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2007年12月

2007年12月31日 (月)

台湾についての学術書を色々と

 植民地期台湾の皇民派作家たちが日本人への同化の熱意を描いたことは現代の我々からすると異様にも思われるが、たとえば日本でも森有礼が英語を、志賀直哉がフランス語を公用語にせよと主張したことを考え合わせると、意外と他人事ではないのかもしれない。少なくとも、思考構造という点で現代日本人は過去との断絶を強く自覚している。土着的な伝統と「近代化=西欧化」との葛藤は日本近代史において最も根幹的なテーマだと言っても過言ではないし、そもそも優勢な異文化を受容する際に生じる軋轢は世界史を広く見渡せばさまざまな局面で見出せる普遍的な現象であろう。

 台湾の場合には事情は日本よりも複雑だ。総督府や鉄道のターミナル駅のように現地民を視覚的に威圧すべきモニュメントがモダンな西洋風建築であったことには、台湾にとって「近代化=西欧化」であると同時に「近代化=日本経由の西欧化」という二本立ての外的プレッシャーがあったことが見て取れる。さらに、戦後の国民党による支配は、民族意識上の枠組みをどこで確定すべきなのかという別のレベルでの葛藤をも引き起こした。

 このように複層的なアイデンティティの分裂が台湾では端的に凝縮された形で表われているところに私は関心を持っている。そして、こうしたアンヴィバレンスは言語という側面に窺うことができる。母語=公用語という枠組みを幸運にも維持できた日本とは異なり、台湾においては、植民地期には日本語、国民党政権下では中国語(北京語)が公用語とされ、いずれにせよ母語を表現手段とする機会を奪われ続けてきたことが議論の焦点の一つとなる。

 台湾での本土意識の高まりに応じて植民地期の日本語文学を見直す動きが始まっている。前回はフェイ・阮・クリーマン(林ゆう子訳)『大日本帝国のクレオール』(慶應義塾大学出版会、2007年→参照)を取り上げたが、同様の方向性を目指した研究として垂水千恵『台湾の日本語文学──日本統治時代の作家たち』(五柳書院、1995年)は先駆的なものである。たとえば、皇民派作家の周金波は「兎にも角にも国語(日本語)でなければ自己意思を表明することはできない」と記す一方で、差別の対象であり続け“日本人”になろうにもなりきれない哀しみを吐露するあたりにはアイデンティティ分裂の葛藤が見えてくる。垂水は「人はどのような心理的葛藤を経て異文化に同化されるのか、或いはどのような理由で拒むのか、その心理のメカニズム」に着目するスタンスを取っている。皇民派vs.抗日派という図式的理解ではなく、もっと普遍的な視野の中で台湾の引き裂かれたアイデンティティのありようをみつめる視点は説得的に感じられた。

 本書では邱永漢も取り上げられている。彼については丸川哲史『台湾、ポストコロニアルの身体』(青土社、2000年)でも詳細に論じられている。邱が直木賞受賞作家であることくらいは何となく知ってはいたものの、金儲け指南のビジネス書のイメージしかなかった。二・二八事件で香港に亡命した台湾独立運動家であったことは丸川書で初めて知った。

 藤井省三・黄英哲・垂水千恵編『台湾の「大東亜戦争」』(東京大学出版会、2002年)は、1943年に台北公会堂で開催された台湾決戦文学会議及び『決戦台湾小説集』をテーマとしたシンポジウムをもとにまとめられた論文集。呉密察「『民俗台湾』発刊の時代背景とその性質」は池田敏雄など在台湾の日本人民俗学者に焦点を当てる。川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が彼らを日本人との近さで台湾を周縁化しようとしたと批判しているのに対し、皇民化政策によって台湾の民俗が消滅してしまうという危機意識を彼らは持っていたことを示して反論している。野間信幸「張文環の戦争協力と文学活動」では、“本意→屈従→同一視→内面化→本意”という意識内における循環モデルが示される。当時は時局迎合的な表現を使わないとつぶされてしまうおそれがあった。しかし、そうした言葉を使い始めると、迎合的な意識そのものを内面化しかねないという難しさがある。文学者、民俗学者としての良心を保ちつつ、オブラートに包みながら皇民化政策を批判したとみるのか、それとも筆を曲げたとみるのか、いずれにせよ解釈が難しい。

 呉密察・黄英哲・垂水千恵編『記憶する台湾──帝国との相剋』(東京大学出版会、2005年)。台湾を研究対象とした場合、ポストコロニアルの分析手法になじみやすいのか、フランツ・ファノンの引用が目立つという印象がある。葦阿勤(和泉司訳)「抗日集団的記憶の民族化」は日本統治期の作家を“抗日”という基準で分類した上で、彼らは台湾主体意識をもって創作をしており、中国文学とは異なると主張。廖朝陽(松本さち子訳)「土地経験と民族空間──『無言の丘』論」は過去の記憶をめぐってのアイデンティティ・ポリティクスの問題を論じている。廖炳恵(道上知弘訳)「台湾の哈日現象──アジアの青少年のポップカルチャーをめぐって」では、若者世代の“哈日族”と李登輝たち老人世代の“親日派”とでは共通基盤がないという一般的な議論(日本では酒井亨『哈日族 なぜ日本が好きなのか』光文社新書、2004年→参照)を紹介した上で、両方に共通する感情構造を見落としているのではないかと疑問を呈し、日本でもない、中国でもない、この二種類の文化を熟成させたもう一つの感覚があると指摘している。藤井省三「中国・香港・台湾と村上春樹」はその後、『村上春樹のなかの中国』(朝日選書、2007年→参照)で詳細に論じられている。

 最後に、前嶋信次(杉田英明編)『〈華麗島〉台湾からの眺望 前嶋信次著作選3』(平凡社・東洋文庫、2000年)。前嶋信次といえば『アラビアン・ナイト』の翻訳で知られ、東西交渉史やイスラム史研究を開拓した権威というイメージが強い。しかし、戦前、台南第一中学校や台北帝国大学に勤務していたということで、台湾に関わる文章が本書に収録されている。中国の史籍からの引用が重々しい昔の正統的歴史学の論文が並ぶ中、ところどころ、情趣の芳しいエッセーが挟まれているのが意外だった。「枯葉二三拾ひて」では、台南の寒村でひっそりと暮らす文人・黄清淵氏との邂逅がつづられている。この出会いに触発されて、黄氏の師匠でもある歴史家・連雅堂(『台湾通史』の著者)の孤影悄然と淋しげなありし日の姿を想い浮かべるくだりが印象的だった。「媽祖祭」は幻想的に美しい文章で実に素晴らしい。

 …というわけで、元旦から台湾に行ってきます。

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2007年12月30日 (日)

フェイ・阮・クリーマン『大日本帝国のクレオール』

フェイ・阮・クリーマン(林ゆう子訳)『大日本帝国のクレオール 植民地期台湾の日本語文学』(慶應義塾大学出版会、2007年)

 植民地期の台湾人による文学的潮流は郷土文学派と皇民文学派とに大別される。日本語を用いて作品を発表した点では共通しつつも、帝国の支配に対していかに抵抗したかをモノサシとして、距離をおこうとした前者を肯定、同化を目指した後者は否定するという図式が台湾の論壇でも主流をなすようだ。外国人としてこの議論を眺める私もこの図式を自然に受け入れている。

 日本の植民地支配をめぐる言説に対するとき、意図していなくても、「取扱注意!」というシールを貼った居心地の悪さを感じている自分に否応なく気づかされる。親日的とされる台湾人の発言を額面通りに受け入れてしまうことは過去の植民地支配における優越意識そのままなのではないかという罪悪感を覚える一方で、あからさまな日本批判にはやはり良い気持ちはしない。どちらの態度を取るべきなのか分からず、戸惑ってしまうことがしばしばある。この気分を言い換えると、黒白はっきりさせようとする図式的な理解ではなく、当時の人々が抱えた葛藤をそのまま内在的に理解したくても、そのとっかかりをつかめないというもどかしさがあった。

 本書は、日本“内地”から来て台湾を題材に作品を書いた作家(たとえば、佐藤春夫)、台湾育ちの日本人作家(たとえば、西川満)、そして日本語教育を受けた台湾人作家たち、三種三様のおびただしいテクストを詳細に読み解きながら、台湾における日本語文学が置かれた状況について大きな見取り図を描き出している。著者の目配りはバランスがとれていて、「台湾で書かれた日本語による文学作品は、ポストコロニアル批評家からは罵倒され、日本のナショナリストからは植民地時代への一種の郷愁として称賛されてきたが、」「こうした文学が実際のところは台湾人独自のアイデンティティを戦略的に肯定するものだとする立場」(本書、16ページ)に立っている。

 とりわけ焦点が当てられるのは皇民派作家たちだ。戦後、彼らはいわば裏切り者とみなされたわけで、近年になってようやく再評価が進んではいるものの、それまではまともに取り上げられる機会は少なかった。

「台湾人としてのアイデンティティへの忠誠が固い郷土派の作家たちと異なり、皇民作家たちは、歴史的文脈を特徴づける文化的不確定性と多様な関係性を例示している。新たなアイデンティティ構築にあたり文化的差異や揺れる思いを意識的に操作しようとする様は、ときにやや捨て鉢、あるいは哀れにさえ感じられる。しかし文化の多様性や主体性の複雑さを認識している同年代の読者なら、この過敏な反応を示す状態の生産的解釈を見出すことができるはずなのである」(本書、270ページ)。

 つまり、日本人なのか台湾人なのか不確定なアイデンティティの揺らぎをそのままに体現した彼らの姿にこそ、現代の我々が汲み取るべきものがあると指摘している。揺らぎそのものをみつめようという眼差しを持っている点で本書は私には説得的に感じられた。訳文もこなれていて読みやすい。

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2007年12月29日 (土)

佐藤優の新刊2冊

 佐藤優『国家の謀略』(小学館、2007年)は『SAPIO』誌でのインテリジェンスをテーマとした連載をまとめた本。陸軍中野学校出身者の死生観を取り上げた箇所に興味を持った。佐藤は原田統吉『風と雲と最後の諜報将校』から「名誉も金も権力も地位も要らないという心境だけではまだ足りない。売国奴の汚名や変節漢の罵声を甘受するだけでもまだ不足である。任務の為には時として名声や金を得ることさえ厭わない、という逆説が平然と現実のものとなるのでなければ真物(ほんもの)ではない」という一節を引用している。読みながら、本当に悟りをひらけば世俗の欲望も平気で受け入れてしまうという禅僧の話を思い浮かべた。目的合理性を追求すると、自分自身をも道具として使い捨てするという発想になる。“自分”などないのだから、目的のためにはすべてがよし、という境地。では、目的とは? 神なき現代において、命を棄てる対象となる超越性はナショナリズムに求められているという佐藤の指摘は傾聴に値する。

 佐藤優『インテリジェンス人間論』(新潮社、2007年)は人物論的なエッセーを集めている。『国家の罠』や『自壊する帝国』を読んだとき、ソ連崩壊に伴う混乱期に人々の見せた情熱や悲哀や裏切りがつぶさに観察されていて、この人は外交官や学者という以上に作家として素晴らしいアンテナを持っていると感心したのが佐藤優に入れ込むようになった理由の一つだ。そうした点で本書も面白い。

 私はユダによる福音書やパウル・ティリッヒについての章に興味を持った。キリスト教神学の思考構造をこれほどかみ砕いて説明できる人は珍しい。以前、『国家の罠』を読了直後、この人は他に何を書いているのだろうと探し、彼の訳したチェコの神学者フロマートカ『なぜ私は生きているか』(新教出版社、1997年)を手に取ったことがある。私は佐藤のインテリジェンス論や外交論にも関心はあるにしても、実はそれほど重きは置いていない。むしろ、そうした議論の行間から透けて見えてくる彼の人生観に興味を引かれている。『国家の罠』で漠然とながらも感じ取った彼の感性が本書巻末に掲載された解説論文によく表われていて、これを読んで以来、彼の本格的なキリスト教論を読んでみたいという希望を持っている。

 新刊として他にも『私とマルクス』(文藝春秋、2007年)、『国家論』(NHKブックス、2007年)も出た。こちらは内容が濃そうなので時間をかけて読むつもり。

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2007年12月28日 (金)

日本の旧植民地について3冊

 橋谷弘『帝国日本と植民地都市』(吉川弘文館、2004年)はソウル、釜山、台北、高雄、奉天、大連など、日本の支配下に入った都市の成り立ちを検証して植民地化の影響を分析した論考。ソウルの朝鮮総督府撤去問題に関して“近代化”の葛藤という視点からの考察に興味を持った。

 日本が各地に残した洋風建築は、植民地支配の終わった後も現地の人々によって同様の建築が建てられていることを考え合わせると、都市の景観という点で違和感はない。たとえば、朝鮮銀行本店は文化財として保存されている。建物そのものへの嫌悪感ではなく、政治的思惑から朝鮮総督府は解体された。

 朝鮮半島近現代史を多少なりとも学んだ人ならば李光洙(イ・グァンジュ)の名前を目にしたことはあるだろう。当時の日本はすでに近代化=西欧化というジレンマを受け入れつつあった。そうした中、日本語を使って文学活動を始めた李は、近代化を目標として朝鮮半島の後進性を批判、それが後世になって“親日的”として指弾されることになった。

 他方、創氏改名に反対して自殺した柳健仁(ユ・ゴニャン)や薛鎮永(ソル・ジニョン)たちは戦後になって民族主義の立場から高く評価された。しかし、両班(ヤンバン)貴族としての旧来的なプライドを守ろうとしたのが彼らの自殺の動機であって、その主観的な意図はともかく、現代の価値観とは大きく乖離する。李光洙の親日的発言が批判されるのはやむをえないにしても、近代性の獲得=土着性・伝統の否定というジレンマを一身に帯びていた点では、その否定された李光洙の方がむしろ現代的な問題意識に近いという逆説がある。

 外発的開化の不自然さについては日本でも夏目漱石以来繰り返されてきたテーマではあるが、日本の植民地支配を受けた地域では、“近代化=西欧化”であると同時に、“近代化=日本経由の西欧化”というもう一つ別の要因が重なってきて一層問題が複雑になっている。韓国ナショナリズム=善玉、親日派=悪玉という安直な善悪図式で済ますのではなく、より丁寧な議論が必要とされよう。

 『別冊歴史読本19 外地鉄道古写真帖』(新人物往来社、2005年)は、北は樺太・満洲から南は台湾まで、日本が“外地”に敷設した鉄道にまつわる写真を収録している。南北に細長い日本の風土は四季の豊かさが特徴ではあるが、それ以上にヴァラエティーに富んだ風景を当時の日本支配地域全域で見せていたのが興味深い。前掲書に続けて本書を眺めたので、鉄道のターミナル駅がすべて洋風であるのが目を引いた。現地民を威圧するためのシンボルが例外なくモダンな西洋式建築だったというあたりに日本のジレンマが窺える。

 “外地”に移住した日本人は書籍をどうやって入手していたのだろうというのが私などには気にかかるところだ。沖田信悦『植民地時代の古本屋たち 樺太・朝鮮・台湾・満洲・中華民国──空白の庶民史』(寿郎社、2007年)は、その動向を紹介してくれる。古書店の場所を示した各都市の地図や写真が抱負に収録されており、当時の“外地”における日本人の暮らしぶりの一端が窺えて興味深い。資料として貴重な本だ。

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2007年12月27日 (木)

藤井省三『村上春樹のなかの中国』

藤井省三『村上春樹のなかの中国』(朝日選書、2007年)

 もともと小説はそんなに読む方ではなかったが、学生の頃、村上春樹は割合と読んでいた。あの淡々と乾いた感覚を私は自然に受け入れていた。好きとか嫌いとかいう力みかえりもなく、空気のようにごく自然に。しばらく離れていたので新しい作品は読んでいない。

 中国語圏での村上春樹現象について本書は四つの“法則”で読み解く。第一に、台湾から始まって香港、上海を経由して北京へとブームが波及する“時計回りの法則”。第二に、それぞれの地域で高率の経済成長が半減する時期に村上現象が起こる“経済成長踊り場の法則”。第三に、“ポスト民主化運動の法則”。村上の小説に時折現れる学生運動の挫折感に民主化運動の葛藤を投影する人々が多いようだ。第四に、欧米での村上受容とは異なり、『羊をめぐる冒険』よりも『ノルウェーの森』の人気が高い“森高羊低の法則”。

 中国大陸では鄧小平時代に紹介されたが、「現代資本主義国家の都市生活」における空虚で寂寞とした「人間性の貧窮」と「感情的色彩の衰退」をえぐりだした「深い哲理」なるものを評価するというスタンスだったというのが面白い。つまり、“改革開放”を進める一方で、病んだ資本主義は拒否すべきという共産党のお墨付きの下で翻訳されたわけである。本当に色々な読み方があるものだ。

 しかし、そうした公式見解の一方で、「実際には夢の都市生活の物語として読まれるという二律背反的な価値を付与されていた。そして一九八九年「血の日曜日」事件後には民主化運動挫折に対する癒しの文学となり、そしてポスト鄧小平時代には台湾・香港の「経済成長踊り場の法則」を追体験するかのように「小資(プチブル)」の論理と情念の表現へと変化してきた。中国の読者は村上受容を通じて各時代ごとに自らの論理と情念とを語ってきたのである。」(本書、210ページ)

 文化の横への伝播関係としてみるのではなく、村上春樹という一本の補助線を引くことで東アジア広域における現代的感性のありようを浮き彫りにしようとしている点で本書は説得力を持つ。村上チルドレンとして衛慧(ウェイ・フェイ)、安妮宝貝(アニー・ベイビー)、王家衛(ウォン・カーワイ)などが取り沙汰されるらしいが、いずれも村上からの直接の影響は否定しているのが面白い。逆にいうと、経済的・社会的変化に応じて、それだけ東アジアで共通した感覚が醸成されつつあるということだろう。韓国も含めるとどんな見取り図が見えてくるのだろうか? 阿Qというモチーフをめぐり、魯迅→村上→ウォン・カーワイに一つの系譜を見出そうとする議論も、東アジアにおける文学的インタラクションを窺わせて興味深い。

 台湾、香港、中国、それぞれで正式に版権取得された翻訳出版だけでも六種類あり、海賊版を含めるとかなりの数に及ぶという。台湾の頼明珠は村上の雰囲気を出そうと原文にできるだけ忠実に訳そうとしているのに対し、中国の林少華は頼訳には格調がないとして批判、中国風の美文調にこだわって日本風は拒否するというあたりには、翻訳という側面から中国ナショナリズムの問題も垣間見える。

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2007年12月25日 (火)

「魍魎の匣」

「魍魎の匣」(もうりょうのはこ)

 最近の邦画では、「三丁目の夕日」シリーズのように、昭和初期の風景を映像的に再現しようという傾向が目立つ。私などは喜んでせっせと映画館に足を運んでいる。「魍魎の匣」もその点では興味深く観た。旧い街並を日本だけで再現するのは難しいようで、中国ロケも行なわれている。クリークを舟で行くシーンなど東京ではなく明らかに上海を思わせるが、これはこれで私は好きだ。

 ただし、後半に入ると、安物ハリウッド映画みたいで興ざめする。私は京極夏彦の小説をそんなに読み込んだわけではないが、だいぶ以前に何冊か読んだ印象として、良い意味でほこりっぽいかぐわしさがほんのり漂う感じが好きだった。そうしたレトロ感覚はすっかり台無しだ。キャスティングのクセの強そうな面々にも興味があったのだが、いずれも使い方が中途半端。エピソードを詰め込みすぎてストーリーは呑み込みづらく、特に面白くはない。

【データ】
監督・脚本:原田眞人
出演:堤真一、椎名桔平、阿部寛、宮迫博之、田中麗奈、黒木瞳、柄本明、ほか。
2007年/133分
(2007年12月24日、新宿ミラノにて)

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2007年12月23日 (日)

「サラエボの花」

「サラエボの花」

 内戦終結から10年あまり経ったボスニア=ヘルツェゴビナの首都、サラエボの冬。一見したところ、決して裕福ではないものの人々の生活は落ち着きを取り戻しているかのように見え、再建された真新しいモスクが雪化粧に彩られているのも美しい。しかし、人の立ち入らぬ廃墟もひっそりと残されている。同様に、人々の心に刻み付けられた傷痕もいまだ癒されてはいない。

 エスマはナイトクラブに勤めながら女手一つで一人娘のサラを育てている。修学旅行で200ユーロが必要なのだが工面できない。ただし、父親が殉教者(つまり、モスレム人兵士としての戦死者)ならば費用は全額免除されるという。父親は殉教者だと言い聞かされてきたので、サラは「どうして証明書がないの?」と母親に詰め寄る。エスマは複雑な表情を浮かべ、話をそらすしかない。

 旧ユーゴ紛争において、見た目にも言語的にもほとんど変わらず隣り合って暮らしてきた人々の間で、宗教的・歴史的背景によるエスニックな差異(セルビア人:東方正教会、クロアチア人:カトリック、モスレム人:イスラム)が際立たせられることで互いに血みどろの殺し合いが繰り広げられたことは周知の通りだろう。「ブコバルに手紙は届かない」(1994年)という映画を以前に観たことがある。民族の異なる夫婦が紛争によって引き裂かれてしまう話だったが、集団レイプのシーンがあったのを覚えている。その結果として、望まれずに生まれてきた子供をどのように受け止めるべきなのか。娘は絶対に捨てないというエスマの努力は母性そのものだが、ここには同時に、憎悪の連鎖を引き起こした“エスニシティー”という観念的構築物を直接的な親子の結びつきを通して乗り越えようという姿を見出せる。

 上映館の岩波ホールはほぼ席が埋まっていた。ここはいつ、どんな映画を観に来ても客層は高齢で、特におばさんグループが目立ち、他のミニシアターとは雰囲気が全く違う。です・ます調で語り合うマジメそうな若めのカップルや、がさつなおばさんグループが、「良い映画を観ましたわよねえ」という感じに笑みを浮かべ合って席を立つ姿がものすごく癇に障った。こういう映画を観た直後に笑みがこぼれるという神経が私には理解できない。岩波ホールはきちんとした映画を上映してくれるので非常にありがたいのだが、客層のもったいぶった“文化趣味”は大嫌いだ。

【データ】
監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
2006年/ボスニア=ヘルツェゴビナ・クロアチア・ドイツ・オーストリア/95分
(2007年12月23日、岩波ホールにて)

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2007年12月21日 (金)

杉森久英『大政翼賛会前後』

杉森久英『大政翼賛会前後』(ちくま文庫、2007年)

 タイトルは何やら堅そうだが、巻末解説で粕谷一希(中央公論社で杉森の後輩にあたる)が指摘するように、政治史的にカッチリした記録ではない。杉森は中学教師を経て中央公論社に入社。しかし同僚と気まずくなって嫌気がさしていたところに大政翼賛会へ来ないかと誘われ、ホイホイ入ってしまった。そんな感じに自らの若き日々を軽妙につづった半生記。

 末端部員なので大政翼賛会の全体像は分からないにせよ、その空気が伝わってくるのが面白い。国士気分の右翼の豪放な笑い声が聞こえてくる一方で、元左翼も多数もぐりこんでおり、翼賛会は蓑田胸喜などから攻撃も受けた。戦時中には、こうしたごった煮的組織が意外と多い。大仰なスローガンの割にはただのコケおどしで、組織的にはグダグダ。ナチスなんかと比べるべくもない。そもそもの成り立ちからしたって、軍部の専横を抑えるため近衛文麿を中心に一大政治勢力をまとめあげようというのが本来の目的だったにも拘らず、いつの間にか当の軍部まで入り込み、結局何のための組織なのか分からなくなってしまったのだから。

 かなり以前のことだが、ドイツ文学者の高橋健二が大政翼賛会文化部長だったのを知って、ケストナーを訳したあの人がファシストだったの…?と驚いたことがあった。その頃は大政翼賛会=“悪の組織”みたいな単純な図式が私の頭にあったわけだ。しかし、高橋は就任時、「軍部の言いなりにならず、さりとてつぶされないように、のらりくらりとやっていきます」と語っていたそうな。そういう微妙なスタンスも、戦後になると“戦争協力”なる一律のレッテル貼りをされてしまった。左翼の文芸評論家・平野謙が、戦後において自らの進歩派的“良心”を誇示するため、翼賛会に所属していた過去について他人をけなしてまで言い訳する姿が実に醜い。

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2007年12月20日 (木)

朱天心『古都』

朱天心(清水賢一郎訳)『古都』(国書刊行会、2000年)

 「まさか、あなたの記憶が何の意味もないなんて…」という一文で『古都』は始まる。台北と京都、現在と過去、様々な位相を往還しながら、都市に根付く人々の想いとその断絶の哀しみとがつづられた小説だ。

 台北の街並みは緻密に写し取られ、とりわけ草花の描写には匂い立つような感じすらさせるが、それはいわゆる具体性、リアリティーとはちょっと違う。現在の町名と日本統治時代の町名とが混ぜこぜになった語り口に、取っ掛かりのつかめない戸惑いをまず覚えた。しかし、ぺダンチックなまでにふんだんな引用も合わせ、読み進めていくうちに、現実と幻とがめくるめく転変するような、“読む”という意識を崩すある種の混濁状態に招き寄せられる。“記憶”といわれるものの根幹は、明確な形をとらなくても手応えとして残る確かさにあるのか、そんな思いを読後にかみしめさせられた。

 「古都」を彩る多様な引用文献のうち、一つの柱となっているのが川端康成の同名小説『古都』(新潮文庫、1968年)である。京都の年中行事を背景に、捨子だが商家に拾われて大切に育てられた娘とその双子の妹との出会いが描かれている。朱天心の「古都」では京都と台北とが重ね描きされ、それをきっかけに後半では、彼女自身の育った街並みを日本人という他者の視点で眺めようとする話法も現われる。

 “捨子”意識が一つのカギとなりそうだ。朱天心の父は外省人、母は本省人。外省人二世だが、複雑なアイデンティティー。台湾ナショナリズムが高まって「外省人は出て行け!」と言われても、外省人二世に帰るべき所などない。彼らもまた他ならぬ台湾で生まれ育ったのだから。

 いま、まさにここで生きているという確かな実感はどこに求められるのだろうか? 自分が歩んできた過去の時間と結びついた記憶。入れ代わり立ち代わり現われては消えるファーストフード店のように代替可能なものではなく、もっと切実なかけがえのない記憶。

「この土地から、人々を引き留めるに足るだけの、かけがえのないものが消え去ったとき、もはや人々は、どうしようもないあきらめに似た気持ちでその場に留まることしかできない。」(86ページ)

 記憶というのは時として現在の様々な思惑から改変を受けやすく、そうした後知恵が自分自身を不自然な居心地悪さに追いやってしまうことが往々にしてある。たとえば、政治的要請で再構築された大文字の“歴史”。政治は過去の抹消と作り替えを繰り返してきた。日本は清代の街路名を日本風に改名し、国民党は日本統治時代の記憶を全否定した。そして、現在の台湾ナショナリズムもまた同様である。権力者が変わるたびに街の名前が変わっていく。しかし、どのような政治的経緯があろうとも、この都市に人々が暮らしてきたという事実に変わりはない。

 生身の記憶は一本の理屈で裁断されるようなものではない。生きてきた記憶を故意に作り替えようと繰り返された“歴史”に対して、この小説は皮膚感覚に訴える確かさを読者の脳裡に呼び覚まそうとしている。

 本書には他にもいくつかの短編が収録されている。「ラ・マンチャの騎士」は、身分証も持たず普段着で外出してそのまま死んでしまったら、どのようにして私が私であることは証明されるのだろう? そんな想像からアイデンティティーの問題に思いをめぐらし、持ち物だけでなく場所も大切なことがほのめかされる。「ハンガリー水」では、匂いをとっかかりに喚起されるヴィヴィッドな記憶がテーマとなっている。

 匂いを感じさせたり、光景がイメージとして浮かび上がってくる筆致が魅力的だ。皮膚感覚に根ざした“記憶”とアイデンティティーの結びつきというテーマでこれらの短編も「古都」と響きあう。

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2007年12月16日 (日)

「アフター・ウェディング」「ある愛の風景」

 家族というかけがえのない関係は、人が入れ替わっても成り立ち得るのだろうか? デンマークのスサンネ・ビア監督「アフター・ウェディング」をはじめに観たときにはピンとこなかったのだが、続けて同じく「ある愛の風景」を観て、そうしたテーマで通じているように思った。

 「アフター・ウェディング」はインドの孤児院のシーンから始まる。その運営にあたるヤコブは資金援助の説得のためデンマークに戻った。大企業を経営するヨルゲンに面会したところ、何の気まぐれか、娘の結婚式に招待される。出席してヤコブは驚く、ヨルゲンの妻は彼の昔の恋人で、その娘というのは別れる間際に妊娠させていた彼自身の娘であった。ヨルゲンは難病で死期が迫っており、自分の死後も家族が困らないよう、ヤコブに父親の役割を担わせようと手筈を進める。かつての恋人と死を間近にした今の夫。実の父と育ての父。初めは傲岸不遜に見えたヨルゲンだが、冷静に手を打っているように見えながら、家族それぞれの想いに引き裂かれる姿が痛々しい。

 「アフター・ウェディング」は父親役、夫役を入れ替えようとする話だが、対して、一人の人間で人格が変わってしまった場合、それを家族は受け入れることができるのか?

 「ある愛の風景」は刑務所から出所するヤニックを兄ミカエルが出迎えるシーンから始まる。ミカエルは優秀な軍人で、弟の不始末にも配慮が行き届き、ヤニックは反発しつつも信頼している。出所のちょうど翌日、ミカエルは平和維持軍の任務でアフガニスタンに向かったが、作戦の途上、ヘリコプターが撃墜されてしまう。戦死の知らせに悲嘆にくれる家族。ショックを受けたヤニックは気持ちを入れ替え、残された義姉のサラや子供たちのために心を砕く。

 ミカエルは生き残って現地のゲリラ勢力の捕虜となっていた。同じく捕虜となっていたもう一人の兵士が弱音を吐くと、「もちろん、人間はいつか死ね。だけど、ここじゃない。必ず戻れるさ」と励ました。しかし、その直後、ゲリラからその兵士を殺すよう命じられた。愛する妻のもとへ戻りたい一心で、彼は手を下してしまう。絶望的な局面にぶつかったとき、人は信頼を裏切ることがあり得るのを自分自身の中に見てしまった。彼の心の中で何かが崩れた。無事帰国できたものの、妻と弟の関係に疑心暗鬼を募らせ、人が変わったように荒れ狂う。

 人と人とが無条件で信頼感を置けるというのは、よくよく考えてみると不思議なものだ(そうではない家族もいるのだろうが…)。インドの孤児院やアフガンの戦場といったモチーフは、家族という内向きに安定した関係に対し、全く異質なものをつきつける効果を際立たせている。

「アフター・ウェディング」
2006年/デンマーク/119分
(2007年12月14日レイトショー、シネカノン有楽町2丁目にて)

「ある愛の風景」(英題:Brothers)
2004年/デンマーク/117分
(2007年12月15日、シネカノン有楽町2丁目にて)

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2007年12月15日 (土)

マックス・ウェーバーについて

 知人と話していたら、あるきっかけからマックス・ウェーバーに話題が及んだ。「ウェーバーなんて今さら古いよなあ」。へえ、なぜだろう? お説を拝聴。「だって、宗教が資本主義をつくったっていうんだろ」。この人はウェーバーなんて1行たりとも読んだことがないのがすぐに分かった。相手は年長者なので、さり気なく話題をそらす。反論しようものなら、「お前はエラソーだ」となって面倒くさくなるのは目に見えているからね。読んでもないくせに偉そうな物言いをするのはバカ丸出しでみっともない。反面教師としよう。

 経済活動の動因は、生きるために食べる、欲求を充足するために稼ぐ、といった単純なレベルに還元できるものではない。人間の活動は様々な要因が複雑により合わさって現われているわけで、一元的な理解なんてできるわけがない。ある視点ではこう言える、また別の視点ではこうも言える、こうした多様な議論の積み重ねを通して徐々に迫っていくしかない。実にもどかしいし、面倒くさい。ウェーバーの論文には但し書きが多くてまわりくどいが、それはこうしたもどかしさに一つ一つ予防線を張ろうとしているからに他ならない。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫、1989年)は、カルヴァンやフランクリンに見られる禁欲主義に注目する。経済活動も含めて一切は自分のものではなく神のものなのだから浪費は禁物。利益はすべて再投資に向ける。繰り返していくと、経済活動は規模的に際限なく拡大する。こうした習慣的傾向が神なき近代に入っても世俗的に換骨奪胎され、資本主義のエートスを形作ることになった、というのが本書のざっくりした趣旨。

 ここで注意すべきなのは、資本主義の自己目的的な拡大傾向はそもそも何なのだろうという問題意識が初めにあって、上述のウェーバーの議論はいわばその試論的説明に過ぎないことだ。経済活動を考えるにしても、当の行為者自身にとっての意味的な一貫性をどこまで客観的に説明できるのか。そうした方法論がウェーバーの理解社会学なのであって、プロテスタンティズムという仮説にいちいちこだわるのは木を見て森を見ざる言いがかりだ。

 資本主義の自己目的的な拡大傾向の中で人間の翻弄される姿が見えてくる。あるいは、ウェーバーが官僚制の分析で示したように、企業の大規模化、社会全体の分業化により、合理的・システマティックな官僚制的組織形態が行政機構ばかりでなく社会全体に行き渡る。人間の孤立化と画一化。こうした“近代”の特徴は、グローバリゼーションが進展する現在においても依然として進行中であり、ウェーバーの示した問題の勘所は今でも決して外れてはいない。

 ついでに言っておくが、マルクスにしたって、共産主義という処方箋は間違っていたにせよ、彼の示した資本の自己運動による人間疎外という問題意識は現在においてもやはり間違っているとは言えない。左翼・右翼という政治図式にこだわるバカはこの辺が分からないから本当にうんざりする。繰り返しになるが、人間行動についての説明は多様にあり得る。社会科学の古典を読むときには、結論だけ見て判断するのではなく、そもそもの問題意識はどこにあるのか、そこをこそ汲み取らなければ読んだことにはならない。

 『社会学の根本概念』(清水幾太郎訳、岩波文庫、1972年)を本棚から引っ張り出した。ウェーバーの死後、一群の著作をまとめあげた『経済と社会』の序論をなし、社会学上の重要概念についての説明が並べられている。学生の頃は定義を中心に鉛筆で線を引いていたが、改めて読み返してみると、注目する箇所がまた違ってくる。

 人間の社会的行為を解釈しようとする際、①合理的、もしくは論理的に、②追体験的に、と二通りがあり得る。価値観が違うとやはり追体験はなかなか難しいこともある。そこで、まず個々の行為の目的価値及びそこに向けて働きかけていく一定の筋道を記述してみる、つまり目的合理的なものとして“理念型”(理想型、類型)にまとめてみる。理念型の組み合わせで人間社会の見取り図を描き出す。

 理念型はあくまでも近似的な補助線に過ぎない。人間の行動には非合理的なものも多く、むしろその方が大半を占めていると言っても過言ではないだろう。理念型という一本の補助線を引いてみることで、非合理的な人間の衝動的な行為も、理念型からのズレとして把握することができる。つまり、手がかりがゼロだと何も分からないから、とりあえず一本の線を引いてみて、合理的なもの、非合理的なもの、双方をトータルで見当をつけてみるという考え方だ。理念型というのはそうした思考上のツールとして活用すべきものであって、実体概念そのものを指すわけではない。

「以上のような方法上の便宜という理由によってのみ、理解社会学の方法は合理主義的ななのである。しかし、この方法は、社会学上の合理主義的偏見などと解すべきものではなく、ただ方法上の手段と解すべきもので、生命に対する理性の現実的優位の信仰などと勝手に解釈されては困る。なぜなら、目的の合理的考慮がどこまで実際の行為を現実に規定しているかについては、何一つ言うつもりはないからである。」(本書、12ページ)

「多くのケースでは、歴史的或いは社会学的に重要な行為は、質を異にする多くの動機に影響されているもので、これらの動機から本当の意味の平均を引き出すことは全く不可能である。従って、経済学で行なわれている社会的行為の理想型的構成は非現実的なものである。」(本書、33ページ)

 理念(理想)型の組み合わせで構成された分析が、実際の人間の生身の行動パターンを写し取っているかのように考えるのはとんでもない間違いである。ウェーバーはその点で非常に注意深く、だからこそ彼の議論はまどろっこしくて読みづらい。近年は経済学による実証分析を機械的に応用する形で政策提言に結びつけることが頻繁に行なわれている。もちろん、経済分析は一つの指標として有用であり活用すべきものではある。しかし、それはあくまでもギリギリまで単純化されたモデルに過ぎないことを忘れてしまうと、プロクルステスのベッドのような倒錯した事態を招きかねない。そこにブレーキをかけるためにもウェーバーの議論は読み返してみる価値があると思う。

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2007年12月14日 (金)

原武史『増補 皇居前広場』

原武史『増補 皇居前広場』(ちくま学芸文庫、2007年)

 皇居前広場はたまに通りかかったことがある。都心で電線や高層建築に邪魔されず空を仰げるのはここくらいではないか。芝生と、松の木立と、点々と配置されたベンチ。人の姿はまばら。確かに広々としてはいるのだが、開放感というよりも居場所のない素っ気なさで、この場にとどまることはない。

 一国の首都にはたいてい公共広場がある。たとえば、パリのコンコルド広場、北京の天安門広場、それぞれ形式や意図は異なっても、何らかの政治的デモンストレーションが行なわれる。しかし、皇居前広場には何もない。本書でも引用されるロラン・バルト『表徴の帝国』の「中心は空虚」という表現にならって、そこに中空構造ともいうべき日本の政治的伝統を見出したくもなる。しかし、この皇居前広場も様々な曲折を経ているようだ。

 本書は5つの時期区分で皇居前広場の変遷をたどる。①明治~大正にかけてはまだ「聖なる空間」として確立しておらず、関東大震災時には罹災者の避難所となった。②大正~昭和初期にかけて天皇制儀礼の定式化により「聖なる空間」としての特殊な意味を帯びるようになる。③敗戦後の占領期には、天皇ばかりでなく、占領軍や左翼勢力など多様なアクターがここで入れ替わりデモンストレーションを行なった。左翼勢力は「人民広場」と呼ぶ。また、この時期には恋人たちのナイト・スポットとして「愛の空間」でもあったらしい。「人民広場」という言葉には、やや放埓な男女関係の語感もあったというのが面白い。④1952年以降は空白期。この時期にロラン・バルトも来日。⑤昭和の末から現在までが天皇制儀礼再興期とされる。ただし、これは私にはピンとこない。

 著者の以前の作品、たとえば『「民都」大阪対「帝都」東京』(講談社選書メチエ、1998年)は、大阪と東京とでターミナル駅での私鉄と国鉄との接続が異なることを糸口に、民と官とのせめぎ合いを描き出していたし、『大正天皇』(朝日新聞社、2000年)では地方巡幸に重点が置かれていたように記憶している。視点が斬新で面白かった。著者は空間政治学を提唱する。人間の営みは場所と常に結びついている。人間の定式的な行動パターンやそれを動機付ける思考パターンとして政治現象を考察するにあたり、場所という具体性に結節点をつかまえてみると、ある種の生々しさを伴って政治の一側面の輪郭が浮かび上がってくるのが興味深い。

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2007年12月12日 (水)

佐藤優の新刊続々

 先月末から今月にかけて佐藤優の新刊続々。『国家の謀略』(小学館)『私のマルクス』(文藝春秋)『野蛮人のテーブルマナー──ビジネスを勝ち抜く情報戦術』(講談社)『国家と人生──寛容と多元主義が世界を変える』(太陽企画出版)。全部買ったが、取り敢えず後者2冊を斜め読み。

 『野蛮人のテーブルマナー』は、ビジネスライフにも応用できるようにインテリジェンスの極意を披露という趣旨。こういう処世術は本を読んで身に付くものでもないからな。処分候補の段ボール箱に放り込んだ。

 『国家と人生』は竹村健一との対談。竹村の発言は自慢ばっかりなのでとばして読む。佐藤の発言で興味を持ったのは次の3点。

①読書術。速読と熟読との使い分け。速読は、その本が必要な本かどうか判断をつけるためで、分かる箇所は飛ばし読みする。本当に読むべき本を熟読するために、その他の本は速読で片付けるという考え方。飛ばし読みできるためには基礎学力が必要。

②異なる価値観の共存できる多元性を確保するため、権威と権力とを分離したシステムが日本の伝統。大統領制になったらとんでもない衆愚政治がはびこってしまう。どんなに権力や財力があっても、絶対に頭が上らない権威があってはじめて抑えがきく。その権威の担い手として皇統の連続性が不可欠。ここまでの議論は理解していたが、戦争をやって天皇に責任がかぶせられるとその連続性が失われてしまうので交戦権を放棄、こうしたロジックで護憲の立場に立つという主張は本書で初めて知った。

③山川均の非武装中立論について、実は共産革命を防止するためのロジックが潜んでいたという指摘には目から鱗が落ちた。つまり、ソ連や中共は革命の輸出で日本国内を煽動し、それに乗って軍隊がクーデターをおこしてしまう恐れがある。それを防止するため当面は非武装中立という考え方だったらしいが、山川の死後、社会党はこうした含みを捨ててしまったという。日本のオールド・ソシャリスト(という言い方があるのか知らないが、私は売文社を思い浮かべている。共産党は含めない)は結構冷静に物事を見ていた。戦後の薄っぺらな左翼とは質が違う。たとえば、売文社で山川の仲間だった高畠素之は、ソ連には社会主義と膨張的帝国主義とが共存していることをつとに喝破していた(「労農帝国主義の極東進出」『改造』昭和2年)。

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2007年12月11日 (火)

佐野眞一『枢密院議長の日記』

佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書、2007年)

 本書を書店で見かけたとき、佐野さんはまた随分と地味な人物を取り上げたものだというのが第一印象だった。倉富勇三郎は法制官僚の出身、宮中勤務を経て、後に枢密院議長にのぼりつめた。しかし、政治的なキーパーソンではない。枢密院とは要するに、法令や条約の違憲審査を行なう天皇直属の諮問機関で、その意味では最高の栄誉あるポジションだが、大正期以降はほとんど形骸化して功成り名遂げたおじいちゃまたちの名誉職程度のものとなっていた。

 倉富は“時計的法学博士”と呼ばれるほど正確かつ勤勉な人物であった。そうした性格的特徴が、勤務の合間をぬって日記を書き続けることに振り向けられていた。その量はとにかく膨大で、政治的事件はもちろん、井戸端会議的な雑談まで克明に記録されている。漢学の素養を背景にしたしかめっつらしい文体で、たとえば口の中に魚の小骨がささって抜けるまでがつづられたりして、妙なおかしみがあったりもする。病弱な奥さんに読ませていたのも微笑ましい。

 見たこと、聞いたこと、そのすべてをこれといったコメントも加えずに日記に丹念に写し取り続けた倉富のスタイルを、究極のノンフィクションと見立てて読み解かれていく。宮中某重大事件(色盲を理由に皇太子妃候補をおろすかどうかでもめた事件)や摂政設置問題、ロンドン海軍軍縮条約など、大きな事件の舞台裏もつづられている。だが、佐野さんの筆致はむしろ、宮中という世間から隔絶された場所にも漂っていた、人間の生々しい空気をすくい取ることに向けられる。華族のゴシップもぎっしりつまっている。他方、朝鮮王族の置かれた難しい立場が垣間見られるのも興味を引かれる。

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2007年12月10日 (月)

「君の涙 ドナウに流れ──ハンガリー1956」

「君の涙 ドナウに流れ──ハンガリー1956」

 1956年のハンガリー革命50周年を記念した映画である。昔は“ハンガリー動乱”という言い方をしていたように思うが、共産党政権が崩壊してからは“革命”と表現するようになったようだ。

 軽薄なオリンピック選手が信念に殉ずる女子学生の凛々しさにほだされるというラヴ・ストーリーは若干安っぽいものの、事件の一連の経過を、とりわけブダペストの市街戦を中心に再現された映像には強い説得力がある。ハンガリーがソ連によって軍事制圧された直後、メルボルンの冬季オリンピックでハンガリーの水球選手たちはソ連チームを破り金メダルを取った。怒ったソ連選手にハンガリー選手が殴られ、血を流した写真は実際に世界中に配信されたという。

 フルシチョフが1956年にスターリン批判を行なったことはまだ極秘だったにせよ、スターリン主義体制は徐々にほころびつつあった。ハンガリーの“小スターリン”と呼ばれた独裁者ラーコシは実権を失い、かつて“チトー主義者”として処刑された共産党の土着派幹部ライクは名誉回復された。ポーランドではポズナニ暴動をきっかけに改革派のゴムウカがトップとなり、このゴムウカへの連帯を決議した学生集会がハンガリー革命の烽火となる。

 人々の求めに応じて復権を果したナジ・イムレ首相は穏健派とはいえ古参共産党員であった。彼はマルクス主義の読み替えにより、ソ連型を絶対とするドグマにはとらわれず、ハンガリーの置かれた具体的状況に合わせた柔軟な政策を提唱、その際にはレーニンのNEP(新経済政策)に論拠を求めた。また、共産党の硬直した支配体制に対し、党内民主主義の活性化、さらには非党員一般大衆への支持拡大を図った。そのため、階級対立ではなく、ハンガリー人としての愛国主義を強調し、社会主義陣営内にあっても内政不干渉の原則を尊重するゆるやかな連合体への移行を目指した。つまり、社会主義という基本路線は変えないながらも、国民の全般的な政治参加を求める民主主義、ハンガリー人の主権を求める民族主義、これら三つの多元的な共存を模索したと言える。

 しかし、国民の間から盛り上がった自発的な運動のうねりはナジの想定を大きく上回るものだった。下からの国民の要求に合わせ、秘密警察の廃止、ソ連軍撤退要求、ワルシャワ条約機構からの脱退、そしてハンガリーの中立化を宣言する。ナジは必ずしもソ連と敵対する意図はなく、交渉で解決できると信じていた。しかし、ワルシャワ条約機構の脱退と中立化はすなわち西側への接近であるとソ連側の目には映った。ナジの楽観的な信頼を裏切り、ソ連軍は再度ブダペストへ侵攻する。折悪しく、米英仏はスエズ動乱に手を焼いており、ハンガリー問題にまで口を挟む余裕はなかった。

 国会議事堂前広場に人々が集まってくるとき、ハンガリー市民が仲良くソ連軍の戦車に乗ってくるシーンがある。この映画ではその理由は説明されないが、ソ連軍兵士の中にも「自分たちはブダペストをファシストの手から解放するよう命じられて来たが、ここにはファシストなど一人も見当たらない」と言って、むしろハンガリー市民に協力した者もいたらしい。ソ連軍の中にも少数民族出身者がおり、彼らはハンガリー人の要求に共感したのである。しかし、この直後、広場ではどこからともなく一斉射撃が始まった。その死傷者の中にはハンガリー市民ばかりではなく、ソ連軍兵士もいた。犯人は分かっていないが、おそらく秘密警察だろうと考えられる。ところが、ソ連軍は友好的な態度を装って罠にはめたという噂が広がり、反ロシア感情が急速に高まる。実際には、ソ連軍よりもハンガリーの秘密警察による市民の殺戮の方がひどかったという(ビル・ローマックス著、南塚信吾訳『終わりなき革命 ハンガリー1956』彩流社、2006年、151~155ページを参照)。この映画でもロシア人への罵詈雑言もさることながら、秘密警察の死体を吊るし上げた映像も出てきて、その憎しみの程がうかがえる。

 ソ連がハンガリーを軍事制圧した後、ナジ首相たちは連行され、後に秘密裁判で処刑された。ナジの改革派政権に参加しながらも途中でソ連側に寝返ったカーダールが新しい支配体制を築き上げる。カーダールには革命の弾圧者としてのダーティーなイメージが強いが、前掲書によると、むしろハンガリー人の要求とソ連の圧倒的な力との間に立って汚れ役を引き受けたという捉え方もあり得るので評価を下すのはまだ早いとの指摘があり、興味を引いた。

 ハンガリーの現代史に題材をとった映画としては、「太陽の雫」(1999年)も非常に見ごたえがあった。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして共産主義体制と激動の20世紀をあるユダヤ系ハンガリー人一家を主役としてつづられた大河ドラマで、ハプスブルク帝国臣民、ハンガリー国民、そしてユダヤ人と重層的な民族的アイデンティティーの葛藤が描き出されていた。こちらもおすすめだ。

【データ】
原題: Szabadság, szerelem(愛、自由) 英題:Children of Glory
監督:クリスティナ・ゴダ
製作:アンドリュー・G・ヴァイナ
2006年/ハンガリー/120分
(2007年12月9日、シネカノン有楽町2丁目にて)

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2007年12月 7日 (金)

駄弁、日本の近代について。

 中学生の頃、電車に乗って本を開いていたときのこと。タイトルは『大東亜共栄圏』。岩波ブックレット、昭和史シリーズの一冊ですよ。この美名の下、日本がいかにアジアを侵略したかという内容だった。車内でふと視線を感じて顔を上げると、おばさんが私をにらみつけていた。タイトルは見えても、岩波書店の本だとは分からなかったのだろう。子供のくせに右翼のパンフレットを読むなんてけしからん、明らかにそんな険しさがあった。

 家では朝日新聞をとっていた。高校生の頃、天声人語だったか、日本は日清戦争で賠償金を取り立てたことを忘れてはいけない、と書かれていたのを覚えている。日清戦争も中国侵略の一環だったと言わんばかりの口調である。しかし、当時の日清間の関係は非対称的なものではなく、一国と一国との正規な交戦であった。賠償金の取り立ては国際法的に正当であったにも拘わらず、なぜ日本が悪いという言い方になるのかが理解できなかった。

 日本の過去を否定するにせよ、肯定するにせよ、歴史的なコンテクストを無視して一方的な思い込みで断罪する態度というのはたまらなく不快だ。ベネデット・クローチェは、歴史を見る視点そのものに現在の価値意識が込められているという意味で、「あらゆる歴史は現代史である」と言った(たとえば、『思考としての歴史と行動としての歴史』上村忠男訳、未来社、1988年)。歴史への言及の仕方を見れば、その人の価値観、さらには現代という時代を覆う価値意識のありようが浮き彫りにされてくるのだろう。

 日清・日露戦争を通して日本の果した役割の世界史的な意義はやはり大きいと思う。

 日清戦争当時、中国は“眠れる獅子”と呼ばれ、最新鋭の軍艦、定遠・鎮遠をはじめとした東洋一の軍事力を擁していた。しかし、西太后の私的な浪費の帳尻合わせのため軍事費は大幅に削られ、せっかくの軍備も実戦ではあまり役に立たなかった。支配者は国家を自分の私有物という程度にしか考えていなかった。国民は国家への帰属意識を通して忠誠を誓うはずがない。そうした国民意識の乖離に清朝弱体化の問題点があった。康有為らによる清朝の枠内における政治改革もつぶされた(戊戌の政変)。満州人という異民族によって支配されていることが問題だとして漢民族ナショナリズムが高まり、そうした中から孫文が注目を浴びた。清朝は遅まきながら憲法公布・議会開設の約束をしたものの、誰からも信用されないまま辛亥革命によって倒されることになる。

 皇帝であるか、一般庶民であるかという立場の違いを超えて、一人一人の人間が自らの国と直接につながっているという自覚が近代社会における国家意識であり、それはフランス革命以来、全国民の政治参加を求める民主主義と同胞意識を強調する国民主義(ナショナリズム)とが手を携えあって確立されてきた。啓蒙思想のエースたる福沢諭吉は“独立自尊”を説いたが、これは個人としての権利意識と同時に、独立した個人がそれぞれ並列的に国家を担っているという政治的自覚を促すものでもあった。国民全ての政治的自覚のためには議会とそれを保障する憲法が必要である。日本は1889年に大日本国憲法を制定し、これに基づき翌1890年には第一回帝国議会を開催した。明治天皇や後の昭和天皇は憲法の枠内における立憲君主として振舞う慣習を定着させた。現在の視点からすればこの憲法体制に欠陥は目立つものの、少なくとも国民の意思を集約する政治システムが始動したことは確かであり、だからこそ国民の忠誠心を動員することができた。そこに当時の日本の強さがあった。

 日露戦争の勝利は全世界の被抑圧民族から喝采を浴びた。イギリスの女性探検家ガートルード・ベルはアラブ人たちの間で日露戦争の話題でもちきりだったことを記している(『シリア縦断紀行』田隅恒生訳、平凡社・東洋文庫、1994年)。船に乗ってスエズ運河を通りかかった孫文は「お前は日本人か?」とたずねられた。「違う、中国人だ」「そんなのは関係ない、日本がロシアに勝ったぞ!」(『孫文・講演「大アジア主義」資料集』陳徳仁・安井三吉編、法律文化社、1989年)。

 私が世界史的意義というのは、単にアジアの弱小国がヨーロッパ随一の軍事大国に勝ったということばかりではない。立憲体制を整えた国がツァーリズムを倒したという意味合いで世界中に受け止められたことに目を向ける必要がある。つまり、弱小国であっても憲法と議会を通して全国民を結集させるのに成功すれば大国にだって立ち向かうことができる、そうした意味での希望を全世界の被抑圧民族にもたらしたのである。日露戦争が終わった1905年を分岐点として、世界中で大きなうねりがおこったことは注目に値する。イランでは立憲革命の動きが始まった(1905~11年、ただしイギリスとロシアの共同干渉でつぶされた)。1907年には、一時停止されていたミドハト憲法の復活を求めて青年トルコ革命がおこった。ロシアに支配されていたポーランドやフィンランドでも独立運動の気運が高まった。インドでもイギリスがヒンドゥーとムスリムの離間を図ったベンガル分割令への反対運動が盛り上がった。孫文、章炳麟、黄興など中国革命の立役者たちが東京に集まり、中国革命同盟会が結成されたのも1905年のことである。

 しかしながら、日本の近代化はすなわち欧化でもあり、行動パターンもそっくりそのまま真似をし始める。遅ればせの帝国主義ゲームに参加しようとして周辺アジア諸国への侵略を本格化させた。晩年の孫文は神戸での「大アジア主義」講演で「日本はアジアと共存する王道を行くのか、それとも西欧と同じ覇道を行くのか?」と問いかけたが、日本は孫文の期待を無視して覇道を選び、その果てに自滅的な対米戦争へと突き進んだ。

 日本の近現代史におけるプラスとマイナス、それは大きな流れの中では複雑に絡み合った一如のものであり、良い悪いという評価は安易には下せないというのが私の考え方だ。

 「新しい歴史教科書をつくる会」はいまや四分五裂の状態らしい。その最初のきっかけとなった藤岡信勝と西尾幹二との対立は重要なポイントだと思っている。藤岡は司馬遼太郎『坂の上の雲』までの時代は良かった、それ以降の侵略戦争は悪かったという二分法をとっている。対して西尾は、良いも悪いもすべてをひっくるめて日本の歴史であって、どこまでは良い、どこからが悪いと区切る発想そのものが間違っているという趣旨の批判をしていたように思う。私は西尾に共感する。

 私は高校生の頃に西尾幹二『ニーチェとの対話』(講談社現代新書、1978年)を読んで以来、ニーチェ研究者としての西尾に好意的だ。彼の歴史教育批判はニーチェを読み込んだ人ならではのものだと私は理解している。“進歩派”といわれる人々は、日本人であるという現実の立場性を無視して自らを高みに置く。現実を超越したところに“正義”の基準を設け、“正義”の高みから他者を断罪することで、高みに立つ自らについては免罪する。建設的な真実を求めて批判するのではなく、生身の実在を、断罪という行為を通してあたかも生身でないかのように錯覚させる精神構造、つまりルサンチマンを西尾は進歩派知識人に見出した。その具体的な検証事例として歴史教育問題を取り上げた。

 良い悪いという基準を設けて生身の歴史を裁断するのは、結局のところ、その基準の設定者として自らを特権的な立場に置くことで免罪符を与えるという意味での自己満足に過ぎない。その点では進歩派だけでなく、藤岡の論法もまた同断であった。良い悪い、その一切をひっくるめて日本人としての歴史を引き受け、その上で自己肯定すること。こうした西尾の発想はやはりニーチェ的だと思っている。理解できる人はなかなか少ないのだが。

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2007年12月 4日 (火)

無意味な雑談、音楽

 朝の通勤電車ではいつもCDを聴いている。すし詰め状態で本も新聞も開けないから。語学のリスニングでもやればいいのかもしれないが、今のところ、そんな気力はない。i-Podなどというシャレたものも持っていないので、まだ壊れずしっかり動いてくれるポータブルCDプレイヤーを背広のポケットにねじこんでいる。

 前にも書いたが、ヨハン・デ・メイ(Johan de Meij)の交響曲第3番“Planet Earth”が最近のお気に入り。作曲者はブラスバンドの方で有名な人らしく、このCDもブラスバンド的な編成のオーケストラで演奏。第一楽章Lonely Planetは初めにビュン、ビュンと電子音が響き、微惑星の衝突から地球が生まれる瞬間を表現しているようだ。第二楽章Planet Earthの中盤以降、小太鼓のリズムに合わせた金管楽器のうなり声、そして第三楽章Mother Earthでのオーケストラと女声合唱の高まり、何とも言えずたまらない。交響曲第1番は『指輪物語』をテーマとしているらしいが、日本では入手が難しいようだ。小学生の頃からの愛読者だけに気になる。

 デ・メイはホルストの組曲「惑星」を意識して第3番を作曲したらしい。この組曲には水星、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星はあるが、地球はない。なお、冥王星もないが、作曲当時はまだ発見されてなかったから。最近、“惑星”の地位から転落したばかりだから、帳尻は合うことになったな。ホルストは占星術に凝っていたらしいが、そういうのはよく知らない。私はいつも第一曲「火星」と第四曲「木星」ばかり繰り返し聴いていて、他の楽章は無視していた。Marsの行進曲風の出だしはやはり胸が高鳴る。

 第四曲「木星」は、出だしの盛り上がりと、その後のなめらかな旋律とで、聴く人によって印象が違うようだ。以前、有線放送の流れるお店に入ったとき、後者のメロディーにのせた歌声が聴こえてきた。この曲自体が好きだということもあるが、歌声の細めだけど落ち着いた響きがとても良いなあと思った。傍らにいた友人に尋ねて、平原綾香の名前を初めて知った。「Jupiter」の収録されたアルバム「ODYSSEY」を早速買った。「あなたの腕のなかで 」の高らかな歌声がとくに好き。

 このCDには「蘇州夜曲」も入っている。服部良一作曲、西條八十作詞による昭和初期のヒット曲だ。ふと、机の脇、“ツン読”状態の本の山を見やると、筒井清忠『西條八十』(中央公論新社、2005年)が目に入った。読もう読もうと思いつつ、放ったらかしのまま。なのに、昨日は同じく筒井清忠の新刊『昭和十年代の陸軍と政治──軍部大臣現役武官制の虚像と実像』(岩波書店、2007年)を衝動買いしちまったばかりだぜ。

 これも前に書いたが、world’s end girlfriendの曲が大好きだ。私の周囲には知っている人がいなくて寂しい。ジャンルは何と言ったらいいんだろう? テクノ系だと思うが、色々な要素が入っていて一口でまとめられない。大型CDショップのアンビエント・ミュージックのコーナーに置いてある。なめらかなメロディーにノイジーなきしみがかぶさった、不思議な音響世界が実に独特で、おもいっきりはまってしまった。「The Lie Lay Land」で初めて知ったのだが、最近は「Hurtbreak Wonderland」を繰り返し聴いている。ちなみに、“Hurtbreak”はスペルミスではありませんよ。他にも「dream's end come true」(夢の終わりが実現する)とか「Palmless Prayer」(手のひらのない合掌)とか、タイトルが意味深げに凝っている。

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2007年12月 3日 (月)

網野善彦『東と西の語る日本の歴史』

 私は小学生の頃から歴史好きで、日曜夜八時からのNHK大河ドラマはよく観ていた。大抵はダラダラして退屈なのだが、唯一、いまだに忘れられないのは「炎(ほむら)立つ」だ。原作は高橋克彦。前九年の役から奥州藤原氏滅亡に至る東北の歴史を描き出していた。“蝦夷”と蔑まれる安倍頼時(里見浩太郎)の屈辱。兄弟同士憎しみ合う清原(藤原)清衡(村上弘明)と清原家衡(豊川悦司)。前九年の役では理想に燃える颯爽たる若武者として登場しながらも、後三年の役では古狸として戻ってくる源義家(佐藤浩市)など、人物造型のメリハリが明確で、彼らの散らす権謀術数の火花がぬるま湯のようないつもの大河ドラマとは全く異質だった。

 ストーリーの面白さだけでなく、東北という“辺境”に舞台設定されたのが新鮮に感じられたのだと思う。前九年の役、後三年の役にしても、日本史の教科書では地方の反乱という程度の扱いだ。しかし、“蝦夷”の視点に立ってみると、その地域が抱えざるを得なかった葛藤が大きく浮かび上がってくる。“蝦夷”の実力者として立つ清原実衡(萩原流行)は、京の貴族から養子を迎えて家督を継がせようとする。中央の権威と結びつくことで自らの立場を固めようという計算だが、清衡がこうつぶやいたのが印象に強い。「自らの血を否定するとは、何とも忌まわしいことではないか。」中央権力との同化、地域的自立の模索、両極的な思惑が交錯したアイデンティティーの分裂が日本の歴史にもあり得たことをドラマに仕立て上げていたというのも、大河ドラマとしてはやはり異例だった。

 網野善彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫、1998年)は、京都の朝廷に視点を固めた“ひとつの日本”という前提を崩すべく、それぞれに特性ある地域同士のダイナミズムを通して近世に至るまでの日本を描こうとしている。

 平将門は東国で独自の政府機構を作り上げ、いわば事実上の独立国家を出現させた。これを討つ平貞盛・藤原秀郷らは、京の朝廷からすれば反乱討伐軍だが、東国の視点でこの戦いを捉えるならば、東国自立路線か、それとも西と結びつく路線を取るのかという方針をめぐる争いだったと言える。東国はこの二つの路線対立に揺れながら、朝廷の命を受けて東北の“蝦夷”を討つ(前九年の役、後三年の役)一方、源氏を武家の棟梁と仰ぐ形で独自の力を蓄えていく。これは同時に、東国と東北との宿命的な地域対立にもつながった。

 西国も独自の動きを見せていた。平氏は宋との交易活動を重視して海洋国家としての方向を目指しており、朝廷の意向に反して福原に遷都したのも当然の選択であった。ところで、九州は西国とは一線を画しており、足利尊氏は東国の正統な継承者としての姿勢を示すと同時に、九州にも足場を置いた。後醍醐天皇はこれを牽制するように義良親王を東北に派遣して小幕府をつくらせようと目論む。こうした東国―九州ラインに対する西国―東北が対抗するという構図が南北朝の動乱期に現れたという。

 このように東西の政治力学が働いた背景には、それぞれの地域的な社会構造の違いが大きく根ざしている。東国は総領を中心に主従関係を結ぶイエ的社会なのに対し、西国は横につながる「傍輩」の関係が軸となる。東国出身者が地頭として西国に赴任すると、こうした人間関係意識のズレから摩擦も起こったらしい。何よりも、西国の水田優位、東国の畠作優位という経済構造の違いも大きい。米を日本文化のシンボルとする考え方が今でも根強いが、実際には庶民の生活は米以外の食物に支えられていた。律令期の班田制から近世の石高制に至るまで米は支配者による賦課の基礎であり続け、水稲耕作に重きを置く捉え方は畿内中心史観に偏っていると網野は批判する。

 食物、言葉、社会関係、様々なレベルで日本社会は地域ごとに多様であり、そのことが政治史的なダイナミズムとも密接につながっているのを描き出そうとしているところに本書の面白さがある。

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2007年12月 2日 (日)

「ミッドナイト・イーグル」

「ミッドナイト・イーグル」

 元・戦場カメラマンの西崎は、目の前で子供が爆死するのを見てトラウマを抱え、山に引きこもっていた。北アルプス山中で航空機の墜落を目撃、後輩の新聞記者に引っ張られる形で吹雪の中を現場へと歩く。周囲には自衛隊が厳戒態勢を敷いており、ただならぬ緊迫感。墜落したのは米軍のステルス戦闘爆撃機“ミッドナイト・イーグル”で、極秘に核爆弾が搭載されていたのだ。墜落地点へと某国の特殊工作員が集結しつつあり、戦闘状態に西崎たちも巻き込まれてしまう。

 ここ最近、安全保障問題について、かつてのイデオロギー的な呪縛による原則論の応酬にとどまっていた時代に比べると、かなりオープンな議論が行なわれるようになってきた。それに伴い、「宣戦布告」(2002年)、「亡国のイージス」(2005年)など、安保問題を題材に取りつつもイデオロギー的な硬直とは離れたところで娯楽映画が製作されるようになってきたのは健全なことで、映画ファンとして歓迎している。この「ミッドナイト・イーグル」にしても出来は悪くないと思う。

 日本で戦闘状態が勃発するとしたらどんな設定があり得るか、そんなシミュレーションにこうした映画の面白さがある。日本の安全保障には、憲法第九条による諸々の制約、国民世論としての軍事行動への嫌悪感、対米依存という不安定な立場、そして朝鮮半島情勢など、様々な問題がある。これらは勿論、深刻ではある。ただ、映画づくりという点で割り切って考えると、こうした制約的要素をうまく織り込んで脚本を練り上げれば、ハリウッドのポリティカル・サスペンスとはまた違った形で、ストーリー展開に奥行きが出てきて面白そうだ。

【データ】
監督:成島出
原作:高嶋哲夫(文春文庫、2003年)
音楽:小林武史
出演:大沢たかお、竹内結子、玉木宏、吉田栄作、藤竜也、袴田吉彦、石黒賢、他
2007年/131分
(2007年12月1日、新宿ミラノにて)

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2007年12月 1日 (土)

そういえば、柳田國男が好きだった

 赤坂憲雄『方法としての東北』(柏書房、2007年)を手に取りながら、本書のメインテーマというわけではないが、そういえば私も柳田國男に興味があったなあと思い出した。

 『柳田國男全集』がちくま文庫で刊行され始めたのは私が中学三年生の時だった。高校受験を間近に控えた時期、『遠野物語』や『山の人生』が収録された第一回配本の第四巻をこたつの中でむさぼり読んだ。勉強については割合と寛容なように思っていた親もさすがに見かねたのか、「本なんか読んでないでいい加減に勉強しなさい」と叱られ、意外に感じたのを覚えている。

 高校生になってから、NHK教育テレビで柳田國男についての番組をたまたま見た。赤坂憲雄さんが語っていた。まだそれほど名前が売れていなかった頃だが、赤坂さんの存在を意識するようになったのはこの時からだ。高校一年生の夏休み、一人で遠野をふらついたのもなつかしい。兵庫県福崎にある柳田の生家を訪れたのは20代になってから。

 なぜ柳田國男に興味を持ったのか、我ながら不思議に思う。赤坂さんも記しているが、東京郊外に育った人間として、民俗的なものと体験的につながるきっかけはほとんどなかった。囲炉裏のある暮らし、祭りの風景、正月行事、そういったかつてなら普通に見られた習俗も、私の眼には異文化として映る。柳田を読んでも、いわゆる“郷愁”を感じることはなかった。むしろ、同じ“日本”という括りの中に自分がいることを意識しつつも、見も知らぬ生活世界が息づいていたことに素朴な驚きがあったのだと思う。それは同時に、私自身の地に足の着かない無色透明な生活感覚への違和感を自覚させることにもつながっていた。

 欧化の進む近代日本において“日本人”とは一体何なのかを問うた柳田の民俗学は、いわば新しい国学だとよく言われる。大文字の政治史ではなく、常民の生活文化の中に“日本人”なるものの原型を見出そうとしたところに柳田の着眼点があるわけだが、それは一方で、均質な“日本”という前提が暗黙のうちに置かれている点で、国民国家批判の対象となっている。

 赤坂さんは柳田を出発点として踏まえつつ、均質な“日本”イメージを解きほぐそうとしている。『方法としての東北』の中で、「民俗学とは、内なる異文化と出会うための方法である」と言う。“ひとつの日本”像の自明性に対する問いかけとして東北という地域の見直しを進め、“いくつもの日本”へと思考の転換を図る。しかし、東北にこだわり始めると、今度は東北内部での多様性が見えてくる。“いくつもの東北”、“いくつもの日本”、そして“いくつものアジア”──こうした人間文化の重層的な多様性を掘り起こすことは、単に国民国家の枠組みを超えるというにとどまらず、グローバリゼーションという形で世界の画一化が進展する中、地域ごとの足場をしっかりと組み立て直す視点をもたらしてくれる。

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