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2007年3月18日 - 2007年3月24日

2007年3月23日 (金)

「善き人のためのソナタ」

 十年くらい前だったろうか、タイトルはうろ覚えだがNHKスペシャルで放映された「ハンスとヨーナス」(?)という番組がいまだに印象に残っている。旧東ドイツで反体制運動に関わっていた夫妻と家族ぐるみの付き合いをしていた女性。夫妻が当局に連行されて不在の時には、その息子の面倒をみていた。子供からは母親同然に慕われていたほどの仲だ。ところが、東西ドイツ統一後に公開されたシュタージ(旧東ドイツの国家保安省)のファイルを閲覧したところ、実は彼女はシュタージの協力者で、夫妻の行動を詳しく密告していたことが判明した。後悔して涙ぐむ彼女の表情を追うというドキュメンタリーであった。

 裏切りなんてのは世の常で、ことさらシュタージ体制と絡めて言挙げする必要はない。ただ、この体制からほの見えてくる人々の葛藤はどこか異質なものに感じられた。相手への友情、愛情は確かにある。その気持ち自体に嘘偽りはないのだが、それが密告という行為としての裏切りと矛盾したままに溶け込んだ日常生活を彼らは送っていた。そんなことが本当にあり得るのかという驚きがあった。

 この番組を見たのとちょうど同じ頃、西尾幹二『全体主義の呪い』(新潮選書、1993年)を読んだ。この本でもシュタージ体制が大きく取り上げられていたが、反体制活動家の子弟が最もスパイに適しているという指摘が目を引いた。家庭では国家体制の誤りについて親が語るのを聞いている。しかし、学校ではそんなことおくびにも出せない。矛盾した二つの顔を使い分ける習慣が幼い頃から身についているため、偽装工作が自然な感じにできるようになる。そうしたメンタリティーに目をつけてシュタージは積極的にスカウトしたらしい。

 いずれにせよ、内面と建前との矛盾が当たり前なのが旧共産圏の日常生活であった。極めてストレスフルでやり切れなかったことだろう。「善き人のためのソナタ」で、劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)は東ドイツの体制を告発する文章を西側に公表する。その中で共産圏における自殺率の高さを指摘しているが、それもむべなるかなと思う。

 ドライマンの脚本による劇が上演された夜のパーティーに国家保安大臣も来ていた。主演女優でドライマンの恋人であるクリスタ(マルティナ・ゲデック)の美しさに目をつけた大臣は、ドライマンをマークして反体制活動の証拠を見つけ出せと部下に命令を下す。これを受けて監視活動を担当することになったベテランのヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)。職務に忠実な“職人肌”の彼だが、ドライマンたちの交わす会話を盗聴しているうちに、彼自身の気持ちも徐々に変化しはじめる。

 厳格な体制の監視網に絡め取られてしまった時、そこから脱け出す自由は“自殺”という方法でしかあり得ないのだろうか? この映画ではいくつかのタイプの“自殺”が描かれている。

 一つ目は、ドライマンが私淑する演出家のイェルスカ。彼は自分の作品が発表できないという絶望の果てに自殺してしまった。ドライマンが彼から受け取った楽譜「善き人のためのソナタ」が邦題の由来である。

 二つ目はクリスタ。身分を隠したヴィースラーから忠告を受けて彼女は大臣の脅しをいったんははねつけた。当然ながら大臣の逆鱗に触れる。彼女は逮捕され、尋問を受けた結果、ドライマンを裏切らざるを得なくなる。ヴィースラーが細工してうまく図ろうとしていたのだが、それを知らない彼女は自ら死を選んだ。メロドラマ的な観点からは、恋人と権力者の狭間に引き裂かれたという古典的なパターンとも言えるだろうが、ここには同時に東ドイツ国民が等しく背負っていた矛盾が込められていることも見て取る必要があろう。

 そして三つ目が、この映画の主人公であるヴィースラー大尉。彼は本来、与えられた任務について価値判断は一切行なわず、自らの感情を押し殺してただひたすら職務に専念するというタイプの典型例である。ハンナ・アレントが“悪の陳腐さ”と表現した意味でのアイヒマン的な人物であったと言える。ところが、シュタージ体制の歯車に徹しなければならないにも拘わらず、彼には“感情”というノイズが発生してしまった。この時点で役人としては自殺に等しい。いつしかドライマンをかばって肝心な所で嘘を交えた報告書を上げるようになる。整合性が保たれていたとしてもそのまま気づかれないほどシュタージはあまくない。クリスタの一件をきっかけとして彼の役人としての人生も終った。

 原題は〟Das Leben der Anderen〝で、直訳すれば「他人の生活」。シュタージの監視者からは“奴らの生活”というニュアンスになるのだろうか。ヴィースラーの立場から深読みするなら、彼自身が思いがけずも見出した“もう一つ別の人生”という意味に取れるかもしれない。

 ドナースマルク監督はまだ33歳の若さだが、シュタージ文書の調査や関係者のインタビューは丹念に行なったという。フィクションではあるが、細部に至るまでのリアリティーには目をみはる。それは映像だけでなく、登場人物の気持ちの揺れまでよく描かれており感心した。寡黙で何を考えているのか分かりづらいヴィースラー大尉、その難しい表情を演じる主演俳優ミューエのしぶい感じも良い。彼自身も旧東ドイツの出身だが、やはり監視対象となっており、二十年にわたって夫人から密告されていたらしい。

【データ】
原題:Das Leben der Anderen
監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
2006年/ドイツ/138分
(2007年3月21日、シネマライズにて)

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2007年3月22日 (木)

太田雄三『E・S・モース──〈古き日本〉を伝えた親日科学者』

太田雄三『E・S・モース──〈古き日本〉を伝えた親日科学者』(リブロポート、1988年)

 エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse、1838~1925年)は大森貝塚を発見し、日本の考古学に大きな転回点をもたらしたことで知られている(そのレポートは近藤義郎・佐原真訳『大森貝塚』(岩波文庫、1983年)で読むことができる)。日本史の教科書には必ず登場するので聞いたこともないなんて人はまずいないだろう。本書は、そうした日本考古学の先達としてではなく、日本という国を深く愛した彼の眼差しに焦点を合わせてモースの人物像を描き出そうとしている。

 モースは正規の大学教育を受けていない。ただ、若い頃から貝の採集にとりつかれていたいわば“貝オタク”で、そのコレクションやスケッチの才能を見込まれてハーヴァード大学の博物館で助手として働きはじめた。早くも三十代にして腕足類の分類学については学界でも権威として認められるようになっていた。

 彼はもともと日本に対して格別な関心はなかった。日本近海に生息する貝類の研究のため1877年に私費で日本にやって来たところ、請われてそのまま東京帝国大学で教鞭をとる成り行きとなり、ここから彼と日本との強い絆がはじまる。と言っても、彼が日本に滞在したのはほんのわずかな期間に過ぎない。1879年には契約が終了してアメリカに帰国し、その後も何回か来日したものの、1883年を最後に日本の土を踏むことはなかった。

 モースの来日当初、彼と宣教師との間で進化論をめぐり論争があった。彼が進化論について講演したところ、聴衆の中に宮家や重臣をはじめ当時の政治エリート層がずらりと並んでいたという。彼が来日したのは明治の御一新から間もない頃。キリスト教の禁令が解かれたものの、その広がりに対する警戒心は依然としてくすぶっており、キリスト教の教義を論破するものとして関心が抱かれたらしい。新知識を吸収しようという熱意もあったのだろうが、キリスト教と進化論とのせめぎ合いがこんなところでも顔を出しているのが興味深い。

 本書は、モースの日本紹介者としての側面を描くことを目的としている。彼が集めた日本陶器のコレクションは当時としては世界随一のもので、現在ではボストン美術館に所蔵されている。彼の陶器への薀蓄には動物学者としての形態分類の技法が生かされていたというのが面白い。また、短期間ながらも日本滞在中に見聞したことを丹念に記録しており、『日本その日その日』(1~3、石川欣一訳、平凡社・東洋文庫、1970~1971年)として刊行されている。彼はアカデミックな訓練を受けていなかったからこそ、かえってバイアスなしに柔軟に観察できたのではないかと指摘されている。

 モースは帰国後も日本についてたびたび講演を行なった。しかし、そこで述べられているのは“古き良き日本”というイメージばかり。日清・日露戦争で世界の注目を集め、その近代化の進展に多くの聴衆は関心があったろうが、そうした時事問題には一切触れていない。明治初期に訪れた時の日本の面影が、あたかも時間がとまったように彼の脳裏には固着していた。もともとが動物学者であって時事的テーマに関心がなかったと言ってしまえばそれまでだが、それでも彼が熱く語っていたものは一体何だったのだろうか。“古き日本”の面影に投影していた彼自身の心象風景はどのようなものだったのか、そこをこそ掘り下げて描き出して欲しかった。

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2007年3月21日 (水)

北岡伸一『清沢洌──外交評論の運命』

北岡伸一『清沢洌──外交評論の運命』(中公新書、増補版、2004年)

 清沢洌(きよさわ・きよし、1890~1945年)の名前は戦前において筋を通したリベラリストとして馬場恒吾や石橋湛山と共によく知られている。とりわけ知米派として外交評論に健筆をふるった。

 彼は1906年、16歳の時にアメリカに渡った。前年の日露戦争の勝利で日本の世界的な存在感は高まりつつあったが、これは同時に警戒心を呼び起こす結果にもつながっていた。排日運動の高まりを移民の一人として肌身に感じたことから、日米関係というテーマは清沢のライフワークとなった。

 苦学する中、シアトルの邦字新聞『北米時事』に入って文筆で頭角を現わす。1918年、28歳の時に帰国。商社勤務を経て『中外商業日報』(現在の『日本経済新聞』)に入り、ジャーナリストとして活躍。さらに『東京朝日新聞』へ移ったが、「甘粕と大杉の対話」という文章が右翼の逆鱗に触れたため、退社。フリーとなって、『中央公論』や『東洋経済新報』などを舞台に筆一本で立つ。

 しかし、彼のリベラルな論調は軍部から睨まれ、徐々に執筆の場は狭められてしまう。戦争が終る直前の1945年5月、肺炎で世を去った。この戦争を通して表われた日本社会の病理を分析すべく書き溜めていた文章は戦後になって『暗黒日記』というタイトルで刊行された(現在は、岩波文庫、ちくま学芸文庫に収録されている)。

 清沢の反戦論は観念的な理想論に終始するものではない。リアリスティックな外交論に特徴がある。第一次世界大戦後の一時期、ウィルソンの理想主義がもてはやされた。清沢は、アメリカの理念をウィルソンによって代表させるかのような考え方に対し、それはあくまでもアメリカの一面に過ぎない、と言う。国際関係の基礎は経済力にあり、その意味でアメリカを体現しているのはフォードである。経済力の基礎は国民の勤勉な生産力にある。政治を軽んずるわけではないが、それはあくまでも二次的な問題に過ぎないというのが清沢の考え方であった。アメリカ経済の強固な力を知っていたからこそ、彼は日米の協調を説いたのである。アメリカという国を、実体験を通して知悉していたので、過度に理想化することなく、また過度に敵視することもなく、着実にリアルな議論を展開できたところに清沢の持ち味があった。

 十九世紀から現代に至る外交史の流れの中で最も顕著に変化したのは、国民輿論という気まぐれで不安定な要因が最大の決定力を持つようになったことである。満州事変から日米開戦に至る経緯においても、もちろん当時の政治指導層、とりわけ軍部の責任は大きいが、輿論のバックアップがあったからこそ彼らの政策決定が成り立っていたことを見過ごしてはならない。従って、輿論を動かすマスメディアの果たすべき責任は言うまでもなく大きい。近年、対米関係にせよ、対アジア関係にせよ硬軟様々な議論が行なわれているが、その中で清沢のように着実な発言を行なっているのが誰なのか、そこを見極める眼を私自身持っているかどうか、正直なところ心許ない。

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2007年3月20日 (火)

太田雄三『B・H・チェンバレン』

太田雄三『B・H・チェンバレン──日欧間の往復運動に生きた世界人』(リブロポート、1990年)

 バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850~1935年)は科学的なジャパノロジー(日本学)に先鞭をつけた一人である。イギリスの出身。1873年、22歳の時に“お雇い外国人”として来日。海軍兵学寮で英語を教えていたが、1886年からは東京帝国大学で博言学(言語学)と和文学(国語国文学)の講座を持つようになった。『古事記』を初めて英訳したほか、『日本事物誌』(“Things Japanese”)という日本にまつわる博物誌も刊行している。

 チェンバレンはラフカディオ・ハーンと文通を通して交流が深かったが、ハーンの名声の影に隠れ、その評判は芳しくない。チェンバレンには西洋至上主義の傾向があって日本を見下していたというのが理由らしい。そうした中、手紙などの未公刊資料を渉猟することで、チェンバレンは日本への愛着を持っていた、むしろ西洋至上主義的な価値観への批判者であったと指摘し、彼の再評価を図るのが本書の目的となっている。彼は自らの生い立ちを語ることは少なかったというが、資料的な欠落は、弟であるヒューストン・チェンバレンの自伝を参照して補っている。

 なお、ヒューストンはヴァーグナーの娘と結婚してドイツに帰化。人種論イデオロギーで知られ、彼の主張はナチズムにも影響を与えている。第一次世界大戦に際して兄弟は仲たがいしたらしい。

 丹念に第一次資料にあたって説得力を持たせようとしているので、チェンバレンの伝記的な道のりをたどる上で本書は有益であろう。ただし、描き方が表面的なような気もする。手紙の一節を引きながら、真摯で求道者的な誠実さが彼の持ち味であったというが、本書を通読してもそうした人物像の輪郭がなかなか浮かんでこない。

 それから、時代背景の中での彼の位置づけも明瞭ではない。私はいちいち年表をめくりながら読んでいたのだが、予備知識の乏しい読者に対しては不親切な書き方のようにも思った。文明開化という時代背景、ジャパノロジーの展開、当時の不穏な政治状況と兄弟間の葛藤など、面白そうな題材が色々とあるので、書き方を工夫すれば面白い評伝となったろうに残念である。

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2007年3月19日 (月)

劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』

劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』(河出書房新社、1991年)

 学生の頃、益井康一『漢奸裁判史』(みすず書房、1977年)という本をたまたま図書館で見つけて読んだことがあった。“漢奸”とは漢民族への裏切り者のこと。具体的には日本への協力者を指す。汪兆銘や周仏海らと共に周作人(1885~1967年)の名前もあがっていた。周作人といえば、あの魯迅(本名・周樹人、1881~1936年)の弟で、彼もまた文学者として活躍していたことくらいは知っていた。中国近代文学における第一人者の弟が“漢奸”として指弾され、正史からほぼ抹殺されたに近い扱いを受けていることに漠然と興味を抱き、その頃から頭にひっかかっていた。

 魯迅が東北大学の医学部に留学したものの、まず中国の精神の医者にならねばならないと志を立てたことは有名な話である。兄より四年ほど遅れて日本に留学(1906~1911年)した周作人は初めから文学の勉強を始めた。兄の社会派的な問題意識に対し、弟が内向的で人生論的な希求が目立ったという気質の違いが興味深い。周作人は西洋文学(特にギリシア神話に関心を示したらしい)を勉強したほか、日本の文学者と交流を深めた。

 1911年に中国へ帰国したが、折りしも辛亥革命が勃発。清朝は倒れ、中華民国が成立した。その後、実権を握った袁世凱が独裁体制をしくなど社会的な混乱が続く中、魯迅や陳独秀、胡適らを中心に新たな文学・思想運動が進められた。北京大学の教授となっていた周作人も加わり、『新青年』に西洋や日本の文学の翻訳を掲載するなど旺盛な執筆活動を行なった。とりわけ白樺派の紹介に意を注ぎ、その頃の彼にはヒューマニスティックな理想主義が色濃かったことがうかがわれる。ところが、相も変らず混乱した情勢に幻滅した彼は社会の表舞台に背を向け、内面の世界に沈潜するようになった。

 本書の特徴は、日本文学の動向と双生児的な戸惑いが周作人にも見え隠れするとして、比較文学の観点から彼と永井荷風とに共通点を見出そうとしているところにある。周作人は荷風を愛読していたが、時世に背を向け江戸趣味に韜晦したあたりにひかれたらしい。周作人は、理想への幻滅から、主観的な意味で“真実”として迫ってくる感情の流出に重きを置くようになった。対世間的には隠遁を選び、文学の表現形式としては小説でも評論でもなく、“戯作者”精神をもった随筆に居場所を求めた。“漢奸”という政治論的なバイアスで周作人のイメージが頭にこびりついていたので、こうした形で彼の内面を文化史的なコンテクストに位置づけるという研究は非常に新鮮に感じられた。

 本書はもともと日中比較文化論の博士論文として執筆されたものであるため、このテーマとの関わり以外には周作人の伝記的な詳細に触れられていない。彼の内面的な葛藤と当時の時代背景とをバランスよくまとめた評伝があれば是非とも読んでみたい。

 なお、蛇足ながら。魯迅は1936年にこの世を去っている。歴史にifを言うのは無意味だろうが、彼が長生きをして戦後の中華人民共和国の体制を目の当たりにしていたらどうなったろうか? 魯迅が社会批判で示した鋭いメスさばきが共産党の支配に素直に従ったとは到底思えない。弟とは違った形で彼もまた悲劇を迎えたかもしれない。

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2007年3月18日 (日)

高木大幹『小泉八雲──その日本学』

高木大幹『小泉八雲──その日本学』(リブロポート、1986年)

 本書では、ラフカディオ・ハーンの遺した文章を読み解きながら、彼が日本という国の内奥に見出そうとした精神性、とりわけ宗教観に着目して、その思索の行方を追体験しようと試みられている。

 本書の半分近くの分量が引用で占められており、あまり感心はできない。無論、ハーンの文章を読者にもじかに味わってもらい一緒に追体験しようといざなう配慮なのだろうが、引用しながら著者のつけるコメントがただの感想文のレベルで、ハーンの思索をつっこんで分析しているとはとても言いがたい。ハーンに関してはすぐれた類書もたくさんあるわけで、その中で少々見劣りしてしまうのは残念である。

 ただ、ハーンの作品に「横浜で」というエッセイがあるのを教えてくれたのは私にとって収穫であった。この作品では、ハーンがある老僧と対話をかわすという形式で、ハーンなりに理解しようとした仏教観がつづられている。“空”や“涅槃”という言葉に対し、西洋人が抱く静的な“無”=notingというイメージと、この老僧が説く生き生きと動的な“無”とが対比されており、実に興味深い。

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