「今、教養の場はどこにある? 第1回 ギャップの時代、他者とのつながり」
「書物復権2007 今、教養の場はどこにある? 第1回 ギャップの時代、他者とのつながり」@新宿・紀伊國屋ホール(10月17日、19:00~20:30)
市野川容孝(医療社会学・障害学)・杉田敦(政治理論)・本田由紀(教育社会学)の三人による鼎談形式のセミナー。市野川さんの司会で進行。メモを取りながら聴いた。
まず口火を切った市野川さんは、教養=Liberal Artsのliberalの意味を寛大さ、懐の広さと解した上で、自分とは異なる他者の立場に立って想像力を働かせることを指摘。順調に進んでいたものが破綻したとき、問題のありかを認識。きしみに出会って、問題を肌身に感じたときに本を手に取る。そうしたものとして教養を把握。
医師と患者、社会福祉活動の従事者と障害者との関係において、“専門知”の問題点が見えることがある。専門家としての他者の視点ではなく、患者・障害者という当事者の立場で考えるのが障害学(Disability Studies)。つまり、社会常識的にネガティブなものとみなされている身体状態を一つの個性と受け止めなおしてみる。Disabilityとは、物理的な問題ではなく、身体的特徴を根拠として社会的能力を奪い取られた状態と考える。ただし、この障害学も“学”となってしまうもどかしさ。現場の人たちからは「学者が何を言っている」と白い眼で見られることもあるが、現場から離れた立場だからこそ言えることもある。そこに学としての必要があると主張。
本田さんは、いわゆる“教養”といわれるものは、知識的な権威をもとにしてむしろ人々の間に立場的なギャップを生み出してきたと指摘。こうした“教養”のあり方を現実態とするなら、これとは違った他者への想像力という点での可能態としての教養が今こそ必要だろう。人間は余裕がないとき、他者への憎悪もしくは自己否定、いずれにせよ自分も含めた誰かに苦しみの原因を帰したくなる。苦しみ、つらさ、不安、そういったものを言葉で表現してみて、誰かに受け止めてもらえれば、それだけでも苦しみのかなりの部分は緩和されるはずだ。自分のつらさ、他人のつらさを分かち合う、そうした意味でギャップを埋めるための言葉のレッスンとして教養が必要だ。たとえば、雨宮処凛のように生活者としてのレレヴァンスを汲み取ることのできた言葉が力を持つのだろう。
現実の社会には、過度に不可視で、また逆に過度に可視的なものが入り混じっている。経済システムの論理で人間を使い捨てにしてしまうネオリベラリズムがまかり通っている中、「人間力」「美しい国」「愛国心」といったまやかしの言葉でそうしたザラザラの現実を不可視にしてしまう。他方、自分はダメだと見切りをつけてしまう、つまり狭い価値観の枠組みの中ですべてが可視的だと思い込んで自己嫌悪に陥ってしまう人もいる。そうした人々に対しては、人生には不可視な余白もあるんだと提示してあげる。見切りをつける必要はない、他にも手があるはずだという意味で、現実に対して批判的=criticalな視点を示すこと。もし知識人に何かできるとしたらそこだろう、と語っていた。
杉田さんは、要するに何を言いたいのかさっぱり見えてこなかったので、途中でメモをとるのをやめた。
最後に一人ずつおすすめの本を紹介。まず、本田さんはデュルケーム『社会分業論』。社会がバラバラに個人化してしまった中で、職業集団の持つ役割に眼をつけた先駆的な古典だという。本田さんは「専門性」の必要を説いている。人間はゼロの状態では何も考えるきっかけを得られない。やはり、土台としての帰属が必要。個人がバラバラになってしまった現代社会ではどうすればいいのか。「専門性」という形で一定の職業意識を持つ集団に帰属することで、出発の足がかりを得られるはずだ。ただし、その職業を一生のものとするとは限らず、可能性の幅を持たせた専門性という意味合いを持たせたいので、スペシャリティー+フレクシビリティー=フレクシャリティーという造語を提案。
市野川さんはガンジー『私の非暴力』を紹介。抵抗する、戦うということについて、普通の軍隊には資格制限がある。しかし、非暴力の軍隊には年齢も男女の別も障害の有無も一切関係ない、誰もが意志さえあれば参加できる、そのようにガンジーは言っていたと熱っぽくコメントしていた。杉田さんはフィンリー『民主主義』を紹介。
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