「悲情城市」
「悲情城市」
タイトルを直訳すると、“悲しみの街”。台北の北郊、九份という街に暮らすある四兄弟を軸に、日本の敗戦から中国国民党の台湾移転に至るまでの激動期、とりわけ二・二八事件に翻弄される台湾の姿を描き出した映画である。台湾現代史を考える上で逸することのできない記念碑的作品であろう。
“玉音放送”が流れる中、長兄の文雄の家は出産騒ぎでてんてこまい。生まれた子には“光明”と名づけられるが、この一家に降りかかる運命は実に過酷である。文雄の末弟、文清は子供の頃の病気で耳が聴こえなくなっていた。三男の文良は日本軍に協力した容疑で逮捕、拷問を受けて気がふれてしまう。次男は南方に出征したまま帰ってこない。そして文雄もヤクザの抗争で殺されてしまう。
日本の敗戦後、カイロ宣言に基づいて台湾は中国に返還されることになっていた。蒋介石は日本留学経験のある陸軍大将・陳儀を台湾省接収のために派遣。ただし、共産党に備えるため精鋭は大陸に残さねばならず、台湾に送り込まれた部隊はかなり質が低かったらしい。国民党には「台湾人は日本によって奴隷化教育を受けている」という侮蔑意識があり、何よりも腐敗体質が根深く、当初は歓迎ムードだった台湾の人々の間には失望感が大きいだけに不満が高まっていた。そうした事情はこの映画の中でかわされる会話のはしばしから窺われる。
1947年2月27日、台北の街角で密輸タバコを売っていた女性が警官に殴られるという事件がおこった。国民党政権の収奪的政策によって生じた物資不足、何よりも党幹部の腐敗はそのままにして、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか。目撃した人々が憤激して騒ぎ始め、怯えた警官は発砲、一人が即死してしまう。翌28日、専売局が焼き討ちされたのをきっかけに政治的な抗議デモに急展開する。憲兵隊が機関銃掃射して多数の死傷者を出したため、抗議行動は台湾全土に波及した。三月に入って中国本土から完全武装した増援部隊が上陸し、実力行使で鎮圧されることになる。この一ヶ月間でおよそ2万8千人が命を落としたとされ、とりわけ国民党に批判的な台湾土着の知識層(その多くは日本統治時代に教育を受けていた)が多数処刑され、もしくは行方不明になったという。この二・二八事件により、本省人と外省人の対立、いわゆる“省籍矛盾”は決定的となってしまった。
本省人だけが殺されたわけではない。一家の四男・文清(トニー・レオン)が友人の安否を確かめに台北に行くシーンがある。棍棒を手にした本省人グループから「あなたはどこから来ましたか」と日本語で尋ねられた。本省人なら日本語ができる。できなければ外省人だ、というわけだ。文清は口がきけない。辛うじて「僕は台湾人だ」と声を絞り出すが、イントネーションがおかしい。外省人だぞ、やっちまえ!とばかりにリンチにかけられそうになったまさにその時、友人が通りかかって難を逃れる。日本の植民地統治、台湾人、中国人のデリケートな関係が凝縮されたエピソードである。
こうした台湾の言語的分裂を示すシーンは他にもある。対日協力容疑で国民党に逮捕された文良を釈放してもらうため、文雄は上海から来たマフィアに仲介を依頼しようとした。その際、文雄は閩南語を使うが、これをいったん広東語に訳し、さらに上海語に訳し直さねばならない。これもまた、台湾の一般民衆が中国本土と一体感を持ちづらいところが端的に表わされている。
激動の時代を舞台としてはいるが、暴力性を露わにしたシーンは少ない。侯孝賢の叙情性すら感じさせる静けさを湛えた映像構成は、それがかえって物語の背景をなす緊迫感を浮き彫りにしている。
「悲情城市」が製作されたのは1989年。蒋介石が台湾に上陸して以来四十年にもわたって続いた戒厳令は1987年に解除されている。その翌年、1988年には蒋経国が死去、李登輝が総統に就任して民主化政策が徐々に軌道に乗りつつあった。二・二八事件の犠牲者に対して李登輝が国家元首として公式に謝罪したのは1995年のことである。
【データ】
監督:侯孝賢
脚本:呉念真、侯孝賢
1989年/台湾/159分
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