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2007年10月 7日 (日)

藤原保信『自由主義の再検討』

藤原保信『自由主義の再検討』(岩波新書、1993年)

 現代社会は資本主義と議会制民主主義とを二つの柱として成り立っており、いずれも個人の自由を保障することを基本原則としている点で自由主義と呼び得る。本書はそうした自由主義の背景に功利主義を見出し、古代ギリシアのプラトン・アリストテレスから現代のリバタリアン・コミュニタリアン論争まで西欧政治思想史の流れを踏まえながら、功利計算に基づく自由主義の限界を検討しようと試みる。個人化の進展による人間疎外という状況に直面し、人間本来のあり方としての類的紐帯の回復を目指したマルクスに共感しつつ、社会主義の欠陥に触れた上で、結論としてコミュニタリアニズムの立場を打ち出している。

 マキャベリ・ホッブズ以後の近代思想の特徴を端的にまとめるなら、個人を単位とした機械論的な社会モデルと言えるだろう。つまり、人間は快楽を追求し、苦痛を回避しつつ自己保存を図る存在として把握され、こうした人間観を出発点として社会契約説も市場社会の論理も導き出された。

 社会をアトム的個人に細分化する趨勢は封建社会の桎梏から人間を解き放ち、その権利を保障する上で大きな役割を果たした。ところで、プラトンは『国家』において、人間の魂を理性的部分、気概的部分、欲求的部分の三つに分けたことはよく知られている。個人中心の社会モデルにおいては、プラトンが最下層に位置づけていた欲求的部分に他の二つの部分は従属することになった。つまり、享楽的な世俗性を全面的に肯定する形で価値のヒエラルヒーが転倒したと言える。

 世界は大きなコスモスであり、人間はその中に包摂されている、それがプラトン的な世界観であった。ところが、人間をアトム的に細分化してその寄せ集めとして社会を構想するようになったとき、善悪の判断は個々人の行為の比較考量の問題と単純化され、その意味で社会の問題ではなく、あくまでも各自の主観の問題に過ぎないとみなされた。各自の自然的な欲求、より洗練された表現で言うと“選好”がまず前提とされ、その総和イコール社会善と考えるようになった。その仕組みを法則的に解明するのが社会科学であり、個別の矛盾点を調整するのが政治の役割となった。

 しかしながら、以上で想定されている自己充足的な“自我”モデルが果たして実際にあり得るのか。自由主義の前提となっている人間観に対し「負荷なき自我」、社会関係から「遊離した自我」として疑問を呈したのがコミュニタリアニズムである。コミュニタリアニズムは人間をナラティヴ(物語的)な存在として捉える。つまり、ある言語共同体に帰属し、過去・現在・未来をつなぐ中に自らを位置づけ、共同体内の他者との対話を通じて不断に自己解釈を繰り返していく。そこから“共通善”としての規範意識が一定の客観性を帯びることになるという。

 以下は私見。個人主義と“自律”の感覚は不可分なものだが、“何か”との結びつきを自覚できない人間にとって“自律”は極めて困難である。自分が踏みしめている立脚点が分からないとき、そもそも何のために生きるのか、目標を立てようがない。そうした者は自らの存在意義を無理やりにでも作り上げようとして、過激政治運動や新興宗教など、アイデンティティ・ポリティックスの罠にはまりやすくなるように思われる。そうしたことを考えたとき、人間をナラティヴ=自己解釈的な存在と捉える本書の視点に私は共感する。つまり、時間軸として過去・現在・未来という流れの中に、空間軸として一定の社会関係の中に自らの立ち位置を見出すことは、それを一種のものさしとして、常に自己を客観化する、すくなくとも一つの契機となる。その点で、藤原の意図にはそぐわないかもしれないが、私自身としては歴史感覚としての“伝統意識”や共同体としての“ナショナリズム”に肯定的である。もちろん敢えて“”をつけたことから分かるように様々な留保をつけた上でのことだが。

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