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2007年12月20日 (木)

朱天心『古都』

朱天心(清水賢一郎訳)『古都』(国書刊行会、2000年)

 「まさか、あなたの記憶が何の意味もないなんて…」という一文で『古都』は始まる。台北と京都、現在と過去、様々な位相を往還しながら、都市に根付く人々の想いとその断絶の哀しみとがつづられた小説だ。

 台北の街並みは緻密に写し取られ、とりわけ草花の描写には匂い立つような感じすらさせるが、それはいわゆる具体性、リアリティーとはちょっと違う。現在の町名と日本統治時代の町名とが混ぜこぜになった語り口に、取っ掛かりのつかめない戸惑いをまず覚えた。しかし、ぺダンチックなまでにふんだんな引用も合わせ、読み進めていくうちに、現実と幻とがめくるめく転変するような、“読む”という意識を崩すある種の混濁状態に招き寄せられる。“記憶”といわれるものの根幹は、明確な形をとらなくても手応えとして残る確かさにあるのか、そんな思いを読後にかみしめさせられた。

 「古都」を彩る多様な引用文献のうち、一つの柱となっているのが川端康成の同名小説『古都』(新潮文庫、1968年)である。京都の年中行事を背景に、捨子だが商家に拾われて大切に育てられた娘とその双子の妹との出会いが描かれている。朱天心の「古都」では京都と台北とが重ね描きされ、それをきっかけに後半では、彼女自身の育った街並みを日本人という他者の視点で眺めようとする話法も現われる。

 “捨子”意識が一つのカギとなりそうだ。朱天心の父は外省人、母は本省人。外省人二世だが、複雑なアイデンティティー。台湾ナショナリズムが高まって「外省人は出て行け!」と言われても、外省人二世に帰るべき所などない。彼らもまた他ならぬ台湾で生まれ育ったのだから。

 いま、まさにここで生きているという確かな実感はどこに求められるのだろうか? 自分が歩んできた過去の時間と結びついた記憶。入れ代わり立ち代わり現われては消えるファーストフード店のように代替可能なものではなく、もっと切実なかけがえのない記憶。

「この土地から、人々を引き留めるに足るだけの、かけがえのないものが消え去ったとき、もはや人々は、どうしようもないあきらめに似た気持ちでその場に留まることしかできない。」(86ページ)

 記憶というのは時として現在の様々な思惑から改変を受けやすく、そうした後知恵が自分自身を不自然な居心地悪さに追いやってしまうことが往々にしてある。たとえば、政治的要請で再構築された大文字の“歴史”。政治は過去の抹消と作り替えを繰り返してきた。日本は清代の街路名を日本風に改名し、国民党は日本統治時代の記憶を全否定した。そして、現在の台湾ナショナリズムもまた同様である。権力者が変わるたびに街の名前が変わっていく。しかし、どのような政治的経緯があろうとも、この都市に人々が暮らしてきたという事実に変わりはない。

 生身の記憶は一本の理屈で裁断されるようなものではない。生きてきた記憶を故意に作り替えようと繰り返された“歴史”に対して、この小説は皮膚感覚に訴える確かさを読者の脳裡に呼び覚まそうとしている。

 本書には他にもいくつかの短編が収録されている。「ラ・マンチャの騎士」は、身分証も持たず普段着で外出してそのまま死んでしまったら、どのようにして私が私であることは証明されるのだろう? そんな想像からアイデンティティーの問題に思いをめぐらし、持ち物だけでなく場所も大切なことがほのめかされる。「ハンガリー水」では、匂いをとっかかりに喚起されるヴィヴィッドな記憶がテーマとなっている。

 匂いを感じさせたり、光景がイメージとして浮かび上がってくる筆致が魅力的だ。皮膚感覚に根ざした“記憶”とアイデンティティーの結びつきというテーマでこれらの短編も「古都」と響きあう。

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