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2007年12月15日 (土)

マックス・ウェーバーについて

 知人と話していたら、あるきっかけからマックス・ウェーバーに話題が及んだ。「ウェーバーなんて今さら古いよなあ」。へえ、なぜだろう? お説を拝聴。「だって、宗教が資本主義をつくったっていうんだろ」。この人はウェーバーなんて1行たりとも読んだことがないのがすぐに分かった。相手は年長者なので、さり気なく話題をそらす。反論しようものなら、「お前はエラソーだ」となって面倒くさくなるのは目に見えているからね。読んでもないくせに偉そうな物言いをするのはバカ丸出しでみっともない。反面教師としよう。

 経済活動の動因は、生きるために食べる、欲求を充足するために稼ぐ、といった単純なレベルに還元できるものではない。人間の活動は様々な要因が複雑により合わさって現われているわけで、一元的な理解なんてできるわけがない。ある視点ではこう言える、また別の視点ではこうも言える、こうした多様な議論の積み重ねを通して徐々に迫っていくしかない。実にもどかしいし、面倒くさい。ウェーバーの論文には但し書きが多くてまわりくどいが、それはこうしたもどかしさに一つ一つ予防線を張ろうとしているからに他ならない。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫、1989年)は、カルヴァンやフランクリンに見られる禁欲主義に注目する。経済活動も含めて一切は自分のものではなく神のものなのだから浪費は禁物。利益はすべて再投資に向ける。繰り返していくと、経済活動は規模的に際限なく拡大する。こうした習慣的傾向が神なき近代に入っても世俗的に換骨奪胎され、資本主義のエートスを形作ることになった、というのが本書のざっくりした趣旨。

 ここで注意すべきなのは、資本主義の自己目的的な拡大傾向はそもそも何なのだろうという問題意識が初めにあって、上述のウェーバーの議論はいわばその試論的説明に過ぎないことだ。経済活動を考えるにしても、当の行為者自身にとっての意味的な一貫性をどこまで客観的に説明できるのか。そうした方法論がウェーバーの理解社会学なのであって、プロテスタンティズムという仮説にいちいちこだわるのは木を見て森を見ざる言いがかりだ。

 資本主義の自己目的的な拡大傾向の中で人間の翻弄される姿が見えてくる。あるいは、ウェーバーが官僚制の分析で示したように、企業の大規模化、社会全体の分業化により、合理的・システマティックな官僚制的組織形態が行政機構ばかりでなく社会全体に行き渡る。人間の孤立化と画一化。こうした“近代”の特徴は、グローバリゼーションが進展する現在においても依然として進行中であり、ウェーバーの示した問題の勘所は今でも決して外れてはいない。

 ついでに言っておくが、マルクスにしたって、共産主義という処方箋は間違っていたにせよ、彼の示した資本の自己運動による人間疎外という問題意識は現在においてもやはり間違っているとは言えない。左翼・右翼という政治図式にこだわるバカはこの辺が分からないから本当にうんざりする。繰り返しになるが、人間行動についての説明は多様にあり得る。社会科学の古典を読むときには、結論だけ見て判断するのではなく、そもそもの問題意識はどこにあるのか、そこをこそ汲み取らなければ読んだことにはならない。

 『社会学の根本概念』(清水幾太郎訳、岩波文庫、1972年)を本棚から引っ張り出した。ウェーバーの死後、一群の著作をまとめあげた『経済と社会』の序論をなし、社会学上の重要概念についての説明が並べられている。学生の頃は定義を中心に鉛筆で線を引いていたが、改めて読み返してみると、注目する箇所がまた違ってくる。

 人間の社会的行為を解釈しようとする際、①合理的、もしくは論理的に、②追体験的に、と二通りがあり得る。価値観が違うとやはり追体験はなかなか難しいこともある。そこで、まず個々の行為の目的価値及びそこに向けて働きかけていく一定の筋道を記述してみる、つまり目的合理的なものとして“理念型”(理想型、類型)にまとめてみる。理念型の組み合わせで人間社会の見取り図を描き出す。

 理念型はあくまでも近似的な補助線に過ぎない。人間の行動には非合理的なものも多く、むしろその方が大半を占めていると言っても過言ではないだろう。理念型という一本の補助線を引いてみることで、非合理的な人間の衝動的な行為も、理念型からのズレとして把握することができる。つまり、手がかりがゼロだと何も分からないから、とりあえず一本の線を引いてみて、合理的なもの、非合理的なもの、双方をトータルで見当をつけてみるという考え方だ。理念型というのはそうした思考上のツールとして活用すべきものであって、実体概念そのものを指すわけではない。

「以上のような方法上の便宜という理由によってのみ、理解社会学の方法は合理主義的ななのである。しかし、この方法は、社会学上の合理主義的偏見などと解すべきものではなく、ただ方法上の手段と解すべきもので、生命に対する理性の現実的優位の信仰などと勝手に解釈されては困る。なぜなら、目的の合理的考慮がどこまで実際の行為を現実に規定しているかについては、何一つ言うつもりはないからである。」(本書、12ページ)

「多くのケースでは、歴史的或いは社会学的に重要な行為は、質を異にする多くの動機に影響されているもので、これらの動機から本当の意味の平均を引き出すことは全く不可能である。従って、経済学で行なわれている社会的行為の理想型的構成は非現実的なものである。」(本書、33ページ)

 理念(理想)型の組み合わせで構成された分析が、実際の人間の生身の行動パターンを写し取っているかのように考えるのはとんでもない間違いである。ウェーバーはその点で非常に注意深く、だからこそ彼の議論はまどろっこしくて読みづらい。近年は経済学による実証分析を機械的に応用する形で政策提言に結びつけることが頻繁に行なわれている。もちろん、経済分析は一つの指標として有用であり活用すべきものではある。しかし、それはあくまでもギリギリまで単純化されたモデルに過ぎないことを忘れてしまうと、プロクルステスのベッドのような倒錯した事態を招きかねない。そこにブレーキをかけるためにもウェーバーの議論は読み返してみる価値があると思う。

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