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2007年10月

2007年10月30日 (火)

「戯夢人生」

「戯夢人生」

 侯孝賢の映画を観ていると、どこか飄々とした味わいのあるおじいさんがよく出演している。李天禄という人だ。台湾の民俗芸能に布袋戯(ポテヒ)という人形劇があるのだが、その国宝級の演じ手として有名な人らしい。彼が自らの生い立ちを語るのに合わせ、台湾の現代史を描き出した映画である。

 彼が生まれたばかりの頃、台湾の習俗はまだ清朝風である。警察官がやって来て、辮髪を切れと命令を受けるシーンから始まる。髪形を変えるということは、身体的な風習として直接的なだけに時代の断絶を意識の中に深く刻み付ける。それは近代化の象徴であったが、誰の指示によるかに応じて受け止め方も異なる。日本でちょんまげを切ることは文明開化を意味したが、台湾では植民地になったことを周知させる役割を果たした。劉香織『断髪―─近代東アジアの文化衝突』(朝日新聞社、1990年)という本を以前に読んだことがあるが、日本・中国・朝鮮半島それぞれでの断髪の受け止め方を比較文化史的に考察されていて興味深い。話が脱線するが、イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行─―英国婦人の見た李朝末期』(講談社学術文庫、1998年)にこんなエピソードがあったのも思い出した。日本の命令で断髪令が出され、ソウルから順次実施された。すると地方在住者の間に「ソウルへ行くと髪を切られる、人前に出られない姿になってしまう!」と動揺が広がって流通の動きがストップ、ソウルに食糧が入ってこないなどパニックに陥ったという。

 それはさておき。

 李天禄は小さい頃から才能を見込まれ、布袋戯の劇団に入った。一介の芸人に過ぎない彼もまた時代の動きに翻弄されてしまう。天長節のお祝いに布袋戯をやるよう命じられたが、その日、祖母が亡くなった。帰らせてくれと言っても、「お前の他に誰がやるんだ」と許されなかった。

 日中戦争の泥沼化、対英米戦の兆しが見え始め、長谷川清総督のもと皇民化運動が進められる。布袋戯の野外での上演が禁じられた。台湾語を用いる布袋戯は日本語化の障碍とみなされたからだ。やがて戦意高揚のため布袋戯を利用しようと方針転換され、李天禄もまた皇民化運動に組み込まれる。粗暴な日本人から嫌がらせを受ける。一方で、李に目をかけて、そうした日本人を叱りとばす穏やかな警察の担当課長もいる。

 台湾も空襲を受けるようになり、李の一家も疎開した。ところが、疎開先で「何しに来たんだ」と言われてしまう。「日本は負けたぞ」。日本軍の残した飛行機の解体作業のシーンで映画は終わる。使える部品を売って、芝居を続けるための資金をつくるのだ。日本敗戦後の混乱のなか、病気で息子を亡くした李は「これも運命だ」と言う。翻弄されるような運命を受け入れながら、それを足場に次へと進む、そうした淡々と落ち着きのあるたくましさが印象深い。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:呉念真・朱天文
1993年/台湾/143分

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2007年10月29日 (月)

「恋恋風塵」

「恋恋風塵」

 ワンとホンは幼なじみ。ワンは成績優秀だが家が貧しいので進学できない。台北に働きに出て夜学に通い、後からホンも出て来て仕立屋に勤め始めた。仕事がうまくいかずに苛立ち、職を変えるワン。そんな彼をホンは見守る。二人が連れ立って歩く初々しい姿がほほえましい。しかし、ワンは兵役に取られ、二人の仲は離れ離れになってしまう。やがてホンが別の男と結婚したという知らせが届く──。ほろ苦い青春の細やかな感情の揺れを静かに描き出した作品である。

 貧しい苦学生が印刷所で働くという姿はかつての日本でも見られた。ワンが言うように、活字を拾いながら本が読めるから。宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のジョヴァンニをふと思い出した。町並みの風景も含め、何となく高度経済成長前の日本を想起させる。もっとも、台湾映画に詳しい田村志津枝さんの本を読んでいると、古き日本情緒を重ね合わせるのは台湾の歴史を無視して安易だと突っ込みを受けてしまうのだが。

 いずれにせよ、台湾映画を観ていると、良かれ悪しかれ、日本の影がそこかしこに見えてくるのが気になってしまう。ワンに兵役通知が来たとき、勤め先の親方が語る。俺のときは兵役に行った者の大半が死んで帰ってきた。ジャングルでさまよってな、赤痢って分かるか? 今は三食住まい付きの学校みたいなもんじゃないか、だから心配すんな!という感じに。ジャングル?と気になったのだが、日本統治時代、南方戦線に駆り出されたことだとすぐ気付いた。あるいは、ワンの父は、「俺たち親子は学問につくづく縁がないよな」と語る。「俺なんか、小学校を卒業した途端、言葉が日本語から北京語になっちまったからな」

 中国や韓国の場合、日本の影が見えてくる場面では、決まって抗日愛国のモチーフが明瞭に打ち出される。侯孝賢の作品の場合、日本の影はストーリーの後景にあって、直截な政治主張はしない。あとは観客自身が考えるべきと投げ渡してくる。彼のスタイルは総じて説明的なものを排したところに特徴があるわけだが、映画作りとして成熟した感じで、安心して観ることができる。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:呉念真・朱天文
1987年/台湾/110分

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2007年10月28日 (日)

「パンズ・ラビリンス」

「パンズ・ラビリンス」

 土曜日、雨。朝から母校の図書館にこもって調べもの。作業が難航してムシャクシャし、夕方、暗くなり始めた頃に切り上げ、田町駅前の立ち呑み屋で軽く一杯ひっかけた。何の脈絡もないが、ふと「パンズ・ラビリンス」の評判を思い出して観に行くことにした。

 舞台は1944年のスペイン、フランコ将軍が支配する軍事政権の時代。オフェリアは童話の大好きな女の子。お母さんの再婚相手の任地へと車に揺られている。新しいお父さんとなるはずのヴィダル大尉は、山岳地帯に立てこもる反政府ゲリラ討伐の指揮官である。残虐な手法で鎮圧作戦を進めるヴィダルにオフェリアはなじめない。寂しい思いをしている彼女の前に現われたナナフシの姿をとった妖精。その導きで森に入っていくと、半人半羊のパンに出会った。「王女様、ようこそお戻りになりました」。ただし、彼女が王女であることを証明するために三つの試練に耐えなければならない。

 特殊効果で表現された怪物たちの動きには目をみはる。その点ではファンタジー映画ということになるが、ストーリーはそんなに単純ではない。上映終了後に買ったプログラムにモンスター一覧のページがあった。その筆頭にヴィダル大尉が載っているのを見て、なるほどそういう話かと納得。最も非人間的なモンスターは他ならぬ人間自身であるという逆説は、もちろんありきたりと言ってしまえばありきたりなんだけど、ラストでは不覚にも涙がにじんでしまった。疲れていた上に、アルコールが少々残っていたせいかもしれないが。

 戦乱という形をとるかどうかは別として、ある種の不条理が純粋さを求める心情を押し殺してしまうことがある。この映画に登場する大人たちが「妖精なんていないのよ」とオフェリアに言い聞かせるように、現実生活とは離れた次元に王国を夢見ることは許されないし、また、そうした思考習慣になじむことが大人になる条件とされる。だけど、心の拠り所を、たとえ夢想の世界であっても、どこかに求めなければ生きていくのはつらい。その架橋し難い矛盾をオフェリアの死に重ね合わせていたのかもしれない。

【データ】
原題:El laberinto del fauno
監督:ギレルモ・デル・トロ
2006年/スペイン・メキシコ・アメリカ/119分
(2007年10月27日、恵比寿ガーデンシネマにて)

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2007年10月27日 (土)

「ショコラの見た世界」

「ショコラの見た世界」

 七年前にこの世を去った姉、ショコラこと初子(竹内結子)にお話をせがんでいた頃のことをテンコこと典子(大塚ちひろ)は今でも夢に見る。ある雨降りの日、ショコラの恋人だったジダンこと治男(和田聰宏)と偶然出会った。なつかしくて喫茶店で語り合ううちに、ジダンは携帯に残されたショコラの映像を見せてくれた。不思議な世界を旅していたショコラにテンコは再会する。

 もともと携帯電話のCMとして作られた映像をストーリー的にふくまらせて映画として再構成したそうな。行定勲の映画を観るのは久しぶりだが、やはり映像はきれい。ショコラとテンコの住んでいた不思議な造りの家は好きだなあ。雨降りの日、空間的には薄暗いんだけど、沈んだ感じもなく落ち着きある喫茶店で語り合う二人の雰囲気や、虹の生まれる木がある海辺のシーンのうっすらとセピアがかった色合いなども結構良い。

 セリフまわしはちょっとわざとらしいし、ストーリーも冷静に考えればしょぼい。家でDVDで観るとたぶん興ざめしてしまうだろうが、こういうファンタジックに美しい映像は映画館の大きなスクリーンで堪能すると悪くない。

【データ】
監督:行定勲
出演:竹内結子、大塚ちひろ、和田聰宏
2006年/50分
(2007年10月26日レイトショー、新宿バルト9にて)

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2007年10月26日 (金)

團藤重光・伊東乾『反骨のコツ』

團藤重光・伊東乾『反骨のコツ』(朝日新書、2007年)

 團藤重光といえば最高裁判事も務めた刑法の第一人者。私のような法律の素人ですらその高名は知っている。昨日、この本は面白いと友人からメールをもらった。出ているのは知っていた。実は食指が動かなかったのだが、読まないとコメントできないので買った。結論から言うと、読んでも読まなくてもどっちでもいい本だな。

 興味を持ったのは次の二点。第一に、美濃部達吉、牧野英一、平泉澄、三島由紀夫などじかに接触のあった人々の思い出話。第二に、決定論と自由意志論との相克は、時代が違っても姿を変えつつ永遠のテーマなんだなあという素朴な感想。だけど、こんな枠組みに捕らわれている時点でどつぼにはまったようなものだと思うけどね。どちらの立場に立つにせよ、実証的に解明できる問題じゃないんだから。なお、團藤の主体性論の根っこは陽明学にあるらしい。

 ざっと通読したところ、大枠として異論はないんだけど、特に感心するようなこともないなあ。“反骨のコツ”ったって、突き詰めればただの精神論に終わるだけだし。死刑廃止論にも異論はない。ただし、人間の判断の可謬性→死刑は取り返しがつかない、という論点に私は賛成だが、團藤が「人殺し!」と言われて死刑反対の確信を深めたという点についてはどうしても首を傾げてしまう。

 伊東は、法を所与のものとして解釈作業に没頭するのではなく、自ら法を作っていく態度が必要だという。聞こえはいいけれども、個々のレベルにおける法解釈の恣意性を容認しかねないわけで、そこの問題はどのようにクリアするのか読んでても分からなかった。伊東は色々な論拠を持ち出してきて、それはそれで面白いんだけど、結論の導き出し方が情緒的で、私は説得力を感じない。佐藤優が伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー』を激賞していたので読んだことがある。決して悪い本ではない。だけど、そんなに感心するほどかなあ、と?が消えなかった。そもそも私は、ヒューマニティーの普遍性を前提に置いた議論というのがどうにも受け付けられない。良い悪い、ということではなく、好き嫌い、というレベルでね。伊東が言うように、理性よりも先に感情が意思決定するわけですから。

 朝日新書が創刊一周年を迎えた。はっきり言って、ハズレが多い。別に、朝日新聞社に対して悪意はないよ。以前、このブログで『リバタリアン宣言』なる愚書を酷評したことがあるが、あれなんかむしろ“朝日”的な論調とは正反対の論旨だった。賛否を論ずる以前に、内容的な密度が薄い。ラインナップにも魅力がない。保阪正康とか三浦展とかのも読んだけど、他社で出た本の二番煎じじゃないか。私は新書は重宝しているので書店に行くたびにチェックするが、朝日新書の棚はいつもスルーしている。

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2007年10月25日 (木)

「風を聴く~台湾・九份物語~」

「風を聴く~台湾・九份物語~」

 台湾島北岸、古びたたたずまいにかつての賑わいの跡をとどめる街、九份。もともと九戸しか家がなかったことが名前の由来だという。ところが、1890年に砂金が発見され、一旗挙げようという人々が押し寄せ、街の規模は急速に拡大。顔雲年という人物が日本側から九份の金鉱経営をまかされ、顔氏一族は今でも台湾の五大名家の一つに数えられている。一青窈、この映画のナレーションを務める一青妙姉妹の父はこの顔氏らしい(一青は母方の姓)。

 かつて金鉱で働き、現在は語り部としてハキハキとした日本語を使う汪兩旺さん(80歳)を軸として、九份に暮らす人々へのインタビューを重ねたドキュメンタリーである。日本統治時代、公学校での思い出。台湾をも見舞った空襲。国民党軍がやって来てやがて起こる二・二八事件。ゴールドラッシュ、1971年の閉山後の街の衰退。そして、鉱山の粉塵で肺をやられて亡くなった人々のこと。最初は80歳前後の老人たちの思い出話が中心だが、徐々に若い人々の話も織りまぜられ、土地の美しさへの愛着が語られていく。

 一攫千金に成功した者の欲望を満たすべく活況を呈した九份の繁華街は「小上海」「小香港」と呼ばれたという。山の中腹に段々状に並ぶ酒楼の風景は侯孝賢監督「悲情城市」(1989年)で見かけた。古い映画館が保存されており、そこには同じく侯孝賢監督「恋恋風塵」(1987年)の看板が掲げられている。侯孝賢映画の脚本で知られる呉念真の故郷が確かここ九份だったはずだ。彼の父もやはり鉱夫をしており、自身が監督した「多桑(=トウサン)」(1994年)で、鉱夫生活のつらさと時代に適応できなかった孤独感とを愛憎相半ばした視点で描き出していた。

 海辺に山がすぐ迫り、その山すそを這い上がるように街が広がっている。木々が青々として、空や海の色とのコントラストが際立って美しい。山の中腹、すすきの茂る中に散らばっているお墓が、街の歩みを見守っているようで印象的だ。

【データ】
監督・脚本:林雅行
ナレーション:一青妙
2007年/日本/117分
(2007年10月24日レイトショー、渋谷、ユーロスペースにて)

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2007年10月24日 (水)

NHKスペシャル「学徒兵 許されざる帰還~陸軍特攻隊の悲劇」をみて

 10月21日(日)放映のNHKスペシャル「学徒兵 許されざる帰還~陸軍特攻隊の悲劇」をみた。飛行機の整備不良等で生還した特攻隊員が少なからずいたが、彼らを隔離収容する振武寮というのがあったのは初めて知った。寮の責任者だった陸軍の元参謀が戦後になって受けたインタビューのテープが流されていた。みんな突っ込んで帰ってこないという前提だった、と彼は語る。だけど、何であなたは生き残っているの?という素朴な疑問は視聴者すべての頭に浮かんだことだろう。

 特攻は志願によるという建前がありつつも、実際には選択の余地などなかったことは番組中の証言者も語っていた。「俺も後から続く」と言って送り出した指揮官のほとんどは戦後も生き残った。敗戦後、特攻の発案者とされる海軍の大西瀧治郎は自決し、沖縄で航空戦の指揮を取っていた宇垣纏は最後の特攻に出て散ったが、番組に登場した菅原道大も含め陸軍で責任を取って自決した者は皆無である。

 保阪正康『「特攻」と日本人』(講談社現代新書、2005年)によると、特攻第一号は昭和19年10月の台湾沖航空戦で、海軍の第二十六航空軍司令官・有馬正文。46歳だった。彼はもともと年齢の高い順に死ぬべきだと語っていたらしい。しかし、彼のことが一般向けに喧伝されることはなかった。彼を称揚することはすなわち、高位の軍事指導者から率先垂範すべきということになってしまうからだ。平気で若者を使い捨てにして、それを志願という建前で正当化する態度には卑しさを感じてしまう。

 特攻のためには短期間で複雑な操縦方法をマスターせねばならないため、学徒出身者が多くを占めた。番組で流れたテープの中で例の元参謀は「学徒出身者には、口には出さないが、特攻には承服しかねるという態度を取る者が多かった。学問をやると死ぬのが怖くなる」という趣旨のことを語っていた。無論、死ぬのは怖い。しかし、彼らはだからイヤだというのではない。同じ死ぬにしても、何のためなのか、その意味を納得させて欲しいという当然のわだかまりを抱えていたはずだ。

 吉田満『戦艦大和ノ最期』(講談社文芸文庫、1994年)に同様の話があったような気がして、本棚から引っ張り出した。46~48ページに線を引っ張ってあった。何のために死なねばならないのか? 海軍兵学校出身者は、国のために死ぬのは当然だと言う。対して学徒出身士官は、自分の死を普遍的な価値と結び付けたいと反論し、殴り合いになった。その場を収拾した臼淵大尉のこんな言葉を吉田は書きとめている。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが日本の為だ。…敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救われるか。…俺たちはその先導になるのだ」。このあたり、読みながら目頭が熱くなって、手もとにあったシャーペンで印を付けておいたのを思い出した。

 保阪の前掲書では、特攻で突撃した学徒・上原良司の遺稿への思い入れが語られている。上原はこう記していた。権力主義の国家は最後に必ず敗れる。イタリアのファシズムも、ドイツのナチスも倒れた。自分の信念が正しかったことが証明されるのは祖国にとって恐るべきことだろうが、自分自身にとっては限りなく嬉しい。こんな思いを持ちながら彼は死んでいった。

 臼淵大尉にせよ、上原にせよ、拒否することのできない、それこそ不条理としか言いようのない自らの宿命に対して、自分をいったん離れた視点から意味付けをしようというもがきが見て取れる。戦争を、肯定・否定というロジックで後知恵でくくるのは簡単だが、それでは上っ面だけになって見えてこない苦衷をこそ汲み取るべきだろうし、そうした問題意識で保阪の前掲書も書かれている。

 しかし、正直なところ、もどかしくも感じる。彼らの死を率直に受け止めたい。だが同時に、戦後教育を受けた私の頭の中には、戦没者の慰霊→軍国主義賛美になりかねない、という飛躍した感覚がしみついてしまっている。そうした刷り込みを振りほどくには手間がかかりそうだ。

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2007年10月23日 (火)

どうでもいい雑談、音楽。

 新宿に出たついでにタワーレコードに寄った。例のごとく視聴コーナーをうろちょろ。

 バーンスタインの芸術というタイトルの復刻盤を二つ見かけた。一つは、チャイコフスキー「交響曲第六番 悲愴」。旧盤は私も持っており、今でも繰り返し聴いている。ジャケットも全く同じなのだが、「イタリア奇想曲」が付け加わった上に、1,200円と安くなっていた。バーンスタインの演奏を聴いていると、「あれ、こんな所で打楽器が入ったかな?」と不審な一瞬がたまにある。この「悲愴」にしてもそう。演奏風景を映像で見ると答えはすぐに分かる。あの人、興がのるとピョンピョン飛び跳ねながら指揮するので、ドン!と着地した音までも録音されているという次第。

 もう一つは、ショスタコーヴィチ「交響曲第七番 レニングラード」と「交響曲第九番」の二枚組。一枚目にレニングラードの第一、二楽章、残りを二枚目に収録。視聴機には二枚目が入っていた。「レニングラード」の第三楽章を久しぶりに聴いたが、弦楽合奏の美しさに改めて感じ入った。ショスタコは、それこそ硝煙が立ち昇りそうな激しさがあるかと思うと、第九番のように皮肉っぽい軽やかさもあったりと多面的なスタイルが面白い人だが、弦楽もなかなか良い。第五番と第十一番「1905年」の第二楽章も美しいし、第十二番「1917年」の出だしの低音合奏は重厚にズシンと響く。ルドルフ・バルシャイがショスタコの弦楽四重奏曲をアレンジした「室内交響曲」も好きだ。

 なお、私が持っている「レニングラード」はロストロポーヴィチ指揮の輸入盤。買ったのは高校生のとき。あの頃はまだショスタコの日本製CDはあまり出回っていなかった。辞書を引きながら英文解説を読んだのもなつかしい。レニングラード攻囲戦の最中に作曲され、スコアはマイクロフィルムにして海外に持ち出され、ムッソリーニとケンカしてアメリカに亡命していたトスカニーニの手で海外初演されたというエピソードを覚えている。シュワルツネッガーと宮沢りえが「チーンチーン、ブイブイ」と歌っていたアリナミンVドリンクのCMはいつだったか。あのメロディが「レニングラード」の第一楽章。ドイツ軍がヒタヒタと押し寄せる様子が描かれていた。

 フロアを移り、スピッツ「さざなみCD」を買った。透明感があって、胸がすくように心地よい。そういえば、以前、スピッツの曲をフィーチャーした「海でのはなし。」という映画を観たことがある。DVDがスピッツ特集コーナーに並んでいた。宮崎あおいと西島秀俊というキャスティングはスピッツの曲のイメージにぴったりだし、二人ともお気に入りなので期待満々で観に行った。ところが、薄っぺらな駄作。がっかりと言うよりも、怒りがこみ上げたことを思い出した。

 YUKIがソロ活動を始めて以降の曲を集めたシングル・コレクション「five-star」も気になったのだが、予算がつきた。のびやかに元気で、時に切なさも表現できる歌声が好きだ。初めて聴いたのはジュディ・アンド・マリーの頃の「イロトリドリノセカイ」。普段、ポップスは聴かないのだが、たまたま耳にして、それがその時のフィーリングというか、心理状態にぴったりシンクロしてしまったようだ。一度シンクロするとずっと気になってしまう。

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2007年10月22日 (月)

「多桑」

「多桑」

 「多桑」とは「父さん」のこと。日本語から台湾語に入った言葉にこんな字があてられている。

 ブンケンの「多桑」、セガは大の日本びいき。年齢を聞かれると「昭和四年生まれ」と答え、台湾の新聞はあてにならないと言っていつもラジオの日本語放送を聴いている。気に食わないことがあると「バカヤロ」と日本語で怒鳴り、妻や子供に手をかけるのも日常的。鉱夫をしていたが、時代状況の変化と共に職は徐々になくなり、村も消えてしまった。長年の鉱山生活で肺をやられて、引退後は入退院を繰り返すことになる。

 時は流れ、ブンケンも一人前の家庭を持つ。家には家具があふれ、生活水準が大幅に上がったことが分かる。孫は北京語を使うので、セガとは話が通じない。集中治療室に担ぎ込まれたセガは、先に死んだ友人のことに触れてこう言った。「あいつとは約束してたんだ。子供たちに手がかからなくなったら、一緒に日本へ行って皇居や富士山を見に行こうって」

 私がリアルタイムで初めて観た台湾映画はこの「多桑」だった。たしか新宿歌舞伎町のシネマスクエア東急だったと思う。実はその時、個人的な心配事で居ても立ってもいられず、映画の内容は全く頭に入っていなかったのだが。

 改めて見直してみると、いつも粗暴なセガが時折見せる、ものおもいにふけった哀愁漂う横顔が印象的だ。セガはブンケンに「お前はしっかり勉強しろ、俺みたいな人間になるなよ」と言い聞かせていた。時代は変わって社会全体が豊かになりつつある中、そこに適応できなかった孤独感。自分の力ではどうにもならない自らの置かれた立場に対する苛立ちを、日本びいきという形で吐き出すしかなかった。そうした苦衷が粗暴な振舞いの中から見えてきて痛々しい。

【データ】
監督・脚本:呉念真
製作:侯孝賢
1994年/台湾/144分

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2007年10月21日 (日)

台湾について二冊

田村志津枝『台湾人と日本人──基隆中学「Fマン事件」』(晶文社、1996年)

 殴った者は忘れても、殴られた方はわだかまりをひきずってしまうことがある。個人レベルもそうだが、植民地における支配者・被支配者という関係においてそれは一層際立つ。

 1942年2月、基隆中学。すでに三ヶ月前の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まっている。台湾人生徒たちが寄せ書きしたサインブックを日本人生徒が取り上げ、そこに「Fマン」と書かれていたことから一波乱おこる。「Fマン」とは「フォルモサ・マン」、つまり台湾人ということらしい。十六世紀に来航したポルトガル人が「イラ・フォルモサ」(美しい島)と言ったことから、台湾島は「フォルモサ(Formosa)」、もしくは中国語訳で「美麗島」と呼ばれるようになった。日本人生徒はこの「Fマン」から独立運動をたくらんでいると難癖をつけて台湾人生徒を殴り、さらには5人の台湾人生徒が警察に留置される騒ぎとなった。一週間で釈放されたものの、たかが落書きくらいで大げさな事態に発展してしまうあたりに植民地における矛盾が垣間見えてくる。本書は当時の関係者への聞き書きを通して、台湾人と日本人それぞれの植民地支配に対しての受け止め方の違いを浮き彫りにする。

 台湾で育った日本人が内地に帰ると、駅の売り子、港湾労働者、農作業をしているのが日本人であることに、当たり前のことだと頭では理解しつつも驚いたという。台湾人の労働の上にあぐらをかいた日本人という構図がうかがえる。他方、事件で台湾人生徒につらくあたった特高の刑事は沖縄出身者だった。留置所にぶちこまれた当人が、沖縄出身者は内地では差別されていたのだから他の日本人よりは台湾人の気持ちを分かっていたはずだ、と語るのもまた複雑である。

 台湾人の対日感情というのは安易に即断できないデリケートなものをはらんでいる。先日、伊藤潔『台湾──四百年の歴史と展望』(中公新書、1993年)を読んだ。通史としてよくまとまっているのだが、現代史に入ると日本に対して好意的な記述が目立つのが印象に残った。伊藤自身は日本を美化するつもりはないとことわってはいるのだが。たとえば、日本の官吏や警官は高圧的だったが、教師は熱意があって真面目な人が多く、彼らへの尊敬が親日感情のもとになっている。日本は少なくとも法治国家だったので政治犯を投獄することはあっても殺しはしなかったが、国民党は平気で政治犯を殺した、という具合に。伊藤は戦後の日本に留学し、台湾独立運動の支持者として国民党政権が続く限り帰国はかなわないと考えたのか、日本に帰化して日本名を名乗っている。

 台湾には日本と国民党、二つの過酷な支配を受けた経験がある。このどちらに反発するかに応じて、その反転として他方への好意が強まるという感情面での力学が働くのだろうか。どんな日本人に出会ったかという個人的な体験によっても違うだろうし。いずれにせよ、難しい。

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2007年10月20日 (土)

「十二人の写真家」

「十二人の写真家」

 木村伊兵衛、三木淳、大竹省二、秋山庄太郎、林忠彦、真継不二夫、早田雄二、濱谷浩、稲村隆正、渡辺義雄、田村茂、土門拳という十二人の写真家たちの撮影風景を撮り集めたドキュメンタリー。五十年前に作られた映画なので当時の日本の風景が見られるのが興味深いし、オーケストラによる古風に大げさな音楽もどこかレトロな雰囲気が漂う。私は写真について専門知識はまったく持ち合わせていないが、漠然と好きなので観に行った。

 トップバッターは、カメラを持って街中を歩く木村伊兵衛。フィルムが古いのでコマ送りが速いせいか、セカセカした感じ。人々のさり気ない一瞬を捕らえるリアリティーを求めて早撮りにこだわっているとのことだが、歩きながらとにかく撮りまくる。隠し撮りというほどではないが、懐に抱えていたカメラをいきなり出して撮るので、さり気なくというよりもちょっと怪しい。それがまた妙にユーモラス。

 撮影風景の映像にかぶせるように、写真家それぞれのコメントが朗読される。大抵は自身の撮影スタイルや理念について語るのだが、土門拳は独特だ。──僕はご飯が好きだ、パンは胃に悪い。トンカツもウナギも好きだが、天ぷらはいただけない。塩せんべいをかじると頭にガンガン響いてよろしくない….と好き嫌いについて延々と羅列するだけ。それが子供たちを撮るシーンにかぶさっていて、違和感がないというのも不思議だ。

【データ】
監督:勅使河原宏
49分/1955年
(2007年10月19日レイトショー、ポレポレ東中野にて)

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2007年10月19日 (金)

田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』

田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年)

 映画が政治宣伝の手段として効果的とされていた時代、映画づくりの情熱は、それがたとえ純粋なものであったとしても、本人の意図とは関係なく政治情勢に翻弄される宿命を否が応でも帯びてしまう。それはとりわけ、植民地支配を受けた人々の不安定な立場において切実だった。そうした葛藤をはらんだ様々な個性の群像を、本書は映画というテーマを軸に描き出している。

 本書で“李香蘭の恋人”といわれるのは、台湾出身の映画人・劉吶鴎である。もともと裕福な家庭に生まれ、日本や中国をまたにかけて映画製作に走り回っていたが、やがて日本軍のバックアップで上海に設立された中華電影公司に入る。そこでは、日本人としての忠誠を求められながらも、所詮中国人だ、と立場的に低く見られていた。他方、中国人からは日本の協力者として信用されない。植民地出身者は日本語と中国語の両方ができるので重宝されながらも、同時に双方から疑いの眼差しを受けてしまう。結局、1940年9月、劉吶鴎は漢奸として暗殺されてしまった。この時、彼と会う約束をしていた李香蘭は待ちぼうけをくうことになる。

 同様の運命をたどった台湾出身者が他にも登場する。たとえば、穆時英。モダニズムの文学者として出発したが、中華民国維新政府(汪精衛派)に芸術科長、御用新聞の国民新聞社長として参加。当時の台湾人は日本国籍だが、「日中の架け橋」という名目で日本の傀儡政権で採用されるケースが多かったらしい。しかし、彼もまた漢奸として暗殺される。

 もう一人興味を持ったのは江文也。侯孝賢監督「珈琲時光」は私の大好きな映画だが、一青窈演じるフリーライターが調べていた台湾出身の作曲家というのが彼である。何者なのか気になっていたのだが、本書で江文也のプロフィールを初めて知った。1910年、台湾北部・淡水の生まれ。日本に渡って山田耕筰に師事。映画音楽も担当するなど活躍し、日本の敗戦時には北京(当時は日本占領下)で国立音楽院長を務めていた。東京に家族がいたが、中国に残る。しかし、“文化漢奸”として批判されたり、その後の文化大革命で迫害されたりと不遇な余生を過ごしたらしい。

 上海に渡った日本の映画人には元左翼、たとえば日本プロレタリア映画同盟の出身者などもいた。彼らに対して軍国主義のお先棒を担いだとして著者の視点は厳しいが、彼らもまた映画づくりの場を求めるためやむを得ず迎合した側面があるようにも思える。いずれにせよ、時代に翻弄された葛藤、とりわけ台湾人に対して安易に“親日的”と括ることのできない様々な思いの奥行きを描き出している点で興味深かった。

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2007年10月18日 (木)

「今、教養の場はどこにある? 第1回 ギャップの時代、他者とのつながり」

「書物復権2007 今、教養の場はどこにある? 第1回 ギャップの時代、他者とのつながり」@新宿・紀伊國屋ホール(10月17日、19:00~20:30)

 市野川容孝(医療社会学・障害学)・杉田敦(政治理論)・本田由紀(教育社会学)の三人による鼎談形式のセミナー。市野川さんの司会で進行。メモを取りながら聴いた。

 まず口火を切った市野川さんは、教養=Liberal Artsのliberalの意味を寛大さ、懐の広さと解した上で、自分とは異なる他者の立場に立って想像力を働かせることを指摘。順調に進んでいたものが破綻したとき、問題のありかを認識。きしみに出会って、問題を肌身に感じたときに本を手に取る。そうしたものとして教養を把握。

 医師と患者、社会福祉活動の従事者と障害者との関係において、“専門知”の問題点が見えることがある。専門家としての他者の視点ではなく、患者・障害者という当事者の立場で考えるのが障害学(Disability Studies)。つまり、社会常識的にネガティブなものとみなされている身体状態を一つの個性と受け止めなおしてみる。Disabilityとは、物理的な問題ではなく、身体的特徴を根拠として社会的能力を奪い取られた状態と考える。ただし、この障害学も“学”となってしまうもどかしさ。現場の人たちからは「学者が何を言っている」と白い眼で見られることもあるが、現場から離れた立場だからこそ言えることもある。そこに学としての必要があると主張。

 本田さんは、いわゆる“教養”といわれるものは、知識的な権威をもとにしてむしろ人々の間に立場的なギャップを生み出してきたと指摘。こうした“教養”のあり方を現実態とするなら、これとは違った他者への想像力という点での可能態としての教養が今こそ必要だろう。人間は余裕がないとき、他者への憎悪もしくは自己否定、いずれにせよ自分も含めた誰かに苦しみの原因を帰したくなる。苦しみ、つらさ、不安、そういったものを言葉で表現してみて、誰かに受け止めてもらえれば、それだけでも苦しみのかなりの部分は緩和されるはずだ。自分のつらさ、他人のつらさを分かち合う、そうした意味でギャップを埋めるための言葉のレッスンとして教養が必要だ。たとえば、雨宮処凛のように生活者としてのレレヴァンスを汲み取ることのできた言葉が力を持つのだろう。

 現実の社会には、過度に不可視で、また逆に過度に可視的なものが入り混じっている。経済システムの論理で人間を使い捨てにしてしまうネオリベラリズムがまかり通っている中、「人間力」「美しい国」「愛国心」といったまやかしの言葉でそうしたザラザラの現実を不可視にしてしまう。他方、自分はダメだと見切りをつけてしまう、つまり狭い価値観の枠組みの中ですべてが可視的だと思い込んで自己嫌悪に陥ってしまう人もいる。そうした人々に対しては、人生には不可視な余白もあるんだと提示してあげる。見切りをつける必要はない、他にも手があるはずだという意味で、現実に対して批判的=criticalな視点を示すこと。もし知識人に何かできるとしたらそこだろう、と語っていた。

 杉田さんは、要するに何を言いたいのかさっぱり見えてこなかったので、途中でメモをとるのをやめた。

 最後に一人ずつおすすめの本を紹介。まず、本田さんはデュルケーム『社会分業論』。社会がバラバラに個人化してしまった中で、職業集団の持つ役割に眼をつけた先駆的な古典だという。本田さんは「専門性」の必要を説いている。人間はゼロの状態では何も考えるきっかけを得られない。やはり、土台としての帰属が必要。個人がバラバラになってしまった現代社会ではどうすればいいのか。「専門性」という形で一定の職業意識を持つ集団に帰属することで、出発の足がかりを得られるはずだ。ただし、その職業を一生のものとするとは限らず、可能性の幅を持たせた専門性という意味合いを持たせたいので、スペシャリティー+フレクシビリティー=フレクシャリティーという造語を提案。

 市野川さんはガンジー『私の非暴力』を紹介。抵抗する、戦うということについて、普通の軍隊には資格制限がある。しかし、非暴力の軍隊には年齢も男女の別も障害の有無も一切関係ない、誰もが意志さえあれば参加できる、そのようにガンジーは言っていたと熱っぽくコメントしていた。杉田さんはフィンリー『民主主義』を紹介。

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2007年10月17日 (水)

若林正丈『台湾──変容し躊躇するアイデンティティ』

若林正丈『台湾──変容し躊躇するアイデンティティ』(ちくま新書、2001年)

 台湾が歴史の表舞台に登場するのは17世紀になってからのこと。もともと、マレー・ポリネシア系の先住民族がいたが、漢族が少しずつ海峡を渡って来住し始めた。それにつれて台湾西部の平原地帯にいた先住民族、「平埔族」は徐々に吸収されて消滅してしまい、山岳地帯に残った先住民族はその後の日本統治時代に「高砂族」、中華民国時代になってからは「高山族」「山胞」と通称されるようになった。漢族には福建省から来た多数派の福佬系(閩南語を話す)と広東省から来た少数派の客家系とがおり、多部族が並立する先住民族も含めて複層的な族群関係を当初より台湾社会は特徴としていたことには留意する必要がある。

 17世紀は東アジアの国際環境が大きく動き始めた時期である。一時的にオランダが占領したが、それを追い払った鄭氏が台湾を「反清復明」の根拠地とした。清の康熙帝はこの鄭氏を倒し、台湾は清の版図に組み込まれる。その際に台湾放棄論が出たことから窺われるように、清は台湾経営にあまり関心はなかった。ところが19世紀に入り、アロー戦争の結果として開港を求められた中に台湾の台南と淡水が含まれていたので海外の市場との結びつきが始まり、さらに日本の台湾出兵(1875年)、清仏戦争(1884年)と続く。ここに至ってようやく清もこの島の重要性に気付き、台湾省を設置した(1885年)。しかしながら、日清戦争の結果、下関条約(1895年)により台湾は日本に割譲される。

 台湾としてまとまりあるアイデンティティを持ち始めた最初のきっかけはこの日本統治時代にある。日本は植民地経営の必要から全島規模で交通網・通信網・行政機構・教育システムを作り上げ、これをもとに台湾は一つの均質的な市場空間として統合された。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』で指摘されたような一つの枠組みが出来上がったと同時に、ここには「内地人」(日本人)─「本島人」(漢族系)─「蕃人」(先住民族)という階統秩序意識も組み込まれており、この頃の「台湾人」アイデンティティは日本人への対抗関係として形成されたものと言える。

 1945年、台湾における日本の統治機構を中華民国はそっくりそのまま引き継いだ。日本の植民地支配の間、台湾では経済的にも教育レベルにおいても水準の高い中間階層が成長しており、彼らはようやく自分たちも政治参加できると意気込んでいた。ところが、国民党政権は彼らを「日本によって奴隷化教育を受けている」として排除したばかりか、その腐敗体質は甚だしかった。「犬が去って豚が来た」、つまり、日本人はキャンキャンうるさく威張り散らしていたが少なくとも規律は取れていたのに対し、国民党は食って寝るばかり。経済は混乱し、風紀は乱れ、台湾の人々の間に不満が高まった。

 それを決定的にしたのが1947年の二・二八事件である(「悲情城市」の記事を参照のこと)。この事件で国民党軍は台湾土着のインテリやエリート層を狙って殺害したとも言われており、政治に関わると恐ろしいことになるという意識を一般大衆レベルに刻み付けた。こうした経過の中で、本省人の反外省人・反国民党感情(さらにはこの反転としての親日感情)、これを受けて外省人が本省人に向ける不信感、双方の反発感情がその後の台湾社会に奥深く底流することになる(省籍矛盾)。いずれにせよ、日本支配下では台湾在来の多層的な族群関係の上に日本人が乗っかっていたわけだが、日本人が去った後、国民党率いる外省人が代わって上に乗ったという構図になる。

 国民党政権はマスメディアや学校教育を通して上からの「中国化」政策を進め、1960年代以降その成果は少しずつ表われてきた。暗記中心の受験競争により進学率が高いばかりでなく、日本統治時代に初等教育就学率70%を超えていた学校教育システムを出発点としたことも大きいらしい。いずれにせよ、こうした中から新しい世代の本省人エリートも現れわ始めた。また、本省人は民間レベルでも主に中小企業で頭角を現しつつあった。

 1970年代に中華人民共和国への国連代表権の移転、米中接近、対日断交といった事態が続き、台湾は国際的孤立感を深める。こうした情勢下で父・蒋介石から権力をバトンタッチされた蒋経国は国内を掌握する必要に迫られ、国民党主導の体制に適合的な本省人を取り込む「台湾化」政策へと舵を切った。この時に抜擢された中に李登輝がいる。

 国民党は「一つの中国」というテーゼにこだわる一種のイデオロギー政党であったと言える。中華民国政府の虚構的性格はよく指摘されるが、その最たるものは立法委員(国会議員)や総統選出機関たる国民代表大会のメンバー構成によく表われていた。大陸で選出された議員の存在が中華民国としての正統性の根拠とされていたため、大陸を奪回するまでは任期が無期限に延長された。大陸反攻など現実には無理なのだから、事実上の終身議員である。漸進的な自由化政策を進める蒋経国はこの終身議員の段階的改選に手をつけ、次の李登輝政権において選挙による完全な民主化が実現する。

 蒋経国による台湾化・漸進的自由化路線には保守派からの反発も強かった。政論雑誌『美麗島』に集るグループが逮捕される事件が起った(1979年。この事件の弁護士として名を馳せたのが陳水扁である)ほか、関係者が殺害される白色テロも相次いだ。しかし、こうした人権抑圧状況にアメリカの世論が反応したため、それを無視できなくなった国民党政権は台湾独立派が民進党を結成するのを黙認せざるを得なくなった(1986年)。蒋介石の台湾上陸以来40年近く続いた戒厳令は1987年に解除され、1988年に蒋経国が死去、副総統だった李登輝が昇格して本省人として初の総統に就任。彼は民進党の意見も取り込みながら選挙による民主化のスケジュールを設定した。

 以降の台湾政治は族群政治(エスノポリティクス)として特徴づけられる。1992年の立法院選挙の結果、国民党も含め議員の8割は本省人で占められるようになった。眷村(「童年往時」の記事を参照)を票田とする外省人議員はこうした事態に危機感を強め、「自分たちこそが国民党の正統だ」として新党を結成、1994年の台北市長選挙では有力候補を擁立したが、反民進党を掲げるだけでなく、反李登輝キャンペーンも展開した。そこに表われた外省人意識を見て国民党支持の本省人票は民進党の陳水扁に流れたという。このように選挙による民主化によって本省人・外省人それぞれの自己主張が政治レベルで表面化することになった。

 こうしたエスニックな意識の主張は台湾社会内のマイノリティーにも顕著となった。先住民につけられていた「山胞」という呼称は「原住民」に変更され、漢族名しか認められていなかった戸籍登録に民族名を使用することも認められた(ただし、漢字表記による)。漢族の経済的利権を侵さない範囲内においてだが先住民の文化的復権が徐々に進められる傾向にあると言える。また、「本省人」と一括される中にも多数派の福佬系と少数派の客家系とがいる。閩南語=台湾語とする風潮に対し客家系は「福佬中心主義」と批判、客家語保存の運動も進められている。

 いずれにせよ、政治面では本省人と外省人の対立関係が際立ちつつ、文化面ではマイノリティーとの共存、社会的多元性を確保しようという二つの傾向がある。ただし一方で、これは国民党による上からの「中国化」政策が成功したので、その行き過ぎ是正という側面もあると指摘される。

 1996年、初の総統直接選挙が実施され、李登輝が圧勝した。中国のミサイル演習という恫喝はかえって本省人の意識を高め、民進党支持層からも李登輝に票が流れたのである。この時点で、地方議会から国家元首たる総統に至るまですべての役職が選挙によって選ばれる民主体制が台湾において完成した。著者はこれを「中華民国第二共和制」の出発点と位置づける。台湾ナショナリズムが求めた「台湾共和国」は出現しておらず、依然として「中華民国」(これは「一つの中国」が大前提)のままだが、民主的選挙によって政治権力の正統性が基礎づけられるようになったという質的な変化に注目した呼び方である。ただし、ここにおいて台湾というレベルで形成された「選挙共同体」がこのままネイションとして定着するかどうかは未知数であり、その意味で台湾は「変容し躊躇する」状態にあるとまとめている。

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2007年10月16日 (火)

「童年往時──時の流れ」

「童年往時──時の流れ」

 侯孝賢(ホウ・シャオシエン)自身の少年時代を振り返った自伝的な色彩の強い映画である。

 国民党政権の移転に伴って台湾にやって来た人々の暮らす地域を眷村という。彼らには、引き揚げた日本人の家屋があてがわれた。実は侯孝賢の父親も広東省から来た教育庁勤務の公務員で、侯孝賢自身もまた1947年に広東省で生まれている。その点では外省人だが、大陸にいたのはほんの赤ん坊だった頃で、生活感覚は台湾人そのものだという。彼の映画には日本式家屋がよく出てくるが、眷村で育ったという生い立ちによるところも大きいのかもしれない。

 幼い日々、“阿孝(アハ)”と呼んでかわいがってくれたおばあさんはいつも大陸をなつかしがっていた。彼女は客家の出身。道を尋ねても言葉が通じないシーンがあるし、そもそも“孝”は普通話では“シャオ”であり、“ハ”は客家語の発音らしい。字幕で観ている分にはよくわからないが、こうしたあたりにも家庭内においてすら言語的な分裂があったことが示されているようだ。

 阿孝の家には粗末な家具しかない。いずれ大陸に戻るつもりだったので、いつでも処分できるよう安物しか父が買わせなかったのだという。長引いた仮住まいの果てに、望郷の念を抱えたまま父、母、そして祖母が寂しく死んでいく姿を少年阿孝はじっと見つめる。

 中共のミグ戦闘機撃墜!というラジオニュース。大陸に残った親戚が文化大革命でひどい目に遭っていることを伝える手紙。子供たちのふざけあいの中でも使われる「大陸反攻」という言葉。時代の緊迫した空気は日常生活の中にも伝わってきている。しかし、政治とは異なるところで抱え込んだ思い、そうした機微を包み込むように穏やかな映像にはしんみりと感じ入る。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:侯孝賢、朱天文
1985年/台湾/138分

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2007年10月15日 (月)

台湾映画の背景を簡単に

 戸張東夫・寥金鳳・陳儒修『台湾映画のすべて』(丸善ブックス、2006年)を参考にしながら、台湾映画の歴史的な背景を大雑把にまとめてみる。

 台湾での映画製作の中心を担ったのは中央電影事業公司(略称、中影)で、国民党が経営してきた。成立当初は反共イデオロギーが濃厚で、娯楽性に乏しかった。また、中華民国としての正統性を主張しなければならないため標準中国語が使用された。当然ながら、台湾語しか分からない大半の本省人からは不評で、民間会社の作る台湾語映画が人気を集めたという。

 1960年代に入ると台湾も高度経済成長の軌道に乗り、他方、中国本土は文化大革命の混乱にあったため、反共宣伝映画は時代の雰囲気にそぐわなくなった。そこで中影はイデオロギー色の薄められた“健康写実映画”を作り始め、好評を博する。同時に、民間映画会社の製作本数もこの頃から急激に増加した。

 1970年代は台湾の国際環境が厳しくなった時期であり、それは映画製作にも微妙な影響を及ぼした。1971年に国連代表権が国民政府から中華人民共和国に移り、72年にニクソン訪中、同年、日中国交樹立により国府は日本と断行、さらに79年には米中国交樹立といった事態が続き、台湾は国際的な孤立感を深めていた。こうした中、中影は抗日愛国映画を積極的に作り始める。台湾を孤立化に追い込んだきっかけを生み出したのはニクソンとキッシンジャーであるにも拘わらず、なぜ抗日なのか? アメリカは中共に接近しつつも、依然として台湾にとっては最大の庇護者である事実にかわりはない。従って、反米は御法度である。そこで、この怒りの矛先を身代わりに日本へぶつけたのだという。また、国民党は日本と戦わなかったと中共が宣伝していたため、それへの反駁という意味合いもあった。

 ニクソン訪中後の動揺のさなか、父から権力をバトンタッチされた蒋経国は、政情安定化のため台湾化・漸進的自由化政策へと舵を切った。一方、路線転換には保守派の反発も強く、国民党に批判的な人々に対する白色テロ事件が続発するなど不穏な空気も出てきた。こうした中、中影は改革路線に合わせて新たな映画作りに意欲を示し、1980年代になって侯孝賢や楊徳昌(エドワード・ヤン)をはじめ新人が思い切って起用された。彼らはありふれた生活光景や少年の日の思い出など人生の機微を描き出す文芸的な作風が特徴的で、国際的にも高い評価を得た。こうした一連の作品群は台湾ニューシネマと呼ばれた。

 1987年、ようやく戒厳令が解除され、翌88年には蒋経国総統が死去。副総統から昇格した李登輝の下、民主化改革はより一層の進展をみせた。こうした中で、侯孝賢「悲情城市」(1989年)、楊徳昌「牯嶺街少年殺人事件」(1991年)など、政治的・社会的問題を正面から取り上げた作品も登場するようになった。

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2007年10月14日 (日)

「悲情城市」

「悲情城市」

 タイトルを直訳すると、“悲しみの街”。台北の北郊、九份という街に暮らすある四兄弟を軸に、日本の敗戦から中国国民党の台湾移転に至るまでの激動期、とりわけ二・二八事件に翻弄される台湾の姿を描き出した映画である。台湾現代史を考える上で逸することのできない記念碑的作品であろう。

 “玉音放送”が流れる中、長兄の文雄の家は出産騒ぎでてんてこまい。生まれた子には“光明”と名づけられるが、この一家に降りかかる運命は実に過酷である。文雄の末弟、文清は子供の頃の病気で耳が聴こえなくなっていた。三男の文良は日本軍に協力した容疑で逮捕、拷問を受けて気がふれてしまう。次男は南方に出征したまま帰ってこない。そして文雄もヤクザの抗争で殺されてしまう。

 日本の敗戦後、カイロ宣言に基づいて台湾は中国に返還されることになっていた。蒋介石は日本留学経験のある陸軍大将・陳儀を台湾省接収のために派遣。ただし、共産党に備えるため精鋭は大陸に残さねばならず、台湾に送り込まれた部隊はかなり質が低かったらしい。国民党には「台湾人は日本によって奴隷化教育を受けている」という侮蔑意識があり、何よりも腐敗体質が根深く、当初は歓迎ムードだった台湾の人々の間には失望感が大きいだけに不満が高まっていた。そうした事情はこの映画の中でかわされる会話のはしばしから窺われる。

 1947年2月27日、台北の街角で密輸タバコを売っていた女性が警官に殴られるという事件がおこった。国民党政権の収奪的政策によって生じた物資不足、何よりも党幹部の腐敗はそのままにして、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか。目撃した人々が憤激して騒ぎ始め、怯えた警官は発砲、一人が即死してしまう。翌28日、専売局が焼き討ちされたのをきっかけに政治的な抗議デモに急展開する。憲兵隊が機関銃掃射して多数の死傷者を出したため、抗議行動は台湾全土に波及した。三月に入って中国本土から完全武装した増援部隊が上陸し、実力行使で鎮圧されることになる。この一ヶ月間でおよそ2万8千人が命を落としたとされ、とりわけ国民党に批判的な台湾土着の知識層(その多くは日本統治時代に教育を受けていた)が多数処刑され、もしくは行方不明になったという。この二・二八事件により、本省人と外省人の対立、いわゆる“省籍矛盾”は決定的となってしまった。

 本省人だけが殺されたわけではない。一家の四男・文清(トニー・レオン)が友人の安否を確かめに台北に行くシーンがある。棍棒を手にした本省人グループから「あなたはどこから来ましたか」と日本語で尋ねられた。本省人なら日本語ができる。できなければ外省人だ、というわけだ。文清は口がきけない。辛うじて「僕は台湾人だ」と声を絞り出すが、イントネーションがおかしい。外省人だぞ、やっちまえ!とばかりにリンチにかけられそうになったまさにその時、友人が通りかかって難を逃れる。日本の植民地統治、台湾人、中国人のデリケートな関係が凝縮されたエピソードである。

 こうした台湾の言語的分裂を示すシーンは他にもある。対日協力容疑で国民党に逮捕された文良を釈放してもらうため、文雄は上海から来たマフィアに仲介を依頼しようとした。その際、文雄は閩南語を使うが、これをいったん広東語に訳し、さらに上海語に訳し直さねばならない。これもまた、台湾の一般民衆が中国本土と一体感を持ちづらいところが端的に表わされている。

 激動の時代を舞台としてはいるが、暴力性を露わにしたシーンは少ない。侯孝賢の叙情性すら感じさせる静けさを湛えた映像構成は、それがかえって物語の背景をなす緊迫感を浮き彫りにしている。

 「悲情城市」が製作されたのは1989年。蒋介石が台湾に上陸して以来四十年にもわたって続いた戒厳令は1987年に解除されている。その翌年、1988年には蒋経国が死去、李登輝が総統に就任して民主化政策が徐々に軌道に乗りつつあった。二・二八事件の犠牲者に対して李登輝が国家元首として公式に謝罪したのは1995年のことである。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:呉念真、侯孝賢
1989年/台湾/159分

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2007年10月13日 (土)

「冬冬の夏休み」

「冬冬の夏休み」

 冬冬(トントン)はもうすぐ中学生。お母さんは病気で入院しており、休みの間、妹の婷婷(ティンティン)と一緒に田舎のおじいさんのもとで暮らすことになった。引率してくれたちょっと頼りない叔父さんがはぐれてしまうというハプニングから始まったものの、駅前で出会った少年たちと意気投合、楽しい夏休みの予感。

 豊かな緑が広がる中、茶目っ気たっぷりな少年たちと素っ裸になって水浴び。台北に暮らす冬冬にとって田舎暮らしの一つ一つが新鮮なようだ。その一方で、大人の世界も少しずつ垣間見えてくる。知恵遅れの女性の妊娠。あの頼りなかった叔父さんの自立。「親ができるのは、子供が一人立ちできるための準備くらいだよ」──頑固で恐かったおじいさんのしみじみとした述懐を冬冬はかたわらで聞く。

 二十年以上前の作品なので映像は少々粗いが、田んぼが広がり、木々が青々と茂る夏の田園風景はのどかに美しい。紙貼りの障子、畳の部屋で寝転んだり、ちゃぶ台に向かって勉強したりしているシーンが映り、この頃の台湾にはまだ日本風家屋が普通に残っていたのをしのばせる。三、四十年くらい前の日本でもこうした生活光景が見られたのではないか。そんな親近感もわく。

【データ】
原題:冬冬的假期
監督:侯孝賢
脚本:侯孝賢、朱天文
1984年/台湾/98分

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2007年10月12日 (金)

「めがね」

 とにかく食べ物がうまそうに見える。と言っても、たいていは普通の食卓に並ぶありふれたもので、グルメ向けの映画ではない。

 荻上直子監督の前作「かもめ食堂」(2006年)はフィンランドという異国の地で和食の味わいを見た目にもよく引き出していた。今回は南島の何もないがゆったりとした風景が舞台。ロケは与論島で行なわれたらしい。

 何も深く考える必要はない。ぼんやり“たそがれ”て、体を動かしたければ“メルシー体操”踊って(笑)、食うもん食ってビール飲んでカキ氷かきこんでれば素直に生きていける、そんな映画です。こういうのんびりした時間感覚はすごく良いなあ。

 光石研の不器用そうな善意も良い感じだし、市川実日子のいつもふてくされたような表情も結構好きなんだけど、やはり真の主役はもたいまさこということで衆目は一致するだろう。正体不明のミステリアスな存在感が意外に自然に見えてしまうあたり、何とも表現しがたい味がある。

【データ】
監督:荻上直子
出演:小林聡美、もたいまさこ、市川実日子、光石研、加瀬亮、薬師丸ひろ子。
2007年/106分
(2007年10月11日レイトショー、銀座テアトルシネマにて)

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2007年10月11日 (木)

「サッド・ヴァケイション」

 「Helpless」(1996年)、「EUREKA」(2000年)に続く、青山真治自身の故郷を舞台とした“北九州サーガ”の第三作。「Helpless」からもう十年が経つのか。私自身の年齢もそれだけ重ねていることを思うと、色々な意味合いで感慨深い。乾いたように苛立った、やり場のない焦燥感がこの「Helpless」の静かな映像の中に浮かび上がっていたのが今でも鮮明な印象として残っている。

 「Helpless」で健次(浅野忠信)が先輩の妹で知的障害を負ったユリ(辻香緒里)を連れて消息を絶ってから十年。彼が中国人密航者の手引きをするなど裏社会に生きているシーンから「サッド・ヴァケイション」は始まる。その後、運転代行の仕事にかわったところ、ふとしたきっかけで自分と父を捨てて家出した母・千代子(石田えり)の姿を見かけた。健次は母への復讐を胸に秘めて、彼女の再婚先である間宮運送にもぐり込む。

 母性がテーマの一つとなるらしい。健次の恋人(板谷由夏)との関わり方、借金取りに追われて怯える後藤(オダギリ・ジョー)の頭をなでる梢(宮崎あおい)の姿も描かれているが、何よりも大きいのは千代子の存在感だ。一度捨てた息子をあっけらかんとした表情で受け入れていく千代子の態度は、身勝手とかいうのとは違って、ちょっと不可解なすごみすらある。健次は「親でも子でもない」と捨てゼリフを吐く。しかし、復讐という形であっても母との関係にこだわるあたりには、彼自身の意識の奥底に絡め取られている呪縛が微妙に垣間見えてくる。

 母性は一方では受け入れの原理である。しかしながら他方、ユング的なグレート・マザーのイメージは、そこから自立しようともがく彼をのみこんでしまいかねない恐ろしさの象徴でもある。反発しつつ受け入れを求める、というアンビヴァレントな葛藤を浅野忠信のすずやかな表情はよく浮かび上がらせていた。

 そうしたアンビヴァレンスは間宮運送というコミュニティのあり方にもつながってくるように思う。この会社には社会生活からドロップアウトして居場所のない流れ者が集っている。社長(中村嘉葎雄)は「やめてしまったら、ここにいる人たちはどこに行ったらいいんだ」と慮る。妻の千代子も、健次ばかりか彼が連れてきたユリや中国人孤児までも何の屈託もなく受け入れていく。事情も様々な人々が寄り合って、互いの素性を詮索はしないながらも、借金取りに追われる者がいればみんなで守り合う共同体。そうした緩やかなのに密な人間関係にはどこか暖かみがある。

 ゲゼルシャフト(利益社会)なんて社会学用語を使うと大げさだが、目的合理的に集った社会関係では、反発しつつ受け入れを求めたり、緩やかなのに密接という矛盾した態度の取り方は難しい。これとは違う社会関係の枠組みとしてはどのような形があり得るのか。

 資格を剥奪された元医者の木島(川津祐介)は「偶然なんてのはない、会うべき人には会うべくして会うんだよ」と言う。親子関係にしても、共同体関係にしても、自身の意図とは関係なくその場に自らが組み込まれ、同時に相手も一緒に組み込まれている、そのようにお互いの関係性が“必然”だという感覚が、自覚的かどうかはともかくとしてある。血縁がそうだし、間宮運送のような寄せ集めであっても「会うべくして会った」という自覚が生まれればそれもまた一つの運命共同体となり得る。

 もちろん、こうしたあり方は安心感がある一方で、うっとうしい束縛でもある。しかし、安心か束縛か、どちらに重きを置いても、それなりに人生態度の起点として作用する。束縛→反発→自立というベクトルもあれば、失敗→受容→安心というベクトルも双方向的に働き得る。いずれの態度をも許容する柔軟さとして最も特徴的なのが母性であろう。理念的な話に過ぎないことは重々承知しながらも、このような母性的曖昧さを投影して、千代子という女性の存在感と間宮運送という会社とを重ね合わせながらこの映画を観ていた。

【データ】
原作・脚本・監督:青山真治
出演:浅野忠信、石田えり、宮崎あおい、板谷由夏、オダギリ・ジョー、中村嘉葎雄、川津祐介、光石研、嶋田久作、他。
2007年/136分
(2007年10月10日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2007年10月 9日 (火)

東海道品川宿から京浜工業地帯へ

 10月6日、土曜日。思い立って町歩き。今日は旧東海道、品川宿へ。

 午前10時半頃、JR品川駅下車。新幹線停車に合わせて駅構内も周辺もだいぶ変わった。第一京浜(国道15号)沿いに南下。途中、工事で道が分かりづらかったが、無事、北品川商店街の入口にたどり着いた。

 入っていくとすぐにお休み処という看板のかかった店がある。店先から顔を出していたおばさんから「町歩きの方ですか」と声をかけられた。小物入れポケットのたくさんついたベストを着てリュックサックを背負い、いかにも町歩きといういでたちだったので正体を隠すのは難しい。別に隠密行動を取る必要もないのだが。

 おばさんはボランティアでガイドをしているとのことで、品川宿の見所を色々と教えてくれた。このお休み処も本来は居酒屋で、日中だけ借りているという。「東海道品川宿まち歩きマップ」を10円で購入。説明入りの詳細な地図でなかなか役に立った。旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会の発行。京浜急行電鉄、北品川駅から新馬場駅、青物横丁駅あたりの商店街が加盟している。なお、品川駅の南に京急北品川駅がある。昔の品川宿は目黒川で南北に分かれており、その北側という意味である。

 ボランティアのおばさんに教わった通り、利田(かがた)神社の鯨塚なるものを見に行くことにした。旧東海道から脇にはずれて海方向に坂道を下り、運河にかかった北品川橋を渡る。なにやら行進曲と歓声が聞こえると思ったら、台場小学校の前に出た。運動会の季節である。幕末、江川太郎左衛門の命令で作られた砲台跡がそのまま現在は小学校の敷地となっているらしく、それが校名の由来。鯨塚というのは11代将軍徳川家斉の時代に品川沖に迷い込んだ鯨の骨を葬ったところだそうな。このあたりは利田新地という。もともと海だったが、江戸時代に埋め立てられたので新地と呼ばれている。

 北品川橋に戻った。屋形船の繋留所となっており、7、8メートルほどの幅の運河に船がごった返していた。L字型に曲がったその向こう岸には古い木造民家が密集している。さらに向こうを見はるかすと、二つのタイプの建物が目に入る(写真1写真2)。手前に古びた都営住宅。その向こう、再開発された品川駅前、左側の品川グランドコモンズ及び右側の品川インターシティ。三世代の建物が一つの構図に収まるのが面白い。そういえば、先日観た「恋するマドリ」でこのあたりが映っていたように思う。新垣結衣のかわいらしさ以外には見所のない映画だが、街並みの風景をきちんと収めていたので私としてはそんなに不満はなかった。

 旧東海道に戻る。ぼんやりと歩いている分には普通の下町の商店街だが、品川宿を意識した町づくりがされているので、私のような町歩き人と結構すれ違う。いかにも古そうな商家を見かけるたびに町としての古さを実感する。たとえば、写真3写真4。藤森照信言うところの看板建築である。関東大震災後の復興過程で広まった建築様式だという。写真5は空地の奥にレンガ壁が見えたのが気になった。写真6はあまりのぼろさに感動して思わず撮影してしまった。写真7は街角の廃屋。表通りばかり歩いていてもつまらないので路地裏に入ったら手押しポンプがさり気なく残っていた(写真8)。

 宿場町だったのだからお寺や神社が多いのは別に不思議なことではない。ただ、ちょっと面白いと思ったのは、それが街道筋から内陸方向に一定の距離をおいて並んでいること。たとえば、写真9の奥に諏訪神社が見えるが、これくらいの距離。中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005年)は、縄文海進時の東京近辺の遺跡や貝塚をマッピングし、それが当時の海岸線と重なっていたことを示し、その上に現在の神社仏閣といった“聖地”があるのを指摘していた。品川宿近辺の昔の海岸線を考えると、こうしたお寺や神社の配置とほぼ重なるように思う。それだけの歴史的堆積の上に現在の街並みがあるのだ。

 南下するにつれて、商店よりもマンションが増えてくる。中には、マンションに“身売り”したこんな神社もあった(写真10)。鮫洲を過ぎるともう街並みに面白さはない。やがて旧東海道は第一京浜と合流するのだが、そのV字型となった地点に、江戸の最果てに来たことを示す遺跡があった。鈴ヶ森刑場跡である(写真11写真14)。現在は大経寺というお寺の境内になっている。磔刑台(写真12)、火炙台(写真13)の礎石が残っているのには少々驚いた。なお、江戸の北の最果て、小塚原の刑場跡も訪れたことがある。現在は南千住駅の近く、高架となった常磐線と東武伊勢崎線とが並行するすき間に位置するのだが、殺風景な線路に挟まれて草がぼうぼうに生い茂った様子はいかにも荒涼とした雰囲気を漂わせていた。

 大森海岸駅で京浜急行に乗車。子供の頃から時刻表の地図を見るたびに、京浜工業地帯に枝葉のようにのびる路線が気になっていた。そこで、京急川崎駅で大師線に乗り換え、終点の小島新田で降りた。工場地帯のど真ん中のはずだが、意外と住宅街がある。多摩川岸に出ると、河口近くだけあってさすがに川幅は広い。サイクリングロードとなっており、結構人が行きかっている。対岸には羽田空港があり、時折、飛行機の爆音が響く。小関智弘『大森界隈職人往来』(岩波現代文庫、2002年)の冒頭、空港用地としてアメリカ軍に接収され、追いたてられた羽田の住民たちの悲運から書き起こしていたのを思い出した。

 川岸は電線も何もない。広々と感じられて気持ちよい。空の写真を適当に撮影(写真15写真16写真17写真18写真19)。

 川崎に戻って今度はJRに乗り、鶴見駅で鶴見線に乗り換えた。ここも京急大師線と同様、工場地帯にめぐらされた路線である。企業にちなんだ駅名が多く、たとえば浅野駅は浅野セメント、昭和駅は昭和電工、安善駅は戦前の安田財閥(現在は芙蓉グループ)の創立者・安田善次郎に由来する。なお、大師線の鈴木町駅には味の素の工場があり、戦前は鈴木商店という名前だったことにちなむ。財閥の鈴木商店とは違うらしいが、詳しいことは知らない。

 目指す海芝浦駅は東芝の敷地内にあり、私有地とのことで一般客は下車できない。ホームが海上にせり出していることで知られ、私の他にも結構な人数が見に来ていた。黄昏色になずむ海芝浦駅(写真20写真21)。運河の対岸は昭和シェルの石油基地である(写真24)。写真22写真23は高速湾岸線の鶴見つばさ橋で、さらに進むと横浜ベイブリッジにつながっている。

 折り返し電車に乗り、鶴見の一つ手前、国道駅で降りた。ホームが半分くらい国道15号(第一京浜)の上にかかっているのでこんな妙な名前がついている。それにしても、実に面白い構造をした駅だ。ホームの下に広い空間が設定され、そこに商店街がある。ホームから階段を降りる途中、この空洞にかけられた橋を渡り、商店街を見下ろす形となる。ただし、現在開店しているのは焼鳥屋一軒のみ(写真25)。この店だけは大繁盛だが、他の店舗はすべて閉鎖されていた(写真26)。近いうちに取り壊されるのだろう。川本三郎『我も渚を枕に』(晶文社、2004年)では川本がここで酒盛りをしているのだが、こうやって街並みも変わっていく。

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2007年10月 8日 (月)

与那原恵『街を泳ぐ、海を歩く』

与那原恵『街を泳ぐ、海を歩く』(講談社文庫、1998年)

 目が覚めたら、東京にしては珍しいほどの美しい青空が広がっている朝だった。ああ、こんなきれいな空を沖縄の諸島で見ていたいなあと思った瞬間、沖縄に行くことに決めてしまった──。そんなノリで世界を歩き回った旅の記録である。

 カルカッタで会った日本人旅行者のビンボー自慢。彼から、君はどうしてカルカッタにいるの、と聞かれた。「私はカルカッタに意味など求めていない。混沌(カオス)だの生だの死だの、どうでもいいのだ。私はひとりでいたいだけだ、そう言った。」

 与那原さんの文章は割合と感傷的だけど、わざとらしい嫌味のないところが私は好きだ。インドでは貧困を見なければいけない、中東では紛争を見なければいけない、そういった類いの構えたフィルターがない。もちろん、問題の背景ははきちんと分かっており、十分に書き込んでいる。むしろ、歩いた場所、出会った人々をみつめるまなざしが自然体で優しいだけに、それぞれに抱え込んでいる葛藤が共感的に描き出されている。思い入れたっぷりなのだがしつこい重たさはなく、読んでいて心地よい。

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2007年10月 7日 (日)

藤原保信『自由主義の再検討』

藤原保信『自由主義の再検討』(岩波新書、1993年)

 現代社会は資本主義と議会制民主主義とを二つの柱として成り立っており、いずれも個人の自由を保障することを基本原則としている点で自由主義と呼び得る。本書はそうした自由主義の背景に功利主義を見出し、古代ギリシアのプラトン・アリストテレスから現代のリバタリアン・コミュニタリアン論争まで西欧政治思想史の流れを踏まえながら、功利計算に基づく自由主義の限界を検討しようと試みる。個人化の進展による人間疎外という状況に直面し、人間本来のあり方としての類的紐帯の回復を目指したマルクスに共感しつつ、社会主義の欠陥に触れた上で、結論としてコミュニタリアニズムの立場を打ち出している。

 マキャベリ・ホッブズ以後の近代思想の特徴を端的にまとめるなら、個人を単位とした機械論的な社会モデルと言えるだろう。つまり、人間は快楽を追求し、苦痛を回避しつつ自己保存を図る存在として把握され、こうした人間観を出発点として社会契約説も市場社会の論理も導き出された。

 社会をアトム的個人に細分化する趨勢は封建社会の桎梏から人間を解き放ち、その権利を保障する上で大きな役割を果たした。ところで、プラトンは『国家』において、人間の魂を理性的部分、気概的部分、欲求的部分の三つに分けたことはよく知られている。個人中心の社会モデルにおいては、プラトンが最下層に位置づけていた欲求的部分に他の二つの部分は従属することになった。つまり、享楽的な世俗性を全面的に肯定する形で価値のヒエラルヒーが転倒したと言える。

 世界は大きなコスモスであり、人間はその中に包摂されている、それがプラトン的な世界観であった。ところが、人間をアトム的に細分化してその寄せ集めとして社会を構想するようになったとき、善悪の判断は個々人の行為の比較考量の問題と単純化され、その意味で社会の問題ではなく、あくまでも各自の主観の問題に過ぎないとみなされた。各自の自然的な欲求、より洗練された表現で言うと“選好”がまず前提とされ、その総和イコール社会善と考えるようになった。その仕組みを法則的に解明するのが社会科学であり、個別の矛盾点を調整するのが政治の役割となった。

 しかしながら、以上で想定されている自己充足的な“自我”モデルが果たして実際にあり得るのか。自由主義の前提となっている人間観に対し「負荷なき自我」、社会関係から「遊離した自我」として疑問を呈したのがコミュニタリアニズムである。コミュニタリアニズムは人間をナラティヴ(物語的)な存在として捉える。つまり、ある言語共同体に帰属し、過去・現在・未来をつなぐ中に自らを位置づけ、共同体内の他者との対話を通じて不断に自己解釈を繰り返していく。そこから“共通善”としての規範意識が一定の客観性を帯びることになるという。

 以下は私見。個人主義と“自律”の感覚は不可分なものだが、“何か”との結びつきを自覚できない人間にとって“自律”は極めて困難である。自分が踏みしめている立脚点が分からないとき、そもそも何のために生きるのか、目標を立てようがない。そうした者は自らの存在意義を無理やりにでも作り上げようとして、過激政治運動や新興宗教など、アイデンティティ・ポリティックスの罠にはまりやすくなるように思われる。そうしたことを考えたとき、人間をナラティヴ=自己解釈的な存在と捉える本書の視点に私は共感する。つまり、時間軸として過去・現在・未来という流れの中に、空間軸として一定の社会関係の中に自らの立ち位置を見出すことは、それを一種のものさしとして、常に自己を客観化する、すくなくとも一つの契機となる。その点で、藤原の意図にはそぐわないかもしれないが、私自身としては歴史感覚としての“伝統意識”や共同体としての“ナショナリズム”に肯定的である。もちろん敢えて“”をつけたことから分かるように様々な留保をつけた上でのことだが。

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2007年10月 6日 (土)

適当に町歩き本

 町歩きが好きだ。金はなくともヒマはある人間にとって最適の娯楽である。

 私が町歩きの味を覚えたのは学生の頃。大学の授業から全く興味がうせて、キャンパスを出てふらつき始めたのがきっかけだった。霞ヶ関を通りかかったとき、警官に呼び止められて身分証明やら何やらとソフトな口調ながらネチネチと尋問されたのもなつかしい。Gパンにパーカーという場にそぐわない服装でキョロキョロしながら歩いていたので、“運動”系の学生と思われたようだ。“運動”といっても体育会ではありませんよ。

 赤瀬川原平・編『路上観察学入門』(ちくま文庫、1993年)は私にとってバイブルのような本だ(ちょっと大げさか)。路上観察学のルーツは今和次郎の考現学までさかのぼれるらしいが、直接のきっかけはトマソン探し。

 現代美術の展覧会に行くと、たとえば電柱やら郵便ポストやらが展示品としてなぜか唐突にデーンと鎮座していたりする。マルセル・デュシャンが便座をひっくりかえして出品した「泉」がそうした“作風”の嚆矢として知られている。“芸術”なるものの虚構性に対してデュシャンが放った痛烈なパンチだったわけだが、この“反”芸術がいつしか現代芸術のスタンダードとなってしまった。赤瀬川たちが町を歩きながら、「ここに現代芸術があるぞ」「あっ、あそこにも現代芸術が!」と“現代芸術ごっこ”をやっているうちに“発見”されたのが「四谷の純粋階段」。階段としての機能は果たすのだが、何のためにここにあるのか分からない。そういった町中にある、意図不明だが風格のあるもの、面白いものを赤瀬川たちはトマソンと呼んだ。

 ちなみにトマソンとは、助っ人として来日したが芳しい成績を残せなかったアメリカ人プロ野球選手の名前に由来するという。後姿に漂う哀愁が何ともいえずよかったそうな。赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、1987年)を参照のこと。路上観察学会メンバーが撮り集めたトマソン物件の集大成『トマソン大図鑑』(空の巻・無の巻、ちくま文庫、1996年)もすばらしい。私自身にはトマソン探知のセンサーがないのでこれを眺めて楽しんでいる。

 路上観察学会メンバーでもある藤森照信『建築探偵の冒険 東京篇』(ちくま文庫、1989年)もはずせない。古めの商店街などを歩くと、藤森の指摘する“看板建築”は今でも割合と見かける。主に関東大震災後に普及したらしいが、銅製の装飾板が緑青にまみれてなかなか味わい深い風格がある。藤森照信・荒俣宏『東京路上博物誌』(鹿島出版会、1987年)は、異様で不可思議な面白さのあるスポットが東京にもたくさんあるのを教えてくれた。とりわけ伊東忠太の妖怪図像をモチーフにあしらった建築装飾に興味を持った。築地本願寺、大倉集古館、一橋大学の兼松講堂などで知られる建築家である。

 川本三郎の町歩きエッセーも好きだ。とりあえずいま手元には『私の東京町歩き』(ちくま文庫、1998年)、『我もまた渚を枕に──東京近郊ひとり旅』(晶文社、2004年)、『東京の空の下、今日も町歩き』(ちくま文庫、2006年)があるが、まだ読んでないのも結構ある。『東京人』連載のエッセーを中心にまとめられている。

 商店街をぶらぶら歩き、古本屋をのぞき、夕方ともなれば酒場にもぐりこんでビールを飲み干す、といった描写が続く。特に起伏のある文章ではない。が、さり気なく引っ張り出してくる博識が心にくい。東京近辺でもビジネスホテルや旅館に泊まって町歩きをするというのは、発想すらしていなかった。見慣れたつもりの東京でも、普段降りることのない駅で下車したり、歩く時間帯を変えたりするだけでもまた違った表情が見えてきそうで面白そう。

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2007年10月 4日 (木)

坂本多加雄『市場・道徳・秩序』

坂本多加雄『市場・道徳・秩序』(ちくま学芸文庫、2007年)

 本書は福沢諭吉、徳富蘇峰、中江兆民、幸徳秋水の四人の言説に焦点を合わせ、近代的社会観、具体的に言うと市場システム及びその担い手としての個人=“市民”という考え方を日本は如何に受容したのかを検討する。

 一昔前の日本近代思想の研究書を図書館であさってみると、西欧近代を基準として日本の個々の思想家を後知恵的に位置づけるという構図を取るものが目立つ。たとえば、幸徳秋水を論じるにしても、権力に反対したのは評価できる、しかしマルクス理解には限界があった、という感じに。しかしながら、一見“西欧近代”的なキーワードを明治期日本人が使っていたとしても、その理解のあり方には彼らなりのバックボーンを踏まえての読み込みがあったはずだ。彼らの解釈の足場となっている伝統的な思考方法を明らかにすることで、逆に西欧もまた西欧なりに踏まえている伝統的な側面を相対的に浮かび上がらせることができる、そうした意欲的な切り口も本書の特色である。

 福沢の思想は端的には「独立自尊」とまとめられる。経済的に誰かに依存していると、その慮りで自由に自分の意見を言えなくなってしまう。従って、自らの独立を確保するためにも自前の生計手段を持たねばならない。「一毫も貸さず、一毫も借らず」という形で独立した個人が“市場”という相互応酬的な関係を通して並立的に結びつくのが一番良いというのが福沢の考え方である。しかし、これは没情誼的で冷たい人間関係だと快く思わない人からの批判も根強かった。

 徳富蘇峰もまた福沢と同様に独立した個人が並立的に結びつくという社会モデルを肯定するが、その一方で人間が私利私欲に走らないよう人格養成をせねばならないと言う。つまり、“市場”の前提として“自律”という道徳問題が出てくると蘇峰は考えていた。

 政治的民主主義という点で個人はどのように位置づけられるのか。西欧における共和主義の源流は古代ギリシアのポリスに求められる。それは、生活上の必要を充足する基礎的な活動は奴隷に任せ、そうした労苦から解放された人々が公共的な活動に参加するという身分格差を前提としたものだった。生きるための具体的・“動物的”な問題に惑わされず、自身に直結した利害から離れた立場で考えることが公共性の条件とみなされていたのである。近代における政治的民主主義の進展とは公共的な意思決定への参加者を全国民レベルまで広げていくことであり、それはすなわち選挙権の拡大を意味したが、初期段階において財産資格が要件とされたのはこうした背景があった。

 これを本書の文脈で整理すると、民主主義の前提として個人の独立性=「独立自尊」を担保するための財産的基礎をどのように位置づけるかという問題意識につながり、福沢の回答は、各自が自前の生計手段を持てということだった。

 中江兆民にしても、その精神的後継者たる幸徳秋水にしても、政治過程への参加者のモデルとして伝統的な「士君子」の人物像を想定していた。つまり、私利私欲を排して「真理」を求める自己犠牲的な高潔さを当然のこととしており、それはポリスにおける貴族のイメージと幾分か重なってくる。

 ところで兆民は第一回帝国議会に代議士として出席したが、民党の議員が政府の買収によってもろくも切り崩されるのを目の当たりにして憤激し、辞職する。その後、兆民は実業に手を出してこちらも失敗してしまうが、生計を立てるための財産問題がクリアされない限り政治活動もままならないという自覚が彼の切実な問題意識として見えてくる。

 幸徳秋水の思想は「志士仁人の社会主義」という表現で特徴付けられることからもうかがえるように、平民主義的な目的意識の一方で、彼自身の自己規定としてはノブレス・オブリージュとも言うべき貴族的道徳意識も強い。私利私欲を離れて社会に奉仕するエリート=“武士”的な矜持を守り、その自覚を全国民的に広げるためには、まず生活基盤において公正な分配が行われなければならない。そのための社会主義ということになる。同時に、福沢が主張しているような没情誼的な市場社会への批判も強く、家族的な情愛の関係を回復することも社会主義の目的となる。ここには、西欧の社会主義者が究極の未来に想定していた牧歌的なユートピアへの夢想とも共通点が見出される。

 本書のオリジナルは1991年に創文社から刊行され、サントリー学芸賞と日経・経済図書文化賞をダブル受賞している。明治思想史として秀逸であるばかりでなく、個人と公共性との関わり方という政治哲学の基本的なテーマを近代日本思想の文脈において論じきったこの名著が文庫本という形で入手しやすくなったのはとてもありがたい。

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2007年10月 2日 (火)

岡本太郎『美の呪力』

 私は岡本太郎の芸術作品については正直なところ、よく分からない。だが、彼の文章は好きだ。読み手の気持ちを鼓舞してくれる明確な強さがある。

 分からない、と言いつつも、好きな絵はある。川崎市の生田にある岡本太郎美術館で見かけた作品で、タイトルは「夜」。魑魅魍魎が蠢くような暗闇を前にして、反り返るように胸を張った少女の後姿。背後に回した手にはナイフが握られている。か弱き存在、しかし圧倒されまいと決然とした横顔の凛々しさ。横尾忠則もこの絵が好きらしく、隣には太郎へのオマージュとして「夜」を横尾なりにアレンジした作品が並べられていた。

 私がまだ小さい頃、太郎がピアノの前で「芸術は爆発だ!」と叫ぶテレビCMの印象が非常に強烈だった。ある意味、太郎の芸術観が端的に表われてはいる。しかしながら、良くも悪くも、“すごい芸術家なんだろうけど変な人”というイメージが世間的に定着してしまったように思われる。

 私が岡本太郎に対して抱いているイメージはちょっと違う。あのまっすぐに突き進む純粋なエネルギーは他の誰よりも凛々しい。

 岡本太郎『美の呪力』(新潮文庫、2004年)にある次の一節が私は大好きで、気持ちが落ち込んだとき、壁にぶつかってめげそうなとき、そのたびに読み上げる。時には涙すら目ににじむ。

…私が実感としていつも感じるのは、人間生命の根源に、何かが燃えつづけている。誰でもが、いのちの暗闇に火を抱えているということだ。そのような運命の火自体が暗いものである。

私は先ほどから、燃えあがる外側の「火」について話してきた。だがどうしてもここで、内的な火、その異様な生命的センセーションについて言わなければならない。それは生きるもの、誰でもが感じている神秘感だと思う。その火がゆらぎ、危機にさらされるとき、人は、“いのち”を実感する。
 しかし、聖火を抱く者は少ない。不断にそれを身の内に強烈につかんでいる者。そうでない者。それを運命として、「神聖なる火」として、抱いている人、そうでない人間がいるのだ。
 純粋な人間は子供ときから身の内側に燃えつづける火の辛さに耐えなければならない。その火の故に孤独である。暗い。それが聖だからこそ、冒される予感におびえる。純粋に燃えているにかかわらず、火を抱いているということは不安であり、一種の無力感なのだ。
 青春期、はじめて人生に踏み込んで、ひたすら運命に身をぶつけようとする。だが、その情熱に対して、社会は必ず拒絶的なのだ。
 「お前なんか駄目だ」……「ああ、その通りです」と頭を下げてしまえば、それで済んでしまう。だが、「違う!」。叫ぶ。炎は一段と燃えさかる。
 燃えあがるのは辛い。絶望的なのだ。
 暗い炎。この世に生れるとき、あるいはもっと遠い過去の暗闇のなかで、それに誓いをたてたのだ。──いつ、──何を、誓ったのか、知らない。ただその誓いによってこそ炎が燃えあがるということしか知らないのだ。
 だが、この聖なる火。もてあましながら、しかし守りつづけ、抱えて行かなければならない。
 だからこそ人間の運命、その火なのだ。もしそれが、間違いなく燃えさかる権威的な「聖なる天上の火」であるのなら、逆にあの暗く言いようのない神聖感はあり得ないはずである。
 しかし、ある日、炎の意味を悟る。この社会の惰性、卑しさに対して、「否(いな)」というべきなのだと。絶望的に模索していた生身のまわり、偽りの皮がメリメリとはがれはじめるのだ。心の内なる炎が突然、殻を突き破り、総身にメタモルフォーゼし、世界に躍り出る。そして否を叫び続ける。世界・宇宙全体が炎に還元する。その激しい姿は当然、他からは「犯す者」として映るだろう。
(本書、185~188ページ)

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2007年10月 1日 (月)

「包帯クラブ」

 “心”の傷に包帯を巻きます。そんな活動を始めた高校生たちの、見えそうで見えない心の機微を描き出した物語。原作は天童荒太(ちくまプリマーブックス、2006年)。大ベストセラーとなった『永遠の仔』(幻冬舎文庫)にしてもそうだが、ストーリー立てがうまいというだけでなく、人の“心”の問題に分け入るテーマ設定は感情移入がしやすいのだろう。ただし、何でもかんでもトラウマの問題にしてしまうのは、私などには少々違和感があるのだが。

 堤幸彦というと「TRICK」や「ケイゾク」の印象が強い。実験的なカメラワークで映像作りにとにかく凝っており、ナンセンスなシーンを随所に挿入して笑わせるあたりもおもしろかった。しかし、今回は割合とおとなしめな作り方。こういう叙情的な映像も作れるというのはちょっと驚いた。出だしのモノローグなどなかなか好きだ。

 原作では関東近県の架空の街となっているが、映画では高崎が舞台。以前、用事があって一度だけ行ったことがある。この映画と同様、からっ風が吹く寒い季節だった。少年少女の孤独な気持ちと、このどこか透明感すら漂う乾いた寒さとが私のイメージとして不思議に結びついて、観終わった後の印象は悪くない。

【データ】
監督:堤幸彦
出演:柳楽優弥、石原さとみ、貫地谷しほり、原田美枝子、他
2007年/118分
(2007年9月30日、新宿オスカーにて)

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