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2007年11月 3日 (土)

黄昭堂『台湾総督府』

黄昭堂『台湾総督府』(教育社歴史新書、1981年)

 1895年の下関条約により台湾は日本に割譲されることになった。引渡し側の清側全権として李鴻章の息子の李経芳が派遣されたが、割譲反対派の動きに恐れをなして台湾に上陸することができず、結局、日本側の初代台湾総督樺山資紀とは洋上で会談したという。割譲反対派は台北を首都として台湾民主国の成立を宣言。ところが、日本軍が上陸して基隆が陥落し、敗走兵が台北に流れ込んで大混乱、民主国首脳は大陸に逃亡してしまった。日本軍は台北に無血入城するが、台湾全島を掌握するまでには各地で激しい抵抗を受けることになる。

 樺山の後、桂太郎、乃木希典と短命な総督が続くが、明治31(1898)年になって児玉源太郎総督・後藤新平民政長官のコンビが登場、約8年間その任にあった。この時期に、衛生政策、戸口調査、旧慣調査、交通網の整備、製糖業の振興など台湾統治の基礎が築かれ、本国からの財政独立を果たす。また、阿片中毒者の反感を考慮して阿片漸禁策がとられたが、阿片専売制は後藤の思惑とは異なり、むしろ総督府の収入源となってしまう。

 次の佐久間左馬汰総督は内政よりも抗日運動の武力制圧に力を注いだ。その後、安東貞美、明石元二郎と武官出身総督が続いたが、大正7(1918)年の原敬内閣成立によって文官の田健治郎が台湾総督に就任、文官統治期が始まる。同時に総督から軍事指揮権が分離されて新に台湾軍を創設、初代司令官には明石が横滑りした。文官総督には日本本国の政権交代に応じて政党色の強い人事が行なわれるようになる。文官期には下村宏総務長官のもとで比較的リベラルな政策が行なわれた時期もあった。

 台湾は日本本国の憲法体系の適用から除外されており、民法などを選択適用した他は、総督府令によって補われ、法体系は混乱していた。当然ながら、台湾人に参政権など認められなかった。当初の台湾統治の方針は旧来の慣習を尊重しつつ本国とは別扱いするという形を取っていたが、武官統治期に抗日運動をほぼ壊滅させたのを受けて、文官統治期には同化政策が進められる。しかしながら、「一視同仁」といいながらも参政権が許されないのはおかしな話である。そこで、林献堂を中心に台湾議会設置運動が進められたが、妥協として官選の評議会に9名の台湾人が任命されるにとどまった。昭和10(1935)年の地方制度改正により、市会議員等の半数を制限選挙によって選出することになったが、日本人と台湾人が半々、台湾における日本人は8%に過ぎないことを考えると著しくバランスを失していた。また、大正12(1923)年に総督府に採用された劉明朝(東京帝国大学政治科卒)を皮切りに高等文官試験合格者の官吏への登用も始まったが、台湾出身者の昇進には限度があった。

 文官統治期には小学校(日本語使用者向け)・公学校(非日本語使用者向け)から台北帝国大学に至る教育システムが拡充された。しかし、小学校と公学校との区別からもうかがわれるように日本語というハードルが高いため台湾人の高等教育機関への進学は高くはならず、むしろ日本内地留学を目指す人々が多かったらしい。

 日本本国で政党政治が終焉を迎えるのに軌を一にして、昭和11(1936)年に海軍出身の小林躋造が台湾総督に就任、以降、再び武官統治期が始まる。日中戦争が始まったのに合わせて皇民化運動が展開され、新聞の漢文欄廃止、日本語の常用運動、神社参拝の強制、改姓名、志願兵制度などが実施された。また、経済的には軍需用に重工業施設が急増し、台湾の工業化が進んだ。この頃、中国大陸では日本軍の工作によりいくつかの傀儡政権が作られたが、満州国外交部大臣となった謝介石をはじめ台湾人が「日中の架け橋」として登用されることも多かったという。

 昭和20(1945)年には徴兵制度を施行、一方で植民地人の協力を促すため衆議院議員選挙法が改正され、朝鮮半島23人、台湾5人を制限選挙で選出することになった。ただし、日本の敗戦により実現はしない。同時に林献堂、簡朗山、許丙の3名が台湾人として貴族院議員に勅撰されたが、すでに敗色濃く、日本に渡航すること自体が不可能であった。

 著者は、日本の支配と国民党の支配とでは似ている側面があると指摘する。第一に、統治の初期に抵抗運動を武力で制圧して多数を虐殺したこと。第二に、一視同仁を標榜しながらも参政権は事実上与えなかったこと。第三に、台湾語の使用を認めなかったこと。

 こうした指摘を行なうあたりからも分かるように、著者は大陸とは異なった台湾人意識を強調する。理由は五つ。第一に、日本は台湾統治を始めるにあたり国籍選択の機会を与えたため、日本支配下に入ってまで台湾で暮らそうとは思わない者はすでに去っていた。第二に、大陸で「中国人意識」が形成されたのは1912年成立の中華民国以降のことで、その時点ではすでに台湾は日本統治下にあった。第三に、台湾は戦争中に工業化していたが、対して中国の大半は農業社会のままで、生活様式が異なった。第四に、植民地下とはいえ少なくとも「法と秩序」が台湾には備わっていたが、対して中国は軍閥割拠、国共内戦と混乱が続いており、統一国家となったのはようやく1950年代になってからである。第五に、清朝にせよ中華民国にせよ、日本との妥協を繰り返しており、その中で台湾は捨てられたという気持ちがある。とは言え、中華民国は台湾に対して積極的に悪いことをしたわけでもなかったので、日本の敗戦直後はむしろ期待をかけていた。しかし、国民党の腐敗と弾圧を目の当たりにして台湾民族意識が高まったという。

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