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2007年9月30日 (日)

ミャンマー(ビルマ)情勢の背景

 ミャンマー(ビルマ)情勢が緊迫している。僧侶のデモに対して発砲するなどという事態は敬虔な仏教国としては極めて異例なことである。また、日本人ジャーナリストが命を落としたが、9月28日現在での報道によると、治安部隊から狙い撃ちされた可能性が高いとのこと。これまでミャンマー(ビルマ)の軍事政権にあまかった日本政府も態度を変えざるを得ないだろう。

 ところで、ミャンマー(ビルマ)とまわりくどい表記をしたのにはわけがある。MyanmarもBurmaも語源的には同じらしいが、クーデターをおこした軍事政権が対外的な英語名を従来のBurmaからMyanmarに変えたという経緯があるため、軍事政権に批判的な人々は敢えてBurma=ビルマという呼称を用いている。国連でアメリカのブッシュ大統領がミャンマーへの制裁強化を求める演説をした際、Burmaと発音していた。とかく言い間違いの多いブッシュだが、今回ばかりはそうではない。軍事政権の正統性をアメリカは認めていないぞ、というニュアンスをほのめかしたものと解される。

 今回のデモの直接のきっかけはガソリンの値上げとのことだが、国内での生活はかなり厳しいらしい。田辺寿夫『ビルマ──「発展」のなかの人びと』(岩波新書、1996年)や田辺寿夫・根本敬『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(角川oneテーマ21、2003年)などによると、単に貧しいというだけでなく、強制労働に動員されたり、あるいは国軍が山岳地帯の少数民族武装ゲリラを討伐するにあたり住民を荷物運びとして徴発する“ポーター狩り”も行なわれている。地雷原を行軍する際に“ポーター”は盾代わりに先頭を歩かされるという。当然ながら、言論の自由はない。人々の間に密偵が紛れ込んでいるので、うかつに政治的な話題を出すことはできない。口には出さねど国中に鬱積してきた不満が今回一挙に噴き出したと言える。

 ビルマは19世紀にイギリスによって征服され、イギリス領インド帝国に併合された。山岳地方に暮らすカチン族やカレン族などの少数民族はキリスト教に改宗し、イギリスお得意の分割統治政策はビルマでも大きな力を発揮した。それは現在でも尾を引いている。第一次世界大戦の頃から独立運動が盛り上がり、とりわけ1930年代におこったサヤサンの反乱が知られている。1937年にはインドから分離され、ビルマ総督が置かれた。

 ビルマの独立運動において日本との関わりは浅くない。僧侶のウーオッタマ(1879~1939年)は日露戦争に大きな衝撃を受け、1907~12年にかけて3度、大谷光瑞の世話で来日している。また、植民地首相となったウーソオ(1900~48年)は、ビルマの自治領への格上げを求めてイギリスやアメリカを回ったものの芳しい成果が得られなかった。帰国途上、ホノルルに寄港したのが1941年12月7日(日本では8日)。日本軍の真珠湾攻撃を目の当たりにして日本との接触を試みるが、イギリス側に気付かれ逮捕、アフリカに抑留された。

 日本も戦略的観点からビルマに目を付けており、反英民族運動の中心的存在だったタキン党(われらビルマ人協会)に陸軍の鈴木敬司大佐が接触した。とりわけアウンサン(1915~47年)に注目、彼ら30人に軍事訓練をほどこし(この時の鈴木大佐を長とする組織が“南機関”である)、彼らを中核としてビルマ独立義勇軍が結成された。こうした経緯はボ・ミンガウン(田辺寿夫訳)『アウンサン将軍と三十人の志士──ビルマ独立義勇軍と日本』(中公新書、1990年)に詳しい。

 ビルマは日本軍の占領下で名目上の“独立”を宣言し、かつて植民地首相を務めた経験もあるバーモウ(1893~1977年)が首相、アウンサンが国防相に就任した。学生の頃、大東亜会議の出席者に興味を持って、バーモウの自伝(横堀洋一訳)『ビルマの夜明け』(太陽出版、1973年)に目を通したことがあるが、なかなかにしたたかな政治家だという印象があった。

 日本軍の敗色が濃くなると、アウンサンたちは反ファシスト人民自由連盟を結成し、抗日に転じた。イギリスとの協議の結果、独立が間近となったまさにその時、アフリカから帰国したウーソオの一派がアウンサンを暗殺してしまう。ウーソオはただちに逮捕され、処刑された。1948年、反ファシスト人民自由連盟のウヌーを初代首相としてビルマは正式に独立を果す。

 アウンサン亡き後は、三十人の志士たちの一人、ネウィンが軍隊を掌握し、1962年にクーデターをおこして1988年まで独裁体制を敷くことになる。ネウィンをはじめ国軍の幹部には日本と人脈的なつながりを持つ者が多いため、経済援助など日本政府との結びつきは強かった。なお、ビルマ国軍が軍艦行進曲を演奏することがトリビア的なエピソードとしてよく語られるが、国軍の基礎は日本軍の南機関によって作られたという歴史的な背景による。

 1988年、学生の些細ないざこざをきっかけに騒動となり、軍事政権に対する不満が一挙に爆発して大規模なデモに発展する。逮捕された学生が狭い車両に詰め込まれて窒息死するという事件もおこり、軍事政権への反発は倍加的に大きくなって、事態を収拾するのが難しくなった。ネウィン議長は辞任したものの、退任声明の中で混乱には実力行使で鎮圧すると言明。言葉通りに流血の事態が続き、国軍は国家法秩序回復評議会(SLORC)を設立、ソウマウンを議長として軍事政権の枠組みは維持された。この政権において国名はビルマからミャンマーへ、首都名はラングーンからヤンゴンへと変えられた(2006年にネピドーへ遷都)。

 SLORCは公約に従って1990年に総選挙を実施したが、アウンサンスーチーが指導する国民民主連盟(NLD)が議席の80%を占めて圧勝した。軍事政権側はこの選挙結果を無視してNLDを弾圧、アウンサンスーチーは自宅軟禁状態に置かれる。その後、SLORC議長はタンシュエに交代、1997年には国家平和発展評議会に改組された。2002年にアウンサンスーチーはいったん自宅軟禁状態を解かれたが、翌年、遊説中におこった襲撃事件で死傷者が出て、再び身柄を拘束された。さらに、NLDとの融和路線を進めていた穏健派のキンニュン首相が2004年に汚職容疑で逮捕され、失脚。代わった現在のソーウィン首相は2003年の襲撃事件の責任者だったと言われる。いずれにせよ、こうした経緯をたどって現在に至っている。

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