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2007年10月 9日 (火)

東海道品川宿から京浜工業地帯へ

 10月6日、土曜日。思い立って町歩き。今日は旧東海道、品川宿へ。

 午前10時半頃、JR品川駅下車。新幹線停車に合わせて駅構内も周辺もだいぶ変わった。第一京浜(国道15号)沿いに南下。途中、工事で道が分かりづらかったが、無事、北品川商店街の入口にたどり着いた。

 入っていくとすぐにお休み処という看板のかかった店がある。店先から顔を出していたおばさんから「町歩きの方ですか」と声をかけられた。小物入れポケットのたくさんついたベストを着てリュックサックを背負い、いかにも町歩きといういでたちだったので正体を隠すのは難しい。別に隠密行動を取る必要もないのだが。

 おばさんはボランティアでガイドをしているとのことで、品川宿の見所を色々と教えてくれた。このお休み処も本来は居酒屋で、日中だけ借りているという。「東海道品川宿まち歩きマップ」を10円で購入。説明入りの詳細な地図でなかなか役に立った。旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会の発行。京浜急行電鉄、北品川駅から新馬場駅、青物横丁駅あたりの商店街が加盟している。なお、品川駅の南に京急北品川駅がある。昔の品川宿は目黒川で南北に分かれており、その北側という意味である。

 ボランティアのおばさんに教わった通り、利田(かがた)神社の鯨塚なるものを見に行くことにした。旧東海道から脇にはずれて海方向に坂道を下り、運河にかかった北品川橋を渡る。なにやら行進曲と歓声が聞こえると思ったら、台場小学校の前に出た。運動会の季節である。幕末、江川太郎左衛門の命令で作られた砲台跡がそのまま現在は小学校の敷地となっているらしく、それが校名の由来。鯨塚というのは11代将軍徳川家斉の時代に品川沖に迷い込んだ鯨の骨を葬ったところだそうな。このあたりは利田新地という。もともと海だったが、江戸時代に埋め立てられたので新地と呼ばれている。

 北品川橋に戻った。屋形船の繋留所となっており、7、8メートルほどの幅の運河に船がごった返していた。L字型に曲がったその向こう岸には古い木造民家が密集している。さらに向こうを見はるかすと、二つのタイプの建物が目に入る(写真1写真2)。手前に古びた都営住宅。その向こう、再開発された品川駅前、左側の品川グランドコモンズ及び右側の品川インターシティ。三世代の建物が一つの構図に収まるのが面白い。そういえば、先日観た「恋するマドリ」でこのあたりが映っていたように思う。新垣結衣のかわいらしさ以外には見所のない映画だが、街並みの風景をきちんと収めていたので私としてはそんなに不満はなかった。

 旧東海道に戻る。ぼんやりと歩いている分には普通の下町の商店街だが、品川宿を意識した町づくりがされているので、私のような町歩き人と結構すれ違う。いかにも古そうな商家を見かけるたびに町としての古さを実感する。たとえば、写真3写真4。藤森照信言うところの看板建築である。関東大震災後の復興過程で広まった建築様式だという。写真5は空地の奥にレンガ壁が見えたのが気になった。写真6はあまりのぼろさに感動して思わず撮影してしまった。写真7は街角の廃屋。表通りばかり歩いていてもつまらないので路地裏に入ったら手押しポンプがさり気なく残っていた(写真8)。

 宿場町だったのだからお寺や神社が多いのは別に不思議なことではない。ただ、ちょっと面白いと思ったのは、それが街道筋から内陸方向に一定の距離をおいて並んでいること。たとえば、写真9の奥に諏訪神社が見えるが、これくらいの距離。中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005年)は、縄文海進時の東京近辺の遺跡や貝塚をマッピングし、それが当時の海岸線と重なっていたことを示し、その上に現在の神社仏閣といった“聖地”があるのを指摘していた。品川宿近辺の昔の海岸線を考えると、こうしたお寺や神社の配置とほぼ重なるように思う。それだけの歴史的堆積の上に現在の街並みがあるのだ。

 南下するにつれて、商店よりもマンションが増えてくる。中には、マンションに“身売り”したこんな神社もあった(写真10)。鮫洲を過ぎるともう街並みに面白さはない。やがて旧東海道は第一京浜と合流するのだが、そのV字型となった地点に、江戸の最果てに来たことを示す遺跡があった。鈴ヶ森刑場跡である(写真11写真14)。現在は大経寺というお寺の境内になっている。磔刑台(写真12)、火炙台(写真13)の礎石が残っているのには少々驚いた。なお、江戸の北の最果て、小塚原の刑場跡も訪れたことがある。現在は南千住駅の近く、高架となった常磐線と東武伊勢崎線とが並行するすき間に位置するのだが、殺風景な線路に挟まれて草がぼうぼうに生い茂った様子はいかにも荒涼とした雰囲気を漂わせていた。

 大森海岸駅で京浜急行に乗車。子供の頃から時刻表の地図を見るたびに、京浜工業地帯に枝葉のようにのびる路線が気になっていた。そこで、京急川崎駅で大師線に乗り換え、終点の小島新田で降りた。工場地帯のど真ん中のはずだが、意外と住宅街がある。多摩川岸に出ると、河口近くだけあってさすがに川幅は広い。サイクリングロードとなっており、結構人が行きかっている。対岸には羽田空港があり、時折、飛行機の爆音が響く。小関智弘『大森界隈職人往来』(岩波現代文庫、2002年)の冒頭、空港用地としてアメリカ軍に接収され、追いたてられた羽田の住民たちの悲運から書き起こしていたのを思い出した。

 川岸は電線も何もない。広々と感じられて気持ちよい。空の写真を適当に撮影(写真15写真16写真17写真18写真19)。

 川崎に戻って今度はJRに乗り、鶴見駅で鶴見線に乗り換えた。ここも京急大師線と同様、工場地帯にめぐらされた路線である。企業にちなんだ駅名が多く、たとえば浅野駅は浅野セメント、昭和駅は昭和電工、安善駅は戦前の安田財閥(現在は芙蓉グループ)の創立者・安田善次郎に由来する。なお、大師線の鈴木町駅には味の素の工場があり、戦前は鈴木商店という名前だったことにちなむ。財閥の鈴木商店とは違うらしいが、詳しいことは知らない。

 目指す海芝浦駅は東芝の敷地内にあり、私有地とのことで一般客は下車できない。ホームが海上にせり出していることで知られ、私の他にも結構な人数が見に来ていた。黄昏色になずむ海芝浦駅(写真20写真21)。運河の対岸は昭和シェルの石油基地である(写真24)。写真22写真23は高速湾岸線の鶴見つばさ橋で、さらに進むと横浜ベイブリッジにつながっている。

 折り返し電車に乗り、鶴見の一つ手前、国道駅で降りた。ホームが半分くらい国道15号(第一京浜)の上にかかっているのでこんな妙な名前がついている。それにしても、実に面白い構造をした駅だ。ホームの下に広い空間が設定され、そこに商店街がある。ホームから階段を降りる途中、この空洞にかけられた橋を渡り、商店街を見下ろす形となる。ただし、現在開店しているのは焼鳥屋一軒のみ(写真25)。この店だけは大繁盛だが、他の店舗はすべて閉鎖されていた(写真26)。近いうちに取り壊されるのだろう。川本三郎『我も渚を枕に』(晶文社、2004年)では川本がここで酒盛りをしているのだが、こうやって街並みも変わっていく。

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