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2007年1月14日 - 2007年1月20日

2007年1月20日 (土)

「ハミングライフ」

(以下、内容に触れていますので注意)

 父親の反対を押し切って上京した藍(西山茉希)は就職活動中。服飾の仕事をしようと面接をいくつも受けているが、なかなかうまくいかない。仕方ないので通りがかりの雑貨店でアルバイトを始める。その日、公園で犬をみつけた。名づけてドドンパ。そばにある木のウロをのぞくと、小さな箱がある。中には誰かさんのメッセージ。犬のイラストがかわいかったので持ち帰り、代わりにお返事を入れた。こうして、物語づくりの好きな見知らぬ誰かさんとの文通が始まる。

 一つ一つの小さな営み。注意して目をこらしてみると、誰かの残した確かなしるしが街のあちこちに刻み込まれている。つまらないものと見過ごしてしまうかもしれない。しかし、そこに込められた人それぞれの想いを一つ一つ丁寧に拾い上げていくことは、逆に自分自身にとってかけがえのないものが一体何なのか、自らに問い直すきっかけとなる。

 雑貨店の理絵子さん(佐伯日菜子)が初めて仕入れたというカエルの置物。見知らぬ誰かさん(井上芳雄)のつづる物語。藍は他の人が抱く様々な想いに触れ始めたが、そんな時、せっかく仕事に慣れてきた雑貨店は店じまい。さらにドドンパがいなくなり、手紙を入れていた箱が消え、落ち込んだ藍は、自分の打ち込めるものは何なのか、もう一度考えなおすことになる。就職の面接では型通りの受け答えしかできなかった彼女だが、他の人にとってのかけがえのないものに共感し、何かを失うつらさを知ったいま、自分自身のものを着実につかみ取れそうだ。

 少女マンガっぽい雰囲気は好みが分かれると思うが、私は悪くないと思う。監督の窪田崇の作品を観るのはこれが初めてだけど、映像のつくり方がとてもうまい。とりわけ、街を描くときの光のあて加減がいい。登場人物の気持ちの揺れとそれに反応するかのような街並みそのものが持つ表情を浮かび上がらせ、通りすがりにはどうでもいいかもしれないが、そこで暮らす人の視線を感じさせる。藍が故郷の母親と電話で話している時の、部屋の中のぼんやりした薄暗さと窓の外に見える夕暮れ色に染まった街と空とのコントラストが私は好きだ。

 難点があるとすれば、主役の西山がこの映画のイメージと微妙にずれること。彼女の存在感は決して悪くないのだが、あまりにも美形なので、このしっとりとしたストーリーから浮き上がってしまう気がした。もう少し泥くさい方がいいと思うのだが、かと言ってたとえば池脇千鶴だと逆にはまり過ぎてつまらない。難しい。

【データ】
監督:窪田崇
原作:中村航
配給:フロンティアワークス
2006年/日本/65分/カラー/シネマスコープ
(2007年1月16日、テアトル新宿でのレイトショーにて)

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2007年1月19日 (金)

東京都写真美術館

 ホールで上映中の「恋人たちの失われた革命」を観に来たのだが、上映開始まで時間があったので展示を観てまわった。

 「球体二元論:細江英公の世界」展。土方巽を故郷の秋田で撮った『鎌鼬』(1969)が印象深い。村はずれのキチガイ、それを村人が穏やかに受け入れるという感じ。屋根から飛び降りる土方を見て驚く子どものおびえた表情がかわいい。暗黒舞踊について私は詳しいことを知らないのだが、あの雰囲気が農村の風景の中では意外と素直に収まるので驚いた。モダンというよりも、逆に土着的な情念の表れなのだろう。そこから切り離して無機質な都市空間に置いて観ようとするから妙な違和感があったのだと納得した。

 三島由紀夫を被写体とした『薔薇刑』(1963)。三島の力みかえったポーズを見ていると、思わず吹き出してしまいそうだ。三島のナルシシスティックな構えが私はどうにも好きになれない。これに対して、土方や大野一雄の、異世界に没入してしまったおどろおどろしさがこの世に顕現したかのような姿には、不思議と視線を釘付けにする強さがある。

 「地球(ほし)の旅人──新たなネイチャーフォトの挑戦」展。菊池哲男、前川貴行、林明耀の三氏による動物写真、風景写真の展示。動物たちのユーモラスで愛嬌のある表情に顔をほころばせ、山岳雪渓の雄大さには胸がすくような心地よさ。細江の濃い世界を観た後には一服の清涼剤のようで気持ちが落ち着く。

 「光と影──はじめに、ひかりが、あった」展。光と影のコントラストをテーマに焦点をしぼり、モホイ・ナジ、マン・レイから現代の写真家までを取り上げている。私は写真論には詳しくないので、光の出し具合そのものに工夫をこらした作品には実はあまり興味がそそられなかった。

 写真美術館では常に三つの展示を並行して行なっているので、丁寧に観ていると時間がかかる。ホールや近くのガーデンシネマでの映画鑑賞を組み合わせると一日かけて優雅な時間を過ごせる。(2007年1月14日)

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2007年1月18日 (木)

「恋人たちの失われた革命」

 1968年のパリ。いわゆる“五月革命”と呼ばれた学生運動が盛り上がる世相を背景として、芸術や恋に情熱を燃やした青年たちの夢見る日々と挫折を描く。モノクロームの映像は、レトロスペクティヴな懐かしさを感ずる人もいるだろうが、私には一時代昔の別世界を垣間見るような感じ。音楽は、登場人物の心情を点描するように時折ピアノが入るだけで、全体を通して静か。その分、青年たちの微妙な表情の動きを捉えようと意識が働く。とりわけ、フランソワ(ルイ・ガレル)とリリー(クロティルド・エスム)の表情はモノクロームの効果で陰影がくっきりと描かれ、目がさめるように美しい。

 私は、学生運動に参加したことを自慢げに語る単細胞オヤジが大嫌いだ。そういうおっさんどものノスタルジーをかき立てる映画かと、実は警戒しながら観ていた。しかし、そのようなコンテクストからは切り離して観る方がいいだろう。青年期にありがちなシニカルな強がりと、一方で繊細な純情とがバランスの取れない葛藤、そこを青年たちの表情の揺れをパッチワークするように描いているところにはひきつけられる。とりわけ、リリーがパトロンのいるアメリカへ旅立ち、フランソワが一人部屋に残されてしまうあたり、ドラマとしての盛り上がりは極力排して淡々と進行しているだけ余計に、自分をその立場に置き換えて寒々とした部屋の雰囲気をつい想像してしまい、身につまされる思いがした。

 評判が高いらしく、客席の大半は埋まっていた。しかし、正直に言うと、退屈だったことも否定できない(こういう作品を退屈だなんて言うと、鑑賞眼のある方々から軽蔑されそうだが…)。隣に座っていたカップルの女性は頻繁に座る姿勢を変えて落ち着きがなかったし、上映が終わった途端うしろからため息のもれるのが聞こえた。こうしたタイプの映画を観慣れない人にとって三時間にわたる拘束は拷問に近いのかもしれない。デートにはふさわしくないと思う。

【データ】

原題:Les Amants Réguliers
監督:フィリップ・ガレル
2005年/フランス/182分/モノクロ
配給:ビターズ・エンド
(2007年1月14日、東京都写真美術館ホールにて)

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2007年1月17日 (水)

「パプリカ」

◆「パプリカ」

 他人の夢に侵入できるPT機器。不安神経症治療のために開発されたものだったが、何物かによって盗まれてしまった。人々の無意識が混淆し始めるパニックの中、パプリカと呼ばれる“夢探偵”が出動する。筒井康隆の原作を手際よくアレンジし、人間の無意識が織り成す有象無象をイメージ化したアニメーションである。

 今敏には「パーフェクトブルー」(1997年)や「千年女優」(2001年)などの作品があるが、いずれも登場人物が目まぐるしく入れ替わるスピーディーでリズミカルな映像作りの巧みさに感心した。そうした映像構成が、今回の「パプリカ」でも、夢に現れる取り留めない無意識の世界を描き出すのに効果的に使われている。流れるように転変する映像に平沢進の音楽がうまくのっており、これも良かった。帰りにサントラを買ってしまった。

【データ】
監督:今敏
原作:筒井康隆
音楽:平沢進
声の出演:林原めぐみ、江守徹、大塚明夫、古谷徹、山寺宏一、筒井康隆他
2006年/90分
配給:ソニー・ピクチャーズ
(2007年1月13日、テアトル新宿にて)

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「硫黄島からの手紙」

◆「硫黄島からの手紙」

 クリント・イーストウッド監督による硫黄島シリーズ第二部。第一部「父親たちの星条旗」ではアメリカ側の視点で戦争の不条理が描かれていたが、こちらは日本側の視点で硫黄島の凄惨な戦いを描く。

 栗林中将の親米的な部分を強調するなどアメリカの観客を意識したと思われるシーンもあるが、概して冷静かつ公平に戦場を描こうとした重みはずっしりとある。こうした映画が日本人を主役としてハリウッドで作られたこと自体、少々感慨深い。渡辺謙は「ラスト・サムライ」に引き続き日本の良き武人像を演じた。かつて海外ではMIFUNEがそのイメージだったが、これからはKEN WATANABEなのだろうな。

【データ】
監督:クリント・イーストウッド
製作:スティーヴン・スピルバーグ
出演:渡辺謙、二宮一也、伊原剛志、中村獅堂、加瀬亮他
2006年/アメリカ
(2007年1月13日、新宿ミラノ座にて)

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2007年1月16日 (火)

「海でのはなし。」

 宮崎あおいと西島秀俊は以前から気になっている俳優だ。カゲのある表情、それも透明感のあるピュアなカゲリを表情で出せると言おうか。私が観ようとする映画によく出てくるので意識するようになった。そんな二人を主役にスピッツの曲をイメージしているというのだから期待しないわけがない。

 だが、結論から言うと、これは明らかに駄作だろう。ストーリーがあまりにもベタで、あきれるというのを通り越して、吹き出してしまうのを我慢していたくらいだ。曲の合わせ方もいまいち。スピッツの曲と宮崎・西島の取り合わせはイメージ的にぴったりだと思うだけに、本当にもったいない。

 上映終了後に監督の大宮エリーとおすぎのトークがあった。何でも、スケジュールの都合から一日で構想を立て二日で撮影を終えたらしい。その点だけで言うと、確かによくここまで小器用にまとめ上げたと感心はする。しかし、それはあくまでも製作側の都合だ。金を払って観に来た立場からするとどうにもいただけない。おすぎの映画評はいつもシビアで的確だと思うが、監督とは個人的に仲が良いらしく今回は歯切れが悪かった。「こういう映画があってもいいと思うのよ」「西島クンが出ているだけでもう最高!」というノリで、作品そのものについてのコメントは濁していた。

【データ】
監督・脚本:大宮エリー
2006年/71分/カラー
配給:リトルモア
(2007年1月12日、ユーロスペースのレイトショーにて)

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2007年1月15日 (月)

中岡望『アメリカ保守革命』

 昨年のアメリカ中間選挙の結果を受け、ブッシュ政権へのネオコンの影響力は低下した。9・11同時多発テロからイラク戦争に至るまでマスメディアにも盛んに登場したネオコン──その思想的な核心がどこにあるのか、実は私はいまだにピンときていない。政策の誤りをあげつらうのはたやすい。しかし、彼らを駆り立てた動因が何であったのか、そこをしっかりと押さえておかなければ建設的な批判はできない。

 そうした中、本書は戦後アメリカ政治史の文脈におけるネオコンも含めた保守主義の系譜が整理されており、一つの見取り図を得たという点で有益であった。

 一般的に保守主義の思想的な特徴としては次の点が指摘される。第一に、神の前において人間の賢しらを戒め、進歩主義的な観念論を偽りごととして批判する。それは、戦後政治においては反共・反リベラルとして特徴付けられる。第二に、政府機能は縮小させ、かわって各人の家族や共同体への帰属意識を重視する。第三に、経済的な自由競争、自己責任原則を主張する。ただし、これらが一律に主張されるわけではなく、宗教的倫理重視の伝統主義者と経済的自由重視のリバタリアンとが絡み合っている。

 アメリカでは、F・D・ローズヴェルト政権のいわゆるニューディール政策によってリベラルが政治の主流となりつつあった。そうした趨勢に対して戦後、保守主義思想は自前の立場を主張し始める。いわゆる保守主義革命は三段階に分けられ、第一段階は1950年代、理論構築の時期。第二段階は1960年代半ばからで、保守主義者は共和党に入って政治活動を開始した。そして、1981年に誕生したレーガン政権への参加が第三段階となる。

 しかし、レーガン政権への参加に伴う人事抗争、さらにはソ連という共通の敵が消滅したことにより、保守主義者内部の争いが表面化した。具体的には、キリスト教右派などポピュリスティックな人々を中心とするペイリオコン(Paleo-Conservatism=旧保守)と、インテリ中心のネオコン(Neo-Conservatism=新保守)とに分裂したのである。

 両者は次の点で相違する。第一に、ペイリオコンとは異なり、ネオコンは宗教的倫理観を最優先課題とは考えない。たとえば、ネオコンの中に同性愛者がいたらしいが問題にもならなかったという。ペイリオコンには生まれながらの伝統主義者が多いのに対し、ネオコンには左翼からの転向者が多いという出自の違いもある。

 第二に、ペイリオコンの主張が極めて情緒的であるのに対し、ネオコンは政策科学的な理論武装をもとに論陣を張った。たとえば、ペイリオコンは福祉国家を悪しきものとして一方的に排斥するだけである。しかし、ネオコンは統計データを分析して比較考量し、福祉政策によって依存者が増えるというマイナスよりも、福祉政策を撤廃したときの生活困窮者の問題の方が深刻であるならば、福祉政策路線を継続させるというリアルな対応を取る。こうした政策ブレーンとしての有用性がレーガン政権以降ネオコンが重用された理由である。

 第三に、国際政治への対応として、ペイリオコンは伝統的な孤立主義を主張する。共産主義は倒れたのだからこれ以上アメリカは世界にしゃしゃり出てゆく必要はない。これに対してネオコンは、国際秩序の形成にアメリカは責任を持つべきであり、そのためには軍事介入も躊躇してはならないと考えている。

 ネオコンにはユダヤ人やカトリックが多く、その世界観には一神教的・十字軍的な使命感が垣間見られると指摘される。イラク戦争の理由を石油利権等の分かりやすいファクターで説明しようとする議論がたまに見られるが、そんな単純な問題ではない。こうした思想的な側面からさらに掘り下げた説明を私は最も期待していたのだが、紙幅の制限のためでもあろう、本書ではなかなか難しいようだ。

 アーヴィング・クリストル(Irving Kristol)がネオコンの理論的なキーパーソンとなるらしい。しかし、彼も含めてネオコンのスタンスを一貫的に主張した理論書はないという。ちなみに息子のウィリアム・クリストル(William Kristol)はホワイトハウス入りして政策立案で大きな役割を果たした。

 独善的な理念の暴走を戒めるというのが保守主義思想の真髄であったはずだ。そこから考えると、ネオコンというのは、まとっている衣は保守主義であっても、根本的にどこか異質な部分がある。その異質さを浮き彫りにした研究があれば是非とも読んでみたい。

【取り上げた本】

中岡望『アメリカ保守革命』(中公新書ラクレ、2004年)

(2007年1月3日記)

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2007年1月14日 (日)

「送還日記」

 韓国政府によって逮捕された北朝鮮のスパイを我々はどのように考えるだろうか。北朝鮮が様々に問題含みな体制であることを目の当たりにしている現在、決して良い感情を持つことはないだろう。

 韓国の公安当局によるあの手この手の攻め技にも耐えて数十年ものあいだ非転向を貫いた北朝鮮のスパイが、南北の協定によって北へ送還されるまでの日々を数年にわたって撮り続けたドキュメンタリーである。

 監督は比較的若い世代に属する。言動からみると、朴正熙もしくは全斗煥政権時代に学生運動に参加した世代だろう。韓国の学生運動世代は、軍事政権への反発から、韓国政府の言うことはすべて疑ってかかるという癖がついており、監督は北朝鮮のスパイについても冤罪だと思っていたらしい。

 当然ながら、監督の基本的な政治姿勢としては反韓国保守政権の立場で、南北統一のために北朝鮮と共同歩調を取るべきという考え方を持っている。しかし、映画を撮り進めるうちに国際的な政治環境が大きく変化した。これに伴い、北朝鮮の抱えるいびつな問題から眼を背けることもできなくなってきた。そうした変化が監督たちの視線にも微妙な揺れを及ぼしているのがこの映画の一番興味深いところだ。

 ある日本人ジャーナリスト(石丸次郎)が、もともと北に親近感を持っていたにもかかわらず、北の実情を知るにつれて「いまや南北関係が問題なのではない。北朝鮮そのものが問題だ」と発言するシーンがある。監督はそれを否定しないが、「しかし、アメリカが強硬姿勢を崩さない以上、戦争体制の継続はやむを得ないのではないか」というコメントをつける。焦点のずれた強弁にしか聞こえないが、裏読みするならば監督自身の動揺が屈折して表われているとみることができるだろう。

 監督たちと非転向囚との付き合いをみている限り、一対一の人間関係としてのあたたかい雰囲気もある。しかし、彼らが折に触れて共産主義万歳、金日成主席万歳というイデオロギー論をぶち上げることには、北に同情的な監督たちといえども食傷気味なのがうかがえる。

 彼ら非転向囚と監督との間に、本当に感情的な面での交流があったのか、この映画を通してみるだけでは実のところよく分からない。北に帰った非転向囚たちがピョンヤンでのイベントに出席し、パリッとした服装に勲章をぶら下げた姿を見た時には、監督たちも違和感があったようだ。「彼らは帰るべきところ、家族のところに帰ることができて本当によかった」というコメントが映像にかぶさる。だが、監督たちのコメントから「南北統一のために」という政治スローガンがいつしか消えているのは、私の聞き落としだろうか。

【データ】
監督 キム・ドンウォン
製作 プルン映像企画
韓国/2003年
(2006年4月、渋谷シネラセットにて)

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