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2007年4月29日 - 2007年5月5日

2007年5月 5日 (土)

近衛文麿本をいくつか

 多少なりとも日本の近現代史に知識のある人ならば、日本が統一的な意志をもって侵略戦争を行なったなどという作り話を信じることはないだろう。明治憲法が内包した政軍二元体制や首相権限の弱さによって軍部や各省の意見調整ができないままズルズルと泥沼に引きずり込まれていったのが実相であり、その点では東京裁判で言う“共同謀議”などあり得なかったことは周知の通りである。

 こうした政治的混乱、とりわけ対米戦争回避という課題に直面する中、政権をまとめられるのは誰か。国民的な人気があり、それなりの見識を持ち合わせていた点で唯一近衛文麿だけだという大きな期待が当時にはあった。

 彼の人事は、今で言うなら“サプライズ”が特徴で、“毒を以て毒を制する”つもりか、陸軍皇道派の柳川平助を入閣させたほか、外相に対米強硬的な枢軸派の松岡洋右を起用。ところが、これが裏目に出た。特に松岡のスタンドプレーがたたって政権はますます混乱。近衛は気力をすっかり失って「辞めたい」としばしば漏らすようになる。近衛の庇護者であった西園寺公望も、各省がそれぞれ言いたい放題な状況を指して「まるで連邦だね」「何かやっているように見えて政治はほとんど動いてない」と酷評した。近衛は“運命”という言葉を好んで用いたそうだが、時勢に流されつつある彼自身の弁明のように聞こえてくる。

 近衛文麿の評伝としてまず挙げられるのは岡義武『近衛文麿──運命の政治家』(岩波新書、1972年)であろう。当時の政治状況の中での彼の位置づけが簡潔にまとめられており、刊行からすでに三十年以上経ってはいるが今でもスタンダードな評伝と言える。日本政治史の権威である岡が「孤独感があった」「女色にふける」とサラッと書き流してしまうあたりをむしろ掘り下げて近衛のパーソナリティーを描き出そうとしているのが去年刊行された工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず──近衛文麿と天皇』(日本経済新聞社、2006年)である。

 最近、近衛と木戸幸一との確執に注目する著作が相次いで刊行された。木戸は明治の元勲・木戸孝允の孫。近衛とは学習院以来の友人で、二人は華族出身の政治家として早くから頭角を現わしていた。第三次近衛内閣の終わり頃から二人はそりが合わなくなっていたようだ。当時、木戸は内大臣という役職にあった。内大臣とは天皇と内閣との連絡役だが、最後の元老・西園寺の死後、重臣たちの間を動き回って次期首班奏請の取りまとめ役を担うようになる。近衛が政権を投げ出した後、東条英機への大命降下では木戸がイニシアチブを取った。戦争中、木戸か東条を通さなければ天皇への拝謁はかなわず、近衛は宮中から締め出されていたらしい。

 工藤書の後半では近衛と木戸との齟齬に焦点が当てられるのだが、ここで意外なキーパーソンが登場する。カナダの外交官で日本史研究で知られたE・H・ノーマンだ。

 日本の敗戦後、近衛はGHQと一定の信頼関係を得て、新憲法作成の責任を果たすように言われる。ところが、状況は突如一変。きっかけはノーマンがGHQに提出した「戦争責任に関する覚書」であった。この中でノーマンは、近衛を封建勢力を代表する戦争責任者として断罪する一方、木戸に関しては実権はほとんどなかったとする。実は木戸の姪が経済学者の都留重人と結婚しており、都留はハーバード留学時以来、ノーマンと親しくしていた。つまり、都留・ノーマンの線を通じて木戸の戦争責任軽減が図られた形跡が窺えるという。そればかりでなく、ノーマンによる近衛追い落としの背景として、近衛上奏文のことが念頭にあったのではないかと工藤は推測を進める。近衛上奏文とは戦争末期になって早期終戦の必要を天皇に奏上したメモランダムで、その理由として敗戦後日本の共産化への懸念が挙げられていた。言うまでもないが、ノーマンはコミンテルンに通謀していたと言われており、その疑いはまだ晴れていない。

 いずれにせよ、こうした形で近衛になすりつけるように定型化された戦争責任論を“木戸・ノーマン史観”と呼び、敗戦直後の十二月に自殺するまでの近衛を描いているのが鳥居民『近衛文麿「黙」して死す──すりかえられた戦争責任』(草思社、2007年)である。

 近衛文麿については多くの書籍が刊行されている。近衛自身の著作としては『戦後欧米見聞録』(中公文庫、2006年)が復刻されており、以前にこのブログでも紹介した(http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_c6f3.html)。評伝としては上記の他に、杉森久英『近衛文麿』(河出文庫)、矢部貞治『近衛文麿──誇り高き名門宰相の悲劇』(光人社NF文庫)などがある。杉森は伝記作家として有名。矢部は戦前に東京帝国大学で政治学の教授、近衛のブレーン集団・昭和研究会のメンバーでもあった(この幅広い人脈を集めたブレーン集団については酒井三郎『昭和研究会』(中公文庫)がある)。また、近衛は親しかった山本有三に伝記執筆を依頼していたらしい。同時代人の記録としては、近衛内閣で書記官長や法相を務めた風見章『近衛内閣』(中公文庫)、ジャーナリストでやはり近衛ブレーンの一人であった松本重治『近衛時代』(中公新書)がある。政治史研究では大政翼賛会に至る政治プロセスを分析した伊藤隆『近衛新体制』(中公新書)が思い浮かぶ。

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2007年5月 4日 (金)

アメリカ政治ものをいくつか

ジェームズ・マン(渡辺昭夫監訳)『ウルカヌスの群像──ブッシュ政権とイラク戦争』(共同通信社、2004年)

 イラク戦争時のブッシュ政権を支えたメンバーのうち、副大統領チェイニー、国務長官パウエル、同副長官アーミテージ、国防長官ラムズフェルド、同副長官ウルフォウィッツ、大統領補佐官ライスの六人に本書は焦点をしぼり、彼らの政治的キャリアをたどる。彼らの間、とりわけ軍人出身のパウエル、アーミテージと学者出身のウルフォウィッツたちネオコンとの間での路線対立は周知の通りだが、少なくとも軍事力重視という点では一致していた。ただし、その扱い方に温度差があった。ヴェトナムでの実戦経験のあるパウエルたちは軍事目標と政治目標を明確にするよう求めており、際限なき軍事目標の拡大に懸念を抱いていた。これに比べるとネオコンは軍事力を行使するのにためらいがない。

 イラク戦争が始まったばかりの頃、ネオコンの論客ロバート・ケーガンが緊急出版した“Paradise and Power”(後に邦訳、『ネオコンの論理』)にざっと目を通したことがある。イラク制裁に反対するフランス・ドイツを念頭に置いて、ヨーロッパのようにボトムアップでコンセンサスを積み上げようとする考え方をカントの『永遠平和のために』の流儀だとし、これに対して自分たちネオコンはホッブズ的な力の論理によって人為的に平和を実現させると主張していた。つまり、理想実現のために軍事力を積極的に使うということで、力の均衡を通して生き残りを図り、軍事力はその保険としての意味を持つリアル・ポリティクスの考え方とは明らかに違う。その軍事観は同じ共和党でもキッシンジャーやスコウクロフトとはかなり異質である(そもそもウルフォウィッツも含めネオコンにはカーターの外交政策に不満を抱いた民主党からの転籍組が多い)。彼らネオコンの目指す理想とは“民主主義”の世界的な実現である。

 核兵器を公然ともてあそぶ北朝鮮の危うさを目の当たりにしている現在、イラクへの対応と比べるとダブル・スタンダードではないかとよく指摘される。ネオコンの立場からすると北朝鮮には二つの問題があった。第一に、北朝鮮は緒戦でソウルを文字通り火の海にしてしまうだけの軍事能力を持っている。第二に、東アジアには日本、韓国、台湾など民主主義の実質を備えた国々がすでに存在するため、仮に北朝鮮の体制を倒したとしても民主化実現のモデルとして世界にアピールできない。

 ネオコンが狙ったのは、(イスラエル・トルコを除いては)民主主義に則した政治体制の存在しない中東全体の民主化であり、その手がかりとしてイラクに手をつけた。表向きはテロとの戦いであり、だからこそアメリカ国内の世論から支持を得たわけだが、ネオコンの目指したものはそうしたレベルを最初から超えていた。

 良い悪いは別として、彼らはこの世のしがらみを力で克服しようとする理想主義者である。ただし、その背後にはアメリカの国益追求も見え隠れするのだが。いずれにせよ、彼らに対してつけられた新“保守”というレッテルに私は違和感がある。本来、架空の理想追求が暴走して独善に陥るのを戒めるのが保守主義の出発点なのだから。

デービッド・ハルバースタム(小倉・三島・田中・佳元・柴訳)『静かなる戦争』(上・下、PHP研究所、2003年)

 先週、ハルバースタムが交通事故で亡くなった。実は英語の復習がてら読もうと本書のオリジナル“War in a Time of Peace”を手元に置いてあったのだが、いつしかほこりをかぶったままほったらかし。この機会に翻訳で読んだ。ハイチ、ソマリア、ルワンダ、とりわけユーゴ紛争に対してのアメリカ自身の内在的な政策決定プロセスを軸として、クリントン政権の外交をめぐる人物群像をテーマとしている。登場人物それぞれのパーソナリティーと政治力学とを絡めて描き出しているので読み物としてとても面白い。

村田晃嗣『米国初代国防長官フォレスタル──冷戦の闘士はなぜ自殺したのか』(中公新書、1999年)

 第二次世界大戦後、アメリカは軍事組織を新たに編成しなおす。従来は陸軍長官、海軍長官が閣僚待遇を受けていたが、横の連絡の不備を感じていた。また、陸海軍それぞれの航空部門から独立させる空軍や海兵隊の位置付けなどの問題もあり、各軍を一元的に統括する組織として国防総省を設立。海軍長官だったフォレスタルが初代長官に就任した(後に自殺)。彼はプリンストン中退だが、アイビー・リーグ出身としてのプライドを持っていた。良くも悪くも、政治は生身の人間関係で動いている。本書は彼を軸としてニューディール政権を動かしたエスタブリッシュメントの人脈図を描き出している。なお、思わせぶりなサブタイトルだが、彼の自殺に政治的理由はない。

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2007年5月 3日 (木)

「神童」

「神童」

 連休の狭間、気分は中途半端。会社帰り、ふと今日は映画サービスデーであることを思い出した。レイトショーで上映されていたので何気なく入ったのだが、結構良かった。字を読めるようになる前から楽譜が読めた天賦のピアノの才能を持つ中学生うた(成海璃子)と不器用だがとにかくピアノが好きだという音大志望の浪人生ワオ(松山ケンイチ)の二人をめぐる話。原作はさそうあきらの漫画(私は未読)。テレビドラマの原作となった二ノ宮知子『のだめカンタービレ』にしてもそうだが、ちょっとしたクラシック・ブームだ。成海璃子を見たのは初めてだが、勝気そうな表情やピアノに没入した姿を違和感なく演じ分けており目を引いた。上映直前まで気づいていなかったのだが監督は萩生田宏治。「楽園」(2000年)や「帰郷」(2005年)といった作品が私は好きだったのだが、今回の演出も過剰なところがなく落ち着いた雰囲気で好ましい。

【データ】
監督:萩生田宏治
脚本:向井康介
原作:さそうあきら(双葉社)
出演:成海璃子、松山ケンイチ、手塚理美、吉田日出子、西島秀俊、柄本明、他
2007年/カラー/120分
(2007年5月1日レイトショー、新宿、武蔵野館にて)

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「世界はときどき美しい」

「世界はときどき美しい」

 前売券を買ってあったのを思い出し、やはり会社帰りに観に行った。5本立てオムニバス形式の映像詩。30代後半にさしかかったヌードモデル(松田美由紀)の独白。大阪の飲み屋街を渡り歩いて飲んだくれる老人(柄本明)。恋人と体で触れ合いながらもどこか気持ちがつながれないもどかしさを感ずる女の子(片山瞳)。自分がここに存在することの不安定な感じから宇宙に関心を寄せた青年(松田龍平)。私が気に入ったのは第五話「生きるためのいくつかの理由」の一人暮らしの母(木野花)と気遣う娘(市川実日子)。ストーリーがどうというよりも、登場人物の表情の捉え方や、とりわけ時折映し出される風景が良い。映像の粗い感じはそうした表情や風景の持つ情感をよく引き出しており、一瞬一瞬の持ついとおしさ、美しさを感じさせる。

【データ】
監督・脚本:御法川修
2006年/カラー/70分
(2007年5月2日レイトショー、渋谷、ユーロスペースにて)

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2007年5月 2日 (水)

「明日、君がいない」

 学校にも、家庭にも、目の前に人はいる。だけど、周囲の人たちと本質的につながり得ない。そうした孤独感の持つもどかしいまでの苛立ちと哀しみを静かに、しかし痛切に描き出した映画だ。

 身体の障害をバカにされる少年。同性愛の二人、片方はカミングアウト、もう片方はひた隠し。近親相姦。親からのプレッシャー。高校生の男女七人の葛藤に焦点を合わせ、インタビュー・シーンをまじえてドキュメンタリー風の演出がこらされている。

 舞台は、整然と静かな雰囲気である種の透明感すら漂う住宅街。広々として快適そうな学校。にもかかわらず、トイレや物置きの場面が多いのが印象に残る。家族、先生、クラスメイト、身近な誰かに悩みを語るのではなく、壁で仕切られた狭い空間の中で抱え込んだわだかまりを一人ぶちまけるしかない。誰も理解などしてはくれないのだから。

 廊下でからかわれる少年がいる。その横を少女が何気なく通り過ぎる。少年にとってはつらい場面であっても、少女にとってはただの日常光景。冷たいというのではない。そもそも気付かないのだ。見ているようで、見えていない。そのように七人それぞれの視点が学校の中ですれ違うのを追うカメラ・アングルには説得力がある。

 七人のうち、ただ一人インタビュー映像の出てこない少女、ケリー。彼女の表情が忘れられない。殴られて鼻血を流した少年にケリーは「大丈夫?」とティッシュを差し出した。少年はふてくされたようにその場を立ち去る。彼とて悪気があったのではない。ただ自身のつらい状況に手一杯で、他人のことにまで気が回らないのだ。登場人物のうちただ一人他の者への気遣いを見せようとした彼女は、この直後、ハサミで手首を切る。理由は誰にも分からない。原題は“2:37”、ケリーが自殺した時刻である。

 我々観客は、他の六人それぞれの悩みをつぶさに見ていた。だが、一人ひとりの悩みは理解できるようなつもりでいながらも、視点からはずれていたケリーのことを気にも留めていなかったことにハッと思い知らされる。人それぞれに悩みを抱えてしまう事情を他人事として分かったつもりにはなれるが、それはあくまでも三人称の視点である。一人称の苦悩を受け止めることの限りない困難を突きつけられる。

 監督のタルリはまだ19歳の若さでこの脚本を書き上げ、企画を立ち上げたという。友人が自殺し、ショックを受けて彼自身も自殺未遂をした体験が動機になっているらしい。出演者もほとんどは演技の素人ばかり。だが、自主映画にありがちな粗さは全くなく、クオリティーは非常に高い。独特なリアリティーがある。

【データ】
監督・脚本・編集:ムラーリ・K・タルリ
オーストラリア/2006年/99分
(2007年4月30日、渋谷、アミューズCQNにて)

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2007年5月 1日 (火)

タワー・レコードにしてやられた

 渋谷のシアター・イメージフォーラムで「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」を観たことは前回に書いた。この映画の後半で、ペンデレツキがロストロポーヴィチのために作曲したチェロ協奏曲を、小澤征爾指揮、ウィーン・フィルがレッスンしているシーンがある。この曲のCDがないかと帰りにタワー・レコードへ寄った。ロストロポーヴィチ追悼コーナーはあるのだが、お目当てのものは見つからず。代わりと言ってはなんだが、ペンデレツキ「ポーランド・レクイエム」がタワレコ特別版ということで二枚組み・1,500円で出ているのを見つけ、ついつい衝動買い。

 タワレコの売場にはお薦め曲がいつも流れており、天井からぶら下がったモニターに曲名が表示されている。クラシックのフロアを物色しながらブラブラ歩いていたら、金管楽器が咆哮するドラマチックなメロディーが耳の中へ飛び込んできた。モニターを見あげると、ヨハン・デ・メイ(Johan de Meij)「交響曲第三番 プラネット・アース」となっている。知らない作曲家だ。しかし、身体にじかに響いてくるともう逆らえない。すぐにこのCDをつかみ取り、先ほどの「ポーランド・レクイエム」と一緒にレジへと直行。タワレコにまんまとしてやられたと妙に悔しいわだかまりを抱きながら。

 デ・メイは1953年生まれ、オランダの作曲家。私が耳にしたのは「windy city overture」という短い作品。この曲も、「planet earth」も、高らかな音響に奥行きがあって、その盛り上げ方はまるで映画音楽のようだ。なお、NHKスペシャルで放映されていた「プラネット・アース」という番組を毎回欠かさず見ていたが、これとは関係ない。デ・メイは他にもトールキンの作品をテーマとした「交響曲第一番 指輪物語」というのも作曲しているらしく、興味津々。

 タワレコで試聴して買い、それをきっかけにファンになってしまったアーティストが割合といる。ジェーン・カンピオン監督「ピアノ・レッスン」という映画があった。この映画そのものは特に好きでもなかったが、マイケル・ナイマンの流麗なメロディーはタワレコの試聴機で初めて知った。

 スティーヴ・ライヒ「different trains」は出だしを聴いた瞬間に決まった。「18人の音楽家のための音楽」など、もともとミニマリズムが好きではあったのだが、それが確信に変わってしまった。

 world’s end girlfriend「The lie lay land」。私は普段あまり聴かないタイプだが、たまたま試聴したのをきっかけにはまった。きしむようにノイジーな音響となめらかなメロディーとの微妙なマッチングには独特な世界観があって本当に不思議な曲だ。world’s end girlfriendはどうやら日本人らしいということ以外に正体はよく知らないのだが、CDはすべて買った。

 ちなみになぜ「The lie lay land」の試聴機の前で立ち止まったかというと、飾られていたジャケットに視線が奪われたから。暗くぼんやりとしたイメージがすごく良い。描いたのは絵本作家の酒井駒子。本の装幀でも知られている。彼女の活躍はタワレコの試聴機をきっかけに初めて知ったことになる。存在を意識し始めると、彼女の手がけた本を書店で見かけるたびに手に取るようになった。こういう副産物もある。

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2007年4月30日 (月)

「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」

 先週の4月27日、チェリスト・指揮者として世界的に著名なムスティスラフ・ロストロポーヴィチが亡くなった。80歳だった。この作品の日本上映が始まった矢先のことだ。原題は“Elegy of Life : Rostropovich, Vishnevskaya”となっており、ロストロポーヴィチばかりでなく、夫人のヴィシネフスカヤと二人を等分にテーマとしている。周知の通り、ガリーナ夫人もまた世界的に広く知られたソプラノ歌手である。迂闊なことに上映が始まるまで気付いていなかったのだが、アレクサンドル・ソクーロフ監督の手になるドキュメンタリー。

 私はショスタコーヴィチが昔から好きだったので、この二人の演奏を収録したCDをそれぞれ何枚かずつは持っている。だが、二人のパーソナリティーを窺い知るのは初めてだ。ロストロポーヴィチはお茶目で陽気。おどけてみせたり、インタビューには早口でまくし立てるかと思うと、演奏する時の目つきは険しい。落ち着かないが、エネルギッシュ。何よりも愛嬌があって、地位や身分にかかわらず誰でも引付けてしまう。やさしい音楽家一家に生まれ育った天真爛漫な才能ならではの持ち味である。

 夫のはしゃぎぶりに対して、ヴィシネフスカヤはその落ち着き払ったたたずまいが印象的だ。女帝とでも言おうか、傲岸にすら感じさせる雰囲気はむしろ怖い。しかしながら、語りを聞くと非常にしっかりしている。彼女は両親から事実上捨てられ、祖母のもとで貧しい生活を強いられた。専門の音楽教育を受けないでボリショイ劇場の舞台に立った稀有な人である。ロストロポーヴィチの明るさは魅力的だが、それ以上にヴィシネフスカヤの硬い表情の裏に何があるのか、そちらの方に興味がひかれた。たしか『ガリーナ自伝』が翻訳されているはずだから読んでみよう。

【データ】
監督・脚本:アレクサンドル・ソクーロフ
出演:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、小澤征爾、クシシトフ・ペンデレツキ
2006年/ロシア/101分
(2007年4月30日、渋谷、シアター・イメージフォーラムにて)

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2007年4月29日 (日)

宮城大蔵『バンドン会議と日本のアジア復帰』

宮城大蔵『バンドン会議と日本のアジア復帰──アメリカとアジアの狭間で』(草思社、2001年)

 インドと中国はチベット問題をめぐって厳しく対立していたが、1954年に両国間で協議が妥結した。その際、「平和五原則」によって平和共存路線が示されたことは、東西冷戦が緊迫している中、世界中からの注目を集めた。折りしも同年にはインドシナ戦争についてジュネーヴ停戦協定が合意されており、こうした情勢の中で翌1955年、アジア・アフリカの独立国が一堂に会する会議がインドネシアのバンドンで開催された。

 アジア・アフリカ諸国といっても様々だ。米ソ双方の同盟国が混在しており、路線対立で紛糾して芳しい成果があがらないだろうという懸念もあった(最終的には周恩来の柔軟な対応のおかげで成功した)。日本については、過去の戦争の怨念により招請をためらう声もあったが、パキスタンのイニシアチブで日本も招かれた。パキスタンは仇敵インドが会議でリードするのを防ごうと躍起になっており、アメリカの同盟国をできるだけ多く会議に引き込んで牽制しようとしていたらしい。

 欧米諸国との協調を優先させるのか。それとも、アジアの一員としての立場を自覚的に打ち出すのか。これは近代日本の政治外交における最大の対立軸の一つであり、バンドン会議をめぐっても深刻な葛藤を引き起こした。

 当時の鳩山首相は前任者・吉田茂の敷いた対米協調路線に不満を抱いていた。一つには、戦前から連綿と続くアジア主義の気分があると言えよう。だがそれ以上に、冷戦が緊迫感を増している中、第三次世界大戦を回避するためには全方位外交を進めるべきだという考えを鳩山は持っていた(ソ連との国交回復をライフワークとしたのはその表われだ)。現実を考えれば政治論に触れるのは避けねばならないが、経済交流ならば何とかなる。アメリカはバンドン会議には困惑しており、明確な方針を出さなかった。それでも、対米協調という基本的立場さえ守っておけば、その枠内でも独自の外交政策を展開できるという判断から、鳩山首相はバンドン会議に前向きであった。

 これに対して重光葵外相や吉田系の野党・自由党は、バンドン会議は共産圏の“平和攻勢”の隠れ蓑として利用されるという認識を持っていたため反対した。ところが、アメリカが同盟国を多く送り込む方が得策だと最終的に判断したため、日本も代表団を送ることが決まった。ただし、首相・外相クラスは見送られ、経済審議庁長官の高碕達之助が団長に選ばれた(なお、会議中に高碕は周恩来や廖承志と接触し、後のLT貿易の地ならしとなった)。

 ニューギニア島の西イリアン帰属問題でインドネシアとオランダは対立していた。バンドン会議でインドネシア支持の決議が行なわれても反対するよう日本はオランダから働きかけを受けていたが、何もしなかった。こうしたアジアへのシンパシーの気分が日本にはある。欧米との協調路線、さらには対米追従と言われながらも、日本の戦後外交をつぶさに見ると同盟関係の枠内において目立たないながらも出来るだけ距離をおこうという姿勢が垣間見られる。

 冷戦期において対立構図は固定化されており、中小国が独自の外交路線を取るのは事実上不可能であった。かつて日本を“エコノミック・アニマル”と揶揄するのが国内外を問わず一つのパターンとなっていた。しかしながら、日本がイデオロギー論争には巻き込まれないよう大きな国際政治的イシューからは距離をおき、国際交流をほとんど経済にしぼったことは、むしろ冷戦という制約下、自主外交を展開するための一つの工夫であったように受け止められる。その基本構図がバンドン会議をめぐる日本の対応に凝縮されており、そこが非常に興味深かった。

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