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2007年11月

2007年11月30日 (金)

水谷尚子『中国を追われたウイグル人──亡命者が語る政治弾圧』

水谷尚子『中国を追われたウイグル人──亡命者が語る政治弾圧』(文春新書、2007年)

 トルキスタンは私の小さい頃から憧れの地だった。スウェン・ヘディンやオーレル・スタインの探検記に早くから馴染んでいたし、大学の卒業論文では東トルキスタンのあるオアシス都市国家の興亡をテーマとして選び、中国語で書かれた論文や発掘レポートを、辞書を引き引き読み解いたのもなつかしい。しかしながら、私がそうした甘ったるいロマンティシズムを寄せていた土地ではいま、ウイグルの人々は悲惨な扱いを受けている。時折、新聞の国際面で反政府勢力摘発の記事を目にしてはいたが、それ以上のことは分からず気になっていた。本書は、共産党政権による苛酷な弾圧から逃れた人々の痛切な肉声を紹介してくれる。

 以前、マーティン・スコセッシ監督によるダライ・ラマの伝記映画「クンドゥン」を観たとき、チベットに侵攻する人民解放軍の野蛮さが、中国の反日映画で描かれる日本軍と二重写しになって不思議な気持ちになったのを覚えている。中国側は今でも旧日本軍の残虐さを言い立てるが、同様の蛮行が漢人の公安によってウイグル人に対して現在でも行なわれている。

 私が最も衝撃を受けたのは、中国政府によって行なわれる核実験の被害がウイグル人を直撃していることだ。漢人に被害が及ばないよう、敢えてウイグル人居住地域の近くで実験が行なわれている。死の灰による後遺症が顕著に出ているが、中国政府は「核汚染はない」という立場を崩さないので放置されたまま。少数民族に対する差別政策というレベルを越えて、一種のジェノサイドではないかと恐ろしくなる。告発した医師がこう語るのが重い。「被爆国日本の皆さんに、特に、この悲惨な新疆の現実を知ってほしい。核実験のたび、日本政府は公式に非難声明を出してくれた。それは新疆の民にとって、本当に頼もしかった。日本から智恵を頂き、ヒロシマの経験を新疆で活かすことができればといつも私は考えているけれど、共産党政権という厚い壁がある。」

 ウイグル人にはチュルク民族意識やイスラムを媒介したネットワークがあるのも注目される。国外に出て各国を転々と渡り歩き、たまたま9・11後のアフガンで拘束されてグアンタナモに送られたウイグル人の話も出てくる。テロリストではないのだが、中国に送還されると間違いなく銃殺されるので、アメリカ軍に拘束される方がまだマシと考えたらしい。

 アメリカで活動するラビア・カーディル女史をはじめ、東トルキスタン独立運動は世界各地に散らばって展開されている。漢人の民主化グループと共闘するシーンもあるが、独立問題は微妙な影を落とす。著名な運動家・魏京生氏は寛容な態度を取っているものの、民主化運動に従事する人々の間でもウイグル・チベット・台湾の独立は一切認めないという意見が根強いという。辛亥革命以来、先送りされたままの問題である。

 本来ならば人権問題に敏感であるべき日本の進歩派といわれる人々が、中国の為政者が振りかざす“一つの中国”という公定イデオロギーをそっくりそのまま鵜呑みにしてきたというのは甚だ奇妙なことで、これは厳しく指弾されるべきダブル・スタンダードである。他方、本書の著者が「おわりに」できちんと指摘しているように、中国の“反日”に対する感情的な反発を動機として、こうした政治弾圧問題にとびつくというのもあまり感心できることではない。

 つい先日、私は台湾に行ったばかりで、ある台湾人のおじいさんから話を聞く機会があった。二・二八事件で台湾人を多数虐殺した中国への憎しみと、日本への親しみとを語ってくれた。その話を聞きながら、同行していた友人が素朴に喜んでいるのを傍らで見て、私は微かな違和感が胸にわだかまっていた。おじいさんにではなく、その友人に対して。もちろん、彼の気持ちは分からないではない。ただし、こうした話をナイーブに受け入れてしまうのは、所詮、日本人の自己満足に過ぎず、語り手の置かれた屈折した立場を実は無視することになりかねない、そうした意味での知的怠慢を感じたのである。

 本書で訴えかけてくるウイグルの人々の切実な声に耳を傾けるにしても、それを単純に中国憎しで終わらせてしまっては不毛であろう。語られた言葉の背景をなす歴史的・社会的・政治的な桎梏をしっかりと読み解かなければ、建設的な受け止め方にはならない。

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2007年11月29日 (木)

網野善彦『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』

網野善彦『〔増補〕無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』(平凡社ライブラリー、1996年)

 中学・高校の歴史教科者は政治史中心で、社会史・文化史については付け足し程度に触れられるだけだった。もちろん、時系列整理に便利が良いという理由もある。たが、それ以上に、中央権力=一国・一元的な見取り図が暗黙のうちに前提されてきたことは様々な方面から批判を受け、いまや歴史を複層的にみつめようという姿勢は常識的とも言えよう。そうした潮流を形づくるにあたり大きな転回力を持った仕事として網野善彦の業績を逸することはできない。

 本書は、遍歴する職人や芸能民、遊行僧に遊女、あるいは駆け込み寺や市など、中世日本において一定の支配関係から抜け出しマージナルなありようを示した人々や空間を一つ一つ拾い上げ、それらに通底する感性を「無縁」「公界」「楽」といったキーワードを使って掘り起こそうと試みている。端的には“自由”と言ってしまいたいところだが、この表現にまとわりつく西欧近代的なニュアンスとは必ずしも重ならないので、この微妙なところは本書を通読して感じ取ってもらうしかない。

 織豊政権、さらには江戸幕府と時代環境がシステマチックに整備されるにつれて、こうした境界的な存在はむしろマイナスのイメージを負わされた。「公界」(くがい)は「苦界」となり、「無縁」は無縁仏というように寂しい語感を帯びることになる。被差別民の問題もこうした頃から生じたとされる。

 堺をはじめとする自治都市の性格を把握するに際し、経済的な「私有」の論理によって秩序が確立されたとする見解に網野はかみつく。もちろん、そうした側面は否定できないにせよ、同時に、「無縁」の論理が背後で支えていたのを見落としてはならないと指摘。さらに筆を強め、このような発想には「私有」「有主」の論理による発展を“進歩”と考え、「無所有」「無主」の論理を克服すべき停滞とみなす偏見があるとまで批判する。

 こうしたあたり、網野の資本主義に対する不信感、そしてそれによって人為的に崩されてしまった“自由”な理想郷への憧憬を見出すのは容易であろう。私自身としては必ずしも共感できるわけではないが、そんなのはたいしたことではない。

 歴史を描くにしても、その動機自体に共感できるかできないかは別問題として、ある種の強いパッションで貫かれた筆致というのは読み手に強烈な手応えを感じさせてくれる。“事実”といわれるものの積み重ねがイコール“歴史”なのではない。打ち出された明確なイメージと対峙して、読み手自身の世界観がどこか揺さぶられる強さ、そうした手応えを受け止めたとき、私は素直に面白いと感じる。本書は典拠をふんだんに引いて論証を重ねつつも、どこか青くさい。むしろ、その青くささにこそ歴史書として色褪せない魅力があると思う。

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2007年11月28日 (水)

「花蓮の夏」

「花蓮の夏」

 海辺に三人の男女がたたずむシーンから物語は始まる。服は砂に汚れ、顔にはスリ傷が見える。台湾東岸、花蓮の街。じっとりと汗ばむ夏の陽気の中でも、青々と広がる田んぼや山の木々、海辺に打ち寄せる波音に清涼感があって、暑苦しいという感じはしない。主人公ジェンシンの家は日本式家屋、古い街並の残る田舎町であることがうかがえる。後半、映画の舞台は台北に移るが、密集度が高くて不快指数も高そうな都市空間との対照が際立つ。

 ジェンシン(ブライアン・チャン)とショウヘン(ジョセフ・チャン)は小学生の頃からの親友。優等生のジェンシンが、挙動が落ち着かず嫌われ者のショウヘンと友達になるよう先生から言われたのがきっかけだった。大学受験を控えた時期、ジェンシンはホイジャ(ケイト・ヤン)と付き合っていたが、ホテルに行っても何もできず、自身の同性愛的傾向に気付く。ショウヘンとホイジャは台北の大学に進んで付き合い始めたが、ジェンシンは受験に失敗、鬱屈したものを抱えながら予備校に通う。彼のショウヘンへの想い、恋愛と友情とが重なり合った三角関係。三人の気持ちはそれぞれに無垢であるだけに、否応なく傷つけ合わざるを得ないことに戸惑う。

 全体的に映像のトーンは青っぽい感じで、それが三人の気持ちを痛々しいまでに叙情的に浮き上がらせている。季節は夏。同性愛というテーマからしても暑苦しいストーリーではあるが、観終わってから後味の悪さは全くない。

 以前、ツァイ・ミンリャン監督「青春神話」(1992年)を観たときにも感じたことだが、受験競争の厳しい管理教育社会という台湾の一側面が垣間見えるのも興味深い。

【データ】
原題:盛夏光年 ETERNAL  SUMMER
監督:レスト・チェン
台湾/2006年/95分
(2007年11月25日、渋谷、ユーロスペースにて)

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2007年11月27日 (火)

「転々」

「転々」

 文哉(オダギリ・ジョー)は大学生、身寄りが全くなく孤独な生活を送っている。そこに現われた借金取りの福原(三浦友和)から「俺と一緒に東京散歩に付き合ってくれたら100万円やる」と言われ、半信半疑ながらもついて行く。吉祥寺出発、目的地は霞ヶ関。しかし、何のため? 「女房を殺した。警視庁に自首するから、その前に思い出の場所を歩きたいんだ。」

 東京にうごめく不可思議な人々とすれ違う。途中、福原は拳法が滅法強い時計屋のじいさんから一撃くらい、知り合いのマキコ(小泉今日子)の家に転がり込んだ。マキコの親戚、ふふみ(吉高由里子)も乱入し、四人で過ごす擬似家族体験。そして、二人は桜田門へと歩いていく。

 「ALWAYS 三丁目の夕日」を観た時にも思ったことだが、東京というのは雑居性を特徴とする都市のせいか、“擬似家族”というテーマになじみやすい。人間はたくさんいるのだが、その中で砂粒のように散りばめられた孤独な人々をすくい取る横のつながりが時代は変わっても常に求められているからだろう。

 東京の古い街並を次々とつぶしていくコインパーキングを見て、文哉は自分の過去もこうやって消し去りたいとつぶやく。しかし、そんな彼でも、たった数日間の擬似家族体験を通して表情が活き活きとしてくるあたりは観ていてホッとする。

 私自身、よく東京散歩に出かけるので、その点でもこの映画には愛着を感じた。うかつにも監督の三木聡という名前をつい最近まで知らなかったのだが、「時効警察」は時々観ていた。麻生久美子とオダギリ・ジョーは二人とも好きな俳優だし、ナンセンス・ギャグ的な演出も私のツボにはまっていた。この「転々」も大筋からいえば決して軽いストーリーではないが、深刻になりかねないところを良い意味ではぐらかしてくれて、気持ちよく観られる。チョイ役で色々な人が登場するが、岸部一徳の使い方には笑った。

【データ】
監督・脚本:三木聡
原作:藤田宜永(新潮文庫、2005年)
2007年/101分
(2007年11月25日、テアトル新宿にて)

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2007年11月26日 (月)

「ALWAYS 続・三丁目の夕日」

「ALWAYS 続・三丁目の夕日」

 東京タワーが完成し、高度経済成長で東京の姿も徐々に変わりつつある頃が舞台。夕焼け空があたたかく感じられるのは幸せな時代なのだと思う。いや、“幸せ”なんて表現で片付けてしまうのは適切ではないのかもしれない。この映画ではコミカルなドタバタの中でも、失ったものを引きずる姿が随所に見え隠れするのだから。

 一つは、戦争の影。鈴木オートのオヤジ(堤真一)は戦友の幻を見る。医師のタクマ先生(三浦友和)は、前作ではタヌキに化かされて空襲で亡くした家族の夢を見たが、今回はそのタヌキを焼き鳥でもう一度おびき出そうとしている。

 もう一つは、故郷喪失感。集団就職で上京したロクちゃん(堀北真希)のことは前作ではストーリーの柱となっていたが、今回は一緒に上京したタケオが方言訛りの言葉を笑われてぐれてしまうというエピソードがある。ヒロミ(小雪)は身売りされてストリッパーになった。淳之介とミカの二人にしてもそれぞれに親の事情のため、よその家で寄寓生活を送らざるを得なくなった。そうした人々が集まり、鈴木オートの夫婦(堤真一・薬師丸ひろこ)と駄菓子屋の茶川さん(吉岡秀隆)、それぞれの家でいとなまれる擬似家族的なつながりがこの映画の中心をなしている。

 失ったものがあるから、それを取り返そうと前向きに努力する。故郷や親元を離れ、仕事や生活上の問題ばかりでなく精神的にも孤独感に苛まれかねないところ、擬似家族的な共同体の中に生きていく拠り所を見つける。それぞれに自分の抱えているものと向き合うのに必死だった。同時に、それぞれの背負った傷を互いに埋め合おうとする本能的な智慧を忘れていなかったからこそ、こうした擬似家族がおのずと形成されたとも言える。

 山崎貴の映画は「ジュヴナイル」(2000年)、「リターナー」(2002年)ともに映像効果がたくみで、子供向けSFだからと斬っては捨てられないほどに面白かった。特に「ジュヴナイル」は小学生の頃の夏休みを思い起こさせるようなノスタルジックな空気が漂い、その雰囲気は「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズにもつながっている。やはり見所はVFXで再現された昭和30年代の東京の風景だ。私自身もはや見たこともない街並ではあるが、普段歩き慣れた東京のかつてのたたずまいに少々の感慨もわく。

【データ】
監督・VFX:山崎貴
脚本:山崎貴・古沢良太
2007年/146分
(2007年11月23日、新宿バルト9にて)

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2007年11月25日 (日)

「眠り姫」

「眠り姫」

 冒頭、薄明の色合いを背景に、すでに落葉した木の枝の広がりを映し出した映像が影絵のように美しい。映像に人物は登場しない。どこか寒々とした映像を連ね、そこに声だけでセリフをかぶせながら物語は進む。映画というよりも、映像叙情詩といったらいいのだろうか。音楽は美しいのだが、所々でトゲトゲしく胸をつんざく。嫌いじゃない。

 中学校で非常勤講師をしている青地は、眠っても眠ってもまだ眠り足りない。学校へ行くのも億劫。恋人とも何となく付き合い続けてはいるが、もう面倒くさい。顔は丸くなってきた。時々、変な声が聞こえてくる。同僚の野口に相談しても気味悪がられるだけだ。しかし、その野口も不自然なほどにやせ細って様子がおかしい。

 原作は山本直樹の同名マンガ(『夜の領域』チクマ秀版社、2006年、所収)だが、このマンガ作品自体も内田百閒「山高帽子」(『内田百閒作品集成3 冥途』ちくま文庫、2002年、所収)を原作としている。山本の作品は、かつて東京都の有害図書条例にひっかかったことで知られているように、あからさまな性描写に特徴がある。しかし、単なるエロではない。私はそんなにたくさん読み込んだわけではないが、全体的なトーンとして無表情、無感覚というか、性=生の稀薄感を漂わせた女の子が多く登場するという印象があり、「眠り姫」も含めて、今という時代のある種の空気を汲み取っているようにも感じられる。

 舞台は現代に移し変えられている。時折、微妙に古風な言い回しで語られるが、百閒「山高帽子」のセリフがそのまま使われている箇所である。もちろん、百閒にエロはないし、彼の皮肉っぽい文体は存在の稀薄感なんて感覚からはかなり距離がある。ただ、うつつか夢か、その境界線がぼんやりとした物語設定は、百閒の筆致とはまた違った形で、山本のマンガ、この映画、それぞれの持ち味が活きてくるのが面白い。

【データ】
監督・脚本:七里圭
音楽:侘美秀俊
声の出演:つぐみ、西島秀俊、山本浩司、他
2007年/80分
(2007年11月19日レイトショー、渋谷、ユーロスペースにて)

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2007年11月24日 (土)

「僕がいない場所」

「僕がいない場所」

 反抗心旺盛で詩人を夢見る少年クンデル。孤児院から脱け出して母のもとへと戻るが、再会した母のベッドには男がいた。もう二度と来ないでくれと言われたが、時折母の様子をのぞき見ながら、クズ拾いで生計を立てる。シンナー中毒の他のストリート・チルドレンからは逃げ、食堂では施しは受けないと強がるあたり、心の中の芯が崩れないよう必死な姿がけな気だ。

 川辺の廃船に住まいをみつけたところ、すぐ近くの裕福な家庭の少女がいつしか遊びに来るようになった。彼女もまた寂しさと劣等感を抱えている。仲良くなったクンデルは「一緒に遠くへ行こう」と言う。しかし、二人の様子をうかがっていた少女の姉が警察に通報、連行されるクンデルの叫び声は少女のもとには届かない──。

 舞台はポーランドの田舎町。彼の孤独な心象風景を映し出すかのような、寒気の際立つ荒涼とした山野や水辺の風景。しかし、たとえば、夜明けの瑞々しい光などには、クンデルの心の中に確固として根付くピュアな気丈さを表わしているようで、彼の寂しさを見てきただけに、それがかえって眼も醒めんばかりに清らかだ。マイケル・ナイマンの流麗なメロディーがそうした風景にかぶさり、胸に切なくしみいってくる。哀切な感傷は、時に不思議と美しさを呼び起こす。この映画の映像も音楽も、本当に美しい。私はマイケル・ナイマンの曲が大好きだが、彼が関わっている映画は少なくとも音楽が素晴らしいのではずれがない。

【データ】
原題:Jestem(英題:I am)
監督:ドロタ・ケンジュルザヴスカ
音楽:マイケル・ナイマン
2005年/ポーランド/98分
(2007年11月18日、渋谷、シネマ・アンジェリカにて)

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2007年11月23日 (金)

「自虐の詩」

「自虐の詩」

 通天閣の見える下町のボロアパート。幸江(中谷美紀)は、無愛想・無職のイサオ(阿部寛)の乱暴にじっと耐えながら、不思議そうな周囲の視線もよそに、嬉々として献身的に尽くしている。原作となった業田良家の四コマ漫画を呉智英がどこかで最高の純愛漫画だと評していたように思うが、不器用で孤独な男女が寄り添う姿を描いている。

 別に湿っぽい話ではない。“ちゃぶ台返し”をはじめ、堤幸彦らしいナンセンスな細部へのこだわりのおかげでブラック・ユーモア的な原作のテーストをしっかり織り込んでいる。中谷美紀と阿部寛の二人は、貧乏くささに馴染みながらも決して華を失わず、とても良い。

 みじめな生活ではある。隣の芝生は青いと言うが、我々は往々にして他人との比較によって自分の幸不幸を考えたくなりがちだ。しかし、この二人を見ていると、人生に幸福か、不幸か、そういった区別をつけようという発想自体がそもそも無意味なことのように思えてくる。

【データ】
監督:堤幸彦
出演:中谷美紀、阿部寛、西田敏行、遠藤憲一、カルーセル麻紀、竜雷太、他
2007年/115分
(2007年11月18日、渋谷、シネ・クイントにて)

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2007年11月22日 (木)

「恋空」

「恋空」

 むう…。つらかった。涙が出た。あくびをこらえるのに精一杯だったんで。原作はケータイ小説ということで予想はしていた。いちいちくさすのも野暮だけど、やっぱり書いちゃう。美嘉『恋空』(スターツ出版、2006年)は実体験に基いているらしいが、だから感動的ということにはならない。音楽も大げさにどんなに盛り上げようとしたところで、純愛というよりも、単に思慮が無いだけじゃないかという以上の感想は出てこないな。新垣結衣をメインに据えて大々的に宣伝キャンペーンを打ってなければマイナーB級映画で終わる程度の内容。

 それにしても新垣結衣のブレイクぶりはすさまじい。かくいう私自身、ガッキー目当て。ひそかに写真集を買ってしまったほどのファンだが、彼女の表情はかわいくても、必ずしも演技に見るべきものがあるわけではない。初々しさだけで2時間の長丁場はさすがに飽きがくる。ミスチル・ファンとして、エンディングに「旅立ちの唄」が流れたのは嬉しい。

 満席に近い盛況だったが、観客層はカップルか10代・20代の女の子たちが中心。以前、ケータイ小説がベストセラーにずらりと並んだのを見て驚き、リサーチのつもりで何冊か目を通したことがある。日本語の小説を横組みで読むのはつらいというだけでなく、質的にもケータイ小説とケータイ小説以外のすべてとでは読者層はほとんど重ならないことは推測できた。そんな層の中に紛れ込んだのだから、昨日観に行った「呉清源」の時とはまた違った形で私は浮いてたんだろうな。

【データ】
監督:今井夏木
出演:新垣結衣、三浦春馬、小出恵介、香里奈、浅野ゆう子、高橋ジョージ、他。
2007年/127分
(2007年11月18日、新宿バルト9にて)

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2007年11月21日 (水)

「呉清源──極みの棋譜」

「呉清源──極みの棋譜」

 日本の棋士・瀬越憲作(柄本明)に見出された中国の少年が家族と共に日本へ招かれた。呉清源──私は囲碁を全く知らずほとんど打ったこともないが、それでもこの名前くらいは知っていた。その天賦の才能を見込まれた呉は日本で修行に励む。時はあたかも中国と日本との関係に暗雲の垂れ込めた1930年代。勝負の緊張感もさることながら、中国人である彼への風当たりも強い。日本での恩人に先立たれ、自身も結核に倒れ、そうした苦しみの一切を昇華させるかのように、碁という次元を超えた深淵に何かをつかもうと求道的にもがく姿を描く。

 この映画でも呉清源の盟友として登場する木谷実名人(仁科貴)が、本因坊秀哉・永世名人の引退碁で対局した数ヶ月間を、川端康成『名人』(新潮文庫、1962年)はルポ的に描いている。それこそ芸術的なまでのこだわりで棋譜を組み立てようとする旧世代の美意識と、勝負事として合理的に割り切る新世代とのちょうど狭間に立った人物として川端は秀哉を描写する。二人の対局は単に局面の戦略を立てるばかりでなく、全精神を張り詰めた神経戦の様相すらうかがえ、消耗の激しさが目を引く。この映画の主役・呉清源にしてもそうだが、ある種の精神性へ傾倒してゆくのも納得できる。

 本書には呉清源も登場する。その端正な顔立ちを川端は完璧なまでの貴人の相と記しているが、ストイックなオーラも含めて当時の日本で人気があったらしい。その若き日の呉清源を演じるのは台湾の俳優、チャン・チェン(張震)。張りつめたものが危うく崩れかねない繊細な雰囲気を好演している。彼がエドワード・ヤン監督「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」に出ていた少年だとは気付かなかった。中国の巨匠が、台湾人俳優を主役に据え、日本を舞台に映画を撮るというのもなかなか感慨深い取り合わせである。なお、川端康成は野村宏伸が演じている。

 田壮壮監督のつくり出す、緊張感が張りつめ静かな清潔さを湛えた映像が実に素晴らしい。木村伊兵衛の写真を見て昭和初期の日本の風景を研究したという。再現された映像のひとつひとつを見ると確かに道具立ては日本なのだが、全体として日本人の監督が撮るのとはまた違った美学が映し出されているようにも感じられる。それがハッとするように美しい。

 上映初日に入ったせいか、ほぼ満席に近い盛況ぶり。高齢の男性が多くを占め、やはり囲碁ファンがこぞって観に来ているのだろう。ひょっとして私が観客中最年少だったのではあるまいか。

【データ】
英題:The Go Master
監督:田壮壮
衣装:ワダ・エミ
出演:チャン・チェン、伊藤歩、仁科貴、大森南朋、野村宏伸、松坂慶子、柄本明、他。
2006年/中国/107分
(2007年11月17日、新宿武蔵野館にて)

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2007年11月20日 (火)

「犯人に告ぐ」

「犯人に告ぐ」

 神奈川県警の巻島警視(豊川悦司)は七年前の誘拐事件で人質となった子供を死なせてしまった過去を引きずっている。左遷先で成績を挙げているのが再び県警本部長の眼に留まり、未解決の連続児童殺人事件の捜査を任された。手始めに押し付けられた仕事は、捜査責任者としてニュース番組に出演し、情報提供を呼びかける役回り。しかし、挑発的に犯人に直接対話を呼びかけ、稀に見る劇場型捜査が幕を開く。

 原作は雫井脩介の同名小説(双葉文庫、2007年)。犯人あぶり出しのため掌紋照合のローラー作戦をやるというのは、個人情報保護のうるさい昨今、無理な設定ではあろうが、そういう粗探しは別として、観ていて引き込まれるように面白い。警察ものサスペンスではおなじみ、出世競争の嫉妬や足の引っ張り合いにもどんでん返しが何回か用意されていてこちらも目が離せない。

 「武士の一分」を観た時にも思ったが、巻島に寄り添う老刑事役の笹野高史が味わい深くて実に良い。監督の瀧本智行は、以前に「樹の海」(2004年)を観たことがある。地味だけど結構好きな作品だった。本作でようやくメジャー・デビューしたようで慶賀にたえない。

【データ】
監督:瀧本智行
出演:豊川悦司、松田美由紀、石橋凌、小澤征悦、笹野高史、他。
2007年/173分
(2007年11月17日、新宿、シネマスクエアとうきゅうにて)

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2007年11月19日 (月)

台湾に行ってきた⑧(国父紀念館、そして帰国)

(承前)

 誠品書店敦南本店から次のお目当ての国父紀念館までぶらぶら歩いていった。国父とはもちろん孫文のことである。中山公園(写真31写真32)。中山とは孫文の号。国父紀念館の向こうに見える高層ビルは台北101、金融関係の機能が集まっている。公園内は普通の公園として開放されていて、人々が思い思いに散歩したり、剣舞したり、社交ダンスの練習をしたりとのどかな光景。

 国父紀念館の入館は無料。中では中華民国及び台湾の歴史と孫文の歩みを紹介する展示が行なわれている。総統府や二・二八紀念館ではどちらかというと日本に好意的な内容だったが、対してこちらは、中華民国の正統性を示すのが目的であるだけに、むしろ抗日運動に重きが置かれている。華僑ネットワークの広がりを示すパネルもあり、その点でも台湾人意識を強調する総統府や二・二八紀念館とは基本的なコンセプトが異なることが分かる。中心は大ホールとなっており、何やらテレビ番組収録の準備をしていた。

 孫文の経歴において、宮崎滔天、頭山満、犬養毅をはじめとした日本人との交友はよく知られているが、そういった日本との関わりについてはほとんど無視されていた。唯一、孫文と山田純三郎とが並んだ写真が掲げられていたが、山田とは何者なのかを説明するキャプションはなかった。山田純三郎は中国革命のために献身的な支援活動を行ない、孫文の死の間際、その枕頭に身内や汪兆銘、戴天仇など革命の指導者たちが集まる中にいたほど孫文から信頼されていた。純三郎の兄・山田良政は1900年の恵州起義で孫文と共に戦い、戦死している。

 正面の大広間には孫文の巨大な座像がまっすぐ前を見据えている。その足もとには常時、捧げ銃をした直立不動の儀仗兵が二人、あたかも蝋人形のように文字通り微動だにしない。知的障害者らしい人が近寄って触っていたが、それでも眉ひとつ動かさないのはさすがだ。

 展示を見ていたら、ガシャン、ガシャン!という激しい物音がこの大広間から響いてきた。行ってみたところ、儀仗兵の交替式が行なわれていた(写真33)。直立不動はさすがにきついわけで、1時間ごとに交替している。その際、小銃の銃床を石床にたたきつけたりクルクル回転させたりとちょっとしたパフォーマンスが演じられる。任務を終えた儀仗兵は、旧ドイツ軍のようなきびきびとした、しかし極度にスローモーションなグースステップで退場していく。厳粛な空気の中、私も含め観光客がパシャパシャとカメラの音を立てる。扉を隔てたすぐ外でおばさんたちが社交ダンスの練習に励んでいるというのも奇妙なのどかさだ。

 国父紀念館駅からMRTに乗って台北駅で下車。台湾滞在最終日は孫文特集。といっても、孫文は台湾にそれほどのゆかりはない。中華民国の正統性を示すため無理やりにでも孫文の台湾における足跡を強調しようとしているが、辛うじてその題材として使える場所がこれから行く国父史蹟紀念館、通称“梅屋敷”である。

 こちらは逸仙公園となっている(写真34)。逸仙とはやはり孫文の号である。ここはかつて日本統治時代の旅館で、孫文は台湾に立ち寄るたびに宿泊したという。純和風建築(写真35写真36)で、中には孫文にまつわる展示。べこべこした畳の上を歩く。床の間に孫文の銅像と青天白日旗があるというのが面白い(写真37)。庭園の池には鯉が泳いでいる。四阿には蒋介石による碑文(写真38)。背後に見えるのは台北駅である。

 台北の街を中山駅あたりまでぶらぶら歩く。新光三越百貨店南西店の上にのぼり、Hが大のお気に入りである欣葉で昼食をとった。それから再び台北駅方面へと街並みを見ながら歩き、途中、やはりHおすすめの大衆食堂で二度目の昼食。Hと歩いていると胃袋がいくつあっても足りない。廣州炒飯を食べたが、値段の割にはなかなかうまくて満足。

 荷物を預けてあったYMCAホテルに戻る。お土産を買うため、すぐ近くの新光百貨店台北駅前店のデパチカに降りた。普通に醤油やらとんかつソースやら置いてあって、雰囲気から品揃えまで日本と全く変わらず、デパチカという呼び方に違和感がない。

 台北駅前から高速バスに乗って桃園国際空港へ。16:15発の成田行きチャイナ・エアラインに搭乗。機中で司馬遼太郎『台湾紀行』を読了。日本時間20:00過ぎに無事帰国。

 色々と心残りはある。侯孝賢の映画が好きなので、彼の映画の舞台としてよく登場した九份まで足をのばしたかったし、誠品書店だけは行ったものの台北市内の書店街や映画館街もまわれなかった。古い建築物のチェックもおろそかになっていた。今回は時間的な制約で強行軍となってしまったが、次回は地図片手に一人でぶらりと来るつもりである。

(了)

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2007年11月18日 (日)

台湾に行ってきた⑦(誠品書店にて)

(承前)

 11月10日、土曜日。台湾滞在最後の日である。台湾の書店業界をリードしているという誠品書店の噂を聞いたことがある。是非一度は見てみたいと思っていたので、敦南本店へ足を運ぶことにした。

 MRT忠孝敦化駅で下車、徒歩3,4分くらいか。大きなビルの2階にあり、エスカレーターであがる。シックな内装で、落ち着いた雰囲気。ジュンク堂と青山ブックセンターを足して2で割った感じか。何よりも驚くのは24時間営業ということだ。日本には現時点ではそんな書店はない。短期強行軍の我々は時間の効率的活用のため早朝に行った。さすがに客の入りは少ない。床に座って居眠りをしている人をみかけた。

 店舗のレイアウトが実に凝っている。棚が並ぶ、というよりも、ジャンルごとの小スペースを組み立てていると言ったらいいのだろうか。中国語・英語・日本語の本が分け隔てなく同じ棚に並ぶ。窓際は一段高い外回り廊下。書籍とは別になった雑誌売場では、ゆるやかならせん状のスロープを上ったり、下りたり。店舗内を移動するにもメリハリがあって面白い。

 カタツムリの殻を上から見て真ん中あたりのスペースにファッション雑誌が平積みされている。菅野美穂が表紙を大きく飾る雑誌を手に取ったら、『with』の中国語版だった。他に日本語の雑誌もあるし、また純然たる台湾発行の中国語雑誌でも装飾的にひらがな・カタカナを使っているのもあり、そういったのが近くに並んでいるので紛らわしい。日本の雑誌で英文を普通に使うように、台湾の雑誌でも日本語を使っているようだ。同行のHによると、たとえば“の”という字は@みたいでかわいらしいから使ってみようといった感じの発想があるらしい。それから、『東京人』のバックナンバーがずらりと揃っているのにも驚いた。

 日本の現代小説の翻訳が実に充実しており、名のある作家ならば必ずと言っていいほどにある。ここが旗艦店だからということではない。たとえば台北駅地下の中型店舗でも、村上春樹や吉本ばなな(香蕉と表記されていたように思う)は当然のこと、石田衣良の「池袋西口広場」シリーズが机を使って大々的に平積みされていたし、なぜか山本文緒も多かったな。『のだめカンタービレ』のキャラクターを使ったクラシック紹介本も見かけた。とにかく挙げ始めたらきりがない。マンガ・アニメ関係はチェックする時間がなかった。

 日本の書籍の凝ったつくりに慣れてしまうと、たまに洋書を手に取ったとき、ペーパーバックのつっけんどんというか、その無造作なつくりにどことなく寂しさがわきおこってしまうことがある。台湾の書籍文化には日本の影響があると言われるが、ペーパーバックが主流なのは日本と異なるところだ。ただし、デザイン的に丁寧なつくりをしており、その点では日本の書店に置いても違和感はないと思う。同じ中国語でも、大陸で出版された本は神保町の東方書店や内山書店で手に取ることができるが、やはりつくりは粗い。造本文化という点でも大陸と台湾とでは大きな隔たりがある。

 書店を歩き始めると、やはり何冊か買わないと気がすまない。以前、ソウルを歩いた時にも、その頃は韓国の近代思想にちょっと興味があったので、金玉均や兪吉濬など開化派についての本を3冊ほど買ったことがある。韓国の人文系の学術書はタイトルに漢字が使われているので、一応何をテーマにした本なのかは分かる。ただし、その後、韓国語の勉強が進まず、いまだにほこりをかぶったままなんですけどね…。もちろん、中国語も苦手だが、全く読めないわけでもないので、いくつかみつくろって買った。むしろ、台湾で用いられている繁体字の方が、大陸の簡体字よりも意味を取りやすい。

 台湾の近代史に関わるところで人物中心に、前に挙げた李莜峰・荘天賜編『快読台湾歴史人物』Ⅰ・Ⅱ(台北:玉山社、2004年)の他、葉榮鐘『台湾人物群像』(台中:晨星出版、2000年)を購入。それから、張超英・口述、陳柔縉・執筆『宮前町九十番地』(台北:時報出版、2006年)は元外交官の自叙伝のようだが、きれいな本で面陳されていたので手に取った。黄俊銘『総督府故事──台湾総督府曁官邸的故事』(新店:向日葵出版、2004年)は台湾総督府を建築の観点から紹介した本で、写真や図版も豊富。阿盛『夜燕相思燈』(台北:遠流出版、2007年)は文学関係のあたりで平積みされており、写真と散文の組み合わさった見た目にも情感のある本。立ち読みで内容が把握できるほどの中国語力はないので、とりあえず見た目の印象で買った。

 実は、大きめのリュックサックひとつで台湾に来た。誠品書店以外に故宮博物院や総統府内の売店でも色々と資料を買い込んでしまったので、結局、キャリーバックを買ってそれに本をつめて帰国するはめになる。

(続く)

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2007年11月17日 (土)

台湾に行ってきた⑥(台湾高速鉄道で高雄へ)

(承前)

 二・二八和平公園を歩き、国立台湾博物館に向かう。公園の北のはじっこにある。公園入口から道路をはさんだ向かい側に古い建物があったので撮影(写真18)。現在は土地銀行が入っているが、帰国してから戦前の地図を確認したところ、三井物産株式会社となっていた。

 写真19が国立台湾博物館。戦前は台湾総督府付属の博物館であった。自然史(博物学)や原住民に関する通常展示のほか、随時企画展示も行なわれている。私たちが行った時にはチェコの人形劇について特集展示が組まれていた。チェコ・アニメーションのファンは日本にも結構いるが、その源流は人形劇にある。ファンタジックな雰囲気をなかなか楽しそうに工夫を凝らして出しているのでゆっくり見たいところだが、時間的な都合から駆け足で通り過ぎる。自然史コーナーは少々しょぼかった。原住民に関するコーナーも色々と興味深いのだが、中国語のキャプションを読むにも手間取るし、やはりじっくり見るには時間が足りない。

 公園近くの台北医大病院前駅からMRTに乗り、中山駅で下車。デパートが立ち並ぶ、東京で言うと日本橋のような所だろうか。Hおすすめということで、新光三越西南店の上にあるレストラン欣葉で遅めの昼食をとる。再び中山駅に戻り、地下通路を歩いて一駅隣の台北駅まで戻る。ちょっとした地下街になっていた。

 MRT、台湾鉄道(台鉄)も含めて台北駅は完全地下化されており、台湾高速鉄道(Taiwan High Speed Rail=HSR、高鉄)も地下駅から出発する。15:00台北発、左営行きに乗った(写真20)。いわゆる台湾版新幹線である。本来ならば2005年開業予定だったらしいが、色々とトラブルが続き、今年の一月にようやく開業したばかりである。乗り心地は悪くない。ワゴン販売を何気なく見やると、ロッテの「コアラのマーチ」「ポッキー」といったカタカナが目に入ってきた。韓国系企業がつくった日本製商品を台湾の新幹線で売っているというのも不思議な感じだ。定期的にゴミ収集の人も通りかかる。

 車窓の風景を眺める。日本の新幹線と同様に、在来線とは離れた所に路線が敷設されているので、都市では見られない台湾の姿が一瞥できる。台北盆地から台湾島西部の平野に出るまでの山地はトンネルが多い。鬱蒼と茂る木々の緑が目に瑞々しく映える。いったん平野に出てしまうと、あとは広々とした田畑が広がっている。溜池が散在しているのが目立つ。台湾中部の大都市、台中市が見えてきた(写真21写真22)。横を通り過ぎると、再び田畑の広がりの中をひたすら走る(写真23写真24写真25)。このあたりの水利が、八田與一のイニシアチブで整備された嘉南大圳であろう。やがて夕日が空をあかね色に染める中、台湾第二の大都市圏、高雄市へと近づく(写真26)。

 台北から左営まで高鉄で約一時間半ほど。台鉄の自強号という特急列車では3,4時間くらいかかるというから、だいぶ便利になった。我々のように日帰りのプランを気軽に組める。ただし、高鉄は台鉄の高雄駅までは直結していない。終着駅の左営はその手前。日本の新横浜や新大阪みたいな感じか。台鉄の新左営駅とつながっており、こちらから2駅目で高雄駅に着く。ただし、台鉄の本数は少なく、接続はあまりよくない。現在、地下鉄を建設中だが、開業は今年の末くらいになるそうで、とりあえずタクシーを使うのが無難だろう。なお、左営のように「営」という字の入った地名を時折見かけるが、鄭成功の率いた軍隊の屯所が置かれたことにちなんでいるという。

 高雄はかつて打狗(ターカオ)といった。日本の支配下に入った後、“犬をぶつ”なんて町の名前として宜しくないということで発音だけ音写して“たかお=高雄”と改称された。日本人はついつい“たかお”と言ってしまうが、中国語での発音は“カオシュン”である。司馬遼太郎は『台湾紀行』の中で、司馬がうっかり“たかお”と言ってしまうのに対して、親日家の“老台北”こと蔡焜燦氏が訂正こそしないものの、敢えて“カオシュン”という発音で会話を続けていたので司馬は恐縮してしまったというエピソードをつづっている。

 高雄はやはり暖かい。空気は少しムワッとする感じだが、夕方は適度に涼しく、今の時期が一番過ごしやすいのではないか。きっちりと区画整理されて街路も広いせいか、台北よりもきれいに整った印象がある。Hおすすめの海鮮料理店で食事をしてから六合夜市へと足を向けた。台北や基隆の夜市と比べ、道路が広いので歩きやすい(写真27)。果物やフルーツジュースを売る屋台のヴァリエーションの豊かさが目を引く。どら焼きの屋台ではドラえもんの歌が流れていた。Hが海賊版DVDをせっせと買い込むのを私は横目で睨みつける。

 写真28は夜の高雄駅。台鉄で新左営に出る。時間があったので駅中のコンビニをひやかしていたら、日本語の雑誌、とりわけ女性向けのファッション雑誌が多いことに気付いた。高鉄左営から21:15発の台北行きに乗車(写真29)。窓の外はまっくら。隣のHはウツラウツラ。二・二八紀念館でもらった許文龍『台湾の歴史』を通読した。

 22:50頃、台北駅に到着。さらにMRTに乗って剣潭駅で下車。今度は士林の夜市を歩く(写真30)。一晩のうちに高雄、台北と二大都市の夜市を歩くというのもなかなか得がたい経験である。私はこういう騒がしい雑踏を歩くのはあまり好きではないので、Hに引っ張られなければ来ることはなかっただろう。その点では彼の強引さもありがたい。

(続く)

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2007年11月16日 (金)

台湾に行ってきた⑤(二・二八紀念館)

(承前)

 総統府近くの二・二八和平公園に行った(写真14)。ここで二・二八事件に触れねばなるまい。日本の敗戦後、国民党の軍隊が台湾接収のため上陸した。当初、台湾の人々は解放者として期待をふくらませて歓迎したが、やがて彼らの腐敗体質、恐怖政治に不満を募らせる。そして1947年2月28日、反国民党の暴動がおこり、台湾全島に広がった。国民党は大陸からの増援部隊を得てこれを徹底的に弾圧、1か月の間に公式の数字として2万8千人が殺されたと言われている。日本では侯孝賢監督の映画「悲情城市」の背景をなす事件として知られているが(「悲情城市」の記事を参照のこと)、台湾の人々にとってこの二・二八という日付は特別な意味を持つらしい。

 1995年になってようやく当時の李登輝総統が国家元首として公式に謝罪。これを受けて、1997年、陳水扁市長時代の台北市政府によって二・二八紀念館が設立された(写真15写真16写真17)。ここはかつて日本の放送局だった建物である。二・二八事件のとき群衆がここを占拠して、台湾人の決起を呼びかける放送をしたという。北京語の放送が途中で台湾語に切り替わる様子を録音したテープが館内で聞ける。

 館内に入ると、3人ほどのグループを前におじいさんが説明をしていた。その言葉が日本語であるのをいち早く聞き取ったHが、「おう、ついて行こうよ」と私の袖を引っ張ってくれた。このおじいさんのお名前はCさんという。日本語は完璧なまでに流暢で現在の日本事情にもだいぶ通じているようだった。

 二・二八紀念館には日本統治時代の背景から敗戦時の混乱、そして二・二八事件の詳細な経緯、その後の人権問題について展示されている。上陸直後の国民党は経済的に無策で、ハイパーインフレが進行。ヤミが横行するのは当然ながら、とりわけ俸給生活者は貨幣価値の急激な下落で生活が成り立たず、自殺者が相次いだという。警官はヤミタバコを取り締まるが、没収したタバコを横流し、再び取り締まる、なんていうマッチポンプも平気でやった。こうした滅茶苦茶な無法状態に耐えられるものではなく、二・二八事件へとつながる鬱積した不満を台湾人は抱え込まざるを得なくなった。

 台湾全島をかたどった大型の模型地形図があり、主要都市にランプがついている。日付ごとのボタンを押すと、その日に騒動のあった都市が点灯し、反国民党運動の広がりが一目で分かるようになっている。三月八日のボタンを押しながらCさんはつぶやいた。「この日は忘れられません…。」大陸からの増援部隊が上陸した日である。台湾省主席・陳儀はいったん融和的な素振りを見せていたが、この日を境に強硬姿勢に転じた。

 日本統治時代、制限された形ではあったが台湾人からも市議会議員等に選出された人々がいたし、実業家として力を持ちつつある人、そして医師、弁護士、学者などの知識階層は新しい国づくりを真剣に考えていた。本来ならばそうした地方の政治的・社会的指導層が戦後の台湾社会を担うはずだったが、国民党は彼らを有無を言わせずに逮捕、街中で公開処刑した。国民党は二・二八事件を好機とばかり、意図的に知識人を狙って殺したとも言われている。鉄道の乗車賃を払わなかったことを注意されて逆ギレした軍人が部隊を引き連れてそこの駅員を皆殺しにしたという事件もおこった。警察に連れ去られてそのまま行方不明になった人は数知れず。手足に銃剣で穴をあけ、そこに針金を通して十人前後を数珠つなぎにし、端から撃ち殺しながら海に突き落とすという殺害方法も行なわれた。運よく生き残った人の証言が館内のパネルで示されている。

 何か理由があって逮捕するのではなく、とにかく殺して台湾人を威嚇し、怯えさせるのが目的だったという。死体は街中に放置され、見せしめのため片付けるのは許されなかった。死体は腐敗して悪臭を放ち、伝染病が広がる。「私はこの眼で見ました。本当にひどかった…」とCさんは一瞬、言葉をつまらせていた。今でも時折、山の方で白骨死体が発見されることがある。「国民党は日本人がやったと言うが、そんなの嘘だってことは誰でも知っている。自分たちのやったことを平気で日本のせいにする。中国人は嘘つきだ。」Cさんもやはり蒋介石が大嫌いなようで、蒋介石が軍帽をとって閲兵している写真を指差し「私たち、ハゲと呼んでました」。また、「中国人は本当に残虐だ」とも言う。総統府でガイドをしてくれた男性もそう繰り返していた。

 勿論、一般論としてそんなことは言えない。ただ、台湾の人々が事件のこうした苛酷な経過を目の当たりにして、自分たち“台湾人”は“中国人”とは違うという自覚が明確になったことが窺える。かたわらのHは「二・二八事件ってのがこんなにおおごとだとは思わなかったな。確かに、中正(蒋介石)国際空港を桃園国際空港と名前を変えたくなる気持ちは分かるよなあ」と今さらながら感慨深げにつぶやいていた。

 Cさんは語る。「李登輝さんが国家元首として初めて謝罪してくれました。しかし、李登輝さんも台湾人です。実際に手を下した人間は今でも生きている。だけど、彼らは一人として謝ってはくれない。どこで殺して埋めたのか場所も教えてくれない。政府発表では2万8千人が殺されたことになっていますが、少なくとも5万人以上はいるはずです。しかし、今となっては正確な数字は分かりません。」総統府のガイドの男性は20万人と言っていた。

 よく台湾人は親日的だと言われる。だからといって、日本の植民地支配が良かった、いや悪かったという二者択一に集約されるものではない。Cさんはこう言う。「植民地が良かったと言うつもりはありません。やはり差別がありました。ただ、日本の後に来た国民党があまりにもひどすぎた…。日本時代は差別はあったけれど、少なくとも法治国家として安定した生活を送ることができました。しかし、国民党には法の観念などなかった。蒋介石が命令すれば根拠もなく殺して奪う。だから、私たち台湾人にとって日本時代が本当になつかしかったのです。」

 台湾は日本と国民党という二つの苛酷な支配を経験した。相対的な比較の問題として、国民党に対する憎悪が激しいあまり、その反転として日本への好意が強まるという感情面での力学が働いたと言えるのだろうか。

 一緒に話を聞いて回ったグループにいた女の子がどうやら在日韓国人らしく、Cさんは時折こんなふうに語りかけていた。「国民党は日本時代を思い出させるものをことごとく壊そうとしました。お国ではどうですか? 日本時代のものはもう残ってないですよね。」「朝鮮の方々は反日ですね。しかし、私たち台湾人は違います。」「私たちは戦後も国民党に支配されましたが、あなた方は自前の指導者を持つことができました。朝鮮の方々は幸せでした。」穏やかな語り口なので何気なく聞き流していたが、こうして文字におこしてみると結構きつい言い方だな。

 予想はしていたが、戦後教育を受けた世代の日本人として、どう反応したらよいのか分からず戸惑ってしまうシーンもやはりあった。

 「私は17歳で志願兵に行きました。日本が負けたとき、私は悔しかった。本当にそう思ったのですから仕方ありません。身も心も日本人になりきっていたんです。植民地というのはそういうものです。仕方がなかった…。」若き李登輝前総統の家族写真の前ではこう語る。「この方、李登輝さんのお兄さんはフィリピンで戦死しました。靖国にまつられています。この間、李登輝さんが靖国を参拝して中国人が色々と言ってましたが、あれはおかしい」陳さんは重そうなファイルを小脇に抱えており、そこから靖国問題について訴えるプリントを取り出して配った。また、日本時代の教育制度のパネルの前では「教育勅語」のプリントをもらう。裏面にはしっかりと現代日本語訳が載っている。顔には出さないものの、正直、のけぞった。

 戦後日本の歴史教育を全面否定するつもりはないが、いびつな側面があったことは知っている。そのいびつさとは、一見、良心的な美しさを装いつつも、たとえばCさんのような人々も、その人なりの想いを抱えて生きてきたことを、一つの固定的な判断基準から時代錯誤だと一刀両断に否定しさる冷たさだ。かと言って、Cさんの話をそっくりそのまま私は受け入れられるか。難しい。日本人の耳に快い言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうのは安易な怠慢のように思えるし、“右寄り”と言われてしまうことへの対世間的な慮りもわだかまる。バランスをとって真ん中というのは何も考えていないに等しい。私自身の頭の中にこびりついている様々な雑音をどうやって相対化して振りほどき、虚心坦懐に話を受け止めることができるか──。江川達也『東京大学物語』風に言うと、以上のことが0.08秒の間に頭の中をグルグル空回りした。

 「私たちには“やまとだましい”があります」とCさんは語る。大和魂、日本精神(リップンチェシン)──日本語教育を受けた世代でこうした言葉を使う人々がまだ生きている。ここで注意せねばならないのは、昭和初期の軍部を駆り立てたある種の狂信性とはニュアンスが異なることだ。むしろ、正直、勤勉、時間厳守、そういった生活上の規範意識を意味している(平野久美子『トオサンの桜──散りゆく台湾の中の日本』小学館、2007年を参照)。素朴に言い換えると、ひたむきに生きること。そうした美学が現代台湾人からも、そして日本人からも失われている。「教育勅語」のプリントにそんな気持ちを込めて配っているのかと思うと、怠惰な私としては少々つらい。

 別れ際、Cさんから許文龍『台湾の歴史』という冊子をいただいた。私家版なので日本で入手するのは難しいが、小林よしのり『台湾論』の参考文献一覧に載っていたので、この冊子の存在を実は知っていた(私は本を読むとき必ず参考文献一覧をチェックする。第一に、芋づる式に関連書の幅が広がるから。第二に、その本の傾向や質が一目瞭然だから)。許文龍は奇美実業というパソコン部品メーカーの社長、たたき上げの立志伝的な人物である。彼が社員教育のために行なった講演を中心にまとめられており、台湾の歴史にもたらした日本の功績を強調する内容となっている。帰国後、知人に見せたところ、「何だか松下幸之助みたいな人だね」という感想をもらした。確かに、“日本精神”→勤勉の美徳と捉えるとPHP的な感じもする。

(続く)

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2007年11月15日 (木)

台湾に行ってきた④(総統府)

(承前)

 11月9日、金曜日。朝7時過ぎに宿舎を出た。朝早くから開いている食べ物屋が結構あって、餃子やサンドイッチなどを買い求める姿をちらほら見かける。ファーストフードの文化が発達した土地柄のようだ。ちなみに、サンドイッチのことを“三明治”という。同行しているHお目当ての店に行き、水餃子で朝食をすませた。「これ、作りおきじゃないか」とHは不満げに言う。「店先で餃子を包んでいるのを見かけるだろ。あれをすぐにゆでてくれるとうまいんだ。」

 総統府に向かって台北市内をぶらぶら歩く。清代の役所があったことを示す碑文があった(写真12)。すぐ近くに中山堂という大型建築物があるのだが、うっかり写真に収めるのを忘れていた。戦前の台北公会堂である。1945年10月25日、中華民国代表・陳儀と最後の台湾総督・安藤利吉との間で降伏調印式が行なわれた場所だ。台湾ではこの日が光復節、つまり終戦記念日となっている。

 総統府の一般公開は平日の午前中のみ、10時から受付が始まる。早めに来たのだが、団体客が多くて30分ぐらい待たされた。パスポートを提示し、ボディーチェックを受けて裏口から入館。大陸籍の人は入館できない旨の注意書きがあった。十数人ほどのグループになって見学する。総統府の中には台湾の歴史と歴代総統についての展示があり、日本語のできる人がガイドをしてくれる。

 私たちのグループについたのは70歳代の男性。開口一番、「むかし、台湾、支配者のために国があった。しかし、李登輝さんが総統になって、台湾、変わった。民衆のための総統、だから総統府も民衆に開放する。いま、台湾、世界で一番民衆(民主?)的な国。ホワイトハウスも日本の首相官邸も中は見せてくれない。」

 日本語はそんなにうまくはない。話の強調したいところで「OK!」という感じに親指をたてる不思議な仕草をする人だった。感情の激しいタイプなのか、それとも日本語のボキャブラリーが乏しくて直接的な表現になってしまうのか、極端な言い回しが多い。とりわけ印象的だったのは蒋介石と国民党に対する憎しみの激しさだ。蒋介石の写真の前を通るたびに、「こいつ、卑怯!」「こいつ、臆病!」「こいつ、罰当たり! 蒋介石の子孫、いまは全滅。誰もいない。蒋介石、台湾人をたくさん殺した。罰が当たった。悪いことするの、良くない。」いまや政権が変わったとはいえ、まさか総統府の中で初代総統をここまで悪しざまに罵るというのは意外なことで驚いた。

 同行したHは以前にも総統府を見学したことがある。その時にガイドをしてくれたおばあさんの語り口と比べてだいぶご不満の様子だ。そのおばあさんは日本時代の思い出話を色々と語ってくれたらしい。今回の男性は、比較的に若いせいか(といっても70代だが)、むしろ蒋介石への憎悪とそれに応じて高まった台湾人意識を強調しているのが特徴的だったように思う。

 後藤新平や八田與一(彼らに対しては“さん”付けで呼んでいた)のパネルの前を通る際には、「蒋介石は何も建設せず、奪って殺すだけ。しかし、日本人は鉄道をつくってくれた。ダムをつくってくれた。発電所をつくってくれた。私たち台湾人、日本に本当に感謝しています。」日本人へのリップサービスなのかどうかはよく分からず、戸惑う。パネル展示であちこちとばしている箇所もあった。ひょっとして、日本人にとって不快になりそうなところは説明を省いているのだろうか? 中国語のガイドはどんな説明をしているのか気になった。

 なお、八田與一は日本統治時代の土木技師。当時としては東洋一の規模をほこる烏山頭ダムを完成させ、これによって旱魃に悩まされがちだった嘉南平野に水路を行き渡らせることができた(嘉南大圳)。戦争中、フィリピンに行く船が撃沈されて落命。妻は後を追って烏山頭ダムに投身自殺。八田の名前は日本ではあまり知られていないが、台湾では尊敬を集めているという。台北の書店で購入した李莜峰・荘天賜編『快読台湾歴史人物Ⅰ』(台北:玉山社、2004年)の「大愛無私的奉献者」という章でも八田が取り上げられていた。本書は台湾史上の人物をⅠ・Ⅱ巻合わせて60人取り上げているが、日本人としては八田の他に民俗学者の伊能嘉矩、池田敏雄の名前も見える。

 総統府の建物が完成したのは1919年。周知の通り、かつての日本の台湾総督府である。設計プランは、審査員に辰野金吾や伊東忠太といった錚々たる顔ぶれがそろったコンペティションにより選ばれた。初めての植民地統治にあたってそのシンボルとして威厳を示そうと、中央の尖塔は当初のプランよりも高くそびえ立つ。近隣にこれよりも高い建物は建てさせなかったという。正面は東向き、つまり日本の方向を向いている。空から見下ろすと「日」の字に見える構造。真ん中の空間は、戦前は総督の馬車や職員の自転車置き場となっていたが、李登輝の時代になって庭園として改装された。壁面にはイギリス風の赤レンガを使っているが、それだけでは単調で面白くないということで白い石でストライプが入っている。それこそ“永遠”の使用を前提としていたというだけに非常に頑丈なつくりだ。1945年の台北空襲で標的となって損傷を受けながらも基本構造はしっかりと残り、戦後再建されて中華民国政府の拠点となった。一説によると、蒋介石が戦後の再利用を視野に入れていたので破壊を最小限にとどめるようアメリカ側に求めたとも言われる(片倉佳史『観光コースでない台湾──歩いて見る歴史と風土』高文研、2005年を参照)。

 写真13は総統府を正面から撮影した。台湾の国連加盟を求める巨大な文字パネルがかかっている。台湾社会の支配者として日本、ついで国民党が君臨したシンボル。そこにようやく台湾人の代表たる陳水扁が選挙を通して座り、中でガイドが蒋介石を口を極めて非難する。そうした時代の移り変わりを90年近くにもわたってこの建物はジッとみつめてきたのである。

 なお、この写真を撮った大通りはかつて介寿大道と呼ばれていた。「介寿」とは蒋介石の長寿を祈願するという意味合いを持つ。現在は凱達格蘭(ケタガラン)大道という。ケタガランというのは、昔、台北盆地にいた先住民族である。民進党の陳水扁が台北市長だった頃に改称された。先住民族復権政策の表われであると同時に、蒋介石の記憶を総統府の門前から消し去ろうという意図も働いている。

(続く)

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2007年11月14日 (水)

台湾に行ってきた③(台北、基隆を歩く)

(承前)

 MRT(Mass Rapid Transit=台北捷運)というのは台北市内をタテヨコに結ぶ地下鉄もしくは高架線。料金は最短区間20元から。自販機でトークンを買い、自動改札機にかざして入場する。夕方なのでジャージや制服姿の中高生が車内でワイワイ騒いでいた。本当に日本でも普通にみかける光景だよなあ。

 台北駅で下車。駅からすぐ近くのYMCAホテルに投宿。二人部屋で1泊2,300元。日本円に換算して一人あたり3,000円前後というところか。帰国してから戦前の地図を広げて確認したら、この場所には組合キリスト教会と表示されていた。やはりつながりがあるのだろうか。なお、すぐ近くに新光三越百貨店があるが、ここは日本統治時代、台湾における最高級ホテルの鉄道ホテルがあった場所である。

 荷物を置き、日本でも有名な鼎泰豊で夕食をとることにした。本店は非常に混雑しているということでMRT忠孝敦化駅近くの支店に行った。やはり小籠包がうまい。

 台湾の街を歩いてすぐに目立つ特徴は、歩道がアーケードになっていること。各建物は隣同士ぴったりとくっついて並んでおり、一階の車道に面した一画が歩道用にくり抜かれ、それがつながってアーケードをなすという構造である。各建物ごとに歩道の高さが異なり、足もとに注意しないと段差が危なっかしい。戦前からあるように思われる古い家屋も時折見かける(写真5写真6)。こうした古い家屋にそのまま建て増しして現在の街並みが形成されているようで、たとえば工事で一部分取り除けられた箇所でこんな痕跡も見かけた(写真7)。トマソン発見!とばかりにカメラに収める。

 街行く人々の姿を見ていても日本とそんなに変わらない。以前、ソウルに行った時にも感じたことだが、ちょっと奇妙なパラレルワールドに迷い込んだような気分に陥る。秋葉原にいそうなゴスロリ風の格好をした女の子もみかけた。ただし、髪の毛を染めた人が全く見かけないのは日本と違うところか。電車の中で、もはや東京では見かけることのない制服姿、黒髪の美少女がノートを広げて勉強しているのを見かけ、一人感動したりもした。

 コンビニはセブンイレブンとファミリーマートが中心。他に、ハイマートという現地のコンビニチェーンも多いかな。コンビニの前を通ると、ちょっと独特な臭いがする。台湾のお茶で煮込んだ卵をレジ横で売っており、その臭いが扉から漂い出ている。セブンイレブンでは“関東煮”という名前でおでんも売っていた。関西風だな。ポテトチップやチョコレートなどお菓子は普通に日本語を使った名称の商品が目立つ。台湾社会では現代でも日本語になじみがあるようで、街中の外国語学校の看板を見ても英語と日本語と並べているのが多い。なお、台北市内のコンビニではレジ袋は有料。

 道を歩いていると、時折、血が滴ったような赤い汚れを見かける。最初は何だか物騒な国だなと妙な気分になったが、やがて「ああ、これが檳榔を吐き捨てたあとか」と思い当たる。檳榔というのは噛みタバコのようなもの。クチャクチャ噛んでいると口中真っ赤になるらしい。飛行機の中で読んだ司馬遼太郎『台湾紀行』に、台湾在住歴の長い日本人が檳榔を若い台湾人大学院生にすすめたところ、「若い人はそんなものかみませんよ!」と強い調子で拒絶されるシーンがあった。今では檳榔をたしなむのは年寄りかヤクザ者だけらしい。電車の中でヤクザ風によたった歩き方をする男が口をクチャクチャさせていたが、あれも檳榔か。Hによると、以前は檳榔を吐き捨てた跡はもっとよく見かけたが、最近は少なくなったという。そういえば、台湾高速鉄道の手引書を見たら、車内で檳榔をかむのはご遠慮くださいという趣旨のことが中国語で書いてあった。一説によると、檳榔を噛むのは台湾土着の風習で、大陸と台湾との文化的差異を示す特徴とする考え方もあるらしい。

 台北駅から夜7時頃に出る台湾鉄道普通列車に乗り、海への玄関口、基隆へと向かう。もうすでに暗いので車窓から風景は見えない。30分ほどで到着。基隆は雨の町と言われているそうだが、その言葉通りのお出迎えであった。

 Hに連れられて基隆の夜市を歩く(写真8)。メニューは実に豊富で、台湾風の焼き鳥やら炒飯やら麺やら餃子やら定番があるかと思えば、天ぷら、寿司の屋台も割合に見かけた。臭豆腐の屋台は近寄っただけですぐ分かる。写真9の右側にはカエルが写っているが、そういう私が絶対に食べたくないものもある。中国語と日本語とが並んだプレートが屋台の上にかかっているので、日本人には歩きやすそうだ。ジャージや制服姿の中高生が楽しげに行きかっていた。

 私はあまり腹が減ってなかったし、そもそも屋台で買い食いするのがあまり好きではないのでずっと眺めているだけだったが、Hは水を得た魚のように旺盛な好奇心と食慾をふくらませ、「ここのは昔の給食のカレーみたいでうまいんだよ」とカレーライスをほおばる。ここに来るたびに必ず食べるらしいが、なぜかゴハンを残した。「前の客が食った皿をフキンでふいただけで、そのままよそってるんだよ。」衛生環境は必ずしも良いわけではないが、それを念頭に置いた上で屋台を活用すれば食費は安く済みそうだ。

 基隆港に出た。小雨がしたたるなか暗闇がたれこめ、港の反対側のイルミネーションがちらつくのが見えるばかり。港の水はよどんでいて、ドブのにおい。外洋からは距離があるようで、潮の香りはしない。「ここから日本人が上陸したり、引き揚げたりしたんだよなあ。お前だったらどんなストーリーをつくる?」とHが問いかけてきた。考えてみたら、私自身の祖父母も日本へ引き揚げる際にこの近辺にたたずんだはずだが、そういった感傷めいたものはわいてこなかった。時の隔たりを実感する。

 何やら古そうな大型建築があったので写真に収めた(写真10写真11)。海港大楼。基隆港の税関である。帰国後に調べたら、戦前の植民地時代から税関として使われていたらしい。

 夜9:30頃の列車に乗った。基隆滞在時間は二時間弱。台北に着いたのは10時過ぎ。駅前にある凱撤大飯店という大型ホテルの2階に和民があるのをみかけ、どんなメニューがあるのか確かめようと入ってみた。「なんか新宿で飲んでるみたいだな」と言いつつビールを酌み交わす。

(続く)

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2007年11月13日 (火)

台湾に行ってきた②(故宮博物院)

(承前)

 故宮博物院は周知の通り、世界の四大博物館の一つに数えられている。故宮とは北京の紫禁城を指す。辛亥革命後、清朝は紫禁城に限定して存続を許されたが、軍閥の抗争が相次ぐ中、1924年に馮玉祥が北京に入城、ラストエンペラーこと宣統帝は追放された。翌1925年、清朝宮廷の所蔵品は公共の管理下に移され、一般公開されることとなったのが故宮博物院の始まりである。

 さらに続く軍閥同士の抗争、そして日本軍の侵略と戦火が絶え間ない中、コレクションは上海、南京、四川省の山奥、重慶などと場所を転々とし、最終的には国共内戦で敗れた蒋介石と共に台湾に移転された。当初は戦火が台湾にも及んだ場合に備えて台湾中部の山奥、洞穴状の倉庫に置かれたが、1965年、台北市北郊の士林に新館が完成、こちらに落ち着いて現在に至る。なお、蒋介石が故宮博物院にこだわったのは、その所有が中華民国の正統性を示すと考えていたからである。

 写真1写真2写真3は故宮博物院。同行したHは「何だか新しくなったような気がする」と言う。2005年に故宮博物院創設80周年を迎えたのを機にリニューアルされたらしい。所蔵品は膨大な数にのぼり、常に展示の入れ替えを繰り返している。ミュージアム・ショップで購入した国立故宮博物院編・温井禎祥訳『故宮七十星霜』(台北:国立故宮博物院、1996年)を読むと、この建物がたびたび増築されてきた様子がうかがえるが、それでも間に合わず、現在、南部分院も建設中である。単にスペースを広げているだけでなく、内装は近代的に洗練されていて見やすい。所蔵品は当然のこと、博物館の機能としてのクオリティーも極めて高い。

 今回は時間が間に合わず見られなかったが、別館ではウィーン国立美術史美術館の特集展もやっていた。『故宮文物』295号(2007年10月、台北)をやはりミュージアム・ショップで買った。月刊の博物館報だが、全ページカラーで学術誌としてはきれいなつくりだ。現在行なわれている展示の解説が掲載されている。中国語は苦手だがパラパラめくっていたら、表紙を飾るハプスブルク家王女の肖像画をはじめ、ルドルフ2世、甲冑を身にまとった男性像など、見覚えのある絵が結構ある。5.6年くらい前だったか、東京藝術大学付属美術館でウィーン国立美術史美術館の展覧会を見たのを思い出した。故宮博物院は単に中国古来の文物を保存・展示するだけでなく、総合的な博物館・美術館として様々な企画展示を試みていることを改めて知った。

 本館での特集展示は「新視界──朗世寧與清宮的西洋風」。明末清初にかけてイエズス会の宣教師たちが東アジアに来訪した。布教のため西欧の最新技術を紹介、清の皇帝貴顕は彼らを篤く遇する。とりわけ朗世寧(カスティリョーネ)は康熙・雍正・乾隆の三代にわたって仕え、雍正帝がキリスト教の布教を禁じた後も清に留まった。朗世寧は画家として知られ、遠近法などの絵画技術を伝えたほか、円明園(後にアロー戦争で炎上)を設計した建築家でもあった。清代の絵画や陶磁器のデザインを見ていると、大枠としては中国風なのだが、時に精密なリアリスティックな描写がはめこまれていて目を引くことがある。それは朗世寧たち宣教師のもたらした影響である。

 李澤藩という画家の生誕百周年を記念した展覧会も行なわれていた。初めて知る名前だが、どこかボヤッとした感じのタッチの風景画にしっとりとした余韻があってなかなか良い。経歴を示したパネルを見ると、日本統治時代に生まれ、日本に渡って絵画を学び、二科展にも入選したという。帰国してからネットで検索してみたら、どうやら台湾人として初めてノーベル賞を受賞した化学者・李遠哲の父親らしい。李遠哲は李登輝政権下で中央研究院長を務め、その後、陳水扁政権のアドバイザーとなったことでも知られている。

 本館をぶらぶら歩くだけでも中国の歴史を古代から近代まで通観することができる。時間がそれほど潤沢にあるわけではないのでやや駆け足でまわった。昔、世界史の受験指導をしていたことがあり、中国史の記憶を掘り起こしながら、同行のHに押し付けがましく解説する。私のはしゃぎぶりに辟易したのか、やや迷惑そうだった。申し訳ない。

 ミュージアム・ショップでは、前掲の2冊の他、故宮博物院の展示品からいくつか代表的なものを時代順に並べた解説カタログ『天工宝物──八千年の歴史を物語る長河』『妙華生花──故宮所蔵の書画と文献資料』(共に台北:国立故宮博物院、2007年)も購入した。前者は器物、後者は書と絵画を集めており、日本語版があった。少々大きくてかさばるが、説明は簡潔で読みやすい。

 別館として図書館もある。写真4はその入口前に立つ蒋介石の銅像。すでに閉館時間。近くの原住民博物館にも寄りたかったが、今回はパス。タクシーでMRT士林駅へと向かう。

(続く)

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2007年11月12日 (月)

台湾に行ってきた①(台湾到着)

 11月8日、木曜日。朝6:30新宿発の成田エクスプレス3号に乗り、8:00ちょっと前に成田空港第二ビルに到着。同行するHと合流してカウンターへ。乗るのは9:40発の台湾・桃園国際空港行きのチャイナエアライン。Hの強硬な主張によりダイナスティークラス(ビジネスクラス)。

 私は海外に出かけることが滅多になく、7年ほど前に韓国へ行ったきり。その時もHが一緒だった。腐れ縁である。「海外二度目でビジネスクラスとはたいそうな出世じゃないか」など妙な嫌味を言われつつも、台湾渡航歴十数回のこいつから台湾の歩き方を学ばねばならないのでじっとこらえる(笑)。Hは旅慣れており、出国手続きすらままならぬ私はついつい頼ってしまう。旅行中は色々な場面で助けられた。なお、食事や夜市についてはHのブログが写真つきで詳細に紹介してくれているので、そちらを参照のこと(これ以降のページ)。

 機中で読みさしの司馬遼太郎『台湾紀行』を開く。隣でHは「やはりビジネスクラスはいいなあ。もうエコノミーには戻れない」と賛嘆しきり。私は座り心地とかサービスとかいうのは一切気にしないタイプなので、エコノミーでも構わないんだけどね。ただ、機内サービスのシャンパンは確かにうまかった。

 雲の切れ間から台湾の風景が見えてきた。今日は曇り空、所によって小雨が降っているようだ。田んぼや木々の緑色が湿ったように濃く感じられる。行きは3時間半ほど。時差は1時間。現地時間12:30頃に桃園国際空港に到着。チャイナエアラインは墜落率が高いという噂を聞いていたが、ひと心地つく。ちなみにここ桃園空港はかつて中正(蒋介石)国際空港と呼ばれていたが、2006年に改称された。中正とは蒋介石の号である。

 桃園空港から台北市内までは高速バスで移動する。片道125元。1元=3円弱という換算なので、350円くらいというところか。行きかう自動車を見ていると、ナンバープレートは台北市もしくは台湾省。行政院直轄市の台北と高雄以外はすべて台湾省と一括されている。バスは高速道路を下りて台北市内に入る。セブンイレブン、ファミリーマート、スターバックス、吉野家、モスバーガーetc.と日本でも馴染みのチェーン店がそこかしこにあるので妙な気分だ。サッカースタジアムの壁面には化粧品会社の広告で深田恭子の大きなポスターが張りめぐらされていた。

 当初の予定では台北駅近くの宿舎にまず荷物を置いて、それから故宮博物院に行こうということになっていた。ところが、台北に土地勘のあるHが「あれ、このまま行くと故宮博物院からどんどん遠ざかるな」と気付いた。故宮博物院は台北市北郊にあり、このバスもまさに北側のインターチェンジから南下していた。Hの機敏な判断でバスを降り、タクシーを拾うことにした。

 初めて台北の地面を踏む。周囲の建物のつくりは日本とは微妙に異なるが、店舗の内装には違和感がない。たとえば、洋風のパン屋さんから漂ってくる芳ばしい香りやショーウィンドーの向こうにある調理パンを見ていると、まだ日本にいるんじゃないかという錯覚すらおぼえた。

 道路の流れを見てHはタクシーを拾うには反対側がいいと判断。横断歩道を渡る。スクーターがやたらとひしめいている。右折車両が平気で突っ込んでくるので危なっかしい。歩行者用の信号には秒刻みで時間が表示され、青信号の中で人物が歩いている。5秒をきると駆け足になり、「早く! 早く!」とせかされている感じで面白い。

 タクシーに乗り込み、ガイドブックを見ながら「くおりーくーこん…」と四声を一切無視した“ジャパニーズ・チャイニーズ”で行き先指示をしたら、運転手さんは???という表情をしていた。Hに促されてガイドブックの該当箇所を指差して見せると、ただちに了解。その後、Hのやり方を見ていると、タクシーに乗るたびにメモ帳に行き先を書いて見せていた。漢字を共有した文化圏であることを改めて実感する。

 途中、圓山大飯店の前を通りかかった。かつては蒋介石一族御用達の最高級ホテルだったが、ハイヤットなど外資系にその座を奪われ、今ではそれほどのステータスはないとHは言う。日本統治時代には台湾神宮がここにあり、その跡地に建てられている。

(続く)

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2007年11月 7日 (水)

台湾についていろんな本

 ここしばらく台湾関連の記事ばかりなのでいぶかしく思っている人もいることでしょう。実は明日から有休をもらって台湾に出かける予定で、付け焼刃でお勉強していた次第。

 さて、台湾について考えようというとき、肯定するにせよ否定するにせよ、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』(小学館、2000年)を避けては通れないだろう。彼一流の飛躍した極論をどう受け止めるかは別として、情報量という点で読みではある。小林に対しては好き嫌いが明確に分かれるようだが、スタンスの違う別の本を読むなどある程度のリテラシーを養った上で読む分にはそれなりに建設的なものを汲み取ることはできる。だから、毛嫌いする必要はない。鵜呑みにするのはただのバカだけどね。

 台湾について濫読しているうち、私はどうやら言語的アイデンティティーの分裂というテーマに興味がひかれているようで、小林『台湾論』を読みながら次の二つのエピソードに興味を持った。一つ目は、台湾語を文字表記する工夫について台湾人同士で語り合っているシーン。二つ目。日本語教育世代の台湾人が韓国を旅行したときのこと。道を尋ねようと同年配の人に日本語で話しかけたが無視された。「日本語が分かるだろうになんで無視するんだ!」と怒ったところ、「日本語を使うのを若い人に見られると嫌われるんだ」と答えたという。

 台湾は多数派の閩南語、少数派の客家語、先住民に至っては部族ごとに言語が異なるという多言語社会であり、たとえ支配者の言葉であっても日本語が共通語として便利であった。対して、韓国は言語的に均質な社会であり、利便性よりも民族としてのプライドが優先されるのだろう。ただし、そんな韓国でも朴正熙政権が言論弾圧をしていた頃、反体制派の人々は社会主義の文献を日本語で読んでいたというのを何かで読んだ記憶がある。そういえば、若き日の李登輝もマルクス『資本論』を岩波文庫で読んだらしい。

 台湾は1895年に日本語、1945年に北京語と二度にわたって“国語”の切り替えを経験している。土着の母語も含め重層的な言語体験が歴史に織り込まれている点でクレオール的な特徴が顕著な社会だと言えよう。

 1980年代以降の民主化、そして台湾意識の高まりに伴って、過去の台湾文学を見直すことで抗日─皇国・親日という単純な対立軸で切り捨てられてしまった側面を捉えていこうとする動きが始まっている。藤井省三『台湾文学この百年』(東方書店、1998年)、山口守・編、藤井省三・河原功・垂水千恵・山口守・著『講座 台湾文学』(国書刊行会、2003年)の二冊はそうした動向も含め、台湾文学を彩る諸相を通史的に紹介してくれる。

 たとえば、日本統治期、“皇民化運動”にそって親日的な態度を取ったとされる“皇民作家”についても、むしろ引き裂かれたアイデンティティーの苦しみを表現していたと垂水は再評価する。非日本人でありながら日本人と対等になろうという論理と情念を作品化、それが読書市場を通して流通し、台湾公衆に共有された。藤井は、出版市場の成立→“想像の共同体”というベネディクト・アンダーソンの枠組みを援用し、こうした動きに“皇民化”であると同時に台湾大のナショナリズム=台湾意識の芽生えがあることを指摘する。

 朱天文・朱天心のくだりを読んでいたら胡蘭成の名前が出てきた。数学者にして熱烈な日本主義者・岡潔と親しくしていた文学者であり、新学社近代浪漫派文庫で岡と胡は一冊にまとめられている(岡潔については以前に書いた→参照)。朱姉妹の父親も小説家で胡と家族ぐるみの付き合いがあったという。朱天文は呉念真と共同で脚本を担当した「悲情城市」をはじめ、侯孝賢映画で多くの脚本を書いている。侯の映画を見ていると日本に好意的なイメージが描かれていて時折その点が批判されるが(たとえば、田村志津枝『悲情城市の人びと』晶文社、1992年)、朱天文を通して胡蘭成の間接的な影響が出ているのだろうか。

 話題を変える。かなり前のことだが、台湾旅行から戻ってきた友人から「はい、おみやげ」と言って渡されたものを見て妙な気分になったのを覚えている。『新世紀福音戦士・綾波零』──新世紀エヴァンゲリオンのヒロイン、綾波レイの文庫サイズのフォトブックだった。それから、「藍色夏恋」(2002年)という台湾の青春映画を観たら、主人公の女子高生がノートに「木村拓哉、木村拓哉…」とびっしり書きつめるシーンも記憶に残っている。

 アニメやドラマをはじめ日本発の文化にのめり込んだ若者たちを“哈日族(ハーリーズー)”という。命名者は台湾の漫画家で大の日本びいき哈日杏子。彼女の本は日本の書店でも見かける。酒井亨『哈日族──なぜ日本が好きなのか』(光文社新書、2004年)はメディアという側面から台湾社会の現在を示してくれる。哈日族は若年層が中心で本省人・外省人の差もなく、李登輝たち日本語教育世代とは重ならない。従来の台湾ドラマは儒教的倫理観が強く、単調で冗長、それに対して日本のドラマやバラエティー番組の面白さが彼ら彼女らを引きつけた。これを文化侵略と批判する論調もあるらしいが、そもそも北京語教育自体が台湾人にとっては非母語の押し付けであるのを看過していると指摘する。

 片倉佳史『台湾 日本統治時代の歴史遺産を歩く』(戎光祥出版、2004年)と同『観光コースでない台湾──歩いて見る歴史と風土』(高文研、2005年)は日本統治時代の痕跡を写真と懇切な解説とで紹介してくれる。渡辺満里奈『満里奈の旅ぶくれ──たわわ台湾』(新潮文庫、2003年)は台湾の食文化を紹介、写真もたくさん入っていてどれもうまそう。読みながらお茶に興味を持った。亜洲奈みづほ『台湾事始め──ゆとりのくにのキーワード』(凱風社、2006年)は台湾を理解する上で必要なキーワードそれぞれについてエッセイ風につづられており、読みやすくかつ情報量も潤沢で便利だ。

 最後の締めとして、司馬遼太郎『街道をゆく40 台湾紀行』(朝日文芸文庫、1997年)を読んでいるところ。

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2007年11月 6日 (火)

台湾をめぐってノンフィクション四冊

村上政彦『「君が代」少年を探して──台湾人と日本語教育』(平凡社新書、2002年)

 昭和10(1935)年、台湾中部を襲った大地震で大怪我をした台湾人少年が「君が代」を歌いながら死んでいったという。この“美談”は当時の国定教科書に掲載され、映画化までされた。そんなことが本当にあったのか? 本書は当時を知る人を含め様々な人々から話を聞きながら日本が展開した皇民化運動を考える。屈託なく日本語を使う老人が冗談めかして「教育は怖い」という言葉が響いてくる。若い世代からも話を聞いており、北京語世代が日本語世代よりも比較的醒めた見方をしているのも興味深い。

平野久美子『トオサンの桜──散りゆく台湾の中の日本』(小学館、2007年)

 このブログでも呉念真監督「多桑」(トオサン)に触れたことがあるが、日本語教育を受けた世代を“トオサン”と呼ぶことがある。本書はそうしたトオサンたちから話を聞いてまわった記録である。前掲書にしてもそうだが、「日本精神」(リップンチェシン)という言葉をやたらに使う老人が多い。礼儀正しさ、正直、時間厳守、そういった勤勉さを意味するようだが、台湾からも日本からもこの「日本精神」が失われた、と喝を入れられると、怠惰な私など恐れ入ってしまう。ただし、「日本精神」→親日的な台湾人という枠組みで受け止めてしまうのは短絡的だろう。日本語から北京語に切り替わって取り残された疎外感、そして国民党の白色テロで理不尽にも人生を棒に振ってしまった惨めさ、そういった諸々の悲哀が込められているのを見逃してはいけない。

平野久美子『テレサ・テンの見た夢──華人歌星伝説』(晶文社、1996年)

 世代がずれるので私はテレサ・テンのことをよく知らない。本名は鄧麗君。両親は台湾の外省人、国民党の軍人の娘として生まれた。本書で、蘇軾「但願人長久」に現代風にメロディーをつけたエピソードを読み、ふと気になってフェイ・ウォンのアルバムを確認した。ウォン・カーワイ監督「恋する惑星」の主題歌「夢中人」が好きなので手もとにある。このCDでフェイ・ウォンが「但願人長久」をカバーしていた。彼女もテレサ・テンのファンだという。国民党軍の慰問にも訪れて「歌う公務員」とも言われたそうだが、数億人単位で散らばる華人社会、それを分断する国境を越えてテレサ・テンの歌声は広く愛された。とりわけ、共産党支配下の大陸には情緒に訴える歌がなかったので、人々の殺伐とした心をなごませたという。戦争の影を引きずる日中関係においても「日本で成功した歌手」として、流行歌を通して大衆文化交流に貢献してくれたことも特筆される。

柳本通彦『明治の冒険科学者たち──新天地・台湾にかけた夢』(新潮新書、2005年)

 日本の台湾併合後、鳥居龍蔵や牧野富太郎をはじめ、この未知の領域へと様々な学者・冒険者たちも入り込んでいった。その中でも無名の三人に焦点を当て、当初の動機は政治的であっても徐々に台湾の魅力にのめり込んでいった彼らの事蹟を本書は掘り起こす。伊能嘉矩はまだ首狩りの風習の残る山地に分け入って細かく彼らの生活を観察した。台湾全土の実地踏査や清朝以来の文献資料の徹底的な蒐集によって台湾研究の基礎をつくった。その遺稿『台湾文化志』は柳田国男、福田徳三の序を得て出版され、台湾史の古典として今も残る。熱帯植物研究の田代安定は不遇をかこつ中でも未開のジャングルに植物園をつくった。森丑之助は原住民社会に深く入り込んで彼らとなじんでいた。その頃、佐久間左馬太総督が原住民の討伐作戦を進める。森の研究成果が利用されるばかりか、その案内役も務めなければならなくなるので台湾を離れた。その後、台湾に戻るのだが、基隆港で失踪してしまったというミステリアスな成り行きにも興味がひかれる。

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2007年11月 5日 (月)

「グッド・シェパード」

「グッド・シェパード」

 エドワード・ウィルソン(マット・デイモン)はCIAの対敵諜報部門の責任者。第二次世界大戦中、サリヴァン将軍(ロバート・デニーロ)にスカウトされてOSS(戦略事務局)の創設に関わり、冷戦が始まってその後継たるCIAに入った。1961年、反カストロ派亡命キューバ人グループがCIAの支援の下キューバ上陸を試みたが、事前に情報が漏洩して失敗。いわゆるピッグス湾事件である。その後のキューバ危機(1962年)の前哨戦とも言える。情報を漏らしたのが一体誰なのか特定せよとせっつかれるエドワードのもとに匿名で一本のビデオテープが送りつけられた。その解析作業を進めながら、自身が情報機関に入った道のりを振り返る。

 CIAという組織内における葛藤を描いた映画としてロバート・レッドフォード、ブラッド・ピットの出演していた「スパイゲーム」(2001年)を思い出す。最後のドンデン返しにスカッとする面白さがあった記憶があるが、対して「グッド・シェパード」は直球勝負と言おうか。

 任務は極秘、誰も信用できず、完全な孤独。何のため、誰のため? あるイタリア人移民が語る。「私には故郷がある。ユダヤ人には伝統が、黒人にだって音楽がある。君たちには一体何が?」「アメリカ合衆国だ」とエドワードが答える。しかし、愛国心と言葉で言ってももろいものだ。それこそアメリカのように社会契約的に合理的に構築された抽象的な国家モデルは、多様な人々を受け入れるという長所は持ちつつも、皮膚感覚に訴える忠誠の対象となり得るのだろうか。

 佐藤優がどこかで書いていたが、イギリスの情報機関は、国王からじかに認めてもらえる、つまり国王に直結した忠誠心がこの孤独でつらい仕事の動機付けとして働いているという。しかし、エドワードは家族にすら仕事のことを話すことができず、誰からも認めてはもらえない。

 もう一つ、この映画を見ていると、秘密の共有→仲間意識を持つというシーンがよく出てくる。アイビーリーグの優等生を集めたスカル・ボーンズ・クラブもそうだが、敵であるソ連のスパイとも息子の不祥事について個人的に処理しようというやり取りがあった。「いつ味方が敵になり、敵が味方になるか分からないからな」。母国での立場がまずくなった時に亡命を受け入れてもらう保険ということなのだろう。

 忠誠心、自分の拠り所、それを求めようにも常に裏切られる可能性と紙一重。しかし、冷徹なリアリストであっても拠り所をどこかに持っている。スパイの条件は何か? 映画の中で、冷静さ、それからロマンチストであることと自嘲的に笑うセリフがあったが、それもむべなることかなと納得。

【データ】
監督:ロバート・デニーロ
出演:マット・デイモン、アンジェリーナ・ジョリー、ロバート・デニーロ、ジョン・タトゥーロ、マイケル・ガンボン、他
2006年/アメリカ/167年
(2007年11月4日、新宿プラザにて)

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2007年11月 4日 (日)

歴代の台湾総統について

 台湾は正式には中華民国となっている以上、その現代史をみるにはまず大陸の情勢から説き起こさねばならない。第二次世界大戦が終わり、間もなく国共内戦に揺れる1947年に中華民国憲法が公布、翌1948年には間接選挙によって正副総統選挙が実施される。総統には蒋介石が当選、副総統には孫文の息子の孫科を蒋はおしていたが、僅差で李宗仁が選出された。国民党内の分裂が明らかとなったばかりでなく、内戦でも敗色が濃くなって蒋介石は下野、李宗仁が代理総統となったものの中華民国政府はすでに崩壊同然。そうした状況下、蒋介石は腹心の陳誠と息子の蒋経国を台湾に派遣、ここを最後の拠点にすべく準備を進めていた。この時に故宮博物院の収蔵品も移転された。

 1949年10月1日、北京を首都として中華人民共和国が成立。李宗仁はアメリカに亡命、12月になって蒋介石は台湾へ渡り、翌1950年に総統に復職した。国民党の再編成が行われ、陳誠を行政院長(後に副総統)、蒋経国を特務組織の責任者に据えた。共産党を反乱軍と規定して反乱鎮定動員時期臨時条項によって憲法を棚上げ、総統に非常大権を集中させた臨戦態勢の中華民国政府が台湾社会の上にそのままのっかったという構図が五十年近くにわたって続いたことに留意する必要がある。アメリカは反共の砦として米華相互防衛条約によって台湾にてこ入れしつつも、蒋介石の夢見る大陸反攻という無謀な企てに同調するつもりはなく、海峡を挟んだにらみ合いが固定化された。

 その後、蒋介石を頂点とした独裁体制が続くが、1969年に交通事故に遭って以来、体力的にめっきり衰弱し、蒋経国への権力移譲が徐々に進められた。蒋経国という人物は、特務機関のトップとして恐怖政治の立役者であったと同時に、漸進的な改革への路線転換を成し遂げたという二つの相異なる顔を持っている。リアリスティックなマキャヴェリストとして、父とは異なり大陸反攻など不可能なことを熟知しており、政権維持のため台湾化路線を選択したと言える。

 彼の経歴はなかなかユニークだ。若い頃、ソ連に留学し(当時は第一次国共合作が続いていた)、ロシア人と結婚。共産主義に心酔し、父・蒋介石を批判したこともある。父・蒋介石が1927年の上海クーデターで共産党の弾圧を始めたため、経国は人質扱い、シベリアに送られた体験も持つ。1936年の西安事件によって第二次国共合作が成立した時に中国へ帰国、その後は父の腹心として活動、とりわけソ連赤軍に在籍した経験を買われて軍隊に対する政治的統制を進め、特務機関を任されて赤狩りを行なった。

 蒋経国への権力のバトンタッチが行なわれつつあった頃、1971年の国連代表権の喪失、72年のニクソン訪中、同年の日中国交正常化、79年の米中国交正常化及びこれに伴う米軍の撤退と続き、台湾は国際的に孤立感を深めていた。こうした中、十大建設(鉄道、空港、発電所など大規模インフラ整備)をはじめ経済的な巻き返しに成功。また、万年議会の部分的改選、本省人エリートの起用など台湾化政策も着々と進めていた。1987年には50年近くにわたって続いた戒厳令を解除した。

 しかしながら、蒋経国自身の健康状態が悪化して政務に眼が行き届かなくなる中、党内タカ派が暴走して美麗島事件、林義雄・台湾省議会議員の家族惨殺事件、在米作家・江南殺害事件などが相次いで起こった。病床からこの様子をじっと見ていた経国は、一時的に容態を持ち直した時に人事を一新、タカ派は失脚し、李登輝を副総統に抜擢した。李は野心のない安全パイとみられていたらしく、意中の後継者を明確にしないまま経国は1988年に死去した。

 李登輝の総統への昇格は、彼は野心のない学者と見られていたこと、外省人幹部同士のパワー・バランスを崩さないようにとの配慮があったこと、国民党内でも台湾人社会の世論に敏感になりつつあったことなどからすんなりと進んだ。彼の国民党主席への就任に対しては宋美齢から横槍が入って外省人幹部は躊躇したが、宋楚瑜のイニシアチブで空気が変わり、李登輝は名実ともに台湾のトップに立つ。

 司馬遼太郎との対談で「居候、三杯目はそっと出し、と言うでしょ」と語るように(『台湾紀行』朝日新聞社)当初は低姿勢だったが、徐々にしかし確実に李登輝は動き始めた。国民党だけでは改革が進まないことは分かりきっていたので、国是会議を開催、ここに野党・民進党も巻き込んで、事実上の無血革命を行なう。同時に、国民党内反対派への押さえとして軍の実力者である郝柏村を行政院長に任命、ただし軍籍離脱を条件とすることで彼を軍から引き離す布石にするというしたたかさを見せた。その後、総統の直接選挙を実施、2000年には民進党の陳水扁へと政権交代も実現する。

 若林正丈『現代アジアの肖像5 蒋経国と李登輝』(岩波書店、1997年)は、蒋経国と李登輝という二人の強烈な個性を軸に台湾現代史を描き出している。本田善彦『台湾総統列伝』(中公新書ラクレ、2004年)は、蒋介石・蒋経国父子の良い側面にもバランスよく筆を進めつつ、他方で李登輝・陳水扁に対しての評価は辛い。とりわけ、李登輝については不正蓄財疑惑や、台湾人としての過去の怨念にとらわれた政治手法は独断専行的かつポピュリスティックだと指摘、台湾社会内と日本とでは彼への評価に大きなズレがあるという。

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2007年11月 3日 (土)

黄昭堂『台湾総督府』

黄昭堂『台湾総督府』(教育社歴史新書、1981年)

 1895年の下関条約により台湾は日本に割譲されることになった。引渡し側の清側全権として李鴻章の息子の李経芳が派遣されたが、割譲反対派の動きに恐れをなして台湾に上陸することができず、結局、日本側の初代台湾総督樺山資紀とは洋上で会談したという。割譲反対派は台北を首都として台湾民主国の成立を宣言。ところが、日本軍が上陸して基隆が陥落し、敗走兵が台北に流れ込んで大混乱、民主国首脳は大陸に逃亡してしまった。日本軍は台北に無血入城するが、台湾全島を掌握するまでには各地で激しい抵抗を受けることになる。

 樺山の後、桂太郎、乃木希典と短命な総督が続くが、明治31(1898)年になって児玉源太郎総督・後藤新平民政長官のコンビが登場、約8年間その任にあった。この時期に、衛生政策、戸口調査、旧慣調査、交通網の整備、製糖業の振興など台湾統治の基礎が築かれ、本国からの財政独立を果たす。また、阿片中毒者の反感を考慮して阿片漸禁策がとられたが、阿片専売制は後藤の思惑とは異なり、むしろ総督府の収入源となってしまう。

 次の佐久間左馬汰総督は内政よりも抗日運動の武力制圧に力を注いだ。その後、安東貞美、明石元二郎と武官出身総督が続いたが、大正7(1918)年の原敬内閣成立によって文官の田健治郎が台湾総督に就任、文官統治期が始まる。同時に総督から軍事指揮権が分離されて新に台湾軍を創設、初代司令官には明石が横滑りした。文官総督には日本本国の政権交代に応じて政党色の強い人事が行なわれるようになる。文官期には下村宏総務長官のもとで比較的リベラルな政策が行なわれた時期もあった。

 台湾は日本本国の憲法体系の適用から除外されており、民法などを選択適用した他は、総督府令によって補われ、法体系は混乱していた。当然ながら、台湾人に参政権など認められなかった。当初の台湾統治の方針は旧来の慣習を尊重しつつ本国とは別扱いするという形を取っていたが、武官統治期に抗日運動をほぼ壊滅させたのを受けて、文官統治期には同化政策が進められる。しかしながら、「一視同仁」といいながらも参政権が許されないのはおかしな話である。そこで、林献堂を中心に台湾議会設置運動が進められたが、妥協として官選の評議会に9名の台湾人が任命されるにとどまった。昭和10(1935)年の地方制度改正により、市会議員等の半数を制限選挙によって選出することになったが、日本人と台湾人が半々、台湾における日本人は8%に過ぎないことを考えると著しくバランスを失していた。また、大正12(1923)年に総督府に採用された劉明朝(東京帝国大学政治科卒)を皮切りに高等文官試験合格者の官吏への登用も始まったが、台湾出身者の昇進には限度があった。

 文官統治期には小学校(日本語使用者向け)・公学校(非日本語使用者向け)から台北帝国大学に至る教育システムが拡充された。しかし、小学校と公学校との区別からもうかがわれるように日本語というハードルが高いため台湾人の高等教育機関への進学は高くはならず、むしろ日本内地留学を目指す人々が多かったらしい。

 日本本国で政党政治が終焉を迎えるのに軌を一にして、昭和11(1936)年に海軍出身の小林躋造が台湾総督に就任、以降、再び武官統治期が始まる。日中戦争が始まったのに合わせて皇民化運動が展開され、新聞の漢文欄廃止、日本語の常用運動、神社参拝の強制、改姓名、志願兵制度などが実施された。また、経済的には軍需用に重工業施設が急増し、台湾の工業化が進んだ。この頃、中国大陸では日本軍の工作によりいくつかの傀儡政権が作られたが、満州国外交部大臣となった謝介石をはじめ台湾人が「日中の架け橋」として登用されることも多かったという。

 昭和20(1945)年には徴兵制度を施行、一方で植民地人の協力を促すため衆議院議員選挙法が改正され、朝鮮半島23人、台湾5人を制限選挙で選出することになった。ただし、日本の敗戦により実現はしない。同時に林献堂、簡朗山、許丙の3名が台湾人として貴族院議員に勅撰されたが、すでに敗色濃く、日本に渡航すること自体が不可能であった。

 著者は、日本の支配と国民党の支配とでは似ている側面があると指摘する。第一に、統治の初期に抵抗運動を武力で制圧して多数を虐殺したこと。第二に、一視同仁を標榜しながらも参政権は事実上与えなかったこと。第三に、台湾語の使用を認めなかったこと。

 こうした指摘を行なうあたりからも分かるように、著者は大陸とは異なった台湾人意識を強調する。理由は五つ。第一に、日本は台湾統治を始めるにあたり国籍選択の機会を与えたため、日本支配下に入ってまで台湾で暮らそうとは思わない者はすでに去っていた。第二に、大陸で「中国人意識」が形成されたのは1912年成立の中華民国以降のことで、その時点ではすでに台湾は日本統治下にあった。第三に、台湾は戦争中に工業化していたが、対して中国の大半は農業社会のままで、生活様式が異なった。第四に、植民地下とはいえ少なくとも「法と秩序」が台湾には備わっていたが、対して中国は軍閥割拠、国共内戦と混乱が続いており、統一国家となったのはようやく1950年代になってからである。第五に、清朝にせよ中華民国にせよ、日本との妥協を繰り返しており、その中で台湾は捨てられたという気持ちがある。とは言え、中華民国は台湾に対して積極的に悪いことをしたわけでもなかったので、日本の敗戦直後はむしろ期待をかけていた。しかし、国民党の腐敗と弾圧を目の当たりにして台湾民族意識が高まったという。

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2007年11月 2日 (金)

台湾先住民をめぐって四冊

 日本はアメとムチとを使い分けて台湾統治を進めたが、そのムチの最たるものとして山地に住む先住民への苛烈な鎮圧作戦が挙げられる。山地先住民はかつてオランダ人にも漢人にも服さず、首狩りや入墨をはじめ独自の習慣を維持していた狩猟採集民であり、台湾全島の支配を目指す日本は激しい抵抗に遭った。ようやく帰順させたものの、文明化という方針の下、彼らの生活習慣に手をつけた上に強制労働に駆り出したこともあって不満がくすぶっていた。

 そうした中、1930年、タイヤル系部族セイダッカが台湾中部の霧社公学校で行なわれていた運動会を急襲し、子供を含め130人余りの日本人が皆殺しにされるという事件が起こった。セイダッカの頭領モーナルダオが日本人警官に侮辱されたことで鬱積していた不満に火がついたことがきっかけらしい。日本側はただちに爆撃や毒ガスも用いた大掛かりな反撃を開始、もともとセイダッカと反目していた他部族も動員された。セイダッカの男たちはほとんど討ち死にし、女性や子供たちは首をつって自殺したという。文字通り滅亡覚悟の反乱であった。これを霧社事件という。セイダッカの生き残り500人は収容所に入れられたが、翌年、セイダッカと仲の悪かった他部族が日本の警察の黙認の下ここを襲撃し、さらに200人余りが殺された(第二次霧社事件)。洋の東西を問わず植民地支配において活用される分割統治の手法が見て取れる。

 その後、日本の軍部はこの事件を通して山地先住民の戦闘能力の高さに目をつけ、太平洋戦争において“高砂義勇隊”を結成させる。植民地時代に生まれ育った世代には“帝国臣民”としての意識が植え付けられていくが、彼らの伝統的な尚武の気風は日本の軍部が鼓吹する“日本精神”と親和的であったともいう。

 柳本通彦『台湾・霧社に生きる』(現代書館、1996年)はこの惨劇の舞台となった霧社を訪ね、事件の記憶を掘り起こすべく人々から話を聞き取ったルポルタージュである。霧社事件に遭遇し、その時の凄惨な有り様を語る先住民女性。彼女の夫は日本人化教育を受けて警察官に採用されていたが、セイダッカの仲間と日本との板挟みになって自殺した。高砂義勇隊に志願したという老人が嬉々として日本語を使い、NHKの衛星放送を楽しみにしているというのも複雑な感じがする。彼は台湾語も北京語もできず、部族の言葉を使う者も少なくなったため戦後の半世紀を孤独のうちに生きてきたのだ。

 日本統治時代の傷跡を戦後もずっと引きずりながら声に出せない人が少なくないが、台湾社会内のマイノリティーたる先住民はなおさらのことである。台湾出身者で日本軍として戦いながらその補償も受けられなかった人もそうだが、柳本通彦『台湾先住民、山の女たちの「聖戦」』(現代書館、2000年)、同『台湾・タロコ峡谷の閃光──とある先住民夫婦の太平洋戦争』(現代書館、2001年)ではとりわけ過酷な運命を強いられた女性に焦点が当てられる。夫や婚約者は高砂義勇隊として南方戦線に送られ、残された彼女たちに「生活が大変だろう」と仕事の口が紹介された。当時、連合軍は沖縄ではなくまず台湾に上陸するだろうと大本営は予想しており、台湾で持久戦の準備が進められていた。彼女たちは軍の関係施設に雑役に雇われたが、だまされて日本兵の夜の相手をするよう強要された。「お国のためだ」と恫喝され、逃げることもできず、つらい思いを戦後も抱え込まねばならなかった。

 台湾総督府は激しい抵抗を示した先住民を警戒し、その管理に意を注いでいた。派遣された警官は教育や農業指導などあらゆる任務を与えられた。生活習慣に手をつけた上、中には横柄な人物もいたため摩擦が生じ、駐在所の焼き討ちも頻発。そこで、日本人警官を部族の頭領の娘と政略結婚させ、その権威を借りて統治を進めるという奇策も実際に行なわれた。下山操子著、柳本通彦編訳『故国はるか 台湾霧社に残された日本人』(草風館、1999年)は、そうした事情の中で生まれた一家が戦後も台湾に残って体験した苦難をつづった半生記である。最初は史料調べのような考えで手に取ったのだが、戦後台湾社会の世相の移り変わりがうかがえるばかりでなく、彼女自身の波乱に満ちた人生に深く感じ入り、いつしか身をのり入れて読み込んでいた。

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2007年11月 1日 (木)

酒井亨『台湾 したたかな隣人』

酒井亨『台湾 したたかな隣人』(集英社新書、2006年)

 台湾の民主化改革において李登輝の果した役割は大きい。だが、恩恵的な“上からの改革”だけでそう簡単に社会が変わるわけではない。台湾政治をウォッチする際、独立か否かという争点に注目が集まり、この軸にそって国民党と民進党との対立関係をまとめるのが日本での一般的な理解だろう。しかしながら、民進党は独立志向というばかりでなく、環境・福祉・人権といったテーマを掲げる中道左派政党としての性格も持っている。こうした主張をもとに“下から異議申し立て”を行う社会運動が台湾社会に根強くあったからこそ民主化の流れが支えられたと本書は指摘する。著者は民進党シンパのジャーナリストである。

 国民党は地方レベルでは利益誘導型の政治を行っていたので、台湾独立志向の人々でも、地域の人間関係の中で国民党支持というケースは多いらしい。総統選挙では独立問題への関心から民進党に投票しても、立法院(議会)や首長など地方レベルの選挙では馴染みのある国民党候補に入れるというねじれも珍しくない。いずれにせよ、国民党と民進党との対立関係=独立問題の是非とは必ずしも言えず、むしろそれ以外の要因で投票結果は左右されることがしばしばある。

 2000年の総統選挙で民進党の陳水扁が当選したが、立法院での民進党の基盤はもろい。そこで、陳は“全民政府”というスローガンを掲げて国民党も政権に巻き込むべく、唐飛・前国防部長(大臣)を行政院長(首相)に任命した。唐は外省人だが性格円満、柔軟なものの考え方ができる人物だという。ところが、閣内不一致で間もなく辞任。ネックとなったのは独立問題ではない。民進党は環境政策を掲げており、国民党政権時代に進められた原発の建設中止を強行したからである。

 少数与党に転落してしまった陳水扁に救いの手を差し伸べたのが李登輝である。国民党は連戦を候補に立てて総統選挙に臨んだものの三位に終わるという惨敗を喫したため(二位は李登輝を批判して国民党を離れ、無所属で立候補した宋楚瑜。彼は後に第二野党・親民党を結成)、責任を取って李登輝は国民党主席を辞任していた。李を支持するグループが国民党を離れて台湾団結連盟(台連)を結成、民進党よりも急進的な独立論を主張する。李登輝は国民党の党籍抹消の処分を受けた。しかし、台連は独立論では民進党と歩調を合わせるものの、内政面では保守的で、民進党内の進歩派とウマが合うわけでもない。また、国民党とて離党者が相次いだことからも分かるように一枚岩ではなく、多元的な政治勢力が台湾政界を彩っている様子がうかがえる。

 そうした中でも、台湾独立志向のトーンは、現状維持か新憲法を制定した上での完全独立かという濃淡の差こそあれ、大方の人々に共有されているようだ。とりわけ、2003年のSARS騒動のとき、台湾は中国の妨害でWHOのオブザーバー資格すら与えられなかったので情報提供を受けられず、被害が拡大した。そのため、親中国派でも台湾意識を強めることになったというのが興味深い。

 民進党も政権をとってから汚職等の問題が起きており、以前のようにクリーンなイメージは薄れている。国民党という巨象に対抗するため、民進党が独立反対派の親民党と手を組む可能性すらあり、独立という原理原則論とは違った局面で数合わせの権謀術数が働く余地もある。しかし見方を変えれば、民進党はそれだけ安定した政治勢力として確立したということだ。政権交代可能な政治勢力が複数あって、はじめて議会制民主政治のダイナミズムは効果的に働く。中道左派の民進党に対して、次は国民党が中道右派政党として生まれ変わることができるかどうか、そこに著者はカギの一つを見ている。

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