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2007年10月 2日 (火)

岡本太郎『美の呪力』

 私は岡本太郎の芸術作品については正直なところ、よく分からない。だが、彼の文章は好きだ。読み手の気持ちを鼓舞してくれる明確な強さがある。

 分からない、と言いつつも、好きな絵はある。川崎市の生田にある岡本太郎美術館で見かけた作品で、タイトルは「夜」。魑魅魍魎が蠢くような暗闇を前にして、反り返るように胸を張った少女の後姿。背後に回した手にはナイフが握られている。か弱き存在、しかし圧倒されまいと決然とした横顔の凛々しさ。横尾忠則もこの絵が好きらしく、隣には太郎へのオマージュとして「夜」を横尾なりにアレンジした作品が並べられていた。

 私がまだ小さい頃、太郎がピアノの前で「芸術は爆発だ!」と叫ぶテレビCMの印象が非常に強烈だった。ある意味、太郎の芸術観が端的に表われてはいる。しかしながら、良くも悪くも、“すごい芸術家なんだろうけど変な人”というイメージが世間的に定着してしまったように思われる。

 私が岡本太郎に対して抱いているイメージはちょっと違う。あのまっすぐに突き進む純粋なエネルギーは他の誰よりも凛々しい。

 岡本太郎『美の呪力』(新潮文庫、2004年)にある次の一節が私は大好きで、気持ちが落ち込んだとき、壁にぶつかってめげそうなとき、そのたびに読み上げる。時には涙すら目ににじむ。

…私が実感としていつも感じるのは、人間生命の根源に、何かが燃えつづけている。誰でもが、いのちの暗闇に火を抱えているということだ。そのような運命の火自体が暗いものである。

私は先ほどから、燃えあがる外側の「火」について話してきた。だがどうしてもここで、内的な火、その異様な生命的センセーションについて言わなければならない。それは生きるもの、誰でもが感じている神秘感だと思う。その火がゆらぎ、危機にさらされるとき、人は、“いのち”を実感する。
 しかし、聖火を抱く者は少ない。不断にそれを身の内に強烈につかんでいる者。そうでない者。それを運命として、「神聖なる火」として、抱いている人、そうでない人間がいるのだ。
 純粋な人間は子供ときから身の内側に燃えつづける火の辛さに耐えなければならない。その火の故に孤独である。暗い。それが聖だからこそ、冒される予感におびえる。純粋に燃えているにかかわらず、火を抱いているということは不安であり、一種の無力感なのだ。
 青春期、はじめて人生に踏み込んで、ひたすら運命に身をぶつけようとする。だが、その情熱に対して、社会は必ず拒絶的なのだ。
 「お前なんか駄目だ」……「ああ、その通りです」と頭を下げてしまえば、それで済んでしまう。だが、「違う!」。叫ぶ。炎は一段と燃えさかる。
 燃えあがるのは辛い。絶望的なのだ。
 暗い炎。この世に生れるとき、あるいはもっと遠い過去の暗闇のなかで、それに誓いをたてたのだ。──いつ、──何を、誓ったのか、知らない。ただその誓いによってこそ炎が燃えあがるということしか知らないのだ。
 だが、この聖なる火。もてあましながら、しかし守りつづけ、抱えて行かなければならない。
 だからこそ人間の運命、その火なのだ。もしそれが、間違いなく燃えさかる権威的な「聖なる天上の火」であるのなら、逆にあの暗く言いようのない神聖感はあり得ないはずである。
 しかし、ある日、炎の意味を悟る。この社会の惰性、卑しさに対して、「否(いな)」というべきなのだと。絶望的に模索していた生身のまわり、偽りの皮がメリメリとはがれはじめるのだ。心の内なる炎が突然、殻を突き破り、総身にメタモルフォーゼし、世界に躍り出る。そして否を叫び続ける。世界・宇宙全体が炎に還元する。その激しい姿は当然、他からは「犯す者」として映るだろう。
(本書、185~188ページ)

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