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2007年11月16日 (金)

台湾に行ってきた⑤(二・二八紀念館)

(承前)

 総統府近くの二・二八和平公園に行った(写真14)。ここで二・二八事件に触れねばなるまい。日本の敗戦後、国民党の軍隊が台湾接収のため上陸した。当初、台湾の人々は解放者として期待をふくらませて歓迎したが、やがて彼らの腐敗体質、恐怖政治に不満を募らせる。そして1947年2月28日、反国民党の暴動がおこり、台湾全島に広がった。国民党は大陸からの増援部隊を得てこれを徹底的に弾圧、1か月の間に公式の数字として2万8千人が殺されたと言われている。日本では侯孝賢監督の映画「悲情城市」の背景をなす事件として知られているが(「悲情城市」の記事を参照のこと)、台湾の人々にとってこの二・二八という日付は特別な意味を持つらしい。

 1995年になってようやく当時の李登輝総統が国家元首として公式に謝罪。これを受けて、1997年、陳水扁市長時代の台北市政府によって二・二八紀念館が設立された(写真15写真16写真17)。ここはかつて日本の放送局だった建物である。二・二八事件のとき群衆がここを占拠して、台湾人の決起を呼びかける放送をしたという。北京語の放送が途中で台湾語に切り替わる様子を録音したテープが館内で聞ける。

 館内に入ると、3人ほどのグループを前におじいさんが説明をしていた。その言葉が日本語であるのをいち早く聞き取ったHが、「おう、ついて行こうよ」と私の袖を引っ張ってくれた。このおじいさんのお名前はCさんという。日本語は完璧なまでに流暢で現在の日本事情にもだいぶ通じているようだった。

 二・二八紀念館には日本統治時代の背景から敗戦時の混乱、そして二・二八事件の詳細な経緯、その後の人権問題について展示されている。上陸直後の国民党は経済的に無策で、ハイパーインフレが進行。ヤミが横行するのは当然ながら、とりわけ俸給生活者は貨幣価値の急激な下落で生活が成り立たず、自殺者が相次いだという。警官はヤミタバコを取り締まるが、没収したタバコを横流し、再び取り締まる、なんていうマッチポンプも平気でやった。こうした滅茶苦茶な無法状態に耐えられるものではなく、二・二八事件へとつながる鬱積した不満を台湾人は抱え込まざるを得なくなった。

 台湾全島をかたどった大型の模型地形図があり、主要都市にランプがついている。日付ごとのボタンを押すと、その日に騒動のあった都市が点灯し、反国民党運動の広がりが一目で分かるようになっている。三月八日のボタンを押しながらCさんはつぶやいた。「この日は忘れられません…。」大陸からの増援部隊が上陸した日である。台湾省主席・陳儀はいったん融和的な素振りを見せていたが、この日を境に強硬姿勢に転じた。

 日本統治時代、制限された形ではあったが台湾人からも市議会議員等に選出された人々がいたし、実業家として力を持ちつつある人、そして医師、弁護士、学者などの知識階層は新しい国づくりを真剣に考えていた。本来ならばそうした地方の政治的・社会的指導層が戦後の台湾社会を担うはずだったが、国民党は彼らを有無を言わせずに逮捕、街中で公開処刑した。国民党は二・二八事件を好機とばかり、意図的に知識人を狙って殺したとも言われている。鉄道の乗車賃を払わなかったことを注意されて逆ギレした軍人が部隊を引き連れてそこの駅員を皆殺しにしたという事件もおこった。警察に連れ去られてそのまま行方不明になった人は数知れず。手足に銃剣で穴をあけ、そこに針金を通して十人前後を数珠つなぎにし、端から撃ち殺しながら海に突き落とすという殺害方法も行なわれた。運よく生き残った人の証言が館内のパネルで示されている。

 何か理由があって逮捕するのではなく、とにかく殺して台湾人を威嚇し、怯えさせるのが目的だったという。死体は街中に放置され、見せしめのため片付けるのは許されなかった。死体は腐敗して悪臭を放ち、伝染病が広がる。「私はこの眼で見ました。本当にひどかった…」とCさんは一瞬、言葉をつまらせていた。今でも時折、山の方で白骨死体が発見されることがある。「国民党は日本人がやったと言うが、そんなの嘘だってことは誰でも知っている。自分たちのやったことを平気で日本のせいにする。中国人は嘘つきだ。」Cさんもやはり蒋介石が大嫌いなようで、蒋介石が軍帽をとって閲兵している写真を指差し「私たち、ハゲと呼んでました」。また、「中国人は本当に残虐だ」とも言う。総統府でガイドをしてくれた男性もそう繰り返していた。

 勿論、一般論としてそんなことは言えない。ただ、台湾の人々が事件のこうした苛酷な経過を目の当たりにして、自分たち“台湾人”は“中国人”とは違うという自覚が明確になったことが窺える。かたわらのHは「二・二八事件ってのがこんなにおおごとだとは思わなかったな。確かに、中正(蒋介石)国際空港を桃園国際空港と名前を変えたくなる気持ちは分かるよなあ」と今さらながら感慨深げにつぶやいていた。

 Cさんは語る。「李登輝さんが国家元首として初めて謝罪してくれました。しかし、李登輝さんも台湾人です。実際に手を下した人間は今でも生きている。だけど、彼らは一人として謝ってはくれない。どこで殺して埋めたのか場所も教えてくれない。政府発表では2万8千人が殺されたことになっていますが、少なくとも5万人以上はいるはずです。しかし、今となっては正確な数字は分かりません。」総統府のガイドの男性は20万人と言っていた。

 よく台湾人は親日的だと言われる。だからといって、日本の植民地支配が良かった、いや悪かったという二者択一に集約されるものではない。Cさんはこう言う。「植民地が良かったと言うつもりはありません。やはり差別がありました。ただ、日本の後に来た国民党があまりにもひどすぎた…。日本時代は差別はあったけれど、少なくとも法治国家として安定した生活を送ることができました。しかし、国民党には法の観念などなかった。蒋介石が命令すれば根拠もなく殺して奪う。だから、私たち台湾人にとって日本時代が本当になつかしかったのです。」

 台湾は日本と国民党という二つの苛酷な支配を経験した。相対的な比較の問題として、国民党に対する憎悪が激しいあまり、その反転として日本への好意が強まるという感情面での力学が働いたと言えるのだろうか。

 一緒に話を聞いて回ったグループにいた女の子がどうやら在日韓国人らしく、Cさんは時折こんなふうに語りかけていた。「国民党は日本時代を思い出させるものをことごとく壊そうとしました。お国ではどうですか? 日本時代のものはもう残ってないですよね。」「朝鮮の方々は反日ですね。しかし、私たち台湾人は違います。」「私たちは戦後も国民党に支配されましたが、あなた方は自前の指導者を持つことができました。朝鮮の方々は幸せでした。」穏やかな語り口なので何気なく聞き流していたが、こうして文字におこしてみると結構きつい言い方だな。

 予想はしていたが、戦後教育を受けた世代の日本人として、どう反応したらよいのか分からず戸惑ってしまうシーンもやはりあった。

 「私は17歳で志願兵に行きました。日本が負けたとき、私は悔しかった。本当にそう思ったのですから仕方ありません。身も心も日本人になりきっていたんです。植民地というのはそういうものです。仕方がなかった…。」若き李登輝前総統の家族写真の前ではこう語る。「この方、李登輝さんのお兄さんはフィリピンで戦死しました。靖国にまつられています。この間、李登輝さんが靖国を参拝して中国人が色々と言ってましたが、あれはおかしい」陳さんは重そうなファイルを小脇に抱えており、そこから靖国問題について訴えるプリントを取り出して配った。また、日本時代の教育制度のパネルの前では「教育勅語」のプリントをもらう。裏面にはしっかりと現代日本語訳が載っている。顔には出さないものの、正直、のけぞった。

 戦後日本の歴史教育を全面否定するつもりはないが、いびつな側面があったことは知っている。そのいびつさとは、一見、良心的な美しさを装いつつも、たとえばCさんのような人々も、その人なりの想いを抱えて生きてきたことを、一つの固定的な判断基準から時代錯誤だと一刀両断に否定しさる冷たさだ。かと言って、Cさんの話をそっくりそのまま私は受け入れられるか。難しい。日本人の耳に快い言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうのは安易な怠慢のように思えるし、“右寄り”と言われてしまうことへの対世間的な慮りもわだかまる。バランスをとって真ん中というのは何も考えていないに等しい。私自身の頭の中にこびりついている様々な雑音をどうやって相対化して振りほどき、虚心坦懐に話を受け止めることができるか──。江川達也『東京大学物語』風に言うと、以上のことが0.08秒の間に頭の中をグルグル空回りした。

 「私たちには“やまとだましい”があります」とCさんは語る。大和魂、日本精神(リップンチェシン)──日本語教育を受けた世代でこうした言葉を使う人々がまだ生きている。ここで注意せねばならないのは、昭和初期の軍部を駆り立てたある種の狂信性とはニュアンスが異なることだ。むしろ、正直、勤勉、時間厳守、そういった生活上の規範意識を意味している(平野久美子『トオサンの桜──散りゆく台湾の中の日本』小学館、2007年を参照)。素朴に言い換えると、ひたむきに生きること。そうした美学が現代台湾人からも、そして日本人からも失われている。「教育勅語」のプリントにそんな気持ちを込めて配っているのかと思うと、怠惰な私としては少々つらい。

 別れ際、Cさんから許文龍『台湾の歴史』という冊子をいただいた。私家版なので日本で入手するのは難しいが、小林よしのり『台湾論』の参考文献一覧に載っていたので、この冊子の存在を実は知っていた(私は本を読むとき必ず参考文献一覧をチェックする。第一に、芋づる式に関連書の幅が広がるから。第二に、その本の傾向や質が一目瞭然だから)。許文龍は奇美実業というパソコン部品メーカーの社長、たたき上げの立志伝的な人物である。彼が社員教育のために行なった講演を中心にまとめられており、台湾の歴史にもたらした日本の功績を強調する内容となっている。帰国後、知人に見せたところ、「何だか松下幸之助みたいな人だね」という感想をもらした。確かに、“日本精神”→勤勉の美徳と捉えるとPHP的な感じもする。

(続く)

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