系大学の名門であった。ここの建物も被爆に耐えて現存している(写真32写真33)。ただ、大学キャンパスの移転後、使い途が決まっていないようで文字通りの廃墟と化している。被爆当時、この建物の一部は接収されて中国総監府が置かれていた。前にも触れたように、中国総監は本土決戦において東京との連絡が絶たれた場合に独自の指揮命令権を持つとされた。総監となった大塚惟精は内務省警保局長を務めたエリート官僚である。大田洋子『屍の街』には、インテリ肌の人ということで彼の赴任を好意的に受け止めている記述があった(大田の父も役人だったので伝え聞いたらしい)。大塚総監は自宅で被爆、家族を逃がした後に彼一人亡くなった。

 さらに東へ歩く。土地勘がないと徒歩は不安だが、地図をたよりに何とか比治山へたどり着いた。さらに坂道や階段を登る。木々の隙間から照射される午後の陽射しが肌に熱い。足取りは重く、滴る汗が目に入ってしみる。頂上に出ると公園があり、ジャングルジムで若い夫婦が小さな子供を遊ばせていた。ペットボトルのスポーツドリンクを飲み干して一息つく。

 比治山は桜の名所として広島では知られている。陸軍墓地があるのだが(写真34)、その一角をつぶす形でアメリカ占領軍により原爆障害調査委員会、略称ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)の施設が建てられた(写真35)。これは要するに、原爆の兵器としての効果を測定することが目的で、集められた被爆者たちの診察はするが治療はしてくれず、怨嗟の的となっていた。現在は日米共同研究機関 放射線影響研究所となっている。

 近くの展望台では、猫がいかにもだるそうにベンチの下で転がっていた(写真36)。比治山を降りる途中に、頼山陽(1780~1832)没後100年を記念して建てられた山陽文徳殿という建物がある(写真37写真38)。辺りは草ぼうぼうで打ち捨てられた感じ。屋根上の九輪の塔が少しねじれているが、これは原爆の爆風によるという。ここの麓にある多聞院という寺院には、被爆当日、県や総監府の生き残った幹部が集まり、一晩だけ臨時県庁の役割を果たした。

 比治山下という停留所で市電に乗り、宇品へと向かう。寝不足だったのでついウトウトしてしまい、気付いたらいつの間にか終点の広島港まで来ていた。市電を降り、海岸と並行している道路を歩く。マンションなども建っているが、船荷積み下ろし用の倉庫や空き地が広がる、殺風景な通りだ。やけにぼろくて風情のある建物があった(写真48)。一応、広島港湾局所属になっている。堤防に出て海を見る(写真39写真40)。

 地図に書き込んだメモを頼りに、宇品波止場公園に行った。宇品には陸軍船舶司令部、通称“暁部隊”があった。基本的に兵站を担当する部隊で、宇品近辺には軍需物資の生産工場も多かった。広島駅からここまで軍事目的の鉄道が引かれており、日清戦争以来、多くの兵士を運んできた。その後、国鉄宇品線となり1986年に廃線。宇品駅のポイントが残っている(写真41写真42)。宇品線に揺られてきた陸軍の兵士はここから船に乗り込む。出征する者、そして幸いにして復員できた者はこの六管桟橋をその都度踏みしめることになった(写真43写真44写真47)。歌人の近藤芳美による記念碑がある(写真45)。桟橋そのものは現在使われていないが、すぐ近くに海上保安庁の艦船が停泊している(写真46)。

 再び市電に乗り込み、広島の中心街へ戻った。予約しておいた宿舎で着替えてから繁華街へ出る。旅先ではその土地の名物を必ず食べろという恩師の教えを忠実に守り、B屋で広島つけ麺(写真49)を、G屋で広島焼き(写真50)とはしごした。ノドがからからだったのでビールをがぶ飲みして寝た。

(続く)

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2007年8月22日 (水)

広島に行ってきた①

 8月17日金曜日の夜、会社を普段よりも早くひけていったん自宅へ帰り、シャワーを浴びて旅装を整え、東京駅八重洲口へ。夜21:00発の夜行バスに乗り込み、翌朝7:30頃に広島へ到着。バスセンターのある建物を出ると、まだ朝とはいえジリジリと暑い。寝不足の頭がさらにだるくなる。気温は今日もだいぶ上りそうだ。予めメモを書き込んでおいた文庫サイズの地図帳を手に、行動開始。

 まだ時間が早いせいか、平和記念公園に人影はまばら。原爆ドームの前に立つと猫がお出迎えしてくれた(写真1)。大正モダンの様式で親しまれたかつての産業奨励館、世界遺産に指定されてあまりにも有名な建物だが、間近で見るのは今回が初めてだ(写真2写真3写真4)。原爆ドームの元安川寄りは残り、反対側が崩れている。その崩れている方向に爆心地がある。なお、近くに原民喜の文学碑があった(写真5)。佐藤春夫の筆による。

 エノラ・ゲイ号は大田川・元安川にかかるT字型が特徴的な相生橋を原爆投下の目印にしていた。実際にはやや東南側にずれ、島外科病院の上空約580メートルのあたりで原爆は炸裂したと推定されている(写真6写真7)。見上げても夏の青空が広がっているばかりで、雲ひとつない。島外科病院は被爆当時にもあった。たまたま往診に出ていた院長は難を逃れ、瓦礫の山となったここに戻り、応急治療に力を尽くしていた姿が被爆者の手記にあったのを記憶している。

 再び原爆ドームに戻った。原爆の衝撃波に耐えるほど頑丈な造りだったとはいえ、時の経過による劣化は著しく、内部補強を施されている(写真8)。立入禁止なので柵の外から中を覗き込んでいたら、猫がノソノソと入って堂々と寝転んだ。廃墟の中で、不思議にのどかな寝姿(写真9)。

 相生橋を渡る(写真10)。すぐそばに鈴木三重吉の文学碑があった(写真11)。大田川を渡った向こう側、本川国民学校(小学校)では多くの子供たちが亡くなった。被爆校舎の一部は残され、現在は平和資料館となっている。

 相生橋に戻ると、8:15を知らせる鐘が鳴った。大田川沿いに北上。河岸は緑地として整備されている(写真12)。こうの史代『夕凪の街・桜の国』の舞台となっているバラック街はこの辺りだろう。広島市街地の目抜き通りである相生通りの北側、広島城の周辺にはかつて陸軍の練兵場があった。家を失った被災者が避難してきて、行き場がなくそのまま住み着いたようだ。

 戦前、広島は日本でも有数の軍都であった。陸軍の第五師団が設置され、日清戦争に際しては広島城内に大本営が移転してきた(写真13写真14)。すなわち、統帥の最高権限を持つ明治天皇がやって来たわけで、国会も一緒について来て戦時予算の審議が行なわれている。東京以外の地で国会が開かれたのは広島だけだろう。太平洋戦争末期になると、陸軍第二総軍司令部(司令官・畑俊六)や中国総監府(総監・大塚惟精)も置かれた。いずれも、本土決戦で国土が分断されて東京との連絡が困難となった場合に独自の指揮権を持つとされた組織である。そうした政治的・軍事的重要性が原爆を広島へ招き寄せてしまったとも言える。

 広島城から東へ歩く。県立美術館で「生誕100年 靉光展」が開催されており後ろ髪が引かれたが、時間が限られているので素通りせざるを得ない。縮景園の前を通りかかった。旧藩主浅野家の庭園として一般公開されているが、まだ開園時間前のようで観光客が何人か並んでいた。ふと、この近くに住んでいた原民喜の『夏の花』に、縮景園(作中では当時の呼び名の泉邸)へ逃げてきたら多数の死体が転がっているのを目撃した光景が描かれていたのを思い出した。さらに行くと、幟町小学校にぶつかる。折り鶴の碑(写真15写真16)。被爆して白血病を発症し、祈りながら折り鶴を折り続けた少女サダコの話は日本だけでなく海外でも知られている。そのモデルとなった佐々木偵子さんが通っていた小学校である。

 相生通りに出て西進。相生橋を中島へと渡り、平和記念公園に戻る。10時近くともなるとさすがに人出が多い。歩きづめで汗ダラダラなのでレストハウスに入り、水分補給。ここはかつて燃料会館と呼ばれ、被爆後も建物は残ったので改修して使用されている(写真24)。ここの地下室で一人だけ奇跡的に助かった人がいた。その要因は高田純『核爆発災害』(中公新書、2007年)で分析されている。

 平和記念資料館に入る(写真22)。観光客ばかりでなく、夏休みの土曜日なので家族連れでごった返している。被爆死した人の着ていた服、石階段に映った被爆者の影。遺品の数々を見てコメントは難しい。言うだけ陳腐になる。体力的にというよりも気疲れして、ビデオ上映席に座って休息。原爆の絵を描いた人々の抱えた思い入れをインタビューした番組が流れていた。崩れ落ちた建物の下敷きとなった人を助けられなかった後悔。原爆の絵を見て、娘が防火水槽に頭を突っ込んで無残に死んだであろうことに思い至り、私が助けに来るのを待っていたのだろうと自らを責める母親。見ていられなくて途中で席を立つ。

 現在は平和記念公園となっている中島、ここはかつて繁華街で、多数の人々がまさにここで焼け死んでいった。そして、そこを自分の足が踏んでいることに今さらながらに思いを致す。原爆死没者慰霊碑の前では自然と手を合わせていた(写真17)。慰霊碑は丹下健三の設計。石棺には被爆死した人々の名簿が収められている。雑賀忠義・広島大学教授(当時)による「安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しませぬから」という銘文は、誰が過ちを犯したのか主語が曖昧だという議論があったが、それはおいておこう。賽銭箱があったのが目を引いた。土地に刻み込まれた記憶、言い換えれば一種の怨念を、いつまでも忘れず戒めへとつなげていく追憶のシステムを“聖地”の条件とするなら、こうした神社的なあり方も得心がゆく。

 次に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前に立つ(写真18写真19)。もともと、この碑は大田川をはさんで平和記念公園の対岸に建てられていたが、公園の外にあるのは韓国人差別だとの声があがり、公園内へ移設された経緯がある。実は、最初にあった場所というのは朝鮮公族李鍝(金+禺)が被爆死した辺りだったという事情があるらしい。日本による韓国併合後、李王家は公族として日本の皇族に準ずる待遇を受けており、李鍝(金+禺)は陸軍将校として広島に赴任していた。韓国併合以来の複雑な政治事情が影を落としている。日本人が朝鮮半島で優位な立場をいかして商売を行なったため、そのしわ寄せで職を失った人々が広島へ多数来ていたという事情もある。さらに、朝鮮総連と韓国民団との複雑な関係なども問題としてあるが、そうした政治的論争は別として、苦難を受けたことにかわりはないわけで、やはり手を合わせる。

 仏教、キリスト教、神道などの各宗教団体が集まって合同で建立された原爆供養塔の前でも合掌してから(写真20写真21)、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ行く(写真23)。ここでは原爆死没者遺影や被爆者の体験記を集める事業が行なわれている。建てられたのは割合と新しいようだ。地下に静かな追悼空間が設けられている。

 レストハウスの前を通り、元安橋を渡った(写真25)。被爆当日、松重美人カメラマンによる数少ない写真のうち2枚が撮影されたのがまさにここだ。橋は架け替えられている。観光客が笑いささめき、橋のたもとのボート乗り場からは行楽地独特ののんびりした音楽入りアナウンスが流れている。時の隔たりに感慨深い。無残な出来事も、時を経て歴史の中で相対化されていく。もちろん忘れて去ってはいけないが、リゴリスティックに非難しても仕方ないだろう。

(続く)

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