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2007年11月 7日 (水)

台湾についていろんな本

 ここしばらく台湾関連の記事ばかりなのでいぶかしく思っている人もいることでしょう。実は明日から有休をもらって台湾に出かける予定で、付け焼刃でお勉強していた次第。

 さて、台湾について考えようというとき、肯定するにせよ否定するにせよ、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』(小学館、2000年)を避けては通れないだろう。彼一流の飛躍した極論をどう受け止めるかは別として、情報量という点で読みではある。小林に対しては好き嫌いが明確に分かれるようだが、スタンスの違う別の本を読むなどある程度のリテラシーを養った上で読む分にはそれなりに建設的なものを汲み取ることはできる。だから、毛嫌いする必要はない。鵜呑みにするのはただのバカだけどね。

 台湾について濫読しているうち、私はどうやら言語的アイデンティティーの分裂というテーマに興味がひかれているようで、小林『台湾論』を読みながら次の二つのエピソードに興味を持った。一つ目は、台湾語を文字表記する工夫について台湾人同士で語り合っているシーン。二つ目。日本語教育世代の台湾人が韓国を旅行したときのこと。道を尋ねようと同年配の人に日本語で話しかけたが無視された。「日本語が分かるだろうになんで無視するんだ!」と怒ったところ、「日本語を使うのを若い人に見られると嫌われるんだ」と答えたという。

 台湾は多数派の閩南語、少数派の客家語、先住民に至っては部族ごとに言語が異なるという多言語社会であり、たとえ支配者の言葉であっても日本語が共通語として便利であった。対して、韓国は言語的に均質な社会であり、利便性よりも民族としてのプライドが優先されるのだろう。ただし、そんな韓国でも朴正熙政権が言論弾圧をしていた頃、反体制派の人々は社会主義の文献を日本語で読んでいたというのを何かで読んだ記憶がある。そういえば、若き日の李登輝もマルクス『資本論』を岩波文庫で読んだらしい。

 台湾は1895年に日本語、1945年に北京語と二度にわたって“国語”の切り替えを経験している。土着の母語も含め重層的な言語体験が歴史に織り込まれている点でクレオール的な特徴が顕著な社会だと言えよう。

 1980年代以降の民主化、そして台湾意識の高まりに伴って、過去の台湾文学を見直すことで抗日─皇国・親日という単純な対立軸で切り捨てられてしまった側面を捉えていこうとする動きが始まっている。藤井省三『台湾文学この百年』(東方書店、1998年)、山口守・編、藤井省三・河原功・垂水千恵・山口守・著『講座 台湾文学』(国書刊行会、2003年)の二冊はそうした動向も含め、台湾文学を彩る諸相を通史的に紹介してくれる。

 たとえば、日本統治期、“皇民化運動”にそって親日的な態度を取ったとされる“皇民作家”についても、むしろ引き裂かれたアイデンティティーの苦しみを表現していたと垂水は再評価する。非日本人でありながら日本人と対等になろうという論理と情念を作品化、それが読書市場を通して流通し、台湾公衆に共有された。藤井は、出版市場の成立→“想像の共同体”というベネディクト・アンダーソンの枠組みを援用し、こうした動きに“皇民化”であると同時に台湾大のナショナリズム=台湾意識の芽生えがあることを指摘する。

 朱天文・朱天心のくだりを読んでいたら胡蘭成の名前が出てきた。数学者にして熱烈な日本主義者・岡潔と親しくしていた文学者であり、新学社近代浪漫派文庫で岡と胡は一冊にまとめられている(岡潔については以前に書いた→参照)。朱姉妹の父親も小説家で胡と家族ぐるみの付き合いがあったという。朱天文は呉念真と共同で脚本を担当した「悲情城市」をはじめ、侯孝賢映画で多くの脚本を書いている。侯の映画を見ていると日本に好意的なイメージが描かれていて時折その点が批判されるが(たとえば、田村志津枝『悲情城市の人びと』晶文社、1992年)、朱天文を通して胡蘭成の間接的な影響が出ているのだろうか。

 話題を変える。かなり前のことだが、台湾旅行から戻ってきた友人から「はい、おみやげ」と言って渡されたものを見て妙な気分になったのを覚えている。『新世紀福音戦士・綾波零』──新世紀エヴァンゲリオンのヒロイン、綾波レイの文庫サイズのフォトブックだった。それから、「藍色夏恋」(2002年)という台湾の青春映画を観たら、主人公の女子高生がノートに「木村拓哉、木村拓哉…」とびっしり書きつめるシーンも記憶に残っている。

 アニメやドラマをはじめ日本発の文化にのめり込んだ若者たちを“哈日族(ハーリーズー)”という。命名者は台湾の漫画家で大の日本びいき哈日杏子。彼女の本は日本の書店でも見かける。酒井亨『哈日族──なぜ日本が好きなのか』(光文社新書、2004年)はメディアという側面から台湾社会の現在を示してくれる。哈日族は若年層が中心で本省人・外省人の差もなく、李登輝たち日本語教育世代とは重ならない。従来の台湾ドラマは儒教的倫理観が強く、単調で冗長、それに対して日本のドラマやバラエティー番組の面白さが彼ら彼女らを引きつけた。これを文化侵略と批判する論調もあるらしいが、そもそも北京語教育自体が台湾人にとっては非母語の押し付けであるのを看過していると指摘する。

 片倉佳史『台湾 日本統治時代の歴史遺産を歩く』(戎光祥出版、2004年)と同『観光コースでない台湾──歩いて見る歴史と風土』(高文研、2005年)は日本統治時代の痕跡を写真と懇切な解説とで紹介してくれる。渡辺満里奈『満里奈の旅ぶくれ──たわわ台湾』(新潮文庫、2003年)は台湾の食文化を紹介、写真もたくさん入っていてどれもうまそう。読みながらお茶に興味を持った。亜洲奈みづほ『台湾事始め──ゆとりのくにのキーワード』(凱風社、2006年)は台湾を理解する上で必要なキーワードそれぞれについてエッセイ風につづられており、読みやすくかつ情報量も潤沢で便利だ。

 最後の締めとして、司馬遼太郎『街道をゆく40 台湾紀行』(朝日文芸文庫、1997年)を読んでいるところ。

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