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2007年7月15日 - 2007年7月21日

2007年7月21日 (土)

外地にいた祖父母のこと(2)

(承前)

 断片的に聞いた話を思い出して整理しながら、私が一番興味をひかれるのは満州にいた母方の曽祖父だ。

 仮にKと呼ぶことにしよう。何でも、若い頃、伊達順之助の不良仲間だったらしい。伊達は檀一雄『夕日と拳銃』のモデルで、満州で馬賊の親玉となったことで知られる(と言っても、ある年代以上の人にしか分からないだろうが)。敗戦後は戦犯として上海で処刑された。

 Kは英語がよくできたので横浜の貿易会社に勤めていた。ところが、関東大震災の余波でこの会社が倒産したため(この時、祖母は曾祖母のお腹の中にいて、地震のショックで予定日よりも早く生まれたそうだ)、伊達を頼って満州に行った。Kはなかなかやり手だったようで、満州興商?(未確認)とかいう会社の重役におさまったらしい。重役室の大きな机の前に座って執務している彼の写真を大伯父から見せてもらったことがある。

 Kはいわゆる大陸浪人タイプだったのだろう。家族はほったらかしで、大伯父も祖母もKについて詳しいことを知らない。伊達とのつながりで満州に来たのなら、やはり裏工作に従事していたようにも思われる。奉天という土地柄を考えると、たとえば奉天特務機関の土肥原賢二、さらには甘粕正彦や里見甫をはじめ、ひとくせもふたくせもある輩とも関係があったのか、そういった想像をたくましくしてしまう。

 戦争中の1943年、Kは50歳になるかならないかのまだ働き盛りの年齢で病没した。戦後まで生きていたら、ひょっとしたら戦犯として拘留されたかもしれない。Kの死により一家は日本に引き上げたので、満州国崩壊・ソ連侵攻という混乱には巻き込まれずにすんだ。Kは相当な金額の遺産を残してくれたらしいが、曾祖母が世間知らずで才覚が働かず、敗戦ですべて紙くずになってしまった。

 Kは器用というか、多趣味な人だった。前にも触れたように料理が好きで、外で食べた味を自分なりに工夫して再現するなんてこともしていた。カメラも趣味で、特急アジア号の前に立つ秩父宮をKが撮影した写真が大伯父のもとにあった。

 そうした中の一枚であろう、Kの姉、仮にTと呼ぼうか、彼女が写った写真を私の母が大伯父から譲り受けて大切に保管している。セピア色の変色が時の経過を感じさせる写真だ。Tは布団の上で半身起き上がり、絵筆を取っている。病床なのに、どことなくハイカラな雰囲気が伝わってくる。彼女は女子美術学校に通っていた。大正時代、女子美がまだ本郷菊坂にあった頃だろう。

 Tは結核に冒されており、在学中に亡くなった。Kはそうした薄倖の姉を、その死後もずっと慕っていたらしい。曾祖母とはあまり仲がしっくりしていなかったようなのだが、一つにはKの姉への想いに曾祖母が嫉妬していたのではないかともいう。

 私の母はもちろんTに会ったことなどない。ただ、病床で絵筆を取るTの凛々しい姿を見て憧れを抱き、大伯父にせがんでこの写真をもらってきたそうだ。

 ルーツ探し、というほど大げさなことは考えていない。私はもともと日本とアジアの現代史には関心があった。少し話を聞いただけでも、そうした現代史の背景知識とのつながりが一応はわかる。そうやって腑分けしながらたどっていくと、歴史の中に翻弄された一人ひとりそれぞれにとっての人生のドラマが窺えるし、それが自分にもつながっているというのが不思議に面白い。私は中学・高校生の頃、モンゴルに憧れていた時期があったのだが、外地にいた祖父や曽祖父からの血が呼び覚ましたのかとも話をこじつけたくなる。存命のうちにもっと話を引き出しておけばよかったという後悔を今さらながらに感じている。

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2007年7月20日 (金)

外地にいた祖父母のこと(1)

 先日、実家が引っ越すというので荷物の整理に行った時のこと。祖母が「こんなのが出てきたのよ」と言いながら古びた紙片を見せてくれた。祖母が女学校を卒業した後に作られた同窓会名簿だった。ほとんどが東京在住者ばかり。2名ほど中国からの留学生がいて、中華民国済南市、蘇州市といった地名が見える。

 祖母の名前の下を見ると、満州国奉天市大和区○○町××となっていた。現在の遼寧省瀋陽である。父親(つまり、私の曽祖父)が満州で仕事をしていたので、祖母もしばらく奉天で暮らしていたのだ。近くに奉天医科大学があったという。

 東京から奉天へ向かうには、まず下関まで行き、関釜連絡航路で釜山に出る。あとは朝鮮鉄道・満鉄直通の汽車で奉天まで一本で来られた。祖母が「前の席に飯沼飛行士が座っていたのよ」と楽しそうに言うのだがピンとこない。後で調べたところ、昭和12年に東京からロンドンまでの連続飛行で世界記録を樹立した「神風号」の飯沼正明飛行士のことだと分かった。飛行機の名前のせいで戦後は色々と誤解があったのだろう、いつしか忘れられてしまった人物である。当時としては誰もが名前を知っている、時代のヒーローだったらしい。いわば日本のリンドバーグというべき存在だ。

 祖母によると、奉天はとにかく凍てつくように寒かったが、雪の印象はないという。ロシア人の経営するレストランが割合とあって、たまには外食でもしようという折に行ったそうだ。オムレツが大きくておいしかったと懐かしげだった。曽祖父は器用な人だったようで、ロシア料理の味をすぐに覚えて自分でも作っていたらしい。

 「現地の中国人が満鉄警備隊にひどく殴られているのを見て、いたたまれない思いをしたことがある。日本は本当にひどいことをしたものだ」とも語る。聞きながら、何となく武藤富男の名前を思い浮かべていた。祖母は明治学院長だった武藤に感激してわざわざ会いに行き、自身の長男(つまり、私の伯父)を明治学院に入れていた。武藤は官僚出身で満州国では甘粕正彦の側近となったが、戦後は前非を悔い、クリスチャンとなって反戦平和を唱えていたことで知られる。

 祖母の長兄(私の大伯父)は奉天の平安小学校の出身である。満映の大スター、李香蘭こと山口淑子も学年は違うがここの同窓で、彼女が日本人であることは早くから知っていたという。

 なお、大伯父は学徒動員組である。雨が降る神宮球場で行なわれた壮行会の映像は昭和史のドキュメンタリー番組でよく取り上げられるが、あの中にいた。女学校在学中だった祖母も見送りに行った。宇品の暁部隊に配属され(丸山眞男もここにいた)、原爆投下直後の広島に入った。この時に被爆したらしく、毛が抜けたり出血したりという症状がしばらく続いたという。被爆者手帳はもらっていない。戦後すぐ共産党に入党したため会社で冷遇されたこともあり、酒びたりの大荒れの時期があったと聞く。

 祖父母が父方・母方ともにいわゆる“外地”にいたということが、私には不思議なほどに関心をそそられる。

 満州にいたのは母方の祖母である。結婚したのは戦後だが、祖父も大陸にいた。祖父は旧制の高等農林学校を卒業した後、就職先がなかったので学校で理科を教えていたらしい。いわゆる“でもしか教師”である。間もなく朝鮮総督府に職を得た。一年間ほど京城(ソウル)にいてから、北京にあった満鉄の子会社・華北交通に移る。北京で現地応召されたが、すぐに爆弾で吹き飛ばされて本土に戻され、敗戦を迎えた。体内に爆弾の破片が死ぬまで埋め込まれたままだった。

 滅多に昔話をしない人だったが、測量技師として張家口など黄河北岸あたりの調査旅行に参加した時の話を晩年になって聞いたことがある。当時の中国の農村ではどんな家畜飼育をしていたのかなど語ってくれたが、詳しいことは覚えていない。メモしておけばよかったと今さらながらに思う。中国語の通訳が朝鮮人だったらしく、日本語・中国語ともに堪能だったことに感心していた。「よその国に支配されてしまって、生き残るために必死だったんだろうなあ」と目を細めていたのが印象に残っている。

 父方の祖父母は台湾にいた。祖父は台北の旧制中学で教員をしており、やはり現地応召されて戦車部隊に配属されたと聞いている。日本人生徒と現地の生徒とで差別的な扱いをしなかったので慕われたらしく、戦後も昔の教え子たちからたびたび招待されて台湾に行ったという。鬼籍に入ってから十年以上経つが、色々と話を聞いておけばよかったと後悔している。祖母も台北で女学校を出ており、訪ねていくと得意料理のビーフンを作ってくれたものだ。

(続く)

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2007年7月19日 (木)

季武嘉也『選挙違反の歴史』

季武嘉也『選挙違反の歴史──ウラからみた日本の100年』(吉川弘文館、2007年)

 選挙の季節がやってまいりましたので、とりあえずこんな本を。

 明治23(1890)年の帝国議会開設以来、衆議院議員選挙における違反者数の推移を手がかりに、選挙事情を通じてその背景をなす日本の社会的変化を本書は読み取ろうとする。

 世界最大の民主主義国インドでは今でも総選挙のたびに死者が出るが、明治期の日本の選挙でも吏党と民党に分かれての暴力沙汰は当たり前だった。ただし、それは今で言う政府与党と野党との対立とは事情が異なる。ムラ内部にもともとあった対立関係が、選挙の際に吏党・民党という形を取ってエキサイトしたということらしい。その後、日清・日露戦争での全国的な興奮をきっかけに、ムラそれぞれで団結しようという雰囲気が生まれてこうした騒擾もおさまり、地元の名望家を軸とした選挙システムとして安定するようになった。

 周知の通り、戦前の日本は制限選挙であった。当初、選挙資格は国税15円以上の納税者に限定されたため、弁は立つが貧しく過激な士族不満層や、“お上”に唯々諾々と盲従する封建的な気性の抜け切れない一般庶民層は除外され、土着の温厚篤実で安定志向の名望家層が有権者を構成することになった。この国税15円という基準の設定に当たっては、イギリスのジェントリー(郷紳)を想定していたのではないかとの指摘が興味深い。

 “名望家秩序”といっても、いわゆるボス支配を意味するわけではない。選挙資格のない庶民層も(騒擾という暴発もあったように)選挙のたびにアクティブに動き回っていた。地元の名望家はいわば地域共同体の投票代理人的な性格を持っており、その意味では選挙権の有無に拘わらず、実際には多くの国民が選挙に関与していたと言えるそうだ。

 選挙違反で最も多いのは買収であろう。しかし、買収されたからといって、有権者は自分の意に反する候補者に投票したわけではない。むしろ、他よりは好意的な候補者からカネをもらうケースが大半であった。言い換えると、買収には、有権者を投票所に動員し、投票率を高める機能を果たす側面があったとも言える。

 戦後から現在にかけてみると、とりわけ都市部では有権者の投票行動は個人単位に細分化されてきた。地縁的なつながりが薄れつつある中、買収は効率が悪いため減少し、イメージ選挙が中心となった。従って、候補者レベルでみると、選挙違反者数も、選挙に要する費用も大幅に減少してきている。その代わり、政党レベルでは宣伝費を中心に費用はむしろ莫大なものとなった。

 選挙にまつわる地域事情を踏まえて、足もとから見上げる形で日本の政治史を読みかえてみようと意欲的な論点が多数提示されており、面白い研究だ。

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2007年7月18日 (水)

「殯の森」

「殯(もがり)の森」

 見終わってすぐに浮かんだ印象は、緑のやわらかなてのひらにあたたかく包み込まれた感じ、と言ったらいいだろうか。

 河瀨直美監督初の長編「萌の朱雀」がカンヌでパルムドールを受賞してからもう十年が経つのか。早いものだ。この作品は本当に好きだった。吉野の緑深い山村を舞台に、父の自殺を契機として家族が静かに崩れていく姿を描き出していた。息子の義母に寄せる想い、妹の兄に寄せる想い、それぞれの淡い気持ちもすべて山の鬱蒼たる木々の中に包み込まれている、そうしたイメージがとにかく胸にやさしくしみわたってきた。父親役の國村隼以外はすべて素人を起用していたが、この作品に出演したのをきっかけに尾木真千子は女優を目指したという。素朴にかわいらしく思っていたが、今回、「殯の森」では大人に成長しつつある姿を見せてくれる。

 「萌の朱雀」の後も、河瀨監督が「火垂」(2000年)、「沙羅双樹」(2003年)と新作を発表するたびにきっちりとチェックしていた。ただ、情念的なものが濃すぎて、私にはちょっと入り込めないなあと戸惑ったことを覚えている。

 今回の「殯の森」は、「萌の朱雀」と同様の吉野の山あいに舞台が戻った。幼い子供を死なせてしまったという負い目を抱えた真千子は、慣れない手つきでグループホームの老人たちの世話をしている。しげきというクセの強い老人とトラブルを起こすが仲直りし、彼の外出の付き添いをすることになった。

 しげきの妻が亡くなって三十三年が経つ。彼の亡き妻への想いは余人には窺い知れぬほどに強い。三十三回忌は仏になってこの世を離れるときだと和尚さんから聞き、妻の墓へ行こうと道なき山道をはいつくばるようにして進む。雨に打たれ、寒さに震え、暖を取るため真千子は裸になって肌を密着させる。それは決してエロチックな姿ではない。人と人とのつながりを手応えとして実感する姿として、たとえば「火垂」に見られるように濃厚な情念が良い形でこの姿に流れ続けているように思う。

 茶畑でしげきと真千子が隠れんぼをするシーンが印象深い。朗らかな明るさというだけではない。二人の姿を俯瞰するように映し出すと、背景の山が大きくせり出してくる。風にさわめく木々の緑の中に、二人の姿も包み込まれる。時に山のせせらぎは濁流に変貌し、冷たい雨で人間を打つ。しかし、様々な想いを抱えた人間の生き死にを、時には厳しくとも、全体としておおらかに包み込んでくれる。その中で、人は人とのつながりを、そしてもっと大きなものとのつながりをかみしめる。吉野の山々のおかげもあろうが、こうしたイメージを静かに説得的に描き出してくれる作り手を他に知らない。

 上映館は満席で見づらい席に座らされたし、隣の変な兄ちゃんは落ち着きなく持っているビニール袋をさかんにガサガサいわせてうるさかったし、プログラムは売切れだし、と、かなり不愉快な状況の中で観た。でも、いまこうやって反芻していると気持ちが落ち着いてくる。それだけ魅力的な作品だった。

【データ】
監督・脚本:河瀨直美
2006年/日本・フランス/97分
(2007年7月16日、渋谷シネマ・アンジェリカにて)

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2007年7月17日 (火)

「ルネッサンス RENAISSANCE」

「ルネッサンス RENAISSANCE」

 近未来都市というとどんな光景を思い浮かべるだろうか。私はやはり、リドリー・スコット監督「ブレードランナー」の雑然とした貧民窟をイメージしてしまう。岩井俊二監督「スワロウテイル」もこれを意識していたな。あるいは、アニメで言うと「攻殻機動隊」なども思い浮かぶ。東京オリンピックをリアルタイムで見た世代に聞くと、首都高速の立体交差を見て、これこそ未来都市だ!と感じたらしい。そういえば、アンドレイ・タルコフスキー監督「惑星ソラリス」の初めのあたり、車に乗って移動するシーンでまさに東京の首都高速が背景に使われていた。もっと上の世代に聞くと、小松崎茂のイラストをあげるかもしれない。

 「ルネッサンス」の舞台設定は2054年のパリ。現代の我々からすると半世紀後の近未来。予告編は思わせぶりでカッコよかった。今はなき香港の九龍城を洗練させたように壮麗な建造物を上方から俯瞰し、アングルが徐々に下がるにつれて人々の動きが少しずつ見えてくる。都市の重層的な巨大さを印象付ける。人物の微細な動きまで再現した、モノクロームで鋭角的にスタイリッシュなアニメーションを見せつけられ、これは絶対に観に行かねばと興奮した。

 しかし、ストーリーがしょぼい。不老不死の秘密を突き止めた美人研究者が誘拐されて、アヴァロン社なる巨大企業の野望が背景にあって、破天荒なアウトロー的捜査官が美人研究者の姉と唐突に恋に落ちて、とやたらにくどい展開の割には基本線はありきたりで単純。目が疲れやすい映像なんだから、もっと簡潔にまとめろよ。早老症の人物の顔はどうしても大友克洋監督「AKIRA」を連想してしまうな。映像はとにかくカッコいいので一見の価値はあると思うが、上映終了後、あちこちから「ああ眠かった…」とため息がもれていたことも付け加えておく。

【データ】
監督・デザイン原案:クリスチャン・ヴォルクマン
声の出演:ダニエル・クレイグ、イアン・ホルム、ジョナサン・プライス他
2006年/フランス・イギリス・ルクセンブルク/106分
(2007年7月16日、シネセゾン渋谷にて)

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2007年7月16日 (月)

満鉄調査部について

 草柳大蔵『実録 満鉄調査部』(朝日文庫、1983年)は、当時の政治情勢の動向に絡ませながら、南満州鉄道株式会社設立以来の調査部の軌跡を、人物群像を軸に描き出す。満鉄調査部出身で戦後は九州大学教授となった具島兼三郎が自身の環境の変化について述べた「近代的な大工場から家内工業の工場に放り込まれたような感じ」という感想が紹介されている。この言葉に表れているように、日本の歴史でこれほどスケールの大きなシンクタンクは後にも先にも珍しい。

 満鉄調査部はもともと初代満鉄総裁・後藤新平の発案になるが、実際には第二代総裁・中村是公の時、大連本社に調査部、東京支社に東亜経済調査局として発足した。その後、何回かの改組を経て名称も変わっているが、取りあえずまとめて満鉄調査部と呼ぶ。

 満鉄調査部の特徴をまとめると、第一に自由主義。とにかく自由闊達な社風で、上司・部下の関係もゆるやかだった。社員の顔触れを見ても、たとえば東亜経済調査局には大川周明、笠木良明、綾川武治といった国家主義運動に連なる人々がいた一方で、嘉治隆一、伊藤武雄、波多野鼎、佐野学など東大新人会出身でマルクス主義の洗礼を受けた人々も入社した。大連本社の方にも、堀江邑一、石堂清倫、細川嘉六、伊藤律、尾崎秀実といった名前が散見される。中には、満鉄マンから脱サラして歌手となった東海林太郎のような変り種もいた。こうした雑多な人々が集まっても、議論こそ盛んだったが、イデオロギー上の派閥抗争はなかった。

 図書館の充実度は当時としては相当なものだった。内地では治安維持法でひっかかるマルクス・レーニン主義の文献も多数所蔵されており、自由に読むことができたという。また、イスラム研究の世界的碩学・井筒俊彦は、大川周明の集めたアラビア語文献を好きなように使わせてくれたので研究の基礎固めができたと語っている(井筒俊彦・司馬遼太郎「二十世紀末の闇と光」、司馬遼太郎『十六の話』(中公文庫、1997年)所収)。なお、大川自身も『回教概論』を著しており、邦語としては初めての体系的なイスラム研究として評価が高い(たとえば、山内昌之「イスラムの本質を衝く大川周明」『AERA Mook 国際関係学がわかる』朝日新聞社、1994年。鈴木規夫『日本人にとってイスラームとは何か』ちくま新書、1998年)。

 満鉄調査部の第二の特徴は、フィールドワーク重視。とにかく「事実に聞く」のが基本で、実証的な研究が求められた。新入社員は初めの二年間は徹底的な資料の読み込みが必須とされたが、それから現地調査に出かける。テーマは各自で決める。怠ける奴はそれだけ自分にはねかえってくる、と放っておいたらしい。戦局がおしつまってくるとそうもいかなくなったようだが、こうしたあたりにも満鉄調査部のリベラルな雰囲気がうかがえる。

 すでに触れたように、満鉄調査部にはマルクス主義の前歴者も多数入社している。彼らの研究能力は高いため、実力本位に立って前歴にはこだわらず採用していた。彼らは『資本論』の読書会を開いたりもしており、こうした気運を小林英夫は“満鉄マルクス主義”と呼んでいる(小林英夫『満鉄調査部──「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』平凡社新書、2005年)。

 フィールドワークに基づく具体的な数字と、史的唯物論による合理的な分析は大きな成果をあげた。たとえば、「支那抗戦力調査」は中国経済の基本構造や社会関係を明らかにした上で、軍事力で中国全土を制圧するのは難しく、政治的な解決を図るしかないと結論付け、政府や軍部にも大きな波紋を投げかけた(なお、満鉄調査部員の中にはソ連や中国の共産党と関係を持つ者もいて、そうした情報ネットワークもこの研究には駆使されたらしい)。

 数字に基づく分析なので反論は難しい。このレポートを踏まえて大陸政策の転換を促す動きもあったが、その一方で、たとえば辻政信のように観念論先行の軍人たちは面白くない。憲兵隊が動き出し、1942年、満鉄調査部員43名が一斉検挙された。いわゆる満鉄調査部事件である。日本の敗戦による満鉄の解散に3年先立って、調査部は事実上消滅した。前年の1941年には東京でも企画院調査官の稲葉秀三、和田博雄、勝間田清一らが“アカ”の容疑で逮捕された、いわゆる企画院事件が起こっている。いずれにせよ、観念論先行の国策決定に対してブレーキをかけるべき合理的な調査活動が封殺されてしまったことは一つの悲劇としか言いようがない。

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2007年7月15日 (日)

佐野眞一『カリスマ──中内功とダイエーの「戦後」』

佐野眞一『カリスマ──中内功とダイエーの「戦後」』(新潮文庫、2001年)

※功=「工+刀」

 ちょっと必要があって、中内功『わが安売り哲学』(日本経済新聞社、1969年)なる本にざっと目を通したことがある。もう40年近く前、彼がダイエーを立ち上げてから10年あまり、東京進出をねらっていた時期に刊行された本だ。そこでは、供給側の事情で定価を決めて売りつけるやり方は軍国主義の時代の統制経済と全く変わらないと主張。消費者の声をじかに聞いている小売業・流通業のイニシアチブで価格決定権を奪回し、大手メーカー主導の経済慣行に対して革命を起こしてやると鼻息が荒い。

 面白いことに、中内はしばしば毛沢東を引用する。農村から都市へと攻め込む中国共産党の革命路線に、“消費者の反乱”をあおり立て東京へいざ攻め込まんとする中内自身の姿をなぞらえているかのようだ。論旨明解で熱気のある文章だった。あまり気乗りせずにページをめくり始めたのだが意外と読ませる。実はこの本、「戦後日本思想大系」第八巻『経済の思想』(伊東光晴・長幸男編、筑摩書房、1971年)にも抄録されている。

 あくなき拡大路線を無謀にも突き進み、自転車操業的な借金体質がついにはダイエーを破綻させたことは周知の通りである。経営トップの座にいつまでもしがみつこうと老醜をさらした晩年もまた毛沢東を連想させる。

 マネジメントのノウハウを中内から汲み取ろうとしても徒労に終わるだけだろう。だが、戦後日本のある側面を体現した人物として、経済界の中では彼ほど興味深い男も少ない。本書『カリスマ』は、戦後史という文脈において中内ダイエーはどのように位置づけられるのかという問題意識をもとに丹念な取材を積み重ねている。

 中内の生涯にはいつまでも戦争の影がつきまとう。『わが安売り哲学』はフィリピン戦線で彼の味わった極限的な飢餓体験を吐露してしめくくられていた。無謀な戦争に駆り出されて地獄に投げ込まれた不条理は、“お上”に対する不信感として彼の意識の中に底流する。捕虜となり、アメリカ軍の圧倒的な物量を目の当たりにした彼は「何よりもまず食うことが先決だ」と思い知らされた。その後のダイエーの果てることのない拡大路線は、あたかも中内の絶対に満たされることのない飢餓感というブラックホールに次々と資金を放り込んできたかのようにさえ見えてくる。

 南方戦線での人肉食の噂は戦争の酷さを思い知らされる。中内はこう記している。フィリピンで飢餓線上をさまよっていた時、なかなか眠ることができなかった。眠ると仲間に殺されて食われてしまうかもしれないからだ。しかし、体力がもたず、眠ってしまう。目が覚める。俺は生きているし、殺された仲間もいない。ホッとした。生きていくには人間を信じることが何よりも大切だ、と。

 逆説的な言い回しがかえって印象に強い。本書『カリスマ』を読んでいると、ダイエーの経営再建に取り組む部下たちを中内が次々と経営中枢から追放するパターンが繰り返されてきたことに驚く。彼らが力をつけると自分の寝首を掻かれると猜疑心を募らせたからだ。

 戦場で味わった言い知れぬ不条理。それが徒手空拳で一大流通帝国を築き上げる駆動力として働いた一方で、自滅の心理的背景をもなしていた。戦争の影にいつまでも呪縛され続けた中内の姿には、どこか哀しさすら感じさせる。

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