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2006年12月31日 - 2007年1月6日

2007年1月 6日 (土)

バウマン『リキッド・モダニティ』

 ジークムント・バウマン(森田典正訳)『リキッド・モダニティ──液状化する社会』(大月書店、2001年)を取り上げます。今回はお勉強メモです。今、病み上がりで頭が回らず、うまくまとめられませんでした。取りあえず掲載しますが、書き直すことはないでしょう。著者のバウマンは1925年、ポーランド生まれ。現在はイギリスで活躍している著名な社会学者で、リーズ大学・ワルシャワ大学名誉教授です(2007年1月2日記)。

 我々を取り巻く“近代”と呼ばれる時代状況。これを端的に言い表すのはなかなか難しいが、伝統に縛られた共同体的なつながりが解かれ、個人を単位とした社会へ移行した点が大きな特徴として挙げられるだろう。

 ただし、一言で“近代”と言っても、近年は様相が大きく変わってきた。一定の共通枠組みによる見通しの中で、規範的にも物的にも個人をまとめあげて動員してきた従来の時代を「ハードウェア」型近代とするなら、これに対して現在進行しつつある状況を本書ではLiquid Modernity=「液状化した近代」と呼ぶ。

 「われわれの生きる時代は、同じ近代でも個人、私中心の近代であり、範型と形式をつくる重い任務は個人の双肩にかかり、つくるのに失敗した場合も、責任は個人だけに帰せられる。そして、いま、相互依存の範型と形式が溶解される順番をむかえている」(本書11ページ)。横の関係が全く切り離されてバラバラとなった中、自分が何をするのかという目標も、そのために用意する手段も参照すべき模範もなく、そもそも目標を立てる上での主体となるアイデンティティ形成も含めてそうした一切を自己の責任においてなさねばならないという徹底した個人主義の時代。いわば出発点も到達点もすべてが移ろう中で個人が戸惑うイメージがこの「液状化した近代」という言葉には込められている。

「それはちょうど椅子取りゲームの椅子のようなもので、形もスタイルもまるで違い、数も場所も刻々と変化する。人間は椅子取りゲームの椅子のような場所を求めて、つねに右往左往しつづけ、そのあげく、どんな「結果」も、安息もえられず、鎧をとき、緊張を和らげ、憂いを忘れることのできる最終目的地に「到達」したという充足感ももてない。(すでに、ひさしく)解放された個人が進みつつある道の果てにも、新しい居場所はみえてこない。」(本書、44ページ)

 我々は一定の見通しがあって、はじめて自身の目標を設定し、そこへ向けて邁進できる。しかし、あらゆる物事が変転する混乱の中では立ちすくむしかない。

 こうした個人化の進展は自己責任原則の徹底をも意味する。不幸は他ならぬ自分自身のせいである、挫折したのは自分の怠け癖のせいである、努力する以外に救済手段はない、というわけである。望もうが望むまいが関係なく時代の宿命的な成り行きにあり、そんな厳しい個人主義ゲームに参加したくないと言っても、退出の自由は許されない。

 もちろん、一つの精神論としては間違っているとは言えない。ただ、ここで問題なのは、あらゆる物事について自己決定できるという前提の下での形式的なイメージとしての“個人”と、現実の人間が持つ自己実現能力との間には大きなギャップがあることだ。本人の努力ではどうにもならない問題までもが自己責任という名目の下で断罪されてしまう。

「…病気にかかると、そもそも、健康管理指導を守らなかったからだと逆に責められる。また、失業者が就職できないのは、さしづめ、技量の習得を怠ったか、仕事を真剣に探していないか、たんに、仕事がきらいだからだと勘ぐられる。個人が仕事や自分の将来に自信がもてないのも、友人をつくることや他人を説得することが苦手だからか、自己主張の術と、相手に好印象をあたえる能力を習得していないからだときめつけられる。とにかく、だれもがこうした見方の真実性を疑わないのは、これが真実だと信じさせられているからだろう。ベックがもの悲しいいい方で、いみじくも語ったように、「組織の矛盾は人間の生き方によって伝記的に解決」されるのだ。社会は危険と矛盾を生産しつづける一方、それらへの対処は個人に押しつける。」(本書、45ページ)

 こうした傾向の中、パブリックな感覚は失われつつある。個人の自己責任という教えが徹底されると、自分の目の前のできる能力の範囲内のことだけしか考えなくなり、政治や社会の問題についてまでは目を向けない。また、政治的な目標のために連帯することもなくなった。かつては社会的な矛盾がしわ寄せされた人びとが手を組んだ。いまや失敗はすべて本人のせいなのだから手を組む必然性はない。

 現代社会における特異な共同体のあり方を「クローク型共同体」としてバウマンは紹介する。

「劇場にでかける人間は、複層のそれなりの決まりにしたがって、普段着を異なる服を着る。こうした行動は劇場にでかけること自体を、「特別な出来事」とするのと同時に、劇場にあつまる観客を、劇場の外にいるときとは比べものにはならない均一な集団に変える。昼間の関心や趣味がどんなに違っていても、人びとは夜の公演になると同じ場所にあつまってくる。観客席に座るまえ、人々は外で着ていたコートやアノラックを劇場のクロークにあずける。公演中、すべての目、全員の注目は部隊にそそがれる。喜びに悲しみ、笑いに沈黙、拍手喝采、賞賛の叫び、驚きに息をのむ状況は、まるで台本に書きこまれ、指示されているかのように一斉におこる。しかし、最後の幕が降りると、観客たちはクロークから預けたものをうけとり、コートを着てそれぞれの日常の役割にもどり、数分後には、数時間まえにでてきた町の雑踏のなかへ消えていくのである。
 クローク型共同体はばらばらな個人の、共通の興味に訴える演目を上演し、一定期間、かれらの関心をつなぎとめておかなければならない。その間、人々の他の関心は一時的に棚上げされ、後回しにされ、あるいは、完全に放棄される。劇場的見世物はつかのまのクローク型共同体を成立させるが、個々の関心を融合し、混ぜあわせ、「集団的関心」に統一するようなことはない。関心はただ集められただけで、新しい特性を獲得することもなく、演目がつくりだす共通の幻想は、公演の興奮がさめると雲散霧消する。」(本書、257-258ページ)

 徹底した個人化の流れの中にあって、現実の人間はその矛盾に苛まれている。共同性を回復しようというかりそめの努力も、所詮はガス抜きに過ぎない。適宜なガス抜きを繰返すことで、個人化の傾向をむしろ永続化させる。

 バウマンの議論からは、ではどうすればいいのかという具体的な処方箋は見えてこない。しかし、様々なスタンスに立つ社会学者の議論を丁寧に消化した上で、以上に紹介したものに限らず現代社会を取り巻くおびただしくも豊かな論点が盛り込まれているので知的刺戟に満ちた一冊だと言える。

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2007年1月 5日 (金)

都築響一『TOKYO STYLE』

P1040017_2 『TOKYO STYLE』ちくま文庫、2003年
『賃貸宇宙』(上・下)ちくま文庫、2005年

 たまに知り合いの家を訪問したとき、部屋の中の何気ないレイアウトにも、その人の普段のたたずまいが何となく感じられて妙に納得してしまうことがある。私はまず本棚に目がいく.。意外な本が置いてあって「え、この人が」と一瞬虚をつかれても、よくよく考えてみると、その人の全体的な雰囲気の中に、むしろ奥行きをもってきちんと収まる。不思議なものだ。

 ちなみに私自身の部屋は、正直言って人を呼ぶにはあまりふさわしくない。本が棚に収まりきれず、段ボール箱につめて積んであったり、床にじかに積み上げて崩れていたり。片付けないと足の踏み場もないと文句を言われる。しかし、ちらかっているようでも、これはこれで私なりの秩序観=コスモスの表れなのだ(開き直るのはいいが、おおげさだね)。

 雑然とした部屋が私は結構好きだ。もちろん、文字通りのゴミためはご免こうむりたい。表現が難しいが、住む人の個性が筋道として浮かび上がってくるようなちらかり具合とでも言おうか。結局、その人なりに自然と落ち着く形に素直に従っておけば、本人の気持が安定するし、だからこそ部屋の個性が見えてくるのだろう。

 いずれにせよ、そうしたタイプの様々に個性的な部屋を見せてくれるのがこの写真集である。自分の身近にいないタイプの人びとの部屋を見られるというだけでも貴重ではないか。別に覗き見趣味はないけれど。

 取り上げられるのは、音楽、美術、劇団、その他得体の知れぬことにのめり込んでいる人たちの部屋が多い(すべてというわけではない)。決して美しい部屋ばかりではない。むしろ大半は汚い。しかし、ついつい見入ってしまう。意外と生活の智慧がにじみ出ていて役立ちそうなのも見つかったりする(ただし滅多にない)。

 何よりも、この部屋に住んでいる人は、いつも何を考え、何をして暮らし、何を夢見ているのか。そうした想像をめぐらし、時には感傷にふけりながら別の人生を追体験してみるのが楽しいし、刺戟的なのだ。

 実は、愛読書として折に触れてめくっている。ただ、写真集を廉価で文庫にしてくれたので仕方ないとは思うのだが、ページがポロポロとはがれやすいのが悲しい…。

【著者プロフィール】
都築 響一 1956年東京生まれ。ポパイ、ブルータス誌の編集を経て、全102巻の現代美術全集『アート・ランダム』刊行。以来現代美術、建築、写真、デザイン等の分野での執筆・編集活動を続ける。93年『TOKYO STYLE』刊行。96年『ROAD‐SIDE JAPN』を刊行、同書で第23回木村伊兵衛賞受賞。

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2007年1月 4日 (木)

ソマリア情勢の背景③

(承前)

【内戦、旱魃、国連の介入】

 1991年、有力な武装勢力の一つであるアイディド将軍派が首都モガディシオに攻め込み、バーレは海外に亡命した。武装勢力各派は集まって暫定政権を樹立することに合意。暫定大統領には実業家出身のアリ・マハディが就任した。

 ところが、バーレ政権を倒したのは他ならぬ俺だという自負心の強いアイディドがおさまらない。彼は自ら大統領を名乗り、マハディ派に攻撃をしかけた。バーレ派の盛り返し、北部のソマリランドの独立宣言などの事態が重なって、後継政権の枠組みが定まらないまま内戦に突入、国家としての機能は事実上消滅した。

 こうした中、ソマリアを深刻な旱魃が襲うという不運が重なった。餓死者が続出し、最悪な時期には一日推定3,000人が亡くなったという。さらに悲しいことに、飢饉→食料品には希少価値→売りさばいて一部の者がぼろ儲けという利権構造が生れたとも言われる。

 国連は人道援助の方法を模索した。しかし、武装勢力が割拠する無政府状態では援助団体の安全すら確保できない。1992年、国連安保理はソマリアの各武装勢力に対し停戦勧告を行ない、PKOを組織した。これは停戦監視と人道援助を目的とした従来型のPKOで第一次国連ソマリア活動(UN Operation in Somalia Ⅰ=UNOSOMⅠ)と呼ばれる。だが、この場合には当事者全てからの合意を得るのが前提となるのだが、アイディド派などいくつかの武装勢力は国連部隊の受け入れに難色を示し、所定の目的を達することはできなかった。

 しかし、手をこまねいている間にも飢餓で多くの人びとが倒れつつある。早急に手段を講じなければならない。1992年12月の国連安保理決議を受けてアメリカを中心に統一タスクフォース(Unified Task Force=UNITAF)が結成された。UNITAFは援助活動を円滑に進めるためにソマリア国内の港湾・空港など各拠点を確保。アメリカ中心の圧倒的な軍事力を目の当たりにしてアイディド派は様子見を決め込んだ。この時の活動により、一日推定3,000人亡くなっていたところが1,000人にまで飢餓状態を緩和させることができた。

【国連活動の質的転換】

 勿論、これだけでは抜本的な解決にはならない。UNITAFが撤退すれば、元の状態に戻ってしまうことは明らかだ。ガリ国連事務総長は援助ルートの確保ばかりでなく、そもそもソマリアの国家再建のためにも各勢力の武装解除にまで踏み込むべきだと主張し、アメリカの同意も取り付けた。その結果、翌1993年に開始されたのが第二次国連ソマリア活動(UN Operation in Somalia Ⅱ=UNOSOMⅡ)である。紛争当事者の合意を得て停戦監視に専念するという従来の方針から、紛争の積極的な解決を目指す方向へと任務の質を大きく拡大した点にUNOSOMⅡの特徴がある。

 しかし、今回はアイディド派が最初から妨害の意図を明らかにしていた。UNOSOMⅡのメンバーであるパキスタン軍の兵士がアイディド派の襲撃を受け、24名が殺害されるという事件が起こった。UNOSOMⅡは反撃に出て、アイディド派のラジオ局や武器保管所を破壊。UNOSOMⅡとアイディド派との全面戦争となり、その過程で一般市民にも犠牲者が出る事態に立ち至った。

 同年10月3日、アイディド将軍の身柄を拘束するためアメリカ陸軍のレインジャー部隊が動員された。しかし、情報不足からアイディド派の幹部数人を逮捕するにとどまり、肝心のアイディドは取り逃がした。そればかりか、アメリカ軍が投入した戦闘ヘリ・ブラックホーク2機が撃墜され、18名の死者を出すという深刻な失敗であった(この事件の過程はリドリー・スコット監督「ブラックホーク・ダウン」(2002年)が詳細に描写している)。

 アメリカ兵の死体がモガディシオ市内で引きずりまわされる映像がテレビに流れた。アメリカの議会やマスメディアでは、アメリカの国益に必ずしもかなうわけではない軍事行動にアメリカの若者の命を危険にさらすのは問題だと批判する声が高まった。

 また、モガディシオでの市街戦に発展して一般市民にも500名以上の犠牲者を出したため反米感情が高まり、「アメリカ帝国主義はソマリアを再び植民地化しようとたくらんでいる」というアイディド派のプロパガンダが浸透する下地をつくってしまった。

 結局、10月のうちにクリントン大統領がソマリアからの撤退方針を表明。アイディド派もこれを受けて矛を収めた。翌1994年にソマリアの各武装勢力が集まって再び暫定政府樹立の協議が行なわれたが、アメリカ軍の撤退に乗ずる形でアイディド派が支配地域を拡大、内戦は激化の一途をたどる。

 ソマリアの各勢力には国家再建への意欲がない。このままでは国連や人道援助団体の関係者が危険にさらされるだけだ。──そうした判断により、1995年3月までにUNOSOMⅡの全部隊が撤収した。

【人道的介入のディレンマ】

 以上の国連によるソマリアへの介入は、個別の国益を離れた人道目的による初めての軍事介入という点で、どのように評価するかは別として画期的な出来事であった。その後、国連の調査委員会がまとめた報告書では次の三点が反省点として指摘されている。

 第一に、政府が存在しない状態で国連が活動する場合、必然的に国連が統治機能を肩代わりせざるを得なくなる。しかし、それが新たな植民地主義だと誤解されてしまった。

 第二に、ひとたび武力行使が行なわれると、エスカレートしやすい。この指摘を敷衍すると、軍事介入は紛争当事者のどちらかの側につく、少なくともそう受け止められてしまうという困難が伴う。純粋な中立というのはあり得ない。

 第三に、国連活動に参加する国々の問題として、自国の国益につながらなければ敢えて犠牲を払おうという用意はない。実際にクリントン政権はソマリア問題の苦い記憶のためルワンダのジェノサイドへの介入に躊躇することになった。そして、国連の主要メンバーたるアメリカの支持がなければ国連の活動は成立しないという現実がある。

 具体的な問題としては他に、伝統的な社会風土への理解が十分に行き届いていなかったこと、国連側の意思疎通・調整がうまくいっていなかったことも指摘される。

 人道的介入の問題は、根本的には正戦論のアポリアにいきつく。深刻な人権侵害が行なわれているのを黙って見過ごすわけにはいかない。だが、第一に、歴史上のあらゆる戦争は自衛のため、“真の人道と平和”のためという名目で行なわれてきた。“正義のための武力行使”がひとたび正当化されると、その濫用を防ぐ手立ては難しくなる。

 第二に、主権国家を基本アクターとした外交の伝統的な枠組みにおける内政不干渉の原則に背馳する。ソマリアの場合には、そもそも交渉当事者としての政府そのものが崩壊していたため問題を難しくした。

 第三に、第二次世界大戦後の国際秩序を大きく規定している国連憲章で謳われた武力不行使の原則とぶつかってしまう。二度の大戦という惨禍を踏まえ、正・不正の基準を厳しくすることで出来うる限り戦争の可能性をなくそうという意図が国連憲章にはある。ただし国連憲章第七章には、平和を脅かす深刻な事態が発生した場合に国連が主体となって武力を組織し鎮圧することが規定されているが、ここの運用そのものが議論の対象となっており、広範なコンセンサスが得られないままである。

【参考文献】
柴田久史『ソマリアで何が?』岩波ブックレットNo.302、1993年
ベネディクト・アンダーソン(白石さや・白石隆訳)『増補 想像の共同体』NTT出版、1997年
松田竹男「ソマリアの教訓」、桐山・杉島・船尾編『転換期国際法の構造と機能』(国際書院、2000年)所収
最上敏樹『人道的介入──正義の武力行使はあるか』岩波新書、2001年
滝澤美佐子「ソマリアと人道的介入」、日本国際連合学会編『国連研究第2号 人道的介入と国連』(国際書院、2001年)
下村靖樹『ソマリア──ブラックホークと消えた国』インターメディア出版、2002年
小池政行『現代の戦争被害──ソマリアからイラクへ』岩波新書、2004年
遠藤貢「崩壊国家と国際社会:ソマリアと「ソマリランド」」、川端・落合編『アフリカ国家を再考する』(晃洋書房、2006年)所収
Jeffrey Clark, Debacle in Somalia, Foreign Affairs, America and the World 1992/3
Chester A. Crocker, The Lessons of Somalia, Foreign Affairs, May/June 1995
Walter Clarke and Jeffrey Herbst, Somalia and the Future of Humanitarian Intervention, Foreign Affairs, March/April 1996

(以上、2006年12月31日記)

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2007年1月 3日 (水)

ソマリア情勢の背景②

(承前)

【分断されたソマリア】

 19世紀にヨーロッパ帝国主義によるアフリカ分割が進められる中、ソマリ人の居住地域は五つに分断された。すなわち、イギリス領ソマリランド、イタリア領ソマリランド、フランス領ソマリランド(現在のジブチ)、エチオピアのオガデン地方、イギリス保護領東アフリカ(現在のケニア)である。このうち初めの二つ、イギリス領ソマリランドとイタリア領ソマリランドとが合併して独立したのが現在のソマリアである。1960年、いわゆる“アフリカの年”のことであった。

 独立の当初からソマリアは分断の契機をはらんでいた。実は、北部のイギリス領ソマリランドが独立したのは1960年の6月26日。南部のイタリア領ソマリランドも含めた「ソマリア共和国」が成立したのは7月1日で、5日のタイムラグがある。

 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』で指摘されるように、植民地支配のために設けられた行政機構の枠組みは、支配を受けた側の国民国家的なアイデンティティーの形成に大きな影響を与えた。アンダーソンがフィールドとしたインドネシアの場合には、それぞれに風俗習慣も言語も異なる数百もの島々に散在する人びとがオランダの植民地行政という枠組みから“インドネシア人”としての一つのアイデンティティーを作り上げた。これに対してソマリアの場合、風俗習慣も言語も共通するソマリ人が、行政機構の違いによってそれぞれに異なった国民国家アイデンティティーを獲得したと言える。

 ソマリア共和国成立後、イタリア領であった南部主導で憲法が起草され、南部出身者が大統領に就任した。植民地時代以来の教育・法律・経済制度の違いもあり、イギリス領であった北部は独立当初から不満をくすぶらせる。そして、内戦が始まった後の1991年5月、ソマリア共和国成立の際に南部と結んだ合併条約を破棄し、「ソマリランド共和国」として独立を宣言することになる。

 なお、ソマリア政府が消滅した現在、「ソマリランド共和国」は独自の行政機構や議会を整え、他国から国家承認を受けていないという一点を除けば国家としての実質的な機能を備えているという。“崩壊国家”の中で事実上国家としての実効支配を行なう主体が現れた場合の国際法上の位置付けが未整備である点については遠藤貢(2006年)が論じている。

 また、北部のもうひとつの“独立国家”プントランドは連邦制を主張し、ソマリア暫定政権に参加している。

【バーレ将軍の軍事独裁】

 1969年、第二代大統領シルマルケ暗殺に伴う混乱の中、シアド・バーレ将軍がクーデターをおこし、政権を掌握した。バーレ政権は社会主義を標榜し、ソ連の支援を受ける。

 氏族間の対立が絶えないソマリアを近代化しようとバーレ政権は強引な中央集権化政策を進め、伝統的な氏族主義の慣習を禁止した。しかし、表の制度としての行政機構と裏の制度としての長老同士による調停とが並存することになり、かえって国内が混乱した。

 また、氏族単位でソマリア国内がバラバラになっているだけでなく、民族的にもソマリ人が分断されている状況を見て、ソマリ人すべての統一=大ソマリア主義を掲げた。

 そうした中、1974年に隣国エチオピアで革命がおこった。皇帝ハイレ・セラシエは廃位され、メンギスツ将軍が全権を掌握した。これに伴う混乱に乗じてバーレはソマリ人が多く住むエチオピア東部のオガデン地方に軍隊を進めた。大ソマリア主義に基づくばかりでなく、バーレの母親がオガデン出身であるという個人的な事情もあったらしい。

 しかし、オガデン獲得の野心は思うように満たされなかった。支援を当て込んでいたソ連がエチオピア支持に回ったのである。

 かわってアメリカがバーレ政権に接近してきた。1970年代、イラン・イスラム革命やソ連のアフガン侵攻などにより中東の地政学的環境が大きく変動していた。中東・北アフリカ地域に新たな橋頭堡を求めるアメリカと、ソ連から見放されたバーレとで利害が一致し、アメリカは積極的な軍事支援を行なった。この時に供与された兵器類はバーレ政権崩壊後、各武装勢力の手に渡り、内戦を血みどろのものとする。

 バーレの過酷な独裁政治に対し、1988年頃から各地で反政府運動が盛り上がり始めた。冷戦構造の崩壊によりソマリアの地政学的な価値は低下し、1990年、バーレの人権抑圧を理由にアメリカは支援を停止した。バーレの支配力は凋落して各地に武装勢力が割拠するのを防ぐことはできなくなった。

(つづく)

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2007年1月 2日 (火)

ソマリア情勢の背景①

Map 【はじめに】

 エチオピアが隣国ソマリアの暫定政府を支援するという形で軍事介入を本格化させた。首都モガディシオを含むソマリア中南部を事実上掌握していた“イスラム原理主義”(この表現には色々と問題があるが、新聞報道に従い便宜上用いる)勢力「イスラム法廷」の拠点に対してエチオピア軍は2006年12月24日に爆撃を開始し、28日までにモガディシオを占領。撤退した「イスラム法廷」は徹底抗戦の姿勢を示し、泥沼化するおそれもある。

 もう十六年にもわたって内戦状態にあるソマリア。北部のソマリランド、プントランドが独立宣言を出したほか各地に武装勢力が割拠し、その離合集散によってあたかも戦国時代の様相を呈している。欧米諸国や隣国エチオピアが後押しする暫定政府があったものの、ほとんど実権はなかった。

 そうした中で頭角を現してきたのが“イスラム原理主義”勢力の連合体「イスラム法廷」である。武装勢力によるとどまることのない流血の混乱に人びとが飽き飽きしているところへ、イスラムの基本に立ち返ることを主張する勢力が秩序建て直しへの期待を受けて登場したという成り行きは、アフガニスタンのタリバンを思い起こさせる。「イスラム法廷」は暫定政府や各地の武装勢力と戦い、2006年6月には首都モガディシオを占領するまでに急成長を遂げた。

 こうした「イスラム法廷」の動向に深刻な懸念を抱いたのが隣国エチオピアであった。エチオピア東部のオガデン地方には百万人ほどのソマリ人が住んでいる。ここにイスラム過激派の影響が浸透して反政府活動が活発になることを恐れたのである。“イスラム原理主義”ネットワークを押さえ込むための“対テロ戦争”の一環という位置付けをアピールすれば欧米諸国からの支持を取り付けられると見込んでいるのは間違いない。また、エチオピアと国境紛争を抱えているエリトリアが「イスラム法廷」を支援しており、今回の軍事介入にはエチオピアとエリトリアとの代理戦争としての側面があるとも指摘されている。

 今回は、ソマリア情勢の背景をまとめてみたい。ここからは、植民地化された地域におけるナショナル・アイデンティティーの揺らぎ、人道的介入のディレンマ、“対テロ戦争”の是非など複雑な問題が絡み合っているのが見えてくる。

【氏族主義の社会】

 ソマリアの人口は、2004年度で800万人とされる。その90%がソマリ人。遊牧を主な生業としている。また、やはり国民の90%超がイスラム教スンニ派を信奉している。一つの民族がこれだけのパーセンテージを占めるのはアフリカでは珍しい。

 ソマリア社会を動かす基本的な政治単位は父系制に基づく血縁集団としての氏族である。氏族はさらに支族、ディヤ(補償)集団と細分化される。ディヤ集団は数百人から数千人規模である。

 ディヤ=補償集団とは聞きなれない表現だが、次の意味合いがある。たとえば、ケンカで人を殺してしまったとしよう。和解処理のため、加害者はラクダ50頭を用意する。同時に、加害者の属するディヤ集団全体としても別に50頭を用意し、合計100頭を損害への補償として被害者の属するディヤ集団に送る。被害者の遺族はそのうちの50頭を受け取り、残り50頭は被害者の属するディヤ集団全体のものとなる。こうした形で連帯責任を負うのがディヤ集団である。

 従って、警察など行政機構が事件の処理に関わることがあっても、最終的にはディヤ集団の長老同士の話し合いによって裁定される。その意味で、ディヤ集団を軸として氏族主義的な人間関係がソマリア独特の秩序を成り立たせている。ところが、バーレ政権時代の中央集権化政策はこうした氏族中心の慣習を全面的に禁止したため、国内秩序が混乱してしまったと言われる。

 また、氏族間の様々な対立関係には牧草地や水源などの利害が密接に絡んでおり、こうした問題もその後の内戦を深刻にした一因となっている。

※地図は外務省のHPから転載した。参考文献は最後に掲げる。(2006年12月31日記)

(つづく)

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2007年1月 1日 (月)

帝人事件──もう一つのクーデター③(戦前期日本の司法と政治⑤)

(承前)

【法律によるクーデター】

 帝人の監査役として事件に連座した河合良成(戦後、幣原内閣で農林次官、第一次吉田内閣で厚生大臣を歴任)は当時彼の取調べを担当した検事がもらした次のような発言を書き留めている。

「俺達が天下を革正しなくては何時迄経っても世の中は綺麗にはならぬのだ、腐って居らぬのは大学教授と俺達だけだ、大蔵省も腐って居る、鉄道省も腐って居る、官吏はもう頼りにならぬ、だから俺は早く検事総長になりたい、さうして早く理想を行ひたい」(河合良成『帝人事件──三十年目の証言』講談社、1970年)。

 社会を良くするためには君たちに多少の犠牲があったとしてもやむを得ないとその検事は明言したらしい。

 この帝人事件をめぐっては司法省出身の大物政治家のそそのかしによって若手検察官が動いた形跡がある。捜査の陣頭指揮を取っていた黒田検事はこの事件の最中に過労のためであろうか病死したのだが、彼の葬儀に右翼団体や憲兵隊司令官から花輪が贈られていたことは、彼がなんらかの勢力とつながっていたことを推測させると複数の当事者が指摘している。

 事件当時警視総監だった藤沼庄平は、検察が警視庁刑事部に何の相談もなく動き出したことへの不快感を示しながら、事件の背後には塩野季彦(司法官僚出身の政治家。近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣・林銑十郎内閣で司法大臣)がいたと回想している(藤沼庄平『私の一生』1957年。なお、藤沼は戦後の幣原内閣で三土が内務大臣として復活した際、東京府知事兼警視総監という異例のポジションに抜擢される)。

  また、河合は「司法部内における最大の巨峰平沼騏一郎氏を中心として、ときどき会合を催し、帝人問題、あるいはこれに対する方針を論議していた事実は確実にあったと私は信ずる。私は今でも証人を持っている。それは最近(昭和42年ごろ)にいたり、私の一友がそういう会議の席に列していたことを私に告白したのである」(河合、前掲書)と記している。

 平沼も塩野も司法省出身の政治家である。とりわけ事件当時枢密院副議長の地位にあった平沼は検事総長、大審院長(現在の最高裁判所長官に相当)、司法大臣と司法関係の最高職をすべて歴任した大物で、首相候補の一人と目されていた。しかし、右翼結社・国本社の主宰者でもあり(塩野も国本社メンバー)、元老・西園寺から「平沼のような神がかりを天皇のお側に近づけてはいけない」と嫌われていたため、枢密院議長や首相への道が阻まれていた。そこで、平沼グループが倒閣運動の一環としてこの事件を画策したという噂がささやかれている。

 昭和十二年十二月十六日、東京地方裁判所は帝人事件の被告に対して全員無罪の判決を下した。判決文中には事件そのものが「空中の楼閣」であったと記され、裁判長は「今日の無罪は証拠不十分による無罪ではない。全く犯罪の事実が存在しなかったためである。この点は間違いのないようにされたい」と語った。

 すでに政権はいくつも移り変わり第一次近衛文麿内閣が発足していた。時の司法大臣・塩野季彦は控訴しないとの談話を発表せざるを得なかった。衆議院では弁護士の齋藤隆夫(民政党)の発議により帝人事件の人権蹂躙を批判する決議が上程され、同じく弁護士の片山哲(社会大衆党)の賛成討論を経て可決された。

 この間、昭和十一年二月二十六日、高橋是清・蔵相や齋藤実・前首相らが陸軍の青年将校によって射殺された。首相官邸も襲撃され、岡田首相は人違いによって一命を取り留めた。いわゆる二・二六事件である。

 以上の経緯を時系列的に整理すると、まず昭和七年の五・一五事件で犬養毅が殺され、政党政治は事実上息の根を止められた。次の齋藤内閣は昭和九年の帝人事件で倒れた。続く岡田内閣も昭和十一年の二・二六事件によって倒されてしまう。事件後に成立した廣田弘毅内閣(昭和11~12年)において軍部大臣現役武官制が復活したほか、馬場鍈一・大蔵大臣により軍事費重視の予算が組まれることになる。また、帝人事件の翌昭和十年には天皇機関説問題で美濃部達吉が貴族院議員の辞職に追い込まれている。

 帝人事件の捜査にあたった若手検察官たちの発言をみると、社会改革のためには手段を選ばないという点で陸海軍の青年将校たちと共通の論理が見られる。つまり、五・一五事件が海軍の青年将校によって、二・二六事件が陸軍の青年将校によって銃剣を以て行われたクーデターであったとするなら、帝人事件は検察内部の“青年将校”が法律を以て行ったもう一つのクーデターであったと言うことができる。

 三土は裁判で次のような弁論を行なっている。

「若し本件の如くに何等の根拠なきに拘らず、捜査権を悪用し、人間の弱点を利用し、事件を作為的に捏造して政変までも引起すことが許されるならば、内閣の運命も二、三の下級検事の術策に左右せられることになりますが、国家の為め是程危険な事がありませうか。実に司法権の濫用は「ピストル」よりも、銃剣よりも、爆弾よりも、恐しいのであります。現に此一事件に依って司法「ファッショ」の起雲を満天下に低迷せしめたのであります」(野中、前掲書)

【補足】

 帝人事件については意外なほどに研究が少なく、真相はいまだに解明されていない。

 事件の概要を知るのに役立つものとしては、東京日日新聞政治部記者の野中盛隆『帝人疑獄』(千倉書房、1935年)、事件の当事者であった河合良成『帝人事件──三十年目の証言』(講談社、1970年)あたりが挙げられる。ただし、前者は事件が結審する前に書かれたので内容的に不十分である。後者は当事者の記したものなので資料的には貴重だが、第三者の視点を経たものではない。事件の弁護にあたった今村力三郎の訴訟記録も重要な資料だが、当然ながら一般読者には向かない。

 今月刊行されたばかりの保阪正康『検証・昭和史の焦点』(文藝春秋、2006年)に「帝人事件は検察ファッショを促したか」が収められている。これが現時点では一番読みやすくまとまったものだろう。

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2006年12月31日 (日)

帝人事件──もう一つのクーデター②(戦前期日本の司法と政治④)

(承前)

【帝人事件の経過】

 昭和九年、「番町会を暴く」という記事が『時事新報』に掲載された。政財界に張りめぐらされた人脈を通して、台湾銀行の処理をめぐり鈴木商店傘下にあった帝国人造絹糸株式会社の株式が不法に授受されたという内容である(なお、この直後に『時事新報』社長で実業家・代議士の武藤山治が暗殺された。当時の『時事新報』は暴露的な記事を頻繁に掲載しており、中にはガセネタも多かったらしく、この武藤暗殺は別の記事絡みの怨恨だったという)。

 この報道を鵜呑みにした検察はここぞとばかりに捜査に乗り出す。台湾銀行の元頭取や帝人の役員、さらには大蔵次官や銀行局長など5人の現役官僚が逮捕されたばかりか、足利尊氏問題で辞任したばかりの中島・前商工相までもが身柄を拘束された。

 彼らに対しては拷問も含めた厳しい取調べが行われ、自白が強要されたと言われている。実は、この授受されたとされる時点において、当該株式は金融機関に担保として保管されており、外部に動かされた形跡はなかった。つまり、物証が何もないまま、自白のみを根拠にして事件の罪状が構成されたことが後になって判明する。そもそも検事たちは簿記の基本的な知識すら欠いたまま強引に辻褄合わせをして調書をでっち上げたらしい。

 検察の手は現職閣僚の三土忠造にも及んだ。彼は任意出頭を求められて取調室に入ると、自身にも疑惑がかけられていることを告げられる。検事の語る“ストーリー”の矛盾点を逐一指摘しながら身に覚えのないことを主張したところ、検事は先に逮捕された中島を部屋に入れた。

 慣れぬ拘置所暮らしの上、取調べのあまりの厳しさに中島は憔悴しきっていた。驚いたことに中島は「検事の言うことをそのまま認めて欲しい、そうすれば罪は軽くなる」などと言う。おそらく拘禁症であろう、中島は早く外に出たいと気持ちが焦るあまり、検事の言いなりになってしまったようだ。三土は中島の気弱を責め、知らないものは知らないと頑強に自分の主張を曲げなかった(野中盛隆『帝人疑獄』千倉書房、1935年)。

 業を煮やした検察は方針を変えた。検察の作った筋立てに従わない→三土は嘘をついているという論法で、偽証罪で起訴したのである。なお、中島はこの時の自身の心理状況について、生涯で一番の恥辱であり、話すのは避けたいと後悔している(中島久万吉『政財界五十年』まつ出版、2004年)。

 さらには、逮捕された大蔵次官・黒田英雄が検事正の岩村通世(後に司法次官、検事総長、第三次近衛内閣・東条英機内閣の司法大臣を歴任)宛に出した嘆願書が問題を一層深刻なものとした。それによると、受けとった株券は換金して政友会、三土、高橋是清の息子・是賢に渡したとされる。

 実は、この嘆願書は捜査の指揮を取っていた黒田越郎検事の強制的な指示によって書かされたものだった。ところが、関係先を調べても何も出てこず、結局、検事調書すら作成できなかったような代物である。しかし、当初はそうした裏事情は分からず、各方面に与えた衝撃は大きかった。

 事実がどうであれ、検察は動き、新聞はセンセーショナルに書きたてている。閣僚に疑惑がかかり、大蔵省にまで捜査が入ってしまった以上、政権の維持はもはや困難である。結局、高橋蔵相が辞表を提出し、齋藤内閣は総辞職を決めた。代わって、斉藤と同様に穏健派の海軍大将・岡田啓介が首相となった(昭和9~11年)。予算成立の責任を考えて高橋は蔵相に留任したが、疑惑を受けている三土は閣外に去った。

 この頃、宮中にいた木戸幸一は大蔵省理財局長・青木一夫が来訪したのを受けて「三土氏に対する尋問を中心として大蔵省事件なるものの大蔵省側の観察を聴く。益々此の事件には不可解なる疑点の多きを感ず」(『木戸幸一日記』東京大学出版会、1966年)と記している。青木は学生の頃から三土と懇意にしていたことから彼のために各方面へと奔走しており、後に岡田啓介首相のもとへも訪れて直訴している(青木一夫『聖山随想』日本経済新聞社、1959年)。

 根拠薄弱なまま無理な捜査が検察によって強行されていることはすでに政官界でささやかれていた。貴族院において東京帝国大学教授・美濃部達吉や弁護士出身の岩田宙造が検察の捜査手法に問題はなかったかと質問に立っている。こうした検察に対する疑念は元老・西園寺公望にも伝わっており(原田熊雄『西園寺公と政局 第2巻』岩波書店、1950年)、おそらく天皇の耳にも届いていたであろう。

 三土は閣僚を歴任した大物政治家として前官礼遇、つまり大臣をやめて身分的には公職になくとも大臣同様の待遇を受けることとなっていた。前官礼遇者を起訴するには事前に天皇に知らせておく必要がある。司法大臣・小原直も岡田首相もこれには消極的で、三土逮捕の件について見合わせるよう司法省内で再調査をさせた。しかし、下からあがってくる結論はやはり変わらなかった。やむを得ず岡田は天皇のもとに参内した(『小原直回顧録』中公文庫、1986年)。

 天皇は内閣から上ってきた案件についてはそのまま承認するのが慣わしとなっている。しかし、天皇自身が納得のいかない場合には、書類をしばらく机の上に置いたまま手に取らず、無言の意思表示をしたらしい。岡田の回想によると、この三土の件についても天皇は書類を手に取らず、暗に反対の意思を示したようである(『岡田啓介回顧録』中公文庫、1987年)。しかし、天皇は自分に意見があったとしても政治問題への介入はさし控えねばならない。三土は収監された。

(つづく)

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