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2007年12月 7日 (金)

駄弁、日本の近代について。

 中学生の頃、電車に乗って本を開いていたときのこと。タイトルは『大東亜共栄圏』。岩波ブックレット、昭和史シリーズの一冊ですよ。この美名の下、日本がいかにアジアを侵略したかという内容だった。車内でふと視線を感じて顔を上げると、おばさんが私をにらみつけていた。タイトルは見えても、岩波書店の本だとは分からなかったのだろう。子供のくせに右翼のパンフレットを読むなんてけしからん、明らかにそんな険しさがあった。

 家では朝日新聞をとっていた。高校生の頃、天声人語だったか、日本は日清戦争で賠償金を取り立てたことを忘れてはいけない、と書かれていたのを覚えている。日清戦争も中国侵略の一環だったと言わんばかりの口調である。しかし、当時の日清間の関係は非対称的なものではなく、一国と一国との正規な交戦であった。賠償金の取り立ては国際法的に正当であったにも拘わらず、なぜ日本が悪いという言い方になるのかが理解できなかった。

 日本の過去を否定するにせよ、肯定するにせよ、歴史的なコンテクストを無視して一方的な思い込みで断罪する態度というのはたまらなく不快だ。ベネデット・クローチェは、歴史を見る視点そのものに現在の価値意識が込められているという意味で、「あらゆる歴史は現代史である」と言った(たとえば、『思考としての歴史と行動としての歴史』上村忠男訳、未来社、1988年)。歴史への言及の仕方を見れば、その人の価値観、さらには現代という時代を覆う価値意識のありようが浮き彫りにされてくるのだろう。

 日清・日露戦争を通して日本の果した役割の世界史的な意義はやはり大きいと思う。

 日清戦争当時、中国は“眠れる獅子”と呼ばれ、最新鋭の軍艦、定遠・鎮遠をはじめとした東洋一の軍事力を擁していた。しかし、西太后の私的な浪費の帳尻合わせのため軍事費は大幅に削られ、せっかくの軍備も実戦ではあまり役に立たなかった。支配者は国家を自分の私有物という程度にしか考えていなかった。国民は国家への帰属意識を通して忠誠を誓うはずがない。そうした国民意識の乖離に清朝弱体化の問題点があった。康有為らによる清朝の枠内における政治改革もつぶされた(戊戌の政変)。満州人という異民族によって支配されていることが問題だとして漢民族ナショナリズムが高まり、そうした中から孫文が注目を浴びた。清朝は遅まきながら憲法公布・議会開設の約束をしたものの、誰からも信用されないまま辛亥革命によって倒されることになる。

 皇帝であるか、一般庶民であるかという立場の違いを超えて、一人一人の人間が自らの国と直接につながっているという自覚が近代社会における国家意識であり、それはフランス革命以来、全国民の政治参加を求める民主主義と同胞意識を強調する国民主義(ナショナリズム)とが手を携えあって確立されてきた。啓蒙思想のエースたる福沢諭吉は“独立自尊”を説いたが、これは個人としての権利意識と同時に、独立した個人がそれぞれ並列的に国家を担っているという政治的自覚を促すものでもあった。国民全ての政治的自覚のためには議会とそれを保障する憲法が必要である。日本は1889年に大日本国憲法を制定し、これに基づき翌1890年には第一回帝国議会を開催した。明治天皇や後の昭和天皇は憲法の枠内における立憲君主として振舞う慣習を定着させた。現在の視点からすればこの憲法体制に欠陥は目立つものの、少なくとも国民の意思を集約する政治システムが始動したことは確かであり、だからこそ国民の忠誠心を動員することができた。そこに当時の日本の強さがあった。

 日露戦争の勝利は全世界の被抑圧民族から喝采を浴びた。イギリスの女性探検家ガートルード・ベルはアラブ人たちの間で日露戦争の話題でもちきりだったことを記している(『シリア縦断紀行』田隅恒生訳、平凡社・東洋文庫、1994年)。船に乗ってスエズ運河を通りかかった孫文は「お前は日本人か?」とたずねられた。「違う、中国人だ」「そんなのは関係ない、日本がロシアに勝ったぞ!」(『孫文・講演「大アジア主義」資料集』陳徳仁・安井三吉編、法律文化社、1989年)。

 私が世界史的意義というのは、単にアジアの弱小国がヨーロッパ随一の軍事大国に勝ったということばかりではない。立憲体制を整えた国がツァーリズムを倒したという意味合いで世界中に受け止められたことに目を向ける必要がある。つまり、弱小国であっても憲法と議会を通して全国民を結集させるのに成功すれば大国にだって立ち向かうことができる、そうした意味での希望を全世界の被抑圧民族にもたらしたのである。日露戦争が終わった1905年を分岐点として、世界中で大きなうねりがおこったことは注目に値する。イランでは立憲革命の動きが始まった(1905~11年、ただしイギリスとロシアの共同干渉でつぶされた)。1907年には、一時停止されていたミドハト憲法の復活を求めて青年トルコ革命がおこった。ロシアに支配されていたポーランドやフィンランドでも独立運動の気運が高まった。インドでもイギリスがヒンドゥーとムスリムの離間を図ったベンガル分割令への反対運動が盛り上がった。孫文、章炳麟、黄興など中国革命の立役者たちが東京に集まり、中国革命同盟会が結成されたのも1905年のことである。

 しかしながら、日本の近代化はすなわち欧化でもあり、行動パターンもそっくりそのまま真似をし始める。遅ればせの帝国主義ゲームに参加しようとして周辺アジア諸国への侵略を本格化させた。晩年の孫文は神戸での「大アジア主義」講演で「日本はアジアと共存する王道を行くのか、それとも西欧と同じ覇道を行くのか?」と問いかけたが、日本は孫文の期待を無視して覇道を選び、その果てに自滅的な対米戦争へと突き進んだ。

 日本の近現代史におけるプラスとマイナス、それは大きな流れの中では複雑に絡み合った一如のものであり、良い悪いという評価は安易には下せないというのが私の考え方だ。

 「新しい歴史教科書をつくる会」はいまや四分五裂の状態らしい。その最初のきっかけとなった藤岡信勝と西尾幹二との対立は重要なポイントだと思っている。藤岡は司馬遼太郎『坂の上の雲』までの時代は良かった、それ以降の侵略戦争は悪かったという二分法をとっている。対して西尾は、良いも悪いもすべてをひっくるめて日本の歴史であって、どこまでは良い、どこからが悪いと区切る発想そのものが間違っているという趣旨の批判をしていたように思う。私は西尾に共感する。

 私は高校生の頃に西尾幹二『ニーチェとの対話』(講談社現代新書、1978年)を読んで以来、ニーチェ研究者としての西尾に好意的だ。彼の歴史教育批判はニーチェを読み込んだ人ならではのものだと私は理解している。“進歩派”といわれる人々は、日本人であるという現実の立場性を無視して自らを高みに置く。現実を超越したところに“正義”の基準を設け、“正義”の高みから他者を断罪することで、高みに立つ自らについては免罪する。建設的な真実を求めて批判するのではなく、生身の実在を、断罪という行為を通してあたかも生身でないかのように錯覚させる精神構造、つまりルサンチマンを西尾は進歩派知識人に見出した。その具体的な検証事例として歴史教育問題を取り上げた。

 良い悪いという基準を設けて生身の歴史を裁断するのは、結局のところ、その基準の設定者として自らを特権的な立場に置くことで免罪符を与えるという意味での自己満足に過ぎない。その点では進歩派だけでなく、藤岡の論法もまた同断であった。良い悪い、その一切をひっくるめて日本人としての歴史を引き受け、その上で自己肯定すること。こうした西尾の発想はやはりニーチェ的だと思っている。理解できる人はなかなか少ないのだが。

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