若林正丈『台湾──変容し躊躇するアイデンティティ』(ちくま新書、2001年)
台湾が歴史の表舞台に登場するのは17世紀になってからのこと。もともと、マレー・ポリネシア系の先住民族がいたが、漢族が少しずつ海峡を渡って来住し始めた。それにつれて台湾西部の平原地帯にいた先住民族、「平埔族」は徐々に吸収されて消滅してしまい、山岳地帯に残った先住民族はその後の日本統治時代に「高砂族」、中華民国時代になってからは「高山族」「山胞」と通称されるようになった。漢族には福建省から来た多数派の福佬系(閩南語を話す)と広東省から来た少数派の客家系とがおり、多部族が並立する先住民族も含めて複層的な族群関係を当初より台湾社会は特徴としていたことには留意する必要がある。
17世紀は東アジアの国際環境が大きく動き始めた時期である。一時的にオランダが占領したが、それを追い払った鄭氏が台湾を「反清復明」の根拠地とした。清の康熙帝はこの鄭氏を倒し、台湾は清の版図に組み込まれる。その際に台湾放棄論が出たことから窺われるように、清は台湾経営にあまり関心はなかった。ところが19世紀に入り、アロー戦争の結果として開港を求められた中に台湾の台南と淡水が含まれていたので海外の市場との結びつきが始まり、さらに日本の台湾出兵(1875年)、清仏戦争(1884年)と続く。ここに至ってようやく清もこの島の重要性に気付き、台湾省を設置した(1885年)。しかしながら、日清戦争の結果、下関条約(1895年)により台湾は日本に割譲される。
台湾としてまとまりあるアイデンティティを持ち始めた最初のきっかけはこの日本統治時代にある。日本は植民地経営の必要から全島規模で交通網・通信網・行政機構・教育システムを作り上げ、これをもとに台湾は一つの均質的な市場空間として統合された。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』で指摘されたような一つの枠組みが出来上がったと同時に、ここには「内地人」(日本人)─「本島人」(漢族系)─「蕃人」(先住民族)という階統秩序意識も組み込まれており、この頃の「台湾人」アイデンティティは日本人への対抗関係として形成されたものと言える。
1945年、台湾における日本の統治機構を中華民国はそっくりそのまま引き継いだ。日本の植民地支配の間、台湾では経済的にも教育レベルにおいても水準の高い中間階層が成長しており、彼らはようやく自分たちも政治参加できると意気込んでいた。ところが、国民党政権は彼らを「日本によって奴隷化教育を受けている」として排除したばかりか、その腐敗体質は甚だしかった。「犬が去って豚が来た」、つまり、日本人はキャンキャンうるさく威張り散らしていたが少なくとも規律は取れていたのに対し、国民党は食って寝るばかり。経済は混乱し、風紀は乱れ、台湾の人々の間に不満が高まった。
それを決定的にしたのが1947年の二・二八事件である(「悲情城市」の記事を参照のこと)。この事件で国民党軍は台湾土着のインテリやエリート層を狙って殺害したとも言われており、政治に関わると恐ろしいことになるという意識を一般大衆レベルに刻み付けた。こうした経過の中で、本省人の反外省人・反国民党感情(さらにはこの反転としての親日感情)、これを受けて外省人が本省人に向ける不信感、双方の反発感情がその後の台湾社会に奥深く底流することになる(省籍矛盾)。いずれにせよ、日本支配下では台湾在来の多層的な族群関係の上に日本人が乗っかっていたわけだが、日本人が去った後、国民党率いる外省人が代わって上に乗ったという構図になる。
国民党政権はマスメディアや学校教育を通して上からの「中国化」政策を進め、1960年代以降その成果は少しずつ表われてきた。暗記中心の受験競争により進学率が高いばかりでなく、日本統治時代に初等教育就学率70%を超えていた学校教育システムを出発点としたことも大きいらしい。いずれにせよ、こうした中から新しい世代の本省人エリートも現れわ始めた。また、本省人は民間レベルでも主に中小企業で頭角を現しつつあった。
1970年代に中華人民共和国への国連代表権の移転、米中接近、対日断交といった事態が続き、台湾は国際的孤立感を深める。こうした情勢下で父・蒋介石から権力をバトンタッチされた蒋経国は国内を掌握する必要に迫られ、国民党主導の体制に適合的な本省人を取り込む「台湾化」政策へと舵を切った。この時に抜擢された中に李登輝がいる。
国民党は「一つの中国」というテーゼにこだわる一種のイデオロギー政党であったと言える。中華民国政府の虚構的性格はよく指摘されるが、その最たるものは立法委員(国会議員)や総統選出機関たる国民代表大会のメンバー構成によく表われていた。大陸で選出された議員の存在が中華民国としての正統性の根拠とされていたため、大陸を奪回するまでは任期が無期限に延長された。大陸反攻など現実には無理なのだから、事実上の終身議員である。漸進的な自由化政策を進める蒋経国はこの終身議員の段階的改選に手をつけ、次の李登輝政権において選挙による完全な民主化が実現する。
蒋経国による台湾化・漸進的自由化路線には保守派からの反発も強かった。政論雑誌『美麗島』に集るグループが逮捕される事件が起った(1979年。この事件の弁護士として名を馳せたのが陳水扁である)ほか、関係者が殺害される白色テロも相次いだ。しかし、こうした人権抑圧状況にアメリカの世論が反応したため、それを無視できなくなった国民党政権は台湾独立派が民進党を結成するのを黙認せざるを得なくなった(1986年)。蒋介石の台湾上陸以来40年近く続いた戒厳令は1987年に解除され、1988年に蒋経国が死去、副総統だった李登輝が昇格して本省人として初の総統に就任。彼は民進党の意見も取り込みながら選挙による民主化のスケジュールを設定した。
以降の台湾政治は族群政治(エスノポリティクス)として特徴づけられる。1992年の立法院選挙の結果、国民党も含め議員の8割は本省人で占められるようになった。眷村(「童年往時」の記事を参照)を票田とする外省人議員はこうした事態に危機感を強め、「自分たちこそが国民党の正統だ」として新党を結成、1994年の台北市長選挙では有力候補を擁立したが、反民進党を掲げるだけでなく、反李登輝キャンペーンも展開した。そこに表われた外省人意識を見て国民党支持の本省人票は民進党の陳水扁に流れたという。このように選挙による民主化によって本省人・外省人それぞれの自己主張が政治レベルで表面化することになった。
こうしたエスニックな意識の主張は台湾社会内のマイノリティーにも顕著となった。先住民につけられていた「山胞」という呼称は「原住民」に変更され、漢族名しか認められていなかった戸籍登録に民族名を使用することも認められた(ただし、漢字表記による)。漢族の経済的利権を侵さない範囲内においてだが先住民の文化的復権が徐々に進められる傾向にあると言える。また、「本省人」と一括される中にも多数派の福佬系と少数派の客家系とがいる。閩南語=台湾語とする風潮に対し客家系は「福佬中心主義」と批判、客家語保存の運動も進められている。
いずれにせよ、政治面では本省人と外省人の対立関係が際立ちつつ、文化面ではマイノリティーとの共存、社会的多元性を確保しようという二つの傾向がある。ただし一方で、これは国民党による上からの「中国化」政策が成功したので、その行き過ぎ是正という側面もあると指摘される。
1996年、初の総統直接選挙が実施され、李登輝が圧勝した。中国のミサイル演習という恫喝はかえって本省人の意識を高め、民進党支持層からも李登輝に票が流れたのである。この時点で、地方議会から国家元首たる総統に至るまですべての役職が選挙によって選ばれる民主体制が台湾において完成した。著者はこれを「中華民国第二共和制」の出発点と位置づける。台湾ナショナリズムが求めた「台湾共和国」は出現しておらず、依然として「中華民国」(これは「一つの中国」が大前提)のままだが、民主的選挙によって政治権力の正統性が基礎づけられるようになったという質的な変化に注目した呼び方である。ただし、ここにおいて台湾というレベルで形成された「選挙共同体」がこのままネイションとして定着するかどうかは未知数であり、その意味で台湾は「変容し躊躇する」状態にあるとまとめている。
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