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2007年9月12日 (水)

出張ついでに寄り道③綾部

(承前)

 近代日本の宗教史に関心のある人ならばすぐに思い当たるだろうが、綾部には大本教本部の一つがある(他に、亀岡と東京)。ここは大本教の開祖・出口なおが暮らしていたことにちなんで聖地とされている。なお、もう一つの聖地・亀岡は出口王仁三郎が生まれたところである。以前にもこのブログで触れたことがあるが、私は高橋和巳『邪宗門』が好きで、とりわけ第一部のラスト、教団本部が炎に包まれ、信者たちが特高によって次々と検挙されていくシーンが印象に強く焼きついていた。それで、綾部に寄ってみようと思った次第。

 綾部には30分ほどして到着。山陰本線との接続駅なので人はたくさん降りるのだが、駅から外に出る人は少ない。駅前のロータリーに植芝盛平の記念碑があった(写真18、写真19)。合気道の祖である。実は植芝も熱心な大本信者で、綾部に移り住んでいた。合気道の精神性には大本の教義も影響していると言われている。

 駅前の観光案内所に行ったが、市内観光マップのようなものはない。大型の地理表示板で大本本部のだいたいの位置を確認。遠くはないようなので、取りあえず出発。街並みはやはり寂しい。最初、昭和30年代の地方の商店街はこんな感じなのかなと思いながら歩いていたのだが、ところどころ明らかに戦前に建てられたおぼしき店屋がある。タイル貼りの店構えに、やたらと大きなショーウィンドー。しかし、すでに廃業しており、中はほこりだけ。そうした古い店構えでまだ営業中の薬屋さんがあった。写真を撮ろうと思ったのだが、隣の理髪店の腰が曲がったご老人が店先で背伸びしており、気兼ねして素通り。歩きながら何となく、チリンチリンと静かな風鈴の音がこの商店街には似つかわしく感じた。

 大本本部は駅から歩いて15分くらいだろうか。私は信者ではないので入るのに少々ためらいがあったのだが、「犬を連れての入苑はご遠慮ください」という立て札がある。一般人でも気軽に入っていいみたいだ。ここは梅松苑というらしい。弥勒殿という大きな建物がすぐに目に入った(写真20)。その向こうにある池を取り囲むように、鳥居のような社がしつらえてある(写真21)。

 弥勒という言葉には仏教的な末法思想がうかがわれるが、鳥居の横の説明板には神道的な神名が書かれていた。五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』(ちくま学芸文庫、2007年)によると、こうした配置には大本教なりの世界観が表現されているらしい。学生の頃、『大本神諭』(平凡社・東洋文庫、1979年)にざっと目を通したことがある。ただしその時は、「世の立て替え」という言葉だけをピックアップして、近代化に対して土着的な革新を求める反応という枠組みでフィルターをかけて大本教をみていたので、教義の詳細はよくわからない。

 弥勒殿は木造家屋をそのまま巨大化したような感じ。縁側ぞいのガラス戸はみな開け放たれて、中にあちこち扇風機が置いてあるのが見える。何となく、古い湯治場の休憩広間を思い出した。今日は行事などもないようで、事務室以外に人の姿はまったく見えない。

 私は近代の新興宗教団体の拠点施設をいくつか見に行ったことがある。某S学会の本部は信濃町にあるが、八王子もどういうわけだか“聖地”扱いを受けている。S大学やF美術館も含む大規模建築群を見て、よくこんなに金をつぎこんだものだと驚いた。港区飯倉にあるR会の神殿はキッチュな上にとにかくでかくて、何となくスペースオペラのロケに使いたくなる感じ。天理市に行った時の光景は実に不思議だった。全国から集まる信者のために五階から十階くらいまでありそうな大きな宿泊施設が街のあちこちに建てられているのだが、相応に大きな屋根瓦が葺かれている。電車で天理市に入ってくると、それが実に壮観だった。それにしても、建築基準法はクリアしているのだろうか。

 新興宗教団体はそうした感じに大きな建物を立てる傾向があるが、綾部の大本本部をみると、むしろ質素に小作りという印象がある。亀岡や東京は見ていないのではっきりしたことは言えないが。五十嵐『新宗教と巨大建築』によると、戦前の弾圧で建造物が徹底的に破壊された後、記憶を残すため敢えて再建しなかった区画もあるらしい。出口なおの夫・政五郎の職業は大工で、大本なりに建築へのこだわりもあるらしく、「立て替え」という言葉遣いには、大工の家族としての影響があると言われている。

 大本本部から道路を挟んだ向かい側の住宅密集地に、頭一つ突き出た十字架が見えた。行ってみると、カトリックの教会堂だった。近くにはプロテスタントの教会もある。このあたりは宗教的霊性の強い土地柄なのだろうか。「世界が平和でありますように」という世界救世教のお札の貼ってある家も結構見かけた。教祖・岡田茂吉はもともと大本教の信者だった。それから舞鶴で生長の家の施設を見かけたのだが、教祖・谷口雅春もやはり大本教出身者である。

 綾部駅から特急たんご号に乗って京都駅まで戻る。山あいの細長い平地に田んぼの緑が広がり、そこに夕暮れの黄昏色が染みている色合いは、見ていて実に心地よい。

 京都駅から東京駅に向けてのぞみに乗車。ところが、岐阜県の集中豪雨で米原に停車したまま2時間半も待たされた。その間、保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』を読了、同じく保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』を読み始めた。東京駅には夜中の12時過ぎに到着。中央線の終電にギリギリで飛び乗り、何とか帰宅できた。先日、広島からの帰りでもやはり同様に新幹線が遅れて終電を逃しそうになったことがあり、妙なジンクスになりそうでいやな後味の悪さが残った。

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コメント

> 「世界が平和でありますように」という世界救世教のお札の貼ってある家も結構見かけた。教祖・岡田茂吉はもともと大本教の信者だった。

どうでもいいことですが、「世界人類が平和でありますように」というお札は、世界救世教ではなく、白光真宏会(教祖、五井 昌久)という宗教の活動です。
教祖が、世界救世教や生長の家と関係がありますので、全くの無関係ではないですが。

投稿: 酔歌 | 2007年9月15日 (土) 05時56分

酔歌さん、ご指摘の通りのようですね。おぼろげな記憶だけに頼って下調べをおこたったので間違えました。ありがとうございました。

投稿: トゥルバドゥール | 2007年9月15日 (土) 09時20分

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