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2007年11月15日 (木)

台湾に行ってきた④(総統府)

(承前)

 11月9日、金曜日。朝7時過ぎに宿舎を出た。朝早くから開いている食べ物屋が結構あって、餃子やサンドイッチなどを買い求める姿をちらほら見かける。ファーストフードの文化が発達した土地柄のようだ。ちなみに、サンドイッチのことを“三明治”という。同行しているHお目当ての店に行き、水餃子で朝食をすませた。「これ、作りおきじゃないか」とHは不満げに言う。「店先で餃子を包んでいるのを見かけるだろ。あれをすぐにゆでてくれるとうまいんだ。」

 総統府に向かって台北市内をぶらぶら歩く。清代の役所があったことを示す碑文があった(写真12)。すぐ近くに中山堂という大型建築物があるのだが、うっかり写真に収めるのを忘れていた。戦前の台北公会堂である。1945年10月25日、中華民国代表・陳儀と最後の台湾総督・安藤利吉との間で降伏調印式が行なわれた場所だ。台湾ではこの日が光復節、つまり終戦記念日となっている。

 総統府の一般公開は平日の午前中のみ、10時から受付が始まる。早めに来たのだが、団体客が多くて30分ぐらい待たされた。パスポートを提示し、ボディーチェックを受けて裏口から入館。大陸籍の人は入館できない旨の注意書きがあった。十数人ほどのグループになって見学する。総統府の中には台湾の歴史と歴代総統についての展示があり、日本語のできる人がガイドをしてくれる。

 私たちのグループについたのは70歳代の男性。開口一番、「むかし、台湾、支配者のために国があった。しかし、李登輝さんが総統になって、台湾、変わった。民衆のための総統、だから総統府も民衆に開放する。いま、台湾、世界で一番民衆(民主?)的な国。ホワイトハウスも日本の首相官邸も中は見せてくれない。」

 日本語はそんなにうまくはない。話の強調したいところで「OK!」という感じに親指をたてる不思議な仕草をする人だった。感情の激しいタイプなのか、それとも日本語のボキャブラリーが乏しくて直接的な表現になってしまうのか、極端な言い回しが多い。とりわけ印象的だったのは蒋介石と国民党に対する憎しみの激しさだ。蒋介石の写真の前を通るたびに、「こいつ、卑怯!」「こいつ、臆病!」「こいつ、罰当たり! 蒋介石の子孫、いまは全滅。誰もいない。蒋介石、台湾人をたくさん殺した。罰が当たった。悪いことするの、良くない。」いまや政権が変わったとはいえ、まさか総統府の中で初代総統をここまで悪しざまに罵るというのは意外なことで驚いた。

 同行したHは以前にも総統府を見学したことがある。その時にガイドをしてくれたおばあさんの語り口と比べてだいぶご不満の様子だ。そのおばあさんは日本時代の思い出話を色々と語ってくれたらしい。今回の男性は、比較的に若いせいか(といっても70代だが)、むしろ蒋介石への憎悪とそれに応じて高まった台湾人意識を強調しているのが特徴的だったように思う。

 後藤新平や八田與一(彼らに対しては“さん”付けで呼んでいた)のパネルの前を通る際には、「蒋介石は何も建設せず、奪って殺すだけ。しかし、日本人は鉄道をつくってくれた。ダムをつくってくれた。発電所をつくってくれた。私たち台湾人、日本に本当に感謝しています。」日本人へのリップサービスなのかどうかはよく分からず、戸惑う。パネル展示であちこちとばしている箇所もあった。ひょっとして、日本人にとって不快になりそうなところは説明を省いているのだろうか? 中国語のガイドはどんな説明をしているのか気になった。

 なお、八田與一は日本統治時代の土木技師。当時としては東洋一の規模をほこる烏山頭ダムを完成させ、これによって旱魃に悩まされがちだった嘉南平野に水路を行き渡らせることができた(嘉南大圳)。戦争中、フィリピンに行く船が撃沈されて落命。妻は後を追って烏山頭ダムに投身自殺。八田の名前は日本ではあまり知られていないが、台湾では尊敬を集めているという。台北の書店で購入した李莜峰・荘天賜編『快読台湾歴史人物Ⅰ』(台北:玉山社、2004年)の「大愛無私的奉献者」という章でも八田が取り上げられていた。本書は台湾史上の人物をⅠ・Ⅱ巻合わせて60人取り上げているが、日本人としては八田の他に民俗学者の伊能嘉矩、池田敏雄の名前も見える。

 総統府の建物が完成したのは1919年。周知の通り、かつての日本の台湾総督府である。設計プランは、審査員に辰野金吾や伊東忠太といった錚々たる顔ぶれがそろったコンペティションにより選ばれた。初めての植民地統治にあたってそのシンボルとして威厳を示そうと、中央の尖塔は当初のプランよりも高くそびえ立つ。近隣にこれよりも高い建物は建てさせなかったという。正面は東向き、つまり日本の方向を向いている。空から見下ろすと「日」の字に見える構造。真ん中の空間は、戦前は総督の馬車や職員の自転車置き場となっていたが、李登輝の時代になって庭園として改装された。壁面にはイギリス風の赤レンガを使っているが、それだけでは単調で面白くないということで白い石でストライプが入っている。それこそ“永遠”の使用を前提としていたというだけに非常に頑丈なつくりだ。1945年の台北空襲で標的となって損傷を受けながらも基本構造はしっかりと残り、戦後再建されて中華民国政府の拠点となった。一説によると、蒋介石が戦後の再利用を視野に入れていたので破壊を最小限にとどめるようアメリカ側に求めたとも言われる(片倉佳史『観光コースでない台湾──歩いて見る歴史と風土』高文研、2005年を参照)。

 写真13は総統府を正面から撮影した。台湾の国連加盟を求める巨大な文字パネルがかかっている。台湾社会の支配者として日本、ついで国民党が君臨したシンボル。そこにようやく台湾人の代表たる陳水扁が選挙を通して座り、中でガイドが蒋介石を口を極めて非難する。そうした時代の移り変わりを90年近くにもわたってこの建物はジッとみつめてきたのである。

 なお、この写真を撮った大通りはかつて介寿大道と呼ばれていた。「介寿」とは蒋介石の長寿を祈願するという意味合いを持つ。現在は凱達格蘭(ケタガラン)大道という。ケタガランというのは、昔、台北盆地にいた先住民族である。民進党の陳水扁が台北市長だった頃に改称された。先住民族復権政策の表われであると同時に、蒋介石の記憶を総統府の門前から消し去ろうという意図も働いている。

(続く)

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