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2007年10月15日 (月)

台湾映画の背景を簡単に

 戸張東夫・寥金鳳・陳儒修『台湾映画のすべて』(丸善ブックス、2006年)を参考にしながら、台湾映画の歴史的な背景を大雑把にまとめてみる。

 台湾での映画製作の中心を担ったのは中央電影事業公司(略称、中影)で、国民党が経営してきた。成立当初は反共イデオロギーが濃厚で、娯楽性に乏しかった。また、中華民国としての正統性を主張しなければならないため標準中国語が使用された。当然ながら、台湾語しか分からない大半の本省人からは不評で、民間会社の作る台湾語映画が人気を集めたという。

 1960年代に入ると台湾も高度経済成長の軌道に乗り、他方、中国本土は文化大革命の混乱にあったため、反共宣伝映画は時代の雰囲気にそぐわなくなった。そこで中影はイデオロギー色の薄められた“健康写実映画”を作り始め、好評を博する。同時に、民間映画会社の製作本数もこの頃から急激に増加した。

 1970年代は台湾の国際環境が厳しくなった時期であり、それは映画製作にも微妙な影響を及ぼした。1971年に国連代表権が国民政府から中華人民共和国に移り、72年にニクソン訪中、同年、日中国交樹立により国府は日本と断行、さらに79年には米中国交樹立といった事態が続き、台湾は国際的な孤立感を深めていた。こうした中、中影は抗日愛国映画を積極的に作り始める。台湾を孤立化に追い込んだきっかけを生み出したのはニクソンとキッシンジャーであるにも拘わらず、なぜ抗日なのか? アメリカは中共に接近しつつも、依然として台湾にとっては最大の庇護者である事実にかわりはない。従って、反米は御法度である。そこで、この怒りの矛先を身代わりに日本へぶつけたのだという。また、国民党は日本と戦わなかったと中共が宣伝していたため、それへの反駁という意味合いもあった。

 ニクソン訪中後の動揺のさなか、父から権力をバトンタッチされた蒋経国は、政情安定化のため台湾化・漸進的自由化政策へと舵を切った。一方、路線転換には保守派の反発も強く、国民党に批判的な人々に対する白色テロ事件が続発するなど不穏な空気も出てきた。こうした中、中影は改革路線に合わせて新たな映画作りに意欲を示し、1980年代になって侯孝賢や楊徳昌(エドワード・ヤン)をはじめ新人が思い切って起用された。彼らはありふれた生活光景や少年の日の思い出など人生の機微を描き出す文芸的な作風が特徴的で、国際的にも高い評価を得た。こうした一連の作品群は台湾ニューシネマと呼ばれた。

 1987年、ようやく戒厳令が解除され、翌88年には蒋経国総統が死去。副総統から昇格した李登輝の下、民主化改革はより一層の進展をみせた。こうした中で、侯孝賢「悲情城市」(1989年)、楊徳昌「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)など、政治的・社会的問題を正面から取り上げた作品も登場するようになった。

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