ジグムント・バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』
ジグムント・バウマン(中島道男他訳)『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)
社会全体を束ねる国家目標に向けて人々を動員するという考え方がもはや時代錯誤であることは、今現在生きている我々にとって当然のごとく皮膚感覚にまでしみわたっている。“国家”という呪縛から解放された戦後日本においては、天下国家のためでなく自分自身のために生きること、そうした意味での個人主義が推奨された。自律的に判断し、自らの“夢”に向けて打ち込むという人間類型が一つの理想となった。しかし、それとても趨勢としては芳しいとは思えない。上の世代が“しらけ”と呼んで嘆いてみせてからすでに久しいが、精神論で片付く問題ではない。“夢”に向けて頑張る人の美談は今でもよく語られるが、その口調にはどこかノスタルジックな響きすらこもる。
ポスト・モダニティ(後期近代)とは個人化が徹底された時代であり、バウマンはリキッド・モダニティ(液状化した近代)と呼ぶ。この時代に、もはや人々が求めるべき確固たる目標はない。激変する環境に適応すべく、個人一人一人もまたカメレオンのように変わり続けなければならない。そればかりか、競争で優位に立つためには率先して変わる努力を続けなければならない。何のために、ではなく、変化そのものが、目新しさそのものが価値を持つのである。社会レベルでも、個人レベルでも、固定的な目標は嫌われる。彼が変わるから私も変わり、私が変われば彼も変わる、そうしたエンドレスのゲームが繰り広げられる社会。従って、流動的、液状的というイメージ。こうした社会には市場原理主義が最も適合的であり、その動きが国境からあふれ出してグローバリゼーションが進む。
市場のゲームからはじき飛ばされた人々、あるいは最初から参加資格が認められない人々はどうなるか。グローバルには難民が、ドメスティックには貧困層の問題がある。彼らが市場の液状的なゲームに再参入することはほとんど不可能である、つまり社会生活的にリサイクルできない存在=“人間ゴミ”(wasted lives)とみなされる。
つまり、市場のゲームに参加する能力をもたないことが、だんだんと犯罪者扱いされる傾向にあるのである。国家は、自由市場の論理(あるいは非論理性)から生じる脆弱性と不確実さから手を引いており、そうした脆弱性と不確実性は、今では私事として、つまりは、諸個人が私的に所有している資源によって処理し対処すべき問題として定義しなおされている。ウルリヒ・ベックが言うように、諸個人は今やシステムの諸矛盾にたいして個人史のうえで解決を探し求めることが期待されているのである。(本書、89ページ)
どんな事情があろうとも、出自も含めてほんの偶然の不幸に過ぎなかったとしても、はじきとばされたこと自体がお前のせい、ということになる。結果として市場のプレイヤーとして振舞えるか否かだけが問題となるのであって、その経緯は一切問われない。個人中心なので国家による再配分・再教育の機能を正当化する根拠も乏しい。しかし、はじき飛ばされた人々の抱く不満は潜在的な危険となる。ゲームのプレイヤーを守るため、難民や貧困層に対しては、社会内において統合を図るよりも、隔離という対策を取る方が効率的となる。つまり、社会的排除の問題がここに現われる。
バウマンの示した見取り図は悲観的で、どこかニヒリスティックですらある。無論、現実には市場主義の行き過ぎによる弊害に対して何らかの対策を取ろうという努力はされているが、なかなか実を結ばない。何か具体的な原因があれば対策の立てようもある。しかし、近代という時代の性格に深く根ざした問題であるだけに、ただただ途方にくれるばかり。感情をこめずに淡々と進めるバウマンの論述を見て、社会学というのも結構残酷な学問だなあ、という妙な感想も持った。
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