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2007年3月4日 - 2007年3月10日

2007年3月 8日 (木)

黒沢清監督「叫」

黒沢清監督「叫」

 しみ出した海水でぬかるんだ東京湾岸の埋立地で、顔を海水につけられて窒息死した死体がみつかった。捜査にあたった吉岡(役所広司)は、自身も知らぬ間にこの事件に関わっているのではないかという疑いに苛まれる。そうした中、同じ手口の殺人事件が相次いで起った。それぞれの犯人はすぐにみつかるのだが、いずれも共通しているのは赤い服を着た正体不明の女(葉月里緒菜)に出会っていたこと。そして、吉岡の前にもまたその赤い服の女が現れていた…。

 薄ぐもりの空の下、廃墟のような建物が建ち並び、ガラクタがあちこちに散乱したウォーターフロントの荒涼とした光景。古びた団地の殺風景な冷たさ。その中の一室、壁のコンクリートがむき出しになった寒々とした部屋。映画のラストでは、人の気配が感じられない道路を、ヨレヨレのコートを羽織った吉岡が険しい表情で歩いていく。

 こうした無機質な冷たさを感じさせる風景の撮り方は、黒沢清の映像世界が持つ魅力の一つだ。今までの黒沢作品では、こういう雰囲気も含めて異世界の物語として受け止める気持ちで観ていた。それが今回、東京という現実の場所を舞台にとっても不思議な説得力を持っているのが非常に興味深い。映像で示された独特な東京論という趣きすら感じさせる。

 ホラー映画としてはそんなにおもしろくはない。葉月里緒菜のクールな美形は、正体不明な恐ろしさを引き立ててはいるものの、その使い方にちょっと吹き出してしまうような違和感があった。ストーリーよりも、黒沢の陰りを感じさせる映像世界を堪能するという観方をすれば十分に観ごたえのある作品だ。

【データ】
監督・脚本:黒沢清
出演:役所広司、葉月里緒菜、伊原剛志、小西真奈美、オダギリ・ジョー、加瀬亮、他。
日本/2006年/106分
(2007年3月6日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2007年3月 7日 (水)

池田晶子・大峯顕『君自身に還れ』

池田晶子・大峯顕『君自身に還れ──知と信を巡る対話』(本願寺出版社、2007年)

 私は学問としての“哲学”の専門的訓練を受けたことはない。それでも振り返ってみると哲学書は割合と読んできた(語学は苦手なので翻訳を通してだが)。池田さんは、西洋哲学のテキストに向かい合うとき、仏教的な“空”をその背後に見ながら読むとすごく読めるようになる、と本書で言っている(224ページ)が、この感覚は私も何となくわかる。

 私は中学生のとき(それこそ14歳のとき!)、なぜか『荘子』に強く心がとらえられた。それ以来、壁にぶつかってにっちもさっちもいかなくなるたびに、『荘子』を読むことで気持ちのこわばりを解きほぐすということを繰り返してきた。だから自殺もせずに生きてこれたのだと思っている。なぜ老荘思想に魅かれたのか、その理由を言葉で明確に説明することはできない。ただ、それが自分にとってどんな意味を持ったのかを確認したいという気持ちは今に至るもずっと引きずっており、そこから自ずと哲学書を手に取るようになったのだと思う。

 この『荘子』を読みながら漠然と心の奥底に見えていた感覚をテコにして読むと、たとえばスピノザ、ニーチェ、ハイデガーといったあたりも、スッと自然に馴染んだ形で受け止めることができた。彼らの哲学を概念的に整理する能力を私は持ち合わせていない。ただ、その何かを考えつくそうという態度に、他人ではないという身近な親しみは抱くようになった。

 仏教と老荘思想、厳密に言えば思惟構造は違うのだろうが、ただ両方がそれぞれの語法で言わんとしていた感覚(このあたりを共時的に把握しようと努めておられたのが井筒俊彦さんだろう)、それを、西洋哲学対東洋哲学という対比関係で考えるのではなく、そうした感覚の取り方自体が西洋哲学を読み込む時にも必要だということを見過ごしている人は結構多いような気がする。

 大峯さんは、哲学史的な知識はこなれているし、きちんと物事が分かっている人なのだとは思う。ただ、話し方にどこか“学者”臭が抜けきらないところがあって、池田さんとは若干かみ合っていない印象もある。それでも、“空”とか“無”とか、あるいは“慈悲”、“救い”など、言葉として通りが良いのでそのままやり過ごしてしまいそうな曖昧なところで、池田さんが一つ一つ立ち止まって突っ込みをいれる。たとえば、「救いという言葉がどうもうまく入って来ない。むしろ最初から救いなんてものはないじゃないか、そんなものは観念じゃないか、そういう気づき方なんです。なにかに救われたいと思っていること自体がもう救われないことだから、最初から救いなんてない、存在の構造がこうなんだということに気がつけば、何も苦しむ理由なんてなかった。この方が早いでしょう(笑)。」(125ページ)という感じに。大峯さんもそうした突っ込みを丁寧に受け止めながら話を展開させているので、陳腐な流れに陥ってしまうことだけは何とか避けられている。

 言葉というのは、言わんとしていること以外にも様々なニュアンスが付着していて一義的に使うことはできない。どうしたって時間が経つうちに手垢がついてしまい(井筒俊彦さんが“薫習”という仏教用語を使っていたのを思い出す)、“正しい”ことを言ったとしても、受け止める側にはその手垢によって戸惑わされてしまうおそれが常にある。何を言ったとしても、言っては崩し、崩してはまた言い、という右往左往の中から各自が各自なりに何かを感じ取るしかない。そのためにも、手垢のついてしまった言葉の大掃除を誰かがする必要がある。その役割を池田さんが果たしつつあったわけだが、中途にしてお亡くなりなったことは本当に残念でならない。

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