« 2007年4月1日 - 2007年4月7日 | トップページ | 2007年4月15日 - 2007年4月21日 »

2007年4月8日 - 2007年4月14日

2007年4月13日 (金)

『保田與重郎文芸論集』

川村二郎・編『保田與重郎文芸論集』(講談社文芸文庫、1999年)

 私自身の幼い頃の読書体験の一つとして『平家物語』のインパクトは強い。無論、原典で読んだわけではない。小中学生向けにリライトされたものだったが、このスケールの大きな大河ドラマに夢中となって繰り返しむさぼり読んだ。本書『保田輿重郎文芸論集』所収の「木曾冠者」で保田はこの『平家物語』の魅力を存分に語る。その口調からは、登場人物に仮託しようとした保田の人生観がうかがわれ、私の単なる『平家物語』好きを質的に変化させてしまうくらい胸に強く迫ってきた。

 保田の源頼朝論に英雄史観の影をみる人もいるようだが、話はそんなに単純ではない。平家は没落し、鎌倉では着々と政権が樹立される。あまたの個性が、自分の置かれた立場の中で通すべき筋を通し、当然のことのように死地へと赴く。死屍累々たるドラマが重層的に積み上げられながら、平家の没落が必然的と言いたくなるくらいの確かさを以て進行する。

 ところで、頼朝は鎌倉にこもったままである。この没落劇にあまり姿を見せることがない。それだけに不気味である。歴史の大きなうねりには善悪もなければ、勝ち負けもない。ただひたすらに人知を超えたうねりが人々を次々に巻き込んでいくその中心点、台風の目のような存在として保田は頼朝を捉える。彼は無慈悲に殺す。その中には、行家、範頼、そして義経など親族も含まれる。「個人の意志よりももっと壮烈苛酷な歴史の意志の断面の図柄をみるようで怖ろしいのである」(本書、145頁)。個人というレベルをはるかに超越したすごみ、その具象化として保田は頼朝を見ているのであって、歴史上の生身の彼を思い浮かべているのではあるまい。

 保田は、木曾冠者すなわち義仲と九郎判官義経について、平家没落と鎌倉政権樹立にあたり“必然な橋”であったと言う。この二人について保田が時折“橋”という表現を用いるのが目を引く。

 保田の「日本の橋」という文章が本書にも収録されている。ヨーロッパの頑固堅牢な橋(たとえば、古代ローマのガール橋をあげている)と比較しながら、日本の橋の素朴なたたずまいに日本人の感性のあり方を読み取ろうとしたエッセイで、比較文化論ではしばしば言及される。

 このエッセイを、名古屋で見かけた橋の擬宝殊に刻まれた銘文を取り上げて結ぶあたりが印象的だ。橋を寄進したのは、秀吉の命により出征して戦没したある若武者の母親である。息子を死に至らしめた宿命に抗議の憤りを示すのではなく、しかし同時に純粋なかなしみが浮かび上がっている。そうした気持ちが相反しながら、二つながらに溶け込んでいる素朴な文面に、保田はある種の感懐をもよおしている。ロマン派的なイロニーで読み込んでいると言うべきか。義仲と義経についても、時代の移り変わりを橋渡しすべく宿命的な役割を負わされた。そこにもがきつつ、同時に滅びという形で果たすべき役割を果たしきった姿に、二律背反しつつ一如の真実を見出そうとしているのか。それは、善悪是非、一切のこと分けなど通用しない、ただひたすらな真実である。

 剣をとった二人の間に、修身教室の倫理から正義と不義の現れをとくなどは、概して後世堕落の民の習俗である。瞬間の切迫の中にそういう空論はない。ただ勝つことが現実である。それは無上に押し流されたときに発見される。闘いは人力のきずいた線を突破した非常であり無常である。源氏ならば頼朝のために肝脳地にまみれさすが正しく、平氏なら清盛のために死すが正しい。今日私がソヴエート人ならばスターリンの完全奴隷となっていささかもスターリンにヒュマニズムがないなどの愚言を云わないし、現に私は日本人であるから、日本の正義を己の住家とする自信から敢えて云々せぬ。ある理論の眼で日本の神聖を云うことさえ、すでに今日では日本人である私にとっては、大へんな空語と思はれる。矢の放たれた瞬間は考慮や批判を超越する。その批評はその瞬間に成立した血の体系だけが描くのである。平家物語の讃仏乗の縁をとく精神は今日もまた真理となった。平家物語は平家が討たれねばならなかった理由も、滅んだ理由もいっていない。人工の正義など説いていない、描いているのはつまりその讃仏乗の縁であり、諸行無常の調べである。勝者も敗者も、剣をもった瞬間に救われていた。殺戮が一つの罪悪であるというような正論は百も承知で、抽象の殺戮でなく、具体の剣戟の場に臨んでいた。無常が押し流したのである。個人は死んでもよいが、背景の理念は何らかの形で表現せねばならない。その剣戟の場に於いては、一切は善悪から解放されていた。(本書、162~163頁)

 宿命と言えば大仰ではあるが、人には誰しもそれぞれに与えられた何がしかのものがある。それを、他人との比較で様々に良し悪しを云為するのは全く無意味であろう。与えられたものをそのまま引き受ける、そこには理屈の介在する余地はない。自分の立つべき立場の中でただひたすら自分のなすべきことに努めるしかないし、結果としての成功・失敗という判断も所詮は後知恵に過ぎない。日本人なら日本人として生きよ、という言い方をナショナリズムとまとめてしまうのは簡単であるが、そうしたまとめ方自体、「日本に生れた自分」を他人事のように見て小賢しく理屈づけようとする軽薄さが感じられる。

 本書は保田が戦前に発表した文章のみを収録している。戦後になって保田は、その文章が若者を喜んで戦地に赴かせたとして、戦争協力者、御用文士のレッテルを貼られた。しかし、見方を変えれば、それだけあの不安な時代状況の中で人の気持ちを捉えるだけの力がみなぎった文章であったということだ。政治的なバイアスを取り払って読み直してみる価値はあるように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月12日 (木)

山内昌之『歴史学の名著30』・佐々木毅『政治学の名著30』

 各分野における名著をリストアップした解説本は割合と多い。とりわけ、中公新書で出ていた『~の名著』シリーズは手引きとして参考になった。ふと気になったのでいま調べたところ、そもそも中公新書の第一弾が桑原武夫・編『日本の名著──近代の思想』(1962年)だった。大学に入るかまだかくらいの頃、古本屋の店頭ダンボール箱売り(神保町では今でも見かける)で百円でこれを買って読んだが、まだ読書経験の乏しい頭にとって費用対効果の効率が極めて良かったと得した気分になったことを覚えている。

 いずれにせよ、こうした『名著』ものは、取り上げられた一冊につきその筋の専門家一人の手で紹介するという分担執筆のスタイルを取るのが普通だろう。これに対して、一人の視点で書き下ろしているのがここに掲げた二冊の特徴である。学者だから当然と言ってしまえば当然なのだが、それにしてもこれだけジャンル横断的に該博な読書量には本当に恐れ入る(ここまで書きながら、一人で書いた『名著』ものとして浅羽通明『アナーキズム──名著でたどる日本思想』『ナショナリズム──名著でたどる日本思想』(いずれもちくま新書、2004年)があるのを思い出した。最近、幻冬舎新書で出た『右翼と左翼』(2006年)も含めて、読もうと思いつつ忘れていた…)。

 山内昌之『歴史学の名著30』(ちくま新書、2007年)で取り上げられているラインナップを見ると、たいてい名前くらいは知っている(ただし、伊達千広『大勢三転考』、劉知幾『史通』、アッティクタカー『アルファフリー』は本書で初めて知った)。しかし、知ってはいるが、きちんと読み通していない歴史書が多い。実は読もうと思って手元に確保してあるものも結構あるのだが、名著と言われる歴史書にはボリュームで圧倒されてしまうものが多くてなかなか読み進められないのだ(たとえば、ギボン『ローマ帝国衰亡史』やブローデル『地中海』を思い浮かべよ)。ところが、本書はそれぞれの読みどころを懇切に説いてくれるので、改めて面白そうだと気持ちがそそられた。さしあたって、原勝郎『日本中世史』『東山に於ける一紳縉の生活』やトロツキー『ロシア革命史』などはその魅力を本書で初めて気付かされたので、読んでみようと思っている。

 私はほとんど独学に近い形でだが政治思想史を一通りかじったことがある。そのため佐々木毅『政治学の名著30』(ちくま新書、2007年)で取り上げられているラインナップについては、実はそのほとんどに目を通したことはある(ただし、「Ⅳ 政治と宗教」で取り上げられているアウグスティヌス『神の国』、カルヴァン『キリスト教綱要』、ロック『寛容書簡』は未読)。しかし、あくまでも「目を通した」だけであって、本書を読みながら内容への理解が浅かったかなあと痛感させられることもしばしば。歴史書については「面白そうだから読んでみたい」というワクワクした気持ちがわいたが、政治学の古典については「おさらいしないとやばいなあ…」と切迫した義務感を抱えてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月11日 (水)

福田恒存『人間・この劇的なるもの』

 “自由”とか“個性”とかいう観念のインフレは、現代社会を特徴付けるメルクマールの一つだと思っている。この言葉の持つ詐術(敢えてこう言いたい)に私は戸惑わされた経験を持つ。この観念を、理屈の上では理解できるような気がした。しかし、胸の奥まで得心のゆかないもやもやしたわだかまりが常にまとわりついていた。

 わだかまりの理由の一つは、この言葉の多義的な難しさだ。政治思想史的な文脈における“権利”としての“自由”にせよ、感覚的な意味合いでこだわりをなくした精神状態としての“自由”(私は早くから老荘思想にひかれていた)にせよ、同じ“自由”という言葉を用いて語られても、論ずる人の立場や感性に応じてここに込められたニュアンスが根本的に相違してくる。そうした微妙に輻輳する襞を判じ分けないと混乱してしまうし、むしろその混乱を恣意的に利用して得手勝手な“自由”論を展開することだってできる。“自由”なる言葉は実にトリッキーである。

 我々は“自由”を求めているのではなく、“必然”のうちに身をさらすことを渇求している。“個性”なるものもつきつめれば“個性”ではない──。こうした逆説をつきつけられて瞠目したのが福田恒存『人間・この劇的なるもの』(中公文庫、1975年)であった。我々の陥りやすい錯覚を辛辣だが真摯な舌鋒で突き崩してくれる点で卓抜な“自由”論だと思う。

 ここが肝心なポイントだが、いわゆる“自由”を否定するからといって安易な運命決定論へと結びつけるのは愚かしいことである。

 すでにいったように、私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である。そういえば、誤解をまねくであろうが、こういったらわかってもらえるであろうか。私たちは自己の宿命のうちにあるという自覚においてのみ、はじめて自由感の溌剌さを味わえるのだ。自己が居るべきところに居るという実感、宿命感とはそういったものである。それは、なにも大仰な悲劇性を意味しない。宿命などというものは、ごく単純なものだ。

 ワイルドがいっている。芝居ではハムレットがハムレットを演じ、ローゼンクランツがローゼンクランツを演じる。だが、この人生では、ローゼンクランツやギルデンスターンがハムレット役を演じさせられることがある。

 それは本人にとって苦しいことだ。それを、私たちは自由と教えられてきた。私たちは自由である。したがって幸福である。むりにそう思いこもうとする。これ以上の自己欺瞞はない。すべてを宿命と思いこむことによって、無為の口実を求めることも自己欺瞞なら、すべてが自由であるという仮想のもとに動きながら、つねに宿命の限界内に落ちこみ、なお自由であると思いこむことも、やはり自己欺瞞なのである。つまり、二つの錯覚がある。人生は自分の意志ではどうにもならぬという諦めと、人生を自分の意志によってどうにでも切り盛りできるという楽観と。老年の自己欺瞞と青年の自己欺瞞と、あるいは失敗者の自己欺瞞と成功者の自己欺瞞と。(本書、21~22頁)

 私は福田の文化ナショナリズム的な発言に必ずしも共感するわけではない。しかし、本書に人生論としての深みがあるのは間違いなく、折に触れて繰り返し読み返してきた愛読書のうちの一冊だ。現在は版元で品切れらしく入手が難しいのは残念である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月10日 (火)

「秒速5センチメートル」

 新海誠の作品で初めて観たのは「雲のむこう、約束の場所」(2004年)だった。実はストーリーはあまり覚えていない。ただ、映像のノスタルジックな美しさには胸にしみこんでくるような清々しさがあって、気持ちを強くひきつけられた。

 今回の「秒速5センチメートル」もやはり映像が詩的に美しい。「雲のむこう、約束の場所」でもそうだったが、とりわけ空の描き方が私は好きだ。時間に応じた色合いの微妙な感じを描き分けているばかりでなく、空間的な奥行きの広がりを感じさせる映像構成には息を呑む。そうかと思うと、たとえば電車の中、駅の待合室、切れかかった電灯のまたたきなど、何気ない一コマにも丁寧に目配りしており、日常のほのかな情感もたくみに描き出している。

 「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」と全三話、オムニバス形式のアニメーションである。テーマは“距離感”ということになるのだろうか。中学校に進学したばかりの頃、転校で離ればなれとなった二人が再会しようとジリジリした焦り。宇宙の彼方に視線をまっすぐに据えた青年と、そうした彼にあこがれのまなざしを向ける少女との、決して交わることのない二つの視線のすれ違い。社会人になって心がすり減らされた無気力感の中、ふとしたきっかけで過去の純粋な心情にはるか向けられた追憶のまなざし──。一つひとつをたどっていくとあまっちょろいが、そこは目をつぶろう。その時時の年齢に応じた戸惑いが登場人物のモノローグによって綴られるのだが、単なるセリフではなくリリカルな心情告白という形を取っている。

 とりわけ第三話、山崎まさよし「One More Time, One More Chance」が流れ、そこにめくるめくように転変する映像をシンクロさせながら、忘れかけていた様々な想いを振り返るあたりでは胸にグッときた。これは好きな曲だっただけになおさら強く迫ってくる。そう言えば、この曲を初めて知ったきっかけも映画で、篠原哲雄監督「月とキャベツ」(1996年)だった。リフレインのあたりなど映像との相性がとても良い。

【データ】
原作・脚本・監督:新海誠
音楽:天門、山崎まさよし
2007年/日本/カラー/60分
(2007年4月7日、渋谷、シネマライズにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 9日 (月)

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」展・「イタリア・ルネサンスの版画」展

東京国立博物館「レオナルド・ダ・ヴィンチ──天才の実像」展

 レオナルド・ダ・ヴィンチについては研究書・解説書などあまた刊行されている。そうした中でも田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(講談社学術文庫、1992年)が印象に残っている。この本では、レオナルドの各方面にわたる思索の跡が彼の芸術、とりわけ絵画にあらわれているとして、彼の遺した手稿を丹念に読み解いていく。アカデミックな評伝としての体裁と著者自身の思い入れとが良い形でかみ合っており、読み応えがあった。

 東京国立博物館でいま開催されている「レオナルド・ダ・ヴィンチ──天才の実像」展でもやはりレオナルドの手稿の扱いがメインとなっている。こちらでは彼の自然科学的な探求に焦点が当てられており、田中英道による評伝とはまた違ったイメージが浮かび上がって興味深い。

 たとえば、人体のスケッチ、物理現象についてのメモなどが多数展示されている。物の形態にしても、動きにしても、そこに一貫して作用している法則を彼は導き出そうとしていたことが分かる。こうして把握された法則をもとに、リアリスティックでかつ豊かな表情を見せる芸術表現が生み出された。今回の展示で一番の目玉は「受胎告知」のオリジナルが来ていることだが、この有名な絵画を成り立たせている要素を分解して遠近法の鮮やかな応用を観客に示すことにも力が注がれている。

 こうした自然界の法則を発展的に応用して、現実には存在しない有翼人物を描き出したり、バネ仕掛けのライオンを作ったり、人力飛行機や永久機関を試してみたりと、イマジネーションを広げていく様子が魅力的だ。レオナルドの模索した筋道が観客にもたどれるよう展示に工夫がこらされており、とても楽しかった。(~6月17日(日)まで開催)

国立西洋美術館「イタリア・ルネサンスの版画──ルネサンス美術を広めたニュー・メディア」展

 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」展はおもしろいだけに評判も高い。それだけに、日曜日に行ったせいもあろうが、混み具合が尋常ではなかった。会場から出てきた頃には疲れてヘトヘト。上野駅に向かう途中、国立西洋美術館の前を通りかかると「イタリア・ルネサンスの版画──ルネサンス美術を広めたニュー・メディア」展をやっていた。入ってみると、こちらはガラガラ。じっくり展示品を観ていると気持ちが落ち着いてきて、疲れも癒えた。時代的にも重なるわけだし、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」展で疲れた方々には是非こちらにも寄ることをおすすめしたい。

 交通手段の限られた時代、遠隔地まで一つ一つの美術作品を見に行くことは困難である。そこで、多くの人に作品を見てもらうため、版画というジャンルがさかんになった。版画の流通により、別の作者が構図や人物のポーズを真似ることが普通に行なわれた。それを“影響”と考えればいいが、トラブルもおこった。たとえば、デューラーはイタリアを訪れたとき、自分の作品が勝手に複製されて流通しているのを見て差し止めの訴訟をおこしたらしい。展示は地味ではあるが、版画という視点からルネサンス期の一側面が垣間見えてくるのが興味深い。(~5月6日(日)まで開催)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月 8日 (日)

「檸檬のころ」

「檸檬のころ」

 多感な高校生の頃、ほのかに秘めた気持ちのゆらめきを描いた映画が私は意外と嫌いではない。あまっちょろいと言われるかもしれない。そもそも私自身、斜に構えてケチをつけようとする癖があるので、こうした作品を観ながら気恥ずかしいこそばゆさに体がムズムズすることもある。が、そのこそばゆさもひっくるめて快い。高校生活に思い残したわだかまりを心の奥底で引きずっているのか。あるいは、今では薄れてしまった純粋な心情を蘇らせたいという願望があるのか。

 ここで注意しておくが、高校青春もの全般が好きと言っているのではない。感覚的なものなので線引きが難しい。たとえば、アットランダムにだけれど、石川寛監督「好きだ、」(2006年)、安藤尋監督「blue」(2003年)、古厩智之監督「この窓は君のもの」(1995年)、本来はテレビ用アニメだがスタジオジブリ製作の「海がきこえる」(1993年)といったあたりを思い浮かべる。こう書きながら、いずれも東京ではなく地方を舞台にしていることに気づいた。今回観てきた「檸檬のころ」もまたそうである。

 栃木県のローカル線沿いにある高校が舞台。ブラスバンドで指揮をする秋元(榮倉奈々)は野球部の佐々木(柄本祐)と付き合い始めるが、同じく野球部で幼なじみの西(石田法嗣)の視線が気まずい。将来は音楽ライターになろうと夢を描いている白田(谷村美月)はクラスの誰とも関わりを持たず自分ひとりの世界に閉じこもっていたが、バンドをやっている辻本(林直次郎)とふとしたきっかけで話がはずみ、彼への想いに目覚める。こうした5人が大学受験をひかえた日々に感じた戸惑い。そこに、それぞれの立場でケリをつけて自分なりの方向を見出していく姿を描く。

 榮倉奈々は、そのスラリとした立ち姿に清潔感のある魅力があって、控えめな優等生らしい雰囲気をよく出していた。ただし、少々影が薄い。彼女の知名度は割合と高いからだろう、榮倉が主役扱いとなっているが、むしろ谷村美月の方が存在感が強かった。自分の世界を追求して突っ走るかと思うと急に落ち込んだり、そうした素っ頓狂な役柄が、かえってかわいらしく感じられた。谷村演ずる白田に、タイプは違うのだが高校時代の私自身の一側面を投影して感情移入しているのかもしれない。

【データ】
監督・脚本:岩田ユキ
原作:豊島ミホ(幻冬舎、2005年、私は未読)
2007年/ゼアリズエンタープライズ/115分
(2007年4月7日、渋谷、シネアミューズにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年4月1日 - 2007年4月7日 | トップページ | 2007年4月15日 - 2007年4月21日 »