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2007年6月3日 - 2007年6月9日

2007年6月 7日 (木)

小林英夫『満州と自民党』

小林英夫『満州と自民党』(新潮新書、2005年)

 タイトルは『満州と自民党』だが、“満州人脈”と“戦後日本経済”と言い換えた方が本書の内容はよく分かるだろう。

 戦前の商工省、企画院(国家総動員体制において資源配分の采配を振るった)、そして旧満州国において統制経済を実施するための様々なプランが立てられていた。その試行錯誤を通して、どこに経済政策立案の重点を置くべきかというノウハウはすでに積み重ねられていた。日本の敗戦後、この人脈は経済安定本部(後の経済企画庁)に流れ込む。指導層クラスも、連合軍による占領という一時的な空白があったにせよ、公職追放解除と共に政治経済の現場に戻ってきた。つまり、1960年代以降にテイクオフした高度経済成長の準備を整えたのは彼らであり、そうした意味で戦前・戦後を通じて一貫した連続性を示すのが本書の骨格となっている。

 とりわけ中心的な役割を果たしたのが岸信介であった。商工官僚として出発し、満州国へ渡って“二キ三スケ”の一人に数えられるほどの実力者となる。戦後は公職追放解除からわずか五年で首相へとのぼりつめた軌跡は、ある意味象徴的である。

 満州人脈が戦後の経済復興で大きな役割を果たしたのは偶然ではない。やはり、戦前期日本において最大のシンクタンクであった満鉄調査部の存在が大きい。“王道楽土”なる理念は、現在の我々からすれば眉唾ものだろう。しかし、そうした後世の我々からの評価は別として、少なくとも一定のヴィジョンを持った政策活動を展開する駆動力となっていたのは興味深い。

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2007年6月 6日 (水)

後藤新平について適当に

 台湾の李登輝・前総統が来日している。後藤新平賞の第一回受賞者として招待を受けたというのが名目となっているようだ。

 後藤新平(1857~1929)は岩手県水沢の生まれ。遠縁に高野長英がいる。医学で身を立て、刺された板垣退助の手当てをしたというエピソードがある。相馬騒動に関わって入獄するという挫折もあったが、日清戦争のとき検疫事業で示した才覚が児玉源太郎に認められ、内務省衛生局長に復帰。さらに台湾総督府民政長官に抜擢され、児玉総督の下で手腕を振るった。その後も、満鉄初代総裁、逓信大臣(郵便ポストが赤くなったのは後藤の頃)、鉄道院初代総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長、東京放送局(現・NHK)初代総裁などを歴任。関東大震災直後の山本権兵衛内閣では内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の大規模な都市計画を立てたことは周知の通り。

 ふと思い立って後藤についての本をいくつか読み直してみたのだが、その存在感の大きさにはやはり魅了されてしまう。台湾、旧満洲、そして震災後の東京と舞台を変えながら、果てしなく追い求めてきた気宇壮大な国づくりのヴィジョン。それは、目前の政策課題達成というレベルをはるかに超えて、文明論的なスケールを持っている。植民地支配の是非についてはしばらくおこう。彼の残した実績、話が大きすぎて画餅に帰したプラン、その両方をトータルで振り返っていくと、あり得ない歴史のイフにもどかしさを抱きつつも、胸の奥底に高まる興奮を抑えきれない。

 「ヒラメの目をタイの目にはできんよ」──後藤の発想の基本には“生物学の原則”がある。ヒラメの目は片側に二つ、タイの目は両側に一つずつ。それぞれ生物学的な理由があってのことで、ヒラメの顔が変だからといってタイのように顔を作り変えるわけにはいかない。人間の社会制度や風俗習慣についてもまた同様。それぞれ長い歴史を通じた必要に応じて成立しているのだから、そうした理由をまったく無視して日本や欧米の制度を押し付けたところでうまくいくはずがない。

 このようなリアリズムに基づいて台湾や満鉄の経営を行なったわけだが、その前提として調査を重視した。それは、満鉄調査部、東亜経済調査局、満鮮歴史地理調査などの形で日本のアカデミズムにも大きく寄与した。

 後藤は“文装的武備”という表現を用いた。旧満洲は対ソ、対中政策の要だが、現地の人々の支持がないまま軍備一点張りで押し通したところでもろいものだ。現地の人々から頼られる施策を進める必要があるという考えがここに込められている。

 だが、そうした戦略的見地以上に、後藤は満鉄による満洲の文明化事業そのものに熱中していた。日本の中央政府からは財政上の理由から植民地を早く一人立ちさせるようせっつかれる。少ない投資で多くの利益をあげようという功利的な発想で植民地経営を行なうと苛斂誅求となってしまう。しかし、後藤の目指すものは違った。日本を島国としてではなく、海外領土を含めた大陸国家として再編成することを目論んでおり、台湾や旧満洲での大規模な社会資本整備は、植民地と日本本国と両方の経済発展を同時に図るものであった。“生物学の原則”からも分かるように、後藤の発想は、その後の日本が進めた苛酷な同化政策とは異なる。

 鉄道広軌化の試み(戦後になって新幹線として実現した)も、帝都復興における一大都市計画も、こうした壮大な大陸国家ヴィジョンと連動している。後藤の構想が全面的に採用されていたら日本はどんな姿を見せていたか、歴史のイフに想いを馳せると胸が高鳴る(ひょっとしたら、財政が破綻してとんでもない状況かもしれないが…)。

 藤原書店が後藤新平について数年がかりの大型企画を展開している。後藤の娘婿であった鶴見祐輔(和子・俊輔の父)による『正伝 後藤新平』(全八巻)が復刻されており、日記や書簡をはじめ関連文献も続々刊行予定。ただし、膨大な量となるため専門家でない限り読み通すことはまず不可能だろう。御厨貴・編『時代の先覚者・後藤新平』(2004年)は政治思想、公衆衛生、政党観、自治問題、対外政策、鉄道問題、逓信事業、教育問題、メディアなど様々な切り口から後藤の足跡を振り返り、周辺人物との関わりも紹介している。後藤の全体像を知るには本書が最適だ。藤原書店編集部編『後藤新平の〈仕事〉』(2007年)も取っ掛かりとして良いだろう。

 北岡伸一『後藤新平──外交とヴィジョン』(中公新書、1988年)は質・量ともにバランスがとれており、初めに読むとしたら本書がおすすめだ。著者の専門分野から、外交家としての後藤を論じているのが特徴だ。

 後藤の外交ヴィジョンとしては“新旧大陸対峙論”というキーワードがあげられる。将来においてアジア大陸とアメリカ大陸とが対立するとの予測に基づき、日本は中国・ロシアと提携すべきと主張していた。この構想はロシア革命と引き続くシベリア出兵で頓挫したが、後藤はソ連の極東代表ヨッフェを招き、ソ連との国交回復のきっかけをつくった(同時期に、孫文はヨッフェと共同宣言を出して、第一次国共合作を成功させている)。

 アメリカ大陸との対立といっても敵対的なものにするつもりはなく、満鉄経営にアメリカも巻き込もうとしていた。対立関係を契機としながらも、共通の利益を見出し、統合関係にもっていこうとするのが後藤の発想の特徴だと北岡は指摘する。

 日本の大陸膨脹政策の背景には、とりわけ陸軍に根強いソ連に対する不信感があった。もし後藤のヴィジョンによって対ソ関係が改善されて満州権益について相互了解が得られていたならば、関東軍は満州事変を起すことはなく、従ってその後の泥沼も避けられたのではないか、そうした歴史のイフをやはり考えてしまう。

 ここまで紹介してきたのは主に学問的な後藤新平論であったが、山岡淳一郎『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社、2007年)はノンフィクション的で読みやすい。エピソードから後藤の人物像に入りたい人は本書を手に取るといいだろう。

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2007年6月 3日 (日)

印刷博物館「美人のつくりかた──石版から始まる広告ポスター」

印刷博物館「美人のつくりかた──石版から始まる広告ポスター」

 “美人のつくりかた”といっても、もちろん整形美容とかいう話ではない。

 印刷工場を何回か見学したことがあるにも拘わらず、理解力不足のせいか、印刷の技術的工程がいまだにピンとこなくて実にもどかしい。それでも、着実な技術的改良が積み重ねられており、かつて一つ一つの工程に相当な手間をかけられていた苦労は想像できる。写真製版が普及する前は画工の手作業にかかっていた。原画を丹念にトレースし、多色刷ポスターの場合には色ごとに版を作らねばならないが、その一つ一つを写しこんでいく。当時用いられていた石版を見るのは初めてだ。いずれにせよ、そうした職人技やその後の技術的改良の中で、いかに美人の“色合い”を出すのに工夫をこらしてきたのかを教えられた。

 この展示では技術の話だけではなく、明治から昭和初期にかけてのポスターの歴史を一望できる。日本の商業ポスターのルーツは木版印刷の引札にあるらしい。明治期のポスターは錦絵のような感じ。当時から複製絵画として鑑賞されるのを前提としていたので、型崩れしないよう金属縁がつけられていた。題材は、商品の如何に関係なく美人画がほとんど。

 大正期に入ると画風のヴァラエティーが豊かになってくる。アルフォンス・ミュシャを意識したアール・ヌーボー風のものや未来派の東郷青児が活躍する一方で、鏑木清方や伊東深水の美人画も人気を集めていた。有名な赤玉ポートワインのセミヌード・ポスターもこの頃だ。広告の図案を懸賞で募集する試みも行なわれた。“政治的に正しく”消された、あの黒人がストローを吸うカルピスのデザインも懸賞に応じたドイツ人の手になるそうだ。

 海外向けにも色々なポスターが作られている。欧米向けの観光客誘致のポスターはいかにもオリエンタルな雰囲気が強調されてあまり面白みがない。輸出商品のポスターでは、味の素、金鳥の蚊取り線香、ビール、森永の練乳、中将湯のものが展示されており、言語も英語ばかりでなく中国語、ハングル、ロシア語、インドネシア語、ポルトガル語と多彩。旧満州国や南洋など日本の勢力圏に向けての売り込みが活発だったのがうかがえる。李香蘭を起用した資生堂の高級クリームの中国語ポスターがあった。「ぜいたくは敵だ!」という風潮の中、日本国内では化粧品広告は全面的に禁止されていた。そこで、企業は海外に活路を求め、政府も大陸での商業利権拡大のため奨励していたらしい。

 商業用ポスターは人目をひくよう作られているわけで、デザインの変遷をたどるのはそれ自体が絵画鑑賞のように楽しい。同時に、ポスターが作られた時代背景を読み取っていくのも興味深い作業だ。

 なお、この展示とは直接には関係ないが、ポスターを含め、戦時下のデザインにちょっと興味がある。以前、昭和館で行なわれた戦時下の国民生活をテーマとした展示で「空襲の心構え」を示したパンフレットを見かけたことがある。サーチライトが空を照らすのを鋭角的に図案化した表紙が目を引いた。泥臭いスローガンの割にはデザインが洗練されており、そのギャップがなおさら印象的だった。大正期に未来派やダダなど西欧発のアヴァンギャルドに触れたが、食うために職業デザイナーになった人々がいる。戦時体制下のソ連でも、政治的には全体主義的な締め付けが強まったが、パンフレットやポスターのデザインにはロシア革命前後に流行った未来派の影響が強く残っていたように記憶している。デザイン、とりわけタイトル・ロゴをみると、戦前の日本とスターリン時代のソ連とで何となく似ているような感じもする。このあたりを掘り下げた文献はたぶんあるんだろうけど、手頃なものを見つけられないでいる。

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