水谷尚子『中国を追われたウイグル人──亡命者が語る政治弾圧』
水谷尚子『中国を追われたウイグル人──亡命者が語る政治弾圧』(文春新書、2007年)
トルキスタンは私の小さい頃から憧れの地だった。スウェン・ヘディンやオーレル・スタインの探検記に早くから馴染んでいたし、大学の卒業論文では東トルキスタンのあるオアシス都市国家の興亡をテーマとして選び、中国語で書かれた論文や発掘レポートを、辞書を引き引き読み解いたのもなつかしい。しかしながら、私がそうした甘ったるいロマンティシズムを寄せていた土地ではいま、ウイグルの人々は悲惨な扱いを受けている。時折、新聞の国際面で反政府勢力摘発の記事を目にしてはいたが、それ以上のことは分からず気になっていた。本書は、共産党政権による苛酷な弾圧から逃れた人々の痛切な肉声を紹介してくれる。
以前、マーティン・スコセッシ監督によるダライ・ラマの伝記映画「クンドゥン」を観たとき、チベットに侵攻する人民解放軍の野蛮さが、中国の反日映画で描かれる日本軍と二重写しになって不思議な気持ちになったのを覚えている。中国側は今でも旧日本軍の残虐さを言い立てるが、同様の蛮行が漢人の公安によってウイグル人に対して現在でも行なわれている。
私が最も衝撃を受けたのは、中国政府によって行なわれる核実験の被害がウイグル人を直撃していることだ。漢人に被害が及ばないよう、敢えてウイグル人居住地域の近くで実験が行なわれている。死の灰による後遺症が顕著に出ているが、中国政府は「核汚染はない」という立場を崩さないので放置されたまま。少数民族に対する差別政策というレベルを越えて、一種のジェノサイドではないかと恐ろしくなる。告発した医師がこう語るのが重い。「被爆国日本の皆さんに、特に、この悲惨な新疆の現実を知ってほしい。核実験のたび、日本政府は公式に非難声明を出してくれた。それは新疆の民にとって、本当に頼もしかった。日本から智恵を頂き、ヒロシマの経験を新疆で活かすことができればといつも私は考えているけれど、共産党政権という厚い壁がある。」
ウイグル人にはチュルク民族意識やイスラムを媒介したネットワークがあるのも注目される。国外に出て各国を転々と渡り歩き、たまたま9・11後のアフガンで拘束されてグアンタナモに送られたウイグル人の話も出てくる。テロリストではないのだが、中国に送還されると間違いなく銃殺されるので、アメリカ軍に拘束される方がまだマシと考えたらしい。
アメリカで活動するラビア・カーディル女史をはじめ、東トルキスタン独立運動は世界各地に散らばって展開されている。漢人の民主化グループと共闘するシーンもあるが、独立問題は微妙な影を落とす。著名な運動家・魏京生氏は寛容な態度を取っているものの、民主化運動に従事する人々の間でもウイグル・チベット・台湾の独立は一切認めないという意見が根強いという。辛亥革命以来、先送りされたままの問題である。
本来ならば人権問題に敏感であるべき日本の進歩派といわれる人々が、中国の為政者が振りかざす“一つの中国”という公定イデオロギーをそっくりそのまま鵜呑みにしてきたというのは甚だ奇妙なことで、これは厳しく指弾されるべきダブル・スタンダードである。他方、本書の著者が「おわりに」できちんと指摘しているように、中国の“反日”に対する感情的な反発を動機として、こうした政治弾圧問題にとびつくというのもあまり感心できることではない。
つい先日、私は台湾に行ったばかりで、ある台湾人のおじいさんから話を聞く機会があった。二・二八事件で台湾人を多数虐殺した中国への憎しみと、日本への親しみとを語ってくれた。その話を聞きながら、同行していた友人が素朴に喜んでいるのを傍らで見て、私は微かな違和感が胸にわだかまっていた。おじいさんにではなく、その友人に対して。もちろん、彼の気持ちは分からないではない。ただし、こうした話をナイーブに受け入れてしまうのは、所詮、日本人の自己満足に過ぎず、語り手の置かれた屈折した立場を実は無視することになりかねない、そうした意味での知的怠慢を感じたのである。
本書で訴えかけてくるウイグルの人々の切実な声に耳を傾けるにしても、それを単純に中国憎しで終わらせてしまっては不毛であろう。語られた言葉の背景をなす歴史的・社会的・政治的な桎梏をしっかりと読み解かなければ、建設的な受け止め方にはならない。
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コメント
>その話を聞きながら、同行していた友人が素朴に喜んでいるのを傍らで見て、私は微かな違和感が胸にわだかまっていた。
私は他ならぬその“友人”なのだが…。
>こうした話をナイーブに受け入れてしまうのは、所詮、日本人の自己満足に過ぎず
私はナイーブになぞ受け入れていない。
ものろぎやそりてえる氏とは酒を酌みかわしつつ、数え切れぬほどこの手の話をしてきた。
日本の植民地支配に関するアジア諸国民の感情についても、世間の平均値よりはいろいろ見聞きしてきたつもりでいる。
(もっとも、226事件についての認識が不十分であったことは認める)
しかし、それでも私があの老人の話を聞いて、
“素朴に喜んで”
いたことを否定しないし、また批判されるいわれもないことを言明しておこう。
いみじくも素朴にとものろぎや氏は言ったが、私はあの時感じたことは、自分が日本人であることの確認、それを今は異国となり、世代も異なる老人から聞かされた思いもよらぬ“日本人同士”としての連帯感からもたらされたことに“素朴に”感動したからだ。
>語り手の置かれた屈折した立場を実は無視することになりかねない、そうした意味での知的怠慢を感じたのである。
賢明なるものろぎや氏は、まさか、かの老人が日本人観光客たるわれわれに、いわばリップサービスでああした解説をしてみせたとはおっしゃるまい。
私を知的怠慢と一方的に誹る前に、ものろぎや氏自身が吐露していたように、老人の感懐を率直に受け止めることができない「日教組的・左翼的」なる思考のフィルターをまずは外すことをおすすめする。
投稿: みつぼ | 2007年11月30日 (金) 13時12分
挑発に乗って反論してくれたのは素直に嬉しいが、反応が想定範囲内にとどまり刺戟に乏しいのはいささか残念である。
①日本人として“日本人”であることと、台湾人として“日本人”であることとでは自ずと意味合いは異なってくる。かの老人が語ってくださったように、二二八事件という極めて陰惨な事件の介在した複雑な経緯がある。それは日本人にとって安易に了解可能な問題ではない。私はかの老人のたたずまいそのものに、台湾人として二重三重に屈折した歴史が背負わされているのを見て衝撃があった。
“日本人同士”としての“連帯”などときれいごとで括ってしまうのは、彼の人生の道のりを無視することになりかねず、その意味で極めて冒涜的なことのように思われてならない。言葉の表面だけをとらえ、その背景について別の視点からも思いを致してみようという努力を放棄している態度を指して知的怠慢と言ったのだ。
②そもそも、226事件ではなく、「228」事件である。台湾通を自称しつつ、その歴史を知らないというのは驚くべき認識不足で全く痛々しい。
③「日教組的・左翼的」とは笑止千万。そんな古くさいレッテルを使うこと自体、親日/反日という二者択一的な思考枠組みにとらわれ、そこから次元の離れた議論を許容できない頑なさの表われである。貴殿自身の抱えている別の形での“イデオロギー”性をはしなくも吐露してしまったことを自覚すべし。
どうじゃ、参ったか。
投稿: トゥルバドゥール | 2007年11月30日 (金) 13時57分
>①日本人として“日本人”であることと、台湾人として“日本人”であることとでは自ずと意味合いは異なってくる。
では、何であの老人が今でもいとおしむように名刺に日本名を併記してるの。われわれに教育勅語のコピーを配布したのは、貴殿の言う日本人として日本人であることと、台湾人として日本人であることと、どういう関連があるの。
ものろぎや氏の物言いには、「老人自身も気がついていない歴史の歪曲に、この私は気がついた」という不遜な態度が見て取れる。
>“日本人同士”としての“連帯”などときれいごとで括ってしまうのは、彼の人生の道のりを無視することになりかねず、その意味で極めて冒涜的なことのように思われてならない。
なんでそうひねくれて捉えるのかね。
私が感じているのは、彼との心情的連帯であって、何でそれが冒涜になるのかね、冒涜してるのは貴殿じゃないの。
ものろぎや氏は変な相対主義に陥っているのか、老人の率直な述懐を、素直に評価できなくなっている。
>言葉の表面だけをとらえ、その背景について別の視点からも思いを致してみようという努力を放棄している態度を指して知的怠慢と言ったのだ。
まぁ、粗忽な話で取るに足らない内容ならともかく、立派な経験談に接して素直に感動している者に“知的怠慢”と呼ぶのは、臍曲がりと呼ぶにも曲がりすぎてるんじゃないの。
要するに、私を批判するようで、その実はあの老人が語った内容に対する批判のように感じるのだが。
>②そもそも、226事件ではなく、「228」事件である。
ごめんなさい、書き間違えです。
>③「日教組的・左翼的」とは笑止千万。そんな古くさいレッテルを使うこと自体、親日/反日という二者択一的な思考枠組みにとらわれ、そこから次元の離れた議論を許容できない頑なさの表われである。貴殿自身の抱えている別の形での“イデオロギー”性をはしなくも吐露してしまったことを自覚すべし。
長々と書き連ねるのが面倒だったので、いかにも紋切り型の言葉を使ってしまったが、要するにそういうメンタリティから抜け出せていないんじゃないの、と指摘したかっただけです。
投稿: みつぼ | 2007年11月30日 (金) 17時29分
貴殿の奇妙奇天烈な曲解については、私の文章力のまずさと貴殿の読解力の低下とが相俟った、あくまでも技術的な問題なのだから仕方がない。しかしながら、感情論の一方通行で、言葉を多く費やす割に無内容なことには少々苛立っている。
貴殿の話も聞いたし、ブログも読んだ。かの老人に「中国と対抗するため日本と台湾は軍事同盟を結ぶべきですよ」と言っていたのは覚えている。しかし、それ以外には、興奮した様子がほほえましく思うものの、では一体どこに連帯感を見出したのか、具体的なことはさっぱり伝わってこなかった。
そもそも、“心情的連帯”なんて言葉を軽々しく使うのはうさんくさい。日本人である自分にとって心地よい言葉を選択的に受け入れているだけだから具体的なことが言えないのではないか。そのように私は勘繰っている。
貴殿は妙な言いがかりをつけるが、老人の語ってくれたことを批判などしていないのは私の台湾旅行の記事を冷静に読めば分かることだ。「教育勅語」のコピーを受け取ったときには、日本ではあり得ないことに戸惑いを覚えながらも、日本も台湾も同様に勤勉なひたむきさが失われつつあることへの批判と受け止め、自らの怠惰を戒める趣旨のことを書いた。
そもそも、貴殿は「教育勅語」を読んだことがあるのかね? 「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」、つまり、古今東西を問わず普遍的なことだと言っているのだから、日本人であるか台湾人であるかは実は関係ない。それを妙に“日本人”性に結び付けたがるところにうさんくささを嗅ぎ取るのだ。
そういうメンタリティーというのが、どういうメンタリティーを指すのかさっぱり分からないな。貴殿の言う「日教組的・左翼的」な人は「教育勅語」にもきちんと目を通しているのかね? 紋切り型で済ますのは、自分の頭で考えていない証拠である。
投稿: トゥルバドゥール | 2007年11月30日 (金) 19時10分
だから、老人は勤勉でも正直でも構わないが、そういう美徳をかつて自分もそのうちの一人であった日本人・日本国というものに投影しているんでしょ。
それこそが彼の誇りであり、矜持なわけだから、そういう姿に素直に感動することが、どこが曲解なの。どこが知的怠慢なの。
貴殿がこれまでさまざまな文献だとか研究を通じて得てきた知識や見識はある程度理解するよ。
しかし、自分の性向とは異質のものを目の当たりにして、戸惑いを禁じ得ないところへ、隣にいた私が、何度も言うが
「同じ日本人としての連帯」
を感じて、感動しているのを見て、ただおちょくっているだけでしょ。ただの拗ね者だよ。
それならそれで、貴殿の一風変わった性格として笑って済ますこともできようが、いろいろこじつけて、人をバカ扱いするのは看過できないな。
投稿: みつぼ | 2007年12月 1日 (土) 08時45分
だから、何度も言っているように、要は“同じ日本人”ではないでしょ、ってこと。歩んできた体験も背景も全く違うんだから。それを雑駁に“同じ”と括ってしまうのは、台湾の歴史を無視すること。その点で相手への敬意を感じられないと私は言っている。妙に曲解するから付け加えておくが、違うこと=否定ではないぞ。
老人が使う「大和魂」という言葉を聞いて、厳しい歴史の中でそこに拠り所を求めざるを得なかった機微をみつめたいというのが私の考え方だ。話をうかがったのが二二八紀念館の中だったというシチュエーションを貴兄は無視している。国民党の蛮行を語り、その後で日本への親しみを語ってくれたという文脈をどのように捉えているのかね? 一緒に同じ話を聞いていたのだから、知識の有無は関係ない。自分の都合の良いように話を切り取っていると批判されても仕方あるまい。
貴兄は「投影」という表現を使っているが、「投影」という心理的契機が働くこと自体、現在の自身の立場との距離を自覚していることではないのか。そこに台湾の歴史が歩んできた機微を見ることはできないのかね?
そもそも、貴兄の言う「連帯」って一体何なんだ? 単に日本の国境の外に“日本人”を見つけて無邪気に喜んで、そういう子供っぽい無邪気さを「素直に感動」していると言っているだけのことでしょ。だけど、その意味を自問する手間を省いているのはやはり知的怠慢だ。大人の反応ではない。もっとも、ものを考えること自体が面倒ならば、それは根本的に態度が違うから仕方ない。これ以上、何も言うまい。
まあ、貴兄の頭にはすでに結論が固まっていて、私の言うことを端から理解しようというつもりはないみたいだから、いくら書いたって不毛なんだけどね。
投稿: トゥルバドゥール | 2007年12月 1日 (土) 16時49分
>だから、何度も言っているように、要は“同じ日本人”ではないでしょ、ってこと。歩んできた体験も背景も全く違うんだから。
何を寝ぼけたこと言っているのかね。
歩んできた体験も背景も異なる人間の集合体が国であって、
それらを束ねるのが日本人、アメリカ人、ブラジル人、という国民ではないか。
>相手への敬意を感じられない
この期に及んでまだそんなことを言うとは、滑稽にすら思う。
人を見て物を言え、とはいささか無礼かもしれないが、少なくとも私は貴殿よりは老人に敬意を抱いている。
>話をうかがったのが二二八紀念館の中だったというシチュエーションを貴兄は無視している。
あの老人は、週に2回しか紀念館にしか来ないのだよ。
彼の主張は週2回のパートタイムで、他所で聴けば異なるとでもおっしゃるのかね?
>自分の都合の良いように話を切り取っていると批判されても仕方あるまい。
自分の都合の良いように話を切り取っているのは貴殿ではないか。
>貴兄は「投影」という表現を使っているが、
殊更に自分を卑下するつもりもないが、私は貴殿ほどは言葉や用語には詳しくない。投影という言葉が正しくないなら撤回して言い換えよう。
『重ね合わせ、同じものとして見ていた』
とでも言えば良いのかね。
>単に日本の国境の外に“日本人”を見つけて無邪気に喜んで、そういう子供っぽい無邪気さを「素直に感動」していると言っているだけ
おいおい、“単に”なんて言葉で片付けてるようだが、異国で由緒正しき“日本人”と邂逅し得たことは「素直に感動」するに
値しないことなのかね?
>まあ、貴兄の頭にはすでに結論が固まっていて、私の言うことを端から理解しようというつもりはない
そっくりそのまま、熨斗をつけて貴殿の言葉をお返ししようではないか。“男はつらいよ”の名台詞ではないが、それを言っちゃあおしまいよ、というものだろう。
投稿: みつぼ | 2007年12月 1日 (土) 20時43分
…まったく、泥沼だな(ため息、フー)。ことごとくポイントの外れた難癖ばかりでいやになる。貴兄の知性がここまで劣化しているとは思わなかった。いや、マジな話で。もう少し具体的な根拠をあげながら語ってくれないと、互いの議論がかみ合わなくて不毛だぞ。
昔、犬を飼っていたことがある。餌のありかを示そうと指差したところ、その犬は私の指先のにおいをクンクン嗅いでいた。貴兄の上げ足取りを見ながら、人間でも全く同じことがあるんだと驚異的な思いをしている。別に、老人であることとか、週二回しか来ないとか、そんなことを問題にしているわけではないだろうが。
①ほう、私に向かって国家論の講釈かね? 個々の体験は異なっても、人々を大きく束ねる共通体験があってはじめて国民国家は成立している。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』は政治学のイロハだぞ。貴兄は死ぬまで読むことはないだろうが。台湾人にとっては、二二八事件がその共通体験となっているわけだ。
②繰り返しになるが、その二二八事件の記憶と日本への親しみとが密接に結びついていることを老人は語っていたのに、そのことを貴兄は全く無視している。老人だからというのではなく、そうした話の流れを無視して一部分だけを切り取ることが失礼だろうと言っているのだ。私の台湾旅行の記事の中に老人の話を簡略ながらも再現してあるが、それが間違っているならば貴兄なりに再現してみせろ。
③“単に”という副詞を外せばいいのだな。要するに、海外で“由緒正しき日本人”に出会ったことを喜んでいるということは事実関係として間違いはないのだな? それを「連帯感」などと大仰な表現をしているのだな? それを子供っぽく無邪気に喜ぶばかりで、そのことの意味を自分なりに反芻する思考が出てきていないことを知的怠慢だと私は言っている。
貴兄はおそらく上げ足取りをするだろうから言っておくが、その事実関係そのものを否定するつもりはない。しかし、一時の感情で終わらせず、よってきたる意味を自分なりに整理してその感動を頭に保存していくのが知性であろう。そんな手間が面倒くさいならば、最初からそう言え。それはそれで構わないから。ただし、ガキのレベルだと軽蔑はするけどね。変に強弁して知的怠慢を糊塗しようとするから話がややこしくなる。
あんまりカッカしないで、少し冷静に頭を動かしてから書き込みたまえ。2ちゃんねるあたりにいそうな粘着質そのもので、読むにたえず、実にみにくい。
投稿: トゥルバドゥール | 2007年12月 1日 (土) 23時14分
要するにあの老人に出会ったのが不幸だったようだな。
彼に会わなければ、ものろぎや氏のファンタジーに綻びは生じなかったし、ましてや“ガキのレベル”で“粘着質そのもの”の私の“感動”を目の当たりにするという不幸に遭遇することもなかっただろう。
そうした不幸を貴殿にもたらしてしまったことについては慙愧にたえないが、それ以上に貴殿と言う人物の底が見えてしまったことが、私にとって慙愧にたえない。
先のコメントでは、多少憚られたが、今回ははっきり言っておこう。人を見て物を言い給え。
投稿: みつぼ | 2007年12月 2日 (日) 08時08分
はあ? 何が不幸だっての? 私はかの老人の話をうかがうことができて、自分の台湾認識に奥行きがでて喜んでいる。何度も繰り返すようだが、そのことは私の台湾旅行の記事に詳細に書いてある。
私は自分なりに根拠を挙げながら自分の考えを説明しようとしている。対して、貴兄は根拠を示さないばかりか、私の示した根拠を無視して感情的な罵詈雑言を浴びせるだけだ。老人の話を一部だけ切り取っていることについて貴兄はまだ弁明していないぞ。その際たるものは、二二八事件もひっくるめてトータルで受け止めていないことだ。ここが実は台湾史で肝心なところなんだけどね。
要するに、貴兄は自分とは違う考え方を突きつけられてむかついているってだけのことでしょ? 自分の感情的な正しさだけを駄々っ子のように押し付けようとして、そこに論拠明示的に疑問が呈せられると逆切れする。閉ざされた言説空間だけを是とし、反証可能性をもった議論など最初からするつもりはない。カール・ポパーなんて引き合いに出しても貴兄にとっては馬の耳に念仏だろうな。
そうしたいびつな精神構造は、メタな論理のレベルで中国共産党の歴史認識と変わらないし、貴兄が先に私に対して放った「日教組的・左翼的」なる侮言が、実は貴兄自身に跳ね返ってくることに気づいていない。まあ、形式論理を背後で動かすメタな論理について目配りするほどの知的訓練はされていないようだから、いくら言ってもわっかんねーんだろうなあ(嘆息)。私の言っていることを理解しようともせずに、また見当違いな愚言を繰り返すんだろうなあ。
>先のコメントでは、多少憚られたが、今回ははっきり言っておこう。人を見て物を言い給え。
人の発言を無視した末にこんな捨て台詞を吐くというのは、貴兄自身の間違いを認識したにもかかわらず、プライドがそれを許さないってことだな。所詮、ただの駄々っこだろ。人間としての底が浅いのはどちらのことかね? どちらのファンタジーが綻びたのかね? 教養のない人間は、言葉につまるとすぐ逆切れするから、めんどくせえ。
投稿: トゥルバドゥール | 2007年12月 2日 (日) 11時58分
ネット公共空間で下品な言葉を弄する貴殿こそ、逆ギレ幼児症の典型例なんじゃないのかね。
私は相手を追い詰めない主義なので、この期に及んでも貴殿の心配をしておくが、貴殿は自説(というより、へそ曲がりの反論主義のようにも思うが)を曲げぬと言えば聞こえはいいが、頭の中における潔癖症が過ぎて、つまりは臭い物に蓋をする結果になってしまっているように思う。
三味線を弾くことができない不器用な貴殿の社会生活に幸多からんことを祈る。
投稿: みつぼ | 2007年12月 4日 (火) 10時05分
へえ、政治学や科学哲学の話題を出しただけで下品と言われたのは生まれて初めてですなあ。結局、貴兄は話の本来の焦点を外したままですぜ。土俵を別の場所に移そうとしているみたいだけど、そうはいかないよ。
①老人の話を一部分だけ切り取り、二二八事件と親日感情との結びつきを無視したことの間違いは認めるのかね?
②貴兄の私に対する反発や、老人の話の切り取り方を見ていると、まず貴兄の頭の中に「台湾に日本人がいるよー!」というフィルターがかかっていて、そこを通して他者の言葉を選び取っているだけなのがよく見える。このフィルターに合致した言葉だけを無邪気に喜んで、それを「素直な感動」と言っているだけ。他方、私のような批判は初めから受け付けないで逆ギレする。自分の感じたことを反芻する習慣がないから、自分の頭にフィルターがかかっていること自体に気付かない。それを私は知的怠慢と言った。
③貴兄の喜ぶ台湾の「日本人」イメージには、フィルターでふるいがかかっているのだから、二二八事件をはじめとする台湾の歴史は無視されている。相手の歴史を無視した「日本人」イメージは、所詮、貴兄の自己満足に過ぎない。それを、相手に対して失礼ではないのかと私はたしなめた。
>私は相手を追い詰めない主義なので、
自分が追い詰められてるから、そう言ってるだけでしょ。貴兄の今までの居丈高な攻撃は一体何だったのかね?
上記①②③で結論はまとまったから、もうお開きね。
投稿: トゥルバドゥール | 2007年12月 4日 (火) 19時11分