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2007年7月29日 - 2007年8月4日

2007年8月 4日 (土)

「キサラギ」

 アイドル・如月ミキが謎の自殺を遂げてから一年目。彼女の追悼という名目で、如月ミキ応援サイトに書き込みをしていた常連の家元(小栗旬)、スネーク(小出恵介)、オダユージ(ユースケ・サンタマリア)、安男(塚地武雅)、イチゴ娘(香川照之)の5人が都内のある一室に集まった。思い出話でもしようと軽いノリだったところ、「彼女は自殺したんじゃない、殺されたんだ」というオダユージの一言をきっかけに、トゲトゲしい空気が部屋にわだかまる。

 時間がたまたま合ったので事前情報なしに観たのだが、意外と面白かったので驚いた。5人の会話だけで進む密室劇。それぞれが語る回想を通して如月ミキの死の真相に迫るのだが、徐々に一人ひとりの如月との個人的な関係が明らかとなって、互いに「お前が犯人だ!」と疑心暗鬼をつのらせる。どんでん返しが何回も繰り返され、追及の攻守はクルクルと回転。テンポもはやく、映画というよりも舞台を思わせる。何気なく発せられたセリフの一つ一つが後の展開の伏線となっており、脚本がよく練り込まれていることに感心した。5人の掛け合いも絶妙、所々で観客から爆笑が沸き起こっていた。

 ネット上では知り合っていたが初めて顔を合わせるという設定は今では違和感なく受け入れられるが、もう10年くらい前になるか、森田芳光監督「(ハル)」(1996年)では、顔を合わせるまでのプロセスをドラマチックに盛り上げていたのを思い出した。ジジくさい話だが、時代も変わったものだと妙な感懐が沸き起こってしまった。

【データ】
監督:佐藤祐市
脚本:古沢良太
2007年/108分
(2007年8月3日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2007年8月 2日 (木)

菊池理夫『日本を甦らせる政治思想──現代コミュニタリアニズム入門』

 1980年代から主に英語圏を中心とした政治哲学では、リバタリアニズム(libertarianism)とコミュニタリアニズム(communitarianism)という二つの立場の間で交わされた議論が大きな軸となった。大雑把に言うと、リバタリアニズムとは個人の自由を最大限に保障すべきという主張で、市場原理主義もここに含まれる。対して、その弊害を指摘し、伝統やコミュニティーのつながりを重視する議論を提起したのがコミュニタリアニズムだとまとめられる。

 菊池理夫『日本を甦らせる政治思想──現代コミュニタリアニズム入門』(講談社現代新書、2007年)は、“共通善”を求める政治思想としてコミュニタリアニズムを特徴付けた上で、「家族と教育」「地域社会」「経済政策と社会保障」「国家と国際社会」といった様々な位相においてこの政治思想がどこまで応用可能なのかを論じている。コミュニタリアニズムの大きな概略図をスケッチしており、入門として手頃な本だ。

 コミュニタリアニズムに対しては、①コミュニティーにおける絆を重視→個人の自由を束縛するのではないか? ②“共通善”という名目で個人に犠牲を強いるのではないか?といった批判がある。だが、この思想が一つの立場として打ち出された事情として、リバタリアニズムが内包する①負荷なきアトム的個人というフィクションへの疑問、②自由放任経済の行き過ぎ、といった問題への批判の提起を発端としていたことを考えれば、むしろ両者の指摘を総合して歩み寄るという行き方をするのが常道なのだろう(リベラル・コミュニタリアニズム)。あまり面白みのない結論になってしまうが。

 リバタリアニズムvs.コミュニタリアニズム、“自由”重視vs.“共同体”重視、と単純な対立軸にまとめてしまえば分かりやすいが、その分、説得力は乏しくなる。どんな思想でも、一部分だけを切り取って誇張すれば何でも言えてしまう。

 たとえば、リバタリアンがバイブルのように崇拝するハイエクにしても、無条件に“自由”を称揚していたわけではない。ハイエクの自由論の背景として、人間の知性には限界があるという自覚があった。だからこそ、先人が試行錯誤を通して汲み取ってきた智慧を“伝統”として踏まえ、個人の“自由”の足場として“共同体”が必要だと指摘し、単純なアトム的個人モデルを“偽の個人主義”として否定している(ハイエク「真の個人主義と偽の個人主義」『市場・知識・自由』田中真晴・田中秀夫訳、ミネルヴァ書房、1986年)。

 リバタリアンにコミュニタリアン、仮にそれぞれが極論を唱えたとしても、そうすることで論点の掘り起こしを図り、政治をめぐる大きな議論に一層の磨きをかける。そうした意味での役割分担を通して貢献しているという自覚が必要だ。これも一種の“共通善”を求める営みとするなら、私もメタなレベルで自覚的なコミュニタリアンだと言えるだろう。

 なお、リバタリアニズムについては森村進『自由はどこまで可能か──リバタリアニズム入門』(講談社現代新書、2001年)が入門書としてよくまとまっている。他に蔵研也『リバタリアン宣言』(朝日新書、2007年)というのもあるが、あまりに質が低いので私は以前にこのブログで酷評したことがある(「リバタリアン宣言」及び「リバタリアン宣言についてもう一度」を参照のこと)。

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2007年8月 1日 (水)

岡潔という人

 藤原正彦『国家の品格』(新潮新書、2005年)は異例のベストセラーとなったが、文化論としてはあちこち粗が目立ち、あまり良い本とは思っていない。ただ、論理的思考の基礎は情緒にある、そして情緒は歴史や風土の中で育まれるという藤原の年来の主張は傾聴に値する。

 この藤原のアイデアにはタネ本がある。岡潔(1901~1978年)である。藤原と同様に数学者で文化勲章も受章している。研究テーマは「多変数解析函数論」ということだが、何のことやらさっぱり分からない。ドストエフスキーの愛読者。若い頃、「計算も論理もない数学をやりたい」と言って周囲から怪訝に思われたそうだ。

 岡は随筆でよく知られた。『春宵十話』(光文社文庫、2006年)では、数学もまた自らの情緒を外に表現する一つの形式だとした上でこう記している。「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと言って来た」。なかなか良い感じ。

 私が岡潔の名前を初めて意識するようになったきっかけは、昨年、日本経済新聞に掲載された辻原登のエッセー「四人の幻視者(ボワイヤン)」(2006年1月22日)。そこでは、「ロシア・ソビエトSFの父」ツィオルコフスキー、独特な日本語学者・三上章、戦争末期にボルネオのジャングルで姿を消した文化人類学者・鹿野忠雄と共に、岡潔について触れていた。岡のめぐらした不思議な日本民族論を辻原はこうまとめている。

われわれ日本民族は三十万年ほど前に他の星から地球にやってきて、マライ諸島あたりに落下した。一万年くらい前に黄河の上流にいた。それから南下して、八千年くらい前にペルシャ湾からマライ諸島を回っていまの日本諸島にたどり着いた。ところが、われわれはそのことを忘れている。他の星の住人だったことも忘れている。しかし、忘れているということを知っている。知っているがどうしても思い出せない。この狂おしいばかりのなつかしさ。

 岡の原文で読みたければ、『春宵十話』所収の「ある想像」や『日本の国という水槽の水の入れ替え方』(成甲書房、2004年)所収の「日本民族の心」を参照のこと。

 なお、岡は熱烈なナショナリストでもあった。日本民族滅亡の危機を憂え、時折猛り狂って極論へと暴走してしまう。日本民族起源論のファンタスティックなイメージも含めて岡は大真面目なのだが、そこがかえって無邪気でかわいらしい。しかし、前掲した『日本の国という水槽~』の編集方針は“憂国の随筆集”。岡の猪突猛進を真に受けてしまうと何だか妙な違和感がある。

 岡と小林秀雄との対談が「人間の建設」というタイトルでまとめられている(『小林秀雄全集第十三巻』新潮社、2001年)。奔放に飛躍しかねない岡から、小林はバランスよくたくみに言葉を引き出しており、読みやすい。小林は、岡の話は理論ではなくビジョンとして非常に面白い、と評している。まさに岡は言語で表現しがたいレベルの問題をイメージで語ろうとしており、誤解されかねない危うさそのものもひっくるめて興味深い。

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