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2007年9月14日 (金)

大屋雄裕『自由とは何か──監視社会と「個人」の消滅』

 実務として法律を運用する場合と、現代社会論として法現象を考察する場合とでは、両者に認識上のギャップがあまりにも大きすぎて私のような法律の素人は頭が混乱してしまう。ざっくり言って、前者は個人の“自由意思”というフィクションに基づき、後者はそのフィクションを暴き出そうとする努力で対峙しているという構図にまとめられるだろうか。

 こうしたギャップが最も顕著なのは、法活動の主体、すなわち“自由意思”そのものの問題である。大屋雄裕(おおや・たけひろ)『自由とは何か──監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書、2007年)は、法哲学の立場から現代社会における“自由”をどのように捉えたらよいのか迫ろうとしている。原理的な概念がかみくだかれており、読みやすい。

 各個人が自ら判断して結んだ契約は尊重されねばならず国家ですら介入できないという私的自治は民法上の根本原則である。犯罪とされる事柄は予め周知されていなければならないという罪刑法定主義は刑法上の根幹をなす。いずれにせよ、各個人は“自由意思”に基づいて自律的・理性的に振舞うはずだという前提がある。

 しかし、人間とはそんなに理性的なものだろうか。なぜ法をみだす者がいなくならないのだろうか。個人の内面で自己完結的に“自由意思”を持つとされるモデルを否定し、人間の行為がむしろ社会的、環境的、場合によっては生得的な要因、つまり個人の“自由”ではどうにもならない外的な要因で左右されてしまうところに法的問題を見出す立場が19世紀になって現われた。新派刑法学である。たとえば、犯罪人類学を打ち出したロンブローゾなどが有名だ。

 さらにつきつめると、法をみだしかねない人間類型やシチュエーションを法則的・確率論的に把握して予め対策を立てておけば法的秩序は確保されるはずだ。すなわち、犯罪をおこさせない環境を物理的・社会工学的に設計するアーキテクチャ(環境管理)的権力を活用しようという発想につながる。たとえば、通路に妙なオブジェを置いてホームレスを制裁的にではなく物理的に排除しようというのがこれである。法には抵触させていないという点で表面的には“自由”を保障しているかのような素振りを示しつつも、行動の選択肢を実質的に狭めることで秩序維持をはかる。

 ここには次の問題がある。第一に、アーキテクチャを設計した者が実質的な支配者となってしまう。第二に、ホームレス排除のオブジェはあからさまなのですぐにわかってしまうにせよ、アーキテクチャ的権力の最たる特徴は、規制を受けた側が、そのこと自体に気付かないこと。行動の選択肢が最初から削ぎ落とされているのに、それを我々は“自由”と呼ぶことができるのだろうか? 

 以上をまとめると、“自由意思”に基づく個人というフィクションを前提として、法や社会規範に基づき違反者に対し事後的に制裁を加えるという法的権力のあり方が一方にある。これが一般に了解された法的秩序だが、素朴な“自由意思”など成り立たないことは現代思想の様々な議論から明らかだろう。あくまでもフィクションに基づくシステムにすぎない。他方、潜在的リスクを予め把握しておき、アーキテクチャ的権力によって事前的に規制を加えていくという手段も現実に取られている。選択肢を狭めることで成り立つ秩序なのだから、本来的に“自由”は期待すべくもない。

 いずれにせよ、実質的に“自由”などあり得ない中で、なおかつ我々は建前であれ何であれ“自由”を基本原則とした社会に生きているという根源的な矛盾がある。これをどのように考えればいいのか? 本書の著者は、“自由な個人”だから責任を負うというのではなく、逆に責任を負うという態度を示したときに“自由な個人”とみなされると述べている(本書、199頁)。フィクションを引き受けて生きる覚悟を再確認するしかないという点で私は説得的に感じた。

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