« 2007年6月10日 - 2007年6月16日 | トップページ | 2007年6月24日 - 2007年6月30日 »

2007年6月17日 - 2007年6月23日

2007年6月23日 (土)

東京都美術館「サンクトペテルブルク ロシア国立美術館展」

東京都美術館「サンクトペテルブルク ロシア国立美術館展」

 十八世紀、とりわけ十九世紀ロシアといえば、文学でも音楽でも著名な名前はすぐにいくつか思い浮かぶ。しかし、絵画という分野は盲点だった。私の脳裏ではいきなりシャガールやカンディンスキーから始まり、続くのは清く正しくたくましい労働者男女を描いた“社会主義リアリズム”。このたび開催された「ロシア国立美術館展」では、これまで日本ではあまり知られていなかった帝政期ロシアの絢爛たる美術作品を目にすることができる。

 全般的に言って、私がロシアに対してイメージとして持っていた土俗性とは異なって、すっきりした雰囲気の作品が多いという印象がある。肖像画が多く描かれているが、イコン作家出身の画家が多いのはいかにもロシアらしい。カルル・ブリュローフ作「ウリヤナ・スミルノワの肖像」に描かれた清楚な美少女のおだやかな眼差しにはついつい見とれてしまった。風景画も多く、早期の作品群には都市を描いたものが目立つ。巨大建造物を遠景に配置して都市を大きく俯瞰するような構図。ロシア近代化のシンボルとして積極的に描かれたのだろうか。イメージ的に、ムソルグスキー「展覧会の絵」の最後をしめくくる「キエフの大きな門」のメロディーが頭の中で鳴り響いていた。イヴァン・アイヴァゾフスキーの描く海景画は、ドラマを感じさせる雄大な構図と光の色合いの美しさが相俟ってとてもカッコいい。十九世紀後半になると、中央ロシア、さらには中央アジアにかけての平原や針葉樹の目立つ荒々しい自然を題材とした風景画も描かれている。天地の大きく広がる大地に道が一本果てしなく続く様を見ながら、「展覧会の絵」の「ビドロ」やボロディン「中央アジアの草原にて」のメロディーを頭の中で反芻していた。

 先日、日本経済新聞の読書面で印刷博物館の樺山紘一館長も書いておられたが、展覧会の図録というのはなかなか素晴らしい。私は興味をそそられた展覧会の図録はできるだけ買うようにしているが、「ロシア国立美術館展」の図録も上質紙にフルカラー印刷、三百頁を超える大部なのに、税込みで二千百円という安価。普通の画集だったら五千円は軽く超えているだろう。しかも、今回のように邦語文献の少ないジャンルでは専門家による解説論文は貴重。とりわけ、沼野充義の解説は、ピョートル大帝の近代化改革以来ロシアを二分してきた西欧派とスラヴ派とのアイデンティティーの葛藤を軸に思想史・文化史の脈絡でロシア絵画の位置付けを簡潔にまとめてくれており、とても勉強になった。
(2007年7月8日まで開催)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月22日 (金)

宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』

宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ、2007年)

 十九世紀という時代背景を踏まえてトクヴィル(Charles Alexis Henri Clerel de Tocqueville、1805~1859)の思想を読み解きながら、デモクラシーをめぐる基本論点に踏み込んでおり、興味深く読んだ。

 デモクラシーの進展は平等化の徹底をも意味する。かつてのアリストクラシー(貴族的身分制度)では地位の不平等は自明なこと。誰も疑問に思うことはなかった。デモクラシーが進展するにつれて、これまでの支配・服従関係を正当化してきた権威は不自然なものとみなされ、否定される。しかし、これは単に身分上の格差がなくなったということではなく、人々の想像力が変質したからである。言い換えると、社会制度がかわっても不平等はなくならないが、不平等の性格が変化したと言える。デモクラシーの社会にあってはむしろ人々は他者との違い=個性に敏感となり、これを他の者に承認するよう求めるようになった。

 デモクラシーが進展するにつれて人々を結びつけていた紐帯はほどかれてしまう。個人として析出された孤立状態が“個人主義”と呼ばれる。これは、自分の利益だけをごり押しする利己主義を意味するのではなく、他者への関心が希薄となったところに特徴がある。個人主義という態度において自分自身は至上の存在である。だが、平等という原則によって他者の優越を認めないことは、同時に自分の優越も認められないこと。このようなアンバランスは政治的次元ではどのように表われるのか? 同等であるはずの誰かによって支配されるのはイヤだが、非人格的な“多数者”に従うことにはためらいを感じない。

 また、デモクラシーにおいては個々人の意見を何らかの形で反映させた上で政治運営を行なうのが原則となる。そこで、一人一人がすべて自分で判断せねばならないのが建前となるが、人に全知全能の判断など下せるだろうか? 無自覚のうちに何らかの根拠を求めてしまう。特定の権威に寄りかかることはない代わりに、“多数者の意見”を素直に受け入れるようになる。

 デモクラシーが “多数者の圧政”となりかねないところにブレーキをかける仕組みをトクヴィルはアメリカ社会に見出した。キーワードは“宗教”と“結社”。

 アメリカ大統領は就任にあたり聖書に手を置いて宣誓する。選挙でキリスト教右派が見せつける強大な集票力からも分かるように、アメリカ社会には今でもキリスト教が深く根を下ろしている。政教分離を近代社会の条件と考える我々にとって驚きだ。さすがに聖職者を政治に関与させたり宗教的マイノリティーを迫害するようなことは否定されるが、少なくとも宗教色を政治から排除することはない。政教分離の厳格化を特徴とするフランスからやって来たトクヴィルにとって、これはむしろ好意的に受け止められた。“個人主義”的な思考を文字通りに実践するなら「いま・ここ」という局限的な観点でしかものを考えることはできない。長期的観点で社会の運営を考えるためには、一人一人が「いま・ここ」から離れて想像力を働かせねばならない。熱狂的な献身までは求めないものの、デモクラシーを健全に運営するには、デモクラシーの外部に何らかの一貫した基準が必要である。そうした意味でトクヴィルはアメリカ社会の宗教的空気に好意的だったと言える。

 砂粒のようにバラバラとなった個人を放っておいたら、判断基準を失った彼らは“多数者の声”にあっと言う間に絡めとられてしまう。自己の殻の中に閉じこもりがちな彼らを具体的に目鼻の見える他者と結びつける“結社”は、そうした“多数者の声”への付和雷同に抵抗する砦となる。つまり、抽象化された世論とは違う価値観があり得ることを“結社”単位で示し、“多数者の声”を相対化することができる。

 平等化の進展によって、かえって自己の外部に根拠を見失ってしまった“個人主義”。そこにトクヴィルはデモクラシーの脆弱さを見出し、そうした欠点を補うものとしてアメリカ社会から“宗教”と“結社”という要素を汲み取った。その要点は、個人主義において人々が判断の根拠を見失ったがゆえに“多数者の声”に従属してかえって社会が画一化されかねないという逆説に対し、常に“多数者”を相対化していくダイナミズムがデモクラシーの健全な運営に必要なことを示すことにあった。ここで注意すべきなのは、トクヴィルは彼自身の祖国であるフランスが抱えた問題との対比の中でアメリカ社会を観察していたということであり、“アメリカ”的なものと“デモクラシー”とは分けて考える必要がある。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月21日 (木)

『現代』七月号・『論座』七月号

 昨日に引き続き、最近読んだ雑誌から興味を持った論説をいくつか。まず、『現代』七月号

 ここのところ、日本現代史に関心を寄せる人々の間では富田メモを始め昭和天皇関連の新資料発掘で議論が熱くなっている。半藤一利・秦郁彦・保阪正康「昭和天皇の「怒り」をいかに鎮めるか」もやはり富田メモ、卜部日記を踏まえた鼎談。靖国神社へのA級戦犯合祀は、政府の意図というよりも、当時の旧厚生省援護局にいた旧軍人グループの政治的思惑が働いており、彼らの動きと靖国神社の松平永芳宮司の独特な歴史観とが結びついてこの騒動がややこしくなったという。松平の前任の宮司でA級戦犯合祀に慎重姿勢を取っていたという筑波藤麿という人物に興味を持った。

 合祀者の一人、東郷茂徳元外相の孫にあたる東郷和彦が、首相の靖国参拝一時停止を求める手記を発表して一部で話題となった。「「靖国問題」の思考停止を憂う」では、「国のために命を捧げた」人々の慰霊の問題について、国ではなく靖国神社という一宗教法人に委ねてしまっているねじれを指摘し、政教分離の原則論に戻って国民的なコンセンサスを得るべく議論を進める必要があると問題提起する。

 佐藤優が今号から「「名著」読み直し講座」の連載を開始。第一回は高橋和巳『我が心は石にあらず』を取り上げている。団塊世代の内在的論理を把握するためという趣旨だが、あまり関心をそそられず。なお、私は高橋和巳の作品では『邪宗門』に興味があるので、いずれ機会をみつけてこのブログで取り上げてみたい。

 次は、『論座』七月号。ここのところ、『論座』は筋の良い若手論客を積極的に起用しており、地味だけど良質な誌面構成をしているように思う。

 小林よしのりの発言を読むのは久しぶりだ。『戦争論』(幻冬舎、1998年)以来、妙なナショナリズムを随分とあおっているなあと違和感があったのでしばらく距離を置いていた。ところが、「わしが格差拡大に反対するワケ」を読んでみると、コミュニタリアニズム(彼はこういう言葉は使わないが)の立場ではっきりと筋を通しており、なかなかまともだなと感心した。雨宮処凛「ロストジェネレーションと『戦争論』」は、私自身と同世代の精神的軌跡としてリアルに共感できる。

 “保守”と“右翼”という言葉をゴチャゴチャにして杜撰な議論を展開する人をよく見かける。中島岳志「思想と物語を失った保守と右翼」では、歴史精神や妥協という智慧に基づくバランス感覚として“保守”、ネイションにおける一体性・平等性を求めるラディカリズムとして“右翼”を捉え、一定の見取り図に整理してくれる。

 不遇な労働環境に直面した若年世代に漂っている2ちゃんねる的なナショナリズムや、小泉支持の奇妙なねじれ(小泉改革は彼らにとって不利であるにも拘わらず)。彼らの抱える“怨念”を単純に断罪したところで無意味だろう。そうした中、萱野稔人「「承認格差」を生きる若者たち」の議論は非常に説得的に感じた。①フリーターなどの不安定な生き方をせざるを得ない彼らにとっては、経済的な問題ばかりでなく、仕事を通した承認が得られないという不満があること。②社会的な能力として“人あたりのよさ”という言語的・情動的コミュニケーション能力が重視されるようになり、不器用な人間は生きづらいという状況(本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版、2005年)でもこの論点は指摘されていた)という議論を踏まえ、こうした承認格差を直截的に解消する経路をナショナリズムに求める傾向があると指摘する。ただし、ナショナリズムを単純に否定して終わるのではなく、アイデンティティ不全を切り口として捉えなおす視点があって興味深い。

 高原基彰「「自由」と「不安」のジレンマ」では、同様に若年層の“怨念”について、組織に束縛されずに個人の力で競争する生き方としての“自由”、組織に属しつつ年功的な昇給を当てにする生き方としての“安定”という二つのキーワードを軸に議論を進め、前者の虚偽性に対する苛立ち、後者への志向を読み取る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月20日 (水)

『中央公論』七月号

 昼休みに書店へ行ったら『中央公論』七月号を見かけた。今日は仕事ものんびりしていたのでざっと目を通した。

 社会格差論が急に盛り上がってきたのはほんの1、2年のことだ。新聞や国会論戦で取り上げられるようになって、今ではこの言葉を見かけない日がないくらいに人口に膾炙している。私は以前からこのテーマに関心を持っていたのだが、最近の流行ぶりにはちょっと戸惑っている。私は、“格差”は決して一過性のものではなく、良いか悪いかという価値判断の問題はとりあえずペンディングした上で、どんな場所でもどんな時代でもあり得ることと考えている。もちろん、そこで話を終わらせるわけにはいかない。それでは、そもそも“公正”とは一体何だろうか、みんなの納得できる社会システムとは一体どんなものなのか、という決して結論の出せないテーマを考え続けるきっかけとして関心を寄せていた。ところが、今の風潮としては、たとえば民主党の政策にも顕著なように、政府批判のための便法として何でもかんでも“格差”に結びつける傾向がある。あまりにお手軽にこの言葉を使いすぎるので、かえって問題の焦点がぼやけてしまう。同様の違和感を、『不平等社会日本』(中公新書、2000年)でこの議論の火付け役の一人となった佐藤俊樹がもらしている(「「格差」vs.「不平等」」)。

 「インテリジェンスという戦争」という特集が組まれていた。中西輝政はイギリスのインテリジェンス活動の歴史を簡潔にまとめた上で、力に抑制的でない国は情報活動に弱いと指摘する。日露戦争に至る明治日本と昭和の帝国日本との対比を見るとうなずける。また、機密情報の厳守と情報公開とがぶつかりあうことは最近の傾向として避けられないが、このせめぎあいをプラス・マイナスで考えるのではなく、議会からの情報機関への監視を強めることでむしろ与野党を問わず情報の扱いに習熟させるきっかけとなるはず、そこはイギリスの経験から学ぶべきという指摘が興味深い(「大英帝国、情報立国の近代史──民主主義国のインテリジェンス・リテラシーとは」)。元内閣情報調査室長で対外情報庁の設立を主張している大森義夫は、最近の情報問題がらみの不祥事を踏まえながら、幹部の情報管理責任やセキュリティ・クリアランスの問題を論ずる(「せめて、機密を守れる国になれ」)。佐藤優・手嶋龍一対談では、むしろ対外情報庁構想については生半可なことではできないとして懐疑的。当面は、公開情報を読み解く人材育成から始めるべきだと提言する(「情報機関を「権力の罠」から遠ざけよ」)。勝股秀通は情報軽視という自衛隊の組織文化を具体的に指摘する(「なぜイージス艦情報は漏れたのか 自衛隊──欠陥の組織文化」)。

 昨年、日本経済新聞が富田朝彦元宮内庁長官のメモをスクープしたのに続き、今年に入って『昭和天皇最後の側近 卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞社)も刊行された。これらの資料には靖国神社にA級戦犯が祀られたことに昭和天皇が不快感を示していたという記述があり、様々な議論を呼び起こした。「昭和天皇が守ろうとした歴史と宮中」で対談する保阪正康御厨貴は、昭和天皇のこうした気持ちは『徳川義寛終戦日記』(朝日新聞社、1999年)ですでに明らかとなっており、今回の二つの資料を通して明確になったという立場を取る。天皇制をめぐっては様々な問題があったが、それが育んできた知恵の良質な部分は、日本社会の約束事として通じるもので、これを一連の資料から読み取ることも必要という保阪の指摘に興味を持った。昭和天皇という人自身は基本的にリベラルで穏健な思考の持ち主だったという印象を私は持っている。様々な政治的バイアスから議論が複雑を極めているが、彼自身の内在的論理と戦前・戦後政治との関わりをバランスよくまとめた本がありそうで、意外とない。こうした資料の誠実な読み解きを通じた研究の進展を期待したい。

 浅羽通明「右翼と左翼を問い直す30冊」には意外なラインナップも含まれていて、その独特な切り口が面白い。

 ロバート・D・エルドリッヂ「不在の大国・日本──なぜ戦後の国際政治史に登場しないのか」では、その理由として①日本の指導者が回顧録や日記をあまり残していない、②指導者の伝記等の資料が英訳されていない、という二点を挙げる。そのため、海外での国際関係史研究で日本関連の領域が空白となり、存在感なしというイメージが定着してしまった。アメリカの大統領図書館のように歴代首相の記念図書館を整備し、海外の研究者でも資料にアクセスしやすくなるよう便宜を図るべきと指摘する。意外と盲点だったなと素直に納得した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月18日 (月)

「赤い文化住宅の初子」「16[jyu-roku]」

「赤い文化住宅の初子」

 初子(東亜優)は兄(塩谷瞬)と二人暮らし。お父さんは借金を抱えて蒸発し、苦労を重ねたお母さんは病気で世を去った。気持ちのすさんだ兄は同僚を殴って職を失い、初子は高校進学を断念して働かなくてはならない。だけど、初子はそういう事情を誰にも話さない。一緒に高校へ行こうと勉強を教えてくれていた三島君(佐野和真)は戸惑うばかり。

 お母さんが好きで読み聞かせてくれた『赤毛のアン』。だけど、初子が言うには「アンは良い夢ばかり見ているから好きじゃない。」

 ホームレスとなっていたお父さん(大杉漣)が初子を見かけ、家に戻ってきた。しかし、妻はすでになく、息子からは「お前のせいだ、出て行け!」となじられる。「いざとなったら家族があると信じていたからこれまで頑張ってこれたのに…」。絶望した彼はアパートに火をかけて焼け死ぬ。『赤毛のアン』も一緒に灰となった。

 初子たちは大阪に行くことになり、見送りに来てくれた三島君は『赤毛のアン』をプレゼント。大きくなったら結婚しようと約束する二人の姿は、一見したところあどけない純愛のハッピーエンドのようにも見える。が、素直に信じていた父や兄に振り回されてきた初子の姿を思い返すと、この約束もはかない絵空事に終わるのだろうなと容易に見当もつく。

 たとえはかない望みでも、そこに拠り所を求めなければ、このつらい日々をやりすごすことはできない。大人たちからひどい言葉を浴びせられたり、恵まれたクラスメイトから“お情け”をかけられても、それを恨んだりひがんだりするのではなく、真面目に受け止めて戸惑っている初子の純朴さはいじらしくて胸を打つ。というよりも、もどかしくてイライラするくらい。だけど、裏切られても信じ続けるということは、ひょっとしたらそのこと自体が生きていく智慧であり、力なのかもしれない。

【データ】
監督・脚本:タナダユキ
原作:松田洋子(太田出版刊)
100分/スローラーナー/2007年
(2007年6月15日レイトショー、渋谷、シネ・アミューズにて)

「16[jyu-roku]」

 「赤い文化住宅の初子」からのスピンオフ作品。この映画で主演を務めた東亜優(ひがし・あゆ)自身に注目し、田舎から上京して女優修行に戸惑う日々を描く。ドキュメンタリーというわけではないが、入れ子構造のように「赤い文化住宅の初子」のオーディションや撮影光景も挿入され、彼女の等身大の姿も重ね描きされているようだ。

 彼女を追うように家出してきた少年(柄本時生)の抱える鬱屈感が気持ちにひっかかった。恋愛とかそういう感じではない。自分の居場所が見当たらぬ思春期の戸惑いとでも言ったらいいのかな。黄昏色の夕景の街中、走って逃げていく二人の後姿。レインボーブリッジが後景に浮かぶ寒々とした夜、水辺のベンチに腰を下ろした二人のかたい表情。そんなに深刻にならなくてもいいんだよ、と声をかけたくもなるが、あの年頃に自身が抱えた心情を思い出し、それが映像の雰囲気とシンクロしてちょっと身につまされたりもする。

 東亜優は表情の揺れに初々しさがにじみ出ていてかわいらしい。「赤い文化住宅の初子」ではもともと感情の起伏に乏しい役柄だったのでかたい感じだったが、「16」では表情が豊かでこちらの方が彼女の魅力はよく出ているように思う。

【データ】
監督・脚本・編集:奥原浩志
76分/スローラーナー/2007年
(2007年6月17日、渋谷、シネ・ラ・セットにて)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2007年6月10日 - 2007年6月16日 | トップページ | 2007年6月24日 - 2007年6月30日 »