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2007年9月 2日 (日)

上杉隆『官邸崩壊』

 第二次安倍政権の閣僚名簿に与謝野、高村、町村といった名前を見て、不覚にも(?)頼もしく感じたのは私としては奇妙な経験であった。よくよく考えてみると特に感心するような人事でもない。それだけ、第一次政権のぶざまな体たらくが目に余ったということだ。

 上杉隆『官邸崩壊──安倍政権迷走の一年』(新潮社、2007年)は参院選惨敗に至る政権内部の混乱した人物模様を描き出している。どこまで信憑性があるのか確認する術は私にはないが、報道記者や議員秘書を務めた著者の経歴からすると、独自のネットワークも駆使して肉薄しているのだろう。

 安倍晋三という人物個人に対して私は悪意を持っていない。著者も彼の優しい性格を折に触れて書き留めている。しかし、カリスマ的な小泉の跡目をつぐのに力不足だったことは否めない。側近たちの“勘違い”ぶりが政権の傷口をますます広げてしまう醜態を、これでもか、これでもかとばかりに活写される筆致をたどっていると、唖然とするのを通り越して、何やら不可思議な喜劇を見ているような気分になってくる。

 もちろん、側近たちの個人としての力量不足、経験不足がたたっているのは確かだろう。しかし、それ以上に、小泉が従来的な自民党政治を徹底的にぶち壊すことで作り出された例外状況に対応するのは、彼らでなくとも難しかったようにも思われる。それだけに、安倍政権をテーマとしているにも拘わらず、小泉の特異さが浮き彫りになってくるのがちょっと不気味ですらある。

 小泉という人の確信犯的なニヒリズムは政治家としての基準にはならない。本書を読みながら最も印象付けられたのは、安倍首相も含めて、登場人物の誰もがいたって凡人であることだ。政策立案能力という点では、たとえば塩崎前官房長官のような切れ者もいる。しかし、彼らが真に国を憂えているようには思えない。口で美辞麗句を並べるのは誰だってできるが、態度は自ずと表われる。

 かつてマキャヴェリは、フィレンツェという国家の生き残りを図るためあらゆる手段を取らねばならないという強い意志のもと、その前提として自国をめぐる内外の状況をリアルに把握すべく、善悪是非という倫理的判断を相対化させた。政治現象のリアルな認識を求めたという点でマキャヴェリは近代政治学の始祖と目されることになった。しかし、彼にとってそれは、他ならぬ“国家のため”という極めて切迫した動機が一切の楽観を許さなかったからである。つまり、切実な愛国心こそが権謀術数主義を生み出したのである。

 安倍側近たちに戦略は事実上皆無であった。楽観的な判断によって政権の傷口を広げ、個人的な功績争いに浸っているようなゆるい官邸の空気。そのこと自体、切迫した愛国心が欠如した他ならぬ証拠である。

 付け加えると、偉そうにいう私自身は日本が滅んでも構わないと思っている。ただし、その時は一蓮托生、逃げ出さずに心中するつもりでいるが。しかし、“正統保守”を自称する政治家たちがこんなたるい心構えであってはまずいだろう。

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