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2007年11月29日 (木)

網野善彦『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』

網野善彦『〔増補〕無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』(平凡社ライブラリー、1996年)

 中学・高校の歴史教科者は政治史中心で、社会史・文化史については付け足し程度に触れられるだけだった。もちろん、時系列整理に便利が良いという理由もある。たが、それ以上に、中央権力=一国・一元的な見取り図が暗黙のうちに前提されてきたことは様々な方面から批判を受け、いまや歴史を複層的にみつめようという姿勢は常識的とも言えよう。そうした潮流を形づくるにあたり大きな転回力を持った仕事として網野善彦の業績を逸することはできない。

 本書は、遍歴する職人や芸能民、遊行僧に遊女、あるいは駆け込み寺や市など、中世日本において一定の支配関係から抜け出しマージナルなありようを示した人々や空間を一つ一つ拾い上げ、それらに通底する感性を「無縁」「公界」「楽」といったキーワードを使って掘り起こそうと試みている。端的には“自由”と言ってしまいたいところだが、この表現にまとわりつく西欧近代的なニュアンスとは必ずしも重ならないので、この微妙なところは本書を通読して感じ取ってもらうしかない。

 織豊政権、さらには江戸幕府と時代環境がシステマチックに整備されるにつれて、こうした境界的な存在はむしろマイナスのイメージを負わされた。「公界」(くがい)は「苦界」となり、「無縁」は無縁仏というように寂しい語感を帯びることになる。被差別民の問題もこうした頃から生じたとされる。

 堺をはじめとする自治都市の性格を把握するに際し、経済的な「私有」の論理によって秩序が確立されたとする見解に網野はかみつく。もちろん、そうした側面は否定できないにせよ、同時に、「無縁」の論理が背後で支えていたのを見落としてはならないと指摘。さらに筆を強め、このような発想には「私有」「有主」の論理による発展を“進歩”と考え、「無所有」「無主」の論理を克服すべき停滞とみなす偏見があるとまで批判する。

 こうしたあたり、網野の資本主義に対する不信感、そしてそれによって人為的に崩されてしまった“自由”な理想郷への憧憬を見出すのは容易であろう。私自身としては必ずしも共感できるわけではないが、そんなのはたいしたことではない。

 歴史を描くにしても、その動機自体に共感できるかできないかは別問題として、ある種の強いパッションで貫かれた筆致というのは読み手に強烈な手応えを感じさせてくれる。“事実”といわれるものの積み重ねがイコール“歴史”なのではない。打ち出された明確なイメージと対峙して、読み手自身の世界観がどこか揺さぶられる強さ、そうした手応えを受け止めたとき、私は素直に面白いと感じる。本書は典拠をふんだんに引いて論証を重ねつつも、どこか青くさい。むしろ、その青くささにこそ歴史書として色褪せない魅力があると思う。

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