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2007年9月

2007年9月30日 (日)

ミャンマー(ビルマ)情勢の背景

 ミャンマー(ビルマ)情勢が緊迫している。僧侶のデモに対して発砲するなどという事態は敬虔な仏教国としては極めて異例なことである。また、日本人ジャーナリストが命を落としたが、9月28日現在での報道によると、治安部隊から狙い撃ちされた可能性が高いとのこと。これまでミャンマー(ビルマ)の軍事政権にあまかった日本政府も態度を変えざるを得ないだろう。

 ところで、ミャンマー(ビルマ)とまわりくどい表記をしたのにはわけがある。MyanmarもBurmaも語源的には同じらしいが、クーデターをおこした軍事政権が対外的な英語名を従来のBurmaからMyanmarに変えたという経緯があるため、軍事政権に批判的な人々は敢えてBurma=ビルマという呼称を用いている。国連でアメリカのブッシュ大統領がミャンマーへの制裁強化を求める演説をした際、Burmaと発音していた。とかく言い間違いの多いブッシュだが、今回ばかりはそうではない。軍事政権の正統性をアメリカは認めていないぞ、というニュアンスをほのめかしたものと解される。

 今回のデモの直接のきっかけはガソリンの値上げとのことだが、国内での生活はかなり厳しいらしい。田辺寿夫『ビルマ──「発展」のなかの人びと』(岩波新書、1996年)や田辺寿夫・根本敬『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(角川oneテーマ21、2003年)などによると、単に貧しいというだけでなく、強制労働に動員されたり、あるいは国軍が山岳地帯の少数民族武装ゲリラを討伐するにあたり住民を荷物運びとして徴発する“ポーター狩り”も行なわれている。地雷原を行軍する際に“ポーター”は盾代わりに先頭を歩かされるという。当然ながら、言論の自由はない。人々の間に密偵が紛れ込んでいるので、うかつに政治的な話題を出すことはできない。口には出さねど国中に鬱積してきた不満が今回一挙に噴き出したと言える。

 ビルマは19世紀にイギリスによって征服され、イギリス領インド帝国に併合された。山岳地方に暮らすカチン族やカレン族などの少数民族はキリスト教に改宗し、イギリスお得意の分割統治政策はビルマでも大きな力を発揮した。それは現在でも尾を引いている。第一次世界大戦の頃から独立運動が盛り上がり、とりわけ1930年代におこったサヤサンの反乱が知られている。1937年にはインドから分離され、ビルマ総督が置かれた。

 ビルマの独立運動において日本との関わりは浅くない。僧侶のウーオッタマ(1879~1939年)は日露戦争に大きな衝撃を受け、1907~12年にかけて3度、大谷光瑞の世話で来日している。また、植民地首相となったウーソオ(1900~48年)は、ビルマの自治領への格上げを求めてイギリスやアメリカを回ったものの芳しい成果が得られなかった。帰国途上、ホノルルに寄港したのが1941年12月7日(日本では8日)。日本軍の真珠湾攻撃を目の当たりにして日本との接触を試みるが、イギリス側に気付かれ逮捕、アフリカに抑留された。

 日本も戦略的観点からビルマに目を付けており、反英民族運動の中心的存在だったタキン党(われらビルマ人協会)に陸軍の鈴木敬司大佐が接触した。とりわけアウンサン(1915~47年)に注目、彼ら30人に軍事訓練をほどこし(この時の鈴木大佐を長とする組織が“南機関”である)、彼らを中核としてビルマ独立義勇軍が結成された。こうした経緯はボ・ミンガウン(田辺寿夫訳)『アウンサン将軍と三十人の志士──ビルマ独立義勇軍と日本』(中公新書、1990年)に詳しい。

 ビルマは日本軍の占領下で名目上の“独立”を宣言し、かつて植民地首相を務めた経験もあるバーモウ(1893~1977年)が首相、アウンサンが国防相に就任した。学生の頃、大東亜会議の出席者に興味を持って、バーモウの自伝(横堀洋一訳)『ビルマの夜明け』(太陽出版、1973年)に目を通したことがあるが、なかなかにしたたかな政治家だという印象があった。

 日本軍の敗色が濃くなると、アウンサンたちは反ファシスト人民自由連盟を結成し、抗日に転じた。イギリスとの協議の結果、独立が間近となったまさにその時、アフリカから帰国したウーソオの一派がアウンサンを暗殺してしまう。ウーソオはただちに逮捕され、処刑された。1948年、反ファシスト人民自由連盟のウヌーを初代首相としてビルマは正式に独立を果す。

 アウンサン亡き後は、三十人の志士たちの一人、ネウィンが軍隊を掌握し、1962年にクーデターをおこして1988年まで独裁体制を敷くことになる。ネウィンをはじめ国軍の幹部には日本と人脈的なつながりを持つ者が多いため、経済援助など日本政府との結びつきは強かった。なお、ビルマ国軍が軍艦行進曲を演奏することがトリビア的なエピソードとしてよく語られるが、国軍の基礎は日本軍の南機関によって作られたという歴史的な背景による。

 1988年、学生の些細ないざこざをきっかけに騒動となり、軍事政権に対する不満が一挙に爆発して大規模なデモに発展する。逮捕された学生が狭い車両に詰め込まれて窒息死するという事件もおこり、軍事政権への反発は倍加的に大きくなって、事態を収拾するのが難しくなった。ネウィン議長は辞任したものの、退任声明の中で混乱には実力行使で鎮圧すると言明。言葉通りに流血の事態が続き、国軍は国家法秩序回復評議会(SLORC)を設立、ソウマウンを議長として軍事政権の枠組みは維持された。この政権において国名はビルマからミャンマーへ、首都名はラングーンからヤンゴンへと変えられた(2006年にネピドーへ遷都)。

 SLORCは公約に従って1990年に総選挙を実施したが、アウンサンスーチーが指導する国民民主連盟(NLD)が議席の80%を占めて圧勝した。軍事政権側はこの選挙結果を無視してNLDを弾圧、アウンサンスーチーは自宅軟禁状態に置かれる。その後、SLORC議長はタンシュエに交代、1997年には国家平和発展評議会に改組された。2002年にアウンサンスーチーはいったん自宅軟禁状態を解かれたが、翌年、遊説中におこった襲撃事件で死傷者が出て、再び身柄を拘束された。さらに、NLDとの融和路線を進めていた穏健派のキンニュン首相が2004年に汚職容疑で逮捕され、失脚。代わった現在のソーウィン首相は2003年の襲撃事件の責任者だったと言われる。いずれにせよ、こうした経緯をたどって現在に至っている。

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2007年9月29日 (土)

御厨貴『馬場恒吾の面目』

御厨貴『馬場恒吾の面目──危機の時代のリベラリスト』(中央公論社、1997年)

 馬場恒吾(1875~1956年)は戦前から戦後にかけて、主に政治評論で健筆を振るったジャーナリストとして知られる。彼の論調を意地悪に見て、戦前は微温的、戦争中は表舞台から引っ込んでいただけ、戦後は吉田茂政権に協力した保守主義者というイメージで捉える向きもある。しかし、議会政治の擁護という点では一貫しており、戦前における右翼、戦後における左翼という両極論にぶれずに筋を通したあたりは、オールド・リベラリストとしての面目躍如たるものがある。

 本書は、馬場が『読売新聞』で政治コラムの執筆を始めた1932年以降に焦点がしぼられる。すでに齢五十七であった。この年には五・一五事件がおこっており、軍国主義の暗雲が日本中にたなびきつつある中、政党政治の再生を願って論陣を張った。彼のコラムはとりわけ政治家の人物評論として好評を博していた。政党政治の原理原則論から鋭利な批判を加えつつ、同時に政治家個人の人間味あふれる個性も描き出す筆致に魅力があった。しかしながら、言論そのものが制限される中で、1940年、コラムは終了。本書は馬場の政治評論を通して1930年代の政治状況を活写してくれる。

 戦争中は憲兵に監視され逼塞していた馬場だが、戦後は再び脚光を浴びることになる。戦後における馬場を論じた第七章のタイトルは「戦う民主主義者」。公職追放となった正力松太郎に代わって読売新聞社長に就任した馬場は読売争議に直面するが、左傾化著しい組合側の無茶な要求には一歩も引かず切り抜けた。

 友人だった正宗白鳥は馬場の追悼文の中でこの読売争議で彼の示した手際に言及し、かつての評論家的な傍観者から当事者へと跳躍したことへの驚きを漏らしている。言論の自由が軍部によってむざむざと奪われたことへの無念の思いがバネとして働いたのだろう。なお、正宗は『読売新聞』で文壇人物評論を執筆していたことがあり、馬場の政界人物評論と共によく読まれていた。

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2007年9月28日 (金)

近藤ようこの作品

 近藤ようこの漫画作品を初めて読んだのはいつ頃だったろうか。確か『見晴らしガ丘にて』(ちくま文庫、1994年)だったと思う。母親の本棚にあった。私の母は離婚した後、幼い私を連れて祖父母の家に住んでいた。近藤の作品には、事情を抱えた娘と母親との葛藤をテーマとしたものが多い。当時の私は深くは考えてはいなかったが、最近になって改めて近藤作品を読んでみると、母が様々な気持ちを重ね合わせていたであろうことに思い当たるシーンが時折あり、今さらながらに感慨をもよおす。

 松岡錠司監督「アカシアの道」(2001年)という映画を観たことがある。主演の夏川結衣が好きだったので観に行ったのだが、この映画の原作者が近藤ようこだった(青林工藝舎、2000年)。アルツハイマーの母と、その母に対して複雑な想いを抱えた娘とを描いていた。この前話をなす『HORIZON BLUE』(青林工藝舎、1990年)は、母親から愛されていないと思い込んだ娘が、その葛藤の激しさのあまり親子関係、姉妹関係、夫婦関係を崩してしまい、そして自らの娘をも虐待してしまう心理的機微を細やかに描き出している。

 『鋼の娘』(祥伝社、2002年)もやはり母の呪縛に苛まされる娘が主人公。いずれの作品でも、自分の抱えている問題は他ならぬ母親自身もまた苦しんでいた問題であったことに気付き、たとえそうした葛藤は終わらないにせよ、少なくとも受け入れていく可能性がほのめかされているところに救いがある。

 『兄帰る』(小学館、2006年)という作品は好きだ。ある日突然、失踪してしまった男が交通事故で死んだ。婚約者を、兄を、息子を失った人々が、彼は何を思って失踪したのかという戸惑いの中、その足跡をたどる。不本意な人生と決め付け、嘆きたくなることもある。人はそれぞれのしがらみに絡め取られながら生きているが、理由探しをして断罪してもそれで問題が終わるわけではない。あきらめということとは違う。たとえ許せなくとも、自らに否応なくまとわりつくしがらみを直視し、受け入れながら今を生きていくことは十分にできる、そんなことを考えながら読んだ。

 他人がそれぞれに心に痛みを抱えながら生きていることは意外に分からない。むしろ、分かったようなつもりになっているぶしつけな善意は、その無理解ゆえの落差に愕然とすることがある。『移り気本気』(青林工藝舎、2005年)は全11話、オムニバス形式の短編集。前作で端役として登場した人に次作で焦点が合わせられるという形でチェーン状につながっている。様々な人物を交錯させることで、傍目にはさり気なくとも他ならぬ当人にとっては切実な葛藤がよく浮かび上がっており、この作品も結構好きだ。

 『アネモネ駅』(青林工藝舎、1998年)も日常における感情の機微をたくみにすくい取った短編集でなかなか良い。

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2007年9月27日 (木)

藤村安芸子『石原莞爾──愛と最終戦争』

藤村安芸子『石原莞爾──愛と最終戦争』(講談社、2007年)

 政治史・軍事史などキナ臭い関心から取り上げられることの多い石原莞爾だが、本書はむしろ感性的なレベルから彼の内在的な思索に迫ろうと試みている。かなり抽象的な論考で、文章がこなれている割には必ずしも読みやすくはないが、独特な石原莞爾イメージをつくり出しているのは新鮮に感じた。

 キーワードは“へだて”と“かかわり”、そして“結びつき”ということになるのだろうか。男女という個人的なレベルであっても、対米関係という世界史的なレベルであっても、互いの間に深い溝が横たわっている。そして、現世において究極的にはなかなか感得できない“真理”の世界。そういった“へだて”を乗り越えようとするところに人間の本質がある。

 その乗り越えるという努力の根源的な表われとして石原は戦争を捉えているのだという。無論、戦争という悲惨事は避けるにこしたことはない。しかし、悲しいことに人間というのは不完全な存在で、抽象的にではなく、具体的に身を以て訴えかける形でなければ何も分からない。つまり、一対一での全力を尽くした戦いを通してこそ、互いの“結びつき”の契機が現われる。この積み重ねによって、日本は天皇を中心にまとまり、最終戦争を通してやがて世界は一つとなる。同時に戦いは、目に見えて手で触れられるものしか理解しようとしない我々が、死力を尽くして自らの身を投げ出すことで“超越”へと迫るきっかけともなる。

 つまり、石原が一貫して求めていたのは、他者との“かかわり”、そして絶対的な真理との“かかわり”のあり方であって、“戦争”はその不可避的な手段として位置づけられていたという。

 地図=大地を歩くイメージや妻・銻の存在をクローズアップしたあたりにも本書の特色がある。どこまで説得力を持つのかにわかには判断しかねるが、少なくとも石原莞爾という人物について多面的な読みの可能性を開いた点では興味深い作品だと受け止めている。

 「再発見日本の哲学」(菅野覚明・熊野純彦責任編集)というシリーズの一冊だが、他にも廣松渉、大森荘蔵、小林秀雄、折口信夫、北一輝、平田篤胤など私自身興味を持っている魅力的な人物がラインナップに並んでおり、楽しみにしている。

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2007年9月26日 (水)

写真集をネタにとりとめなく雑談

 昼休み、少し足をのばして銀座コアのブックファーストへ行った。店舗面積はそれほど広いわけではないが、美術書のコーナーが見やすく充実しているのでよく立ち寄る。例のごとく、写真集を立ち見。

 “傷”をテーマとした写真集2冊が正面に面陳されていた。1冊は、石内都『Innocence』(赤々舎、2007年)。モノクロームで撮影された手術痕、切り傷、ケロイド──。体に刻印された傷そのものに人それぞれの生のありようを見つめていく。以前、竹橋の国立近代美術館だったと思うが、石内の写真展を見た覚えがある。その時以来、この“傷”シリーズは気になっていた。

 もう一冊、岡田敦『I am』(赤々舎、2007年)はリストカットした男女の裸体を様々なアングルから写しだす。意外と落ち着いた表情と、内腕に刻まれた無数の切り傷の痛々しさとのギャップが印象にやきつく。女性の局部などもありのままに写っているのだが、芸術的意図があれば倫理規定はクリアできるのか?

 今年に入って、大山顕・石井哲『工場萌え』(東京書籍、2007年)をはじめ、産業もの写真集が相次いで刊行されたのが目立った。萌えるかどうかは別として、複雑に配管のめぐらされたメカニックな立ち姿はそれぞれに個性的で、意外と目を引付ける。サルマル・ヒデキ『東京鉄塔』(自由国民社、2007年)も風情があっていい。歩調を合わせたかのように銀林みのる『鉄塔武蔵野線』(ソフトバンク文庫、2007年)が復刊されていた。他にも、萩原雅紀『ダム』(メディアファクトリー、2007年)、佐藤淳一『恋する水門』(ビー・エヌ・エス新社、2007年)など、普段は意識しないだけに、一つのテーマとして打ち出して並べられるととても面白い。

 小林伸一郎『最終工場』(マガジンハウス、2007年)は日本の経済発展を支えてきた末に用済みとなった工場の姿を写している。こうした廃墟の風景に私は非常に引付けられる。そういえば、小林も含め何人もの写真家たちが長崎の軍艦島をテーマとした写真集を出しているな。

 NHKで夜中に放映している「サラリーマンNEO」を時々見ることがある。脱力的なコメディーで、あまり笑えないのだが、なぜか習慣的に見てしまう。この番組で最近、「サラリーマン体操」という奇妙なパントマイムをやっている。これを踊っているコンドルズというグループの公演シーンを集めた『第2ボタン コンドルズ写真集』(扶桑社、2007年)、およびリーダーを被写体とした野村佐紀子写真集『近藤良平』の2冊を見かけた。なんか妙な人たちだなあと思っていたのだが、意外にすごいダンス・グループだったんですね。

 以上、すべて立ち見です。書店の方、申し訳ございませんでした。夕暮れの雲に映えた色合いが好きなので、鷹野晃『東京夕暮れ』(淡交社、2007年)だけ購入しましたので、お許しください。

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2007年9月25日 (火)

「tokyo.sora」

 通勤などでいつも使う電車に乗っていたときのこと。電車が高架路線にさしかかると、空間が開け、空がとても広々と感じられる。ある夕暮れどき、新宿の高層ビル群を遠景に雲が薄紫色に染まっているのを見て、心底、美しいと思ったことがある。地方に行けば星空の美しさに感じ入ることもあるが、そういうのとは違う。普段、ささくれ立った気持ちを抱えて地にはいつくばりながら、屋根のすき間、ビルの谷間から狭い空を見上げることはあっても、たいした感懐はわかない。しかし同じ空なのに、自分のそうした日常を大きくくるむように広がっていて、ほんの一瞬ではあっても美しいと胸に迫ってくることがあり得る。そのことが胸を締め付けるように響いた。気が滅入っていて、感傷にふけりたい精神状態だったのだろうが。

 「tokyo.sora」は東京に暮らす六人の女性たちの姿を描いた映画である。それぞれに孤独な彼女たちは、互いに微妙な距離ですれ違い合いながら、ひっそりと自らの想いを秘めて、この巨大な迷路のような街の片隅に暮らしている。

 話題の展開はセリフでは示されない。会話のシーンもあるのだが、それ自体としては意味を持たず、風景の中にとけこんでいる。彼女たちの生活光景そのものをパッチワークしながら、いわば映像抒情詩とも言うべき形で、東京という都市が一面において持つ切ない息遣いを静かに浮かび上がらせている。

 ほこりっぽい高架下の通路、古い木造アパートの六畳間、洗濯機のうなり声がうるさいコインランドリー、ランジェリー・パブの楽屋代わりに使われている裏階段──。そういった生活光景のディテールを積み重ねて醸し出される情感が私は好きだ。

 そして時折、間奏曲のように空が映し出される。部屋の窓から見上げる狭い空。屋上から東京を広々と見渡す、その背景としての空。映画の進行に従って色合いも変化し、登場人物の心情と空の表情とがあたかも感応しあっているかのような錯覚にも陥る。

 何よりも素晴らしいのは、女性たち一人一人の表情の捉え方だ。もちろん、六人とも美しい、もしくはかわいらしい女性ばかりなのだが、そういうことではない。たとえば、中国人留学生の、言葉は伝わらないのだが自分に気づいてくれたときの嬉しそうなうなずき。美大生がデッサン・モデルの均整の取れた肢体に注ぐあこがれの眼差し。ランジェリー・パブでのバイトを掛け持ちする美容師見習いの、疲れたような、物事をあきらめてしまったかのような横顔。誰もが生活の中でふと見せることのある、感情のゆらめきが自然にかつ切迫して流れ出てきたがゆえの魅力的な表情というのは、それがたとえ憂いのこもったものであっても、確かにこうした美しさを帯びるのだろうと感じられた。

 私はこの映画が本当に好きで、折に触れて繰り返し観ている。なぜこれほどまでに強い思い入れを持つのか、スマートな言葉で表現できないのがもどかしく、悔しい。

【データ】
監督:石川寛
出演:本上まなみ、孫正華、仲村綾乃、高木郁乃、板谷由夏、井川遥、西島秀俊、香川照之、他。
2001年/127分
(2007年9月22日、DVDで)

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2007年9月24日 (月)

連休中の動静

 土曜日は朝から国会図書館につめて調べもの。ここでは、いかに効率的に時間を組み立ててコピーできるかが勝負。とにかく疲れた。退館する頃には、大量のコピーを前に、何やら一仕事終えたような錯覚に陥る。本当の作業はこれからなんだけどね。

 翌日曜日の朝。昨晩、というよりも今暁未明、布団に転がって本を読んでいたら、いつしか眠りに落ちていたようだ。寝返りをうつと腹のあたりに本のかたさを感じた。散らかった部屋を見回す。どうも気分が滅入っているようで、自分の人生の不毛をつくづく感じ始めた。こうなるとやばい。とにかく、居場所を変えたい。関東近郊温泉案内のムック本を引っ張り出し、パラパラとめくる。特に深い理由もなく、奥秩父の両神温泉という所に決めた。電話連絡したら宿も取れた。観光目的ではなく、何も考えずにボーっと取り留めなく読書したいと思い、リュックサックに7冊ばかり詰め込んで出発。

 まずは池袋へ。とりあえずジュンク堂書店、リブロと回っているうちにいつのまにか5冊買い込んでいた。合計12冊。半分は文庫本とはいえ、リュックの重みを背に受けて、何だか本の行商にでも行くような気分。

 12:30池袋発、西武秩父行きのレッドアロー号に乗車。車中で梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』(角川文庫、2007年)を読み終え、次に川本三郎『東京の空の下、今日も町歩き』(ちくま文庫、2006年)。先ほどリブロで買ったうちの1冊だ。何も考えずに手にとったのだが、そういえば、本を持って一泊小旅行というのは川本のエッセーを読んで触発されたことだったと今さらながらに思い出した。この本の出だしも青梅の一泊旅。今朝、行き先を考えていたとき、実は奥多摩方面という選択肢も検討していたのであった。川本の町歩きエッセイは、町の風景をつづりながら「そういえばこの作品にこんな描写があった」という感じに様々な文学作品や映画から縦横無尽に引用してくるのが魅力的で、いつも感心している。

 飯能でスイッチバック。後向きのまま山中の渓流沿いの風景が流れていくのも妙な気分だ。空はどんよりとした雲が立ち込め、小雨が降っている。「歩くぞ!」と意気込んでいたならばこうした雨雲は非常に厭わしく、できることなら吹き飛ばしてやりたいものだが、今回はとにかく宿でぼんやりしたいというのが目的なので気にならない。むしろ、雨の温泉というのも風情があってよさそうだ。

 13:45頃、西武秩父着。秩父鉄道に乗り換え、終点の三峰口へ。14:20くらいに到着。ここからバスに乗るのだが、あらかじめ調べておいた時刻表によると、次は15:26発車。時間つぶしがてら駅前のそば屋に入った。ハイキング姿、中年男女10人くらいのグループが盛り上がっていた。山菜そばを注文。中学生くらいの女の子二人が手伝っており、注文を取りにきた子にバス停の場所を尋ねた。夏帆を思わせる素朴にかわいい子だった。

 15:00ちょっと前くらいにバスが来た。発車まで30分ほどあるが、小雨が降っているので運転手さんに頼んで乗せてもらった。運転手さんはタバコでも吸いに降りていったが、ラジオをつけっぱなしにしてくれていた。ちょうど自民党総裁選開票作業の実況中継が流れており、福田康夫の名前が読み上げられた。まあ、順当な結果だろう。私は麻生太郎という人がどうにも好きになれない。安倍首相辞任前後のはしゃぎぶりは傍目にも非常に不愉快で、反麻生派の巻き返しに溜飲を下げた。何よりも、魚住昭『野中広務 差別と権力』(講談社文庫、2005年)を読み、麻生が野中の出自をとらえて人格中傷的な発言をしているのを知って、政策云々という以前に人間として信用できないという印象を受けていた。

 さて、行先は国民宿舎両神荘。最寄のバス停で降りて歩いていたら、なぜか唐突に巨大な中国風の建造物が目の前に現れた。あっけにとられて近寄ると「中国山西省友好記念館・神怡舘」となっている。埼玉県は山西省と姉妹都市連携をしているそうで、ここはその縁で建てられた山西省の風土や文物を紹介する博物館のようだ。350円払って入ると、施設そのものは割合と新しくて展示スペースはきれいに整っている。しかし、人影は皆無。山西省出身ということで関羽の立像があるのだが、その前にたくさんの小銭が置かれていた。どういうわけか中国では関羽は商売の神様とされており、横浜中華街の関帝廟でもお賽銭を投げた覚えがある。こんな所まで華僑の人たちが来るのだろうか。それにしても、意図のよく分からぬ妙な施設だ。

 で、このお隣が両神荘。部屋に荷物を置いてから、早速、温泉につかった。効能はよく分からないが、露天風呂が目玉。檜の屋根と塀に仕切られた浴場、すぐ脇では深く切れ込んだ渓流が水音をたてている。小雨がシトシトと降っており、屋根に垂れる雨音と、崖際の木の葉のサワサワいう音とが不思議と静寂な雰囲気を醸し出す。ひんやりとした空気が火照った体に心地よい。

 ロビーに行くと本棚があった。学研の学習マンガ「○○のひみつ」シリーズが30冊ほど並んでいる。手にとってパラパラめくると、実になつかしい。沢木耕太郎『深夜特急』など旅先ではうってつけの読み物だが、高橋和巳、ポール・ニザン著作集、『チボー家の人々』というのは果たして読む人がいるのだろうか。なぜか羽仁五郎『都市の論理』なんてのもある。昔はやったらしいが、今では古本屋でもゾッキ本扱い、1冊100円でも売れない。

 夕食は19:00からなので、それまで部屋に戻ってまったり。梨木香歩『ぐるりのこと』(新潮文庫、2007年)を読み終え、『西の魔女が死んだ』(新潮文庫、2001年)を手に取った。

 定刻になって食堂へ移動。見回すと、50~60人くらいは来ているだろうか。家族連れか熟年夫婦がほとんど。子供か中高年ばかりで、私の同世代などいない。夕食はそこそこ。宿泊費・朝夕二食・入湯料込みで約1万円なので、少なくとも不満はない。ビールを飲み、日本酒は好きではないのだがせっかくなので地酒も一合飲んだ。哲学書や社会科学書もリュックに放り込んできたのだが、こうなるともう難しい本は読めない。歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫、2007年)を読み始めた。今朝、リブロの文庫コーナーを物色していたとき、「2004年度このミス1位」という謳い文句で買った本だ。

 酔いがさめてきたら本をおき、窓から入ってくる秋の涼風に身をゆだね、思いつくよしなしごとをノートに書き留めつつ、いつしかまどろみの中に意識は消えていった。

 翌朝6:00起床。そそくさと露天風呂に行ったら、すでに先客は3,4人ほど来ていた。9:30にチェックアウト、西武秩父駅直通のバスに乗る。10:25発のレッドアロー号で11:50頃に池袋到着。宿泊費・交通費等ひっくるめて1万5千円前後で行けるので、気分転換には手頃な方法であることを確認できた。

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2007年9月20日 (木)

ジグムント・バウマン『廃棄された生──モダニティとその追放者』

ジグムント・バウマン(中島道男他訳)『廃棄された生──モダニティとその追放者』(昭和堂、2007年)

 社会全体を束ねる国家目標に向けて人々を動員するという考え方がもはや時代錯誤であることは、今現在生きている我々にとって当然のごとく皮膚感覚にまでしみわたっている。“国家”という呪縛から解放された戦後日本においては、天下国家のためでなく自分自身のために生きること、そうした意味での個人主義が推奨された。自律的に判断し、自らの“夢”に向けて打ち込むという人間類型が一つの理想となった。しかし、それとても趨勢としては芳しいとは思えない。上の世代が“しらけ”と呼んで嘆いてみせてからすでに久しいが、精神論で片付く問題ではない。“夢”に向けて頑張る人の美談は今でもよく語られるが、その口調にはどこかノスタルジックな響きすらこもる。

 ポスト・モダニティ(後期近代)とは個人化が徹底された時代であり、バウマンはリキッド・モダニティ(液状化した近代)と呼ぶ。この時代に、もはや人々が求めるべき確固たる目標はない。激変する環境に適応すべく、個人一人一人もまたカメレオンのように変わり続けなければならない。そればかりか、競争で優位に立つためには率先して変わる努力を続けなければならない。何のために、ではなく、変化そのものが、目新しさそのものが価値を持つのである。社会レベルでも、個人レベルでも、固定的な目標は嫌われる。彼が変わるから私も変わり、私が変われば彼も変わる、そうしたエンドレスのゲームが繰り広げられる社会。従って、流動的、液状的というイメージ。こうした社会には市場原理主義が最も適合的であり、その動きが国境からあふれ出してグローバリゼーションが進む。

 市場のゲームからはじき飛ばされた人々、あるいは最初から参加資格が認められない人々はどうなるか。グローバルには難民が、ドメスティックには貧困層の問題がある。彼らが市場の液状的なゲームに再参入することはほとんど不可能である、つまり社会生活的にリサイクルできない存在=“人間ゴミ”(wasted lives)とみなされる。

つまり、市場のゲームに参加する能力をもたないことが、だんだんと犯罪者扱いされる傾向にあるのである。国家は、自由市場の論理(あるいは非論理性)から生じる脆弱性と不確実さから手を引いており、そうした脆弱性と不確実性は、今では私事として、つまりは、諸個人が私的に所有している資源によって処理し対処すべき問題として定義しなおされている。ウルリヒ・ベックが言うように、諸個人は今やシステムの諸矛盾にたいして個人史のうえで解決を探し求めることが期待されているのである。(本書、89ページ)

 どんな事情があろうとも、出自も含めてほんの偶然の不幸に過ぎなかったとしても、はじきとばされたこと自体がお前のせい、ということになる。結果として市場のプレイヤーとして振舞えるか否かだけが問題となるのであって、その経緯は一切問われない。個人中心なので国家による再配分・再教育の機能を正当化する根拠も乏しい。しかし、はじき飛ばされた人々の抱く不満は潜在的な危険となる。ゲームのプレイヤーを守るため、難民や貧困層に対しては、社会内において統合を図るよりも、隔離という対策を取る方が効率的となる。つまり、社会的排除の問題がここに現われる。

 バウマンの示した見取り図は悲観的で、どこかニヒリスティックですらある。無論、現実には市場主義の行き過ぎによる弊害に対して何らかの対策を取ろうという努力はされているが、なかなか実を結ばない。何か具体的な原因があれば対策の立てようもある。しかし、近代という時代の性格に深く根ざした問題であるだけに、ただただ途方にくれるばかり。感情をこめずに淡々と進めるバウマンの論述を見て、社会学というのも結構残酷な学問だなあ、という妙な感想も持った。

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2007年9月19日 (水)

最近読んだ小説

松尾由美『雨恋』(新潮文庫、2007年)
 海外出張に出たおばのマンションで留守番代わりに暮らすことになった渉。ところが、雨降りの日になると、誰かの気配を感ずる──。3年前、この部屋で殺された千波の姿なき声に頼まれるまま、渉は犯人探しを始めた。真相が判明するたびに、彼女の姿が足の方から少しずつ見えてくる。姿が見えるにつれて二人の気持ちが揺らいでいく様が、露骨なシーンはないのだけれども、不思議とエロチックでなかなか良い。

横山秀夫『深追い』(新潮文庫、2007年)
 ある地方の警察署を舞台とした人間模様を描きだす、7つの作品を集めた短編集。横山の小説は、単に警察を舞台とした推理サスペンスというにとどまるのではなく、嫉妬や愛憎など人間同士の様々な葛藤を的確に描写しているのが魅力的で、私は結構好きだ。表題作は以前、テレビドラマで観たことがある。

本谷有希子『江利子と絶対 本谷有希子文学大全集』(講談社文庫、2007年)
 コミュニケーション断絶状態の純情が暴走するとこうなるんだろうなと思わせる「江利子と絶対」。異形の切ない絶望感、「生垣の女」。なぜか唐突にスプラッター・ホラー、「暗狩」。以上3作を収めた短編集。いずれもテンションが極めて高く、徹底して救いがないほどにグロテスク。はまるか、さもなくば投げ捨てるかのどちらかだな。

本谷有希子『生きてるだけで、愛。』(新潮社、2006年)
 “善意”の押し付けがましさ、暑苦しさを意地悪に茶化しているのは相変わらずだけど、本谷にしてはちょっとおとなしい感じがした。芥川賞候補作だそうな。

長嶋有『夕子ちゃんの近道』(新潮社、2006年)
 フラココ屋なる古道具屋に集る、まったりとした人間模様を描く。読後感は悪くはないけれど、印象は薄い。

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2007年9月18日 (火)

保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』

保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』(中公文庫、1989年)

 1941年、東条英機内閣成立から開戦にいたる経緯を、当時陸軍省軍務局にいた高級課員・石井秋穂と局長・武藤章を軸に描いたノンフィクションである。武藤は、GHQと取引きした田中隆吉(開戦時の陸軍省兵務局長)と犬猿の仲だったため、戦後、田中の意図的な讒言により東京裁判で死刑判決を受けたといわれている。

 武藤自身もともと主戦論者ではあったが、日米間の物量的に圧倒的な差をみて、何よりも天皇が戦争回避を望んでいるのを知って、より強硬な主戦論で気炎を上げる参謀本部を説得しようとギリギリの調整に努力していたことは本書で初めて知った。しかし、参謀本部の感情論はなかなかおさまらないばかりか、海軍や文官を相手にすると、むしろ同じ陸軍としてのシンパシーが作用してしまう。明治憲法に規定されたいびつな政軍二元体制を頂点とするセクショナリズムのせいで日本は破滅への道をたどったと言っても過言ではあるまい。

 軍務局というのは二・二六事件後に設置された比較的新しい部局で、陸軍側の意向を広めるため他省や議会に根回しをするほか、マスコミとつるんで世論対策も行っていた。予算案において陸軍の枠を拡大させるという、“国益”よりも“省益”を守るために強硬論をぶち上げていたものが、本来の思惑をはるかに飛び越えてヒョウタンから駒という感じに戦争は当然という風潮につながってしまった。

 参謀本部などはそれを信じ込んでしまっている。陸軍の中でも割合と冷静な軍人たちは開戦の可能性を考えてむしろ躊躇してしまうのだが、戦争やむなしと信じ込んでいる観念論者に理屈で反論することはできない。そうした雰囲気の中、石井は日米交渉の電文が解読されているのではないかと気付いていたのだが、それを言い出せないでいた。そんなこと言おうものなら“軟弱者!”となじられてしまう。まさに、“空気”の支配で対米戦争に突き進んでいく様が本書ではヴィヴィッドに描かれている。開戦がほぼ避けられないと見て取った武藤が「政治将校の時代はこれで終わりにしなければならない」と漏らしているのが印象深い。

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2007年9月17日 (月)

「長江哀歌(エレジー)」

「長江哀歌(エレジー)」

 “改革開放”のスローガンのもと中国が経済的に大躍進を遂げ、それにつれて地域間格差の問題も周知のこととなりつつある。長江沿岸の古都・奉節は、三峡ダム・プロジェクトによって段階的に水没する運命にあった。そこへやって来た二人の男女、一人は十六年前に別れた妻と娘を探す炭鉱夫のサンミン。もう一人は、事業を手がけて成功しているものの二年間も音沙汰のない夫の様子を見に来たシェン・ホン。この二人を軸に、滅びゆく街に暮らす人々の姿を描いた作品である。

 日中、用事をすませてから夕方になって映画館に駆け込んだので少々疲れており、最初、ウトウトしていた。ところが、ふと目に入った映像の美しさに息をのみ、すっかり目が覚めてそのまま見入ってしまった。

 住民が強制退去されて空き家となった建物の解体作業が行なわれている。街のあちこちで鎚を振るう音が響き、時にはダイナマイトの爆音が人の耳を驚かす。瓦礫の散らばる街並みと、一方で、まさに山水画そのものと言っていい、ボヤッと薄霞のかかった長江沿岸の風景。そうした両方が組み合わさって、どこか現実離れした、実にファンタジックで美しい世界が描き出されていた。主役二人のセリフまわしは総じてもの静かに抑え気味で、それだけ街の雰囲気にとけこんでいる。映像作りはよく工夫されており、UFOが飛んでいたり、奇妙なモニュメント的建造物がロケットになって発射されたり、なぜか関羽(?)たちがゲームに興じていたりといったシーンが挿入されているあたり、遊び心もおもしろい。

 じんわりと胸にしみこんでくる美しさは映像だけによるのではない。タバコ、酒、茶、飴という四つのモチーフでストーリーが区切られているのだが、人をもてなす道具立てと捉えていいのだろうか。訪問者としてのかりそめの出会い。夫婦として理解しあっているように思いたくても実は遠かった心の距離。それを否定したり肯定したりしようというのではない。人が出会い、そして別れ、そうした一つ一つを表情としては淡々と受け入れながら、しかし同時に、切にいとおしく胸に刻み込んでいく。滅び行く街、それゆえにこそか、さり気なく織り成される人情の綾が静かに琴線に触れてくる。それは、“お涙ちょうだい”的に大げさなものではなく、山水画のように淡くしっとりと美しい。

【データ】
監督:賈樟柯(ジャ・ジャンクー)
2006年/中国/113分
ベネチア国際映画祭・金獅子賞グランプリ
(2007年9月17日、日比谷、シャンテシネにて)

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2007年9月16日 (日)

「エヴァンゲリヲン新劇場版 序」

 エヴァンゲリオンが社会現象ともいうべき一大ブームを巻き起こしたのは私が大学生の頃だった。保守系論壇誌の『諸君!』ですらエヴァの小特集を組み、宮崎哲弥や切通理作が寄稿していたのを覚えている。アニメに詳しい知己が身近におらず情報に疎かったのだが、そんな私にすら評判が聞こえてきた。どんなものかいな、と観てみた。ミイラ取りがミイラになってしまった。その頃の私自身が、ウジウジしたシンジ君のように精神的にまいった状態にあったのでシンクロしてしまったのかもしれない。

 エヴァは従来的なロボット・アニメの構図ながらも、それを換骨奪胎して少年のビルドゥングス・ロマンとなっているのが多くのファンを引き付けた理由の一つだろう。哲学、精神分析学、神話学などぺダンチックなモチーフが見え隠れするのも、単にアニメとして斬って捨てられない雰囲気を出していた。あちこちに散りばめられた謎、そしてネルフ上層部が時折もらす「シナリオ通りだな」というセリフには、自分たちが目の当たりにしているのとは位相の異なるロジックが働いている、そういう意味での世界観の奥行きが感じられて、目が離せなかった。“昭和”を思わせる風景と近未来的な廃墟とが不思議に共存した映像も私は好きだった。

 今年に入ってある日曜日の午前中、近所の喫茶店で本を読んでいたら、何やら“綾波レイ”とか“初号機”とかいう言葉が耳に入ってきた。なつかしい話題を語らっているなあと思いつつ、それにしても声が老けている。見やると、初老の紳士二人がエヴァ特集のムック本を前にして、一人がもう一人にエヴァについてレクチャーしていた。さすがに驚いた。エヴァ再映画化を私が知ったのは、それから一、二週間くらいしてからだった。

 今回は四部作構成の「序」、アスカ登場直前までを戦闘シーン中心に駆け足でまとめている。映像は一新されているのでいわゆる“総集編”的な感じはない。リリスや渚カヲルが一瞬だけ姿を見せ、物語の奥行きをほのめかす。次回予告が最後に映るのだが(例の「サービス、サービス!」では客席に爆笑がわきおこっていた)、見たことのないキャラがいて、この後の展開はだいぶ変わりそうだ。

 私は割合と丹念にエヴァを観たつもりだったが、その全体像を把握できているかといえば心もとない。そもそも、庵野秀明自身、半ばこわれた状態で自転車操業的に作っていたらしいが、そのほころびがかえって思わせぶりで、色々な読み込みの可能性が開けていたのが一つの魅力だった。今回の映画化では、そうやって出されてきたアイデアを一貫した物語にまとめ上げているのだろうから、どんな見せ方をしてくるのか、この先の展開に興味津々。

【データ】
総監督・原作・脚本:庵野秀明
2007年/98分
(2007年9月15日、新宿ミラノにて)

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2007年9月15日 (土)

「恋するマドリ」

 デザイナー志望の美大生ユイ(新垣結衣)は、二人暮しだった姉の結婚で急遽引越をした。忘れ物を取りに戻ったところ、すでに新しい入居人のアツコ(菊地凛子)が来ている。アツコのデザインした椅子がすっかり気に入ったユイは、自分のかつての住まいをたびたび訪れることになった。さらに、アツコの元カレ・タカシ(松田龍平)とも出会い、ちょっと奇妙な三角関係が始まる。

 私は映画を観るとき、ストーリーそのものだけでなく、街並とか部屋の雰囲気とか、その中で人が暮らしているディテールを見るのも楽しみにしている。それはとりわけ、引越したばかりの不安と期待とがないまぜになった戸惑いを描き出した作品で印象深い。たとえば、岩井俊二監督「四月物語」(1998年)など好きな作品だ。もっとも、岩井美学で洗練された映像美は、人の息遣いの生々しさを捨象してしまっているが。

 「恋するマドリ」の舞台は北品川や目黒、都心とも下町ともつかぬちょっと微妙な土地柄。しかし、高層ビルを背景とした雑然とした街並は意外と嫌いではない。マンションの煤けた色合い、さり気なく聞こえてくる道路の騒音など、そこに住んでいたらどんな感じがするだろうかと感情移入しやすい。

 ストーリー的には少々苦笑ものだが、まあ、許容範囲内としておこうか。ガッキー目当てで観ただけだし。彼女のせりふ回しはそんなにうまくはないが、表情の素直な動きが本当にかわいい。それから、ユイがかつて暮らし、次にアツコの入った古びた平屋はなかなか風情があって、これだけでもポイントは高い。

【データ】
監督:大九明子
出演:新垣結衣、菊池凛子、松田龍平、内海桂子、ピエール瀧、世良公則、他
2007年/113分
(2007年9月14レイトショー、新宿バルト9にて)

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2007年9月14日 (金)

大屋雄裕『自由とは何か──監視社会と「個人」の消滅』

 実務として法律を運用する場合と、現代社会論として法現象を考察する場合とでは、両者に認識上のギャップがあまりにも大きすぎて私のような法律の素人は頭が混乱してしまう。ざっくり言って、前者は個人の“自由意思”というフィクションに基づき、後者はそのフィクションを暴き出そうとする努力で対峙しているという構図にまとめられるだろうか。

 こうしたギャップが最も顕著なのは、法活動の主体、すなわち“自由意思”そのものの問題である。大屋雄裕(おおや・たけひろ)『自由とは何か──監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書、2007年)は、法哲学の立場から現代社会における“自由”をどのように捉えたらよいのか迫ろうとしている。原理的な概念がかみくだかれており、読みやすい。

 各個人が自ら判断して結んだ契約は尊重されねばならず国家ですら介入できないという私的自治は民法上の根本原則である。犯罪とされる事柄は予め周知されていなければならないという罪刑法定主義は刑法上の根幹をなす。いずれにせよ、各個人は“自由意思”に基づいて自律的・理性的に振舞うはずだという前提がある。

 しかし、人間とはそんなに理性的なものだろうか。なぜ法をみだす者がいなくならないのだろうか。個人の内面で自己完結的に“自由意思”を持つとされるモデルを否定し、人間の行為がむしろ社会的、環境的、場合によっては生得的な要因、つまり個人の“自由”ではどうにもならない外的な要因で左右されてしまうところに法的問題を見出す立場が19世紀になって現われた。新派刑法学である。たとえば、犯罪人類学を打ち出したロンブローゾなどが有名だ。

 さらにつきつめると、法をみだしかねない人間類型やシチュエーションを法則的・確率論的に把握して予め対策を立てておけば法的秩序は確保されるはずだ。すなわち、犯罪をおこさせない環境を物理的・社会工学的に設計するアーキテクチャ(環境管理)的権力を活用しようという発想につながる。たとえば、通路に妙なオブジェを置いてホームレスを制裁的にではなく物理的に排除しようというのがこれである。法には抵触させていないという点で表面的には“自由”を保障しているかのような素振りを示しつつも、行動の選択肢を実質的に狭めることで秩序維持をはかる。

 ここには次の問題がある。第一に、アーキテクチャを設計した者が実質的な支配者となってしまう。第二に、ホームレス排除のオブジェはあからさまなのですぐにわかってしまうにせよ、アーキテクチャ的権力の最たる特徴は、規制を受けた側が、そのこと自体に気付かないこと。行動の選択肢が最初から削ぎ落とされているのに、それを我々は“自由”と呼ぶことができるのだろうか? 

 以上をまとめると、“自由意思”に基づく個人というフィクションを前提として、法や社会規範に基づき違反者に対し事後的に制裁を加えるという法的権力のあり方が一方にある。これが一般に了解された法的秩序だが、素朴な“自由意思”など成り立たないことは現代思想の様々な議論から明らかだろう。あくまでもフィクションに基づくシステムにすぎない。他方、潜在的リスクを予め把握しておき、アーキテクチャ的権力によって事前的に規制を加えていくという手段も現実に取られている。選択肢を狭めることで成り立つ秩序なのだから、本来的に“自由”は期待すべくもない。

 いずれにせよ、実質的に“自由”などあり得ない中で、なおかつ我々は建前であれ何であれ“自由”を基本原則とした社会に生きているという根源的な矛盾がある。これをどのように考えればいいのか? 本書の著者は、“自由な個人”だから責任を負うというのではなく、逆に責任を負うという態度を示したときに“自由な個人”とみなされると述べている(本書、199頁)。フィクションを引き受けて生きる覚悟を再確認するしかないという点で私は説得的に感じた。

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2007年9月13日 (木)

保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』

 先週、瀬島龍三氏逝去の報に接し、新聞各紙や夜のテレビニュースをチェックした。第二臨調で行政改革の根回し役を務めるなど政財界の裏方で活躍したことに肯定的な論評の一方で、半藤一利、保阪正康、魚住昭各氏のコメントが「彼は結局、語るべきことを語らないままだった」という点で共通しているのが強く印象に残った。

 瀬島は何も語らなかったわけではない。『幾山河』という回顧録も出版している。しかし、半藤氏や保阪氏など瀬島に直接インタビューした経験のある人々は、核心に踏み込むと巧みに話をそらされてしまったと不満を漏らしている。瀬島が大本営参謀として立てた作戦の失敗により多くの人々が命を落としたといわれるが、なぜその経緯を明らかにしないのかと厳しく批判する元軍人も少なくなかったという。

 山崎豊子『不毛地帯』の主人公のモデルは瀬島だとよくいわれる。しかし、実際には、取材を進めたシベリア帰りの多くの人々のエピソードを組み合わせて山崎は人物造型をしており、瀬島はその一部分に過ぎない。彼はこの作品に敢えて言及しないことで、その良いイメージが自らにかぶせられていくのを計算していた節もあるらしい。いずれにせよ、この人のことを私はよく知らないので保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』(文春文庫、1991年)を手に取った。

 瀬島は、太平洋戦争において軍部の中枢におり、重要な作戦や軍政についての意思決定の有様を間近で見聞きしていた。彼自身に対しても、自らの作戦立案に不都合な情報を握りつぶした疑いがある。また、シベリア抑留中にソ連側との交渉役として果たした役割、東京裁判でソ連側の証人となった経緯などについてもきちんと語ることはなかった。そのため、ソ連のスパイ説がまことしやかに噂されたほどだ。

 難関中の難関を突破したエリート軍人だけあって、瀬島の頭脳は極めて明晰。場の空気というか、上司の腹のうちを的確に読み、それを踏まえて立案をする能力に長けていた。しかし、第二臨調の時もそうだったらしいが、与えられた課題をこなすために状況を読んで根回しを進める手際は鮮やかであっても、自らの意見を語ることは意外なほどになかったという。それが“昭和の参謀”と呼ばれる所以でもあったろうか。毀誉褒貶は別として、昭和期エリートのメンタリティーが瀬島という一個人を通して窺えるのが興味深い。

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2007年9月12日 (水)

出張ついでに寄り道③綾部

(承前)

 近代日本の宗教史に関心のある人ならばすぐに思い当たるだろうが、綾部には大本教本部の一つがある(他に、亀岡と東京)。ここは大本教の開祖・出口なおが暮らしていたことにちなんで聖地とされている。なお、もう一つの聖地・亀岡は出口王仁三郎が生まれたところである。以前にもこのブログで触れたことがあるが、私は高橋和巳『邪宗門』が好きで、とりわけ第一部のラスト、教団本部が炎に包まれ、信者たちが特高によって次々と検挙されていくシーンが印象に強く焼きついていた。それで、綾部に寄ってみようと思った次第。

 綾部には30分ほどして到着。山陰本線との接続駅なので人はたくさん降りるのだが、駅から外に出る人は少ない。駅前のロータリーに植芝盛平の記念碑があった(写真18、写真19)。合気道の祖である。実は植芝も熱心な大本信者で、綾部に移り住んでいた。合気道の精神性には大本の教義も影響していると言われている。

 駅前の観光案内所に行ったが、市内観光マップのようなものはない。大型の地理表示板で大本本部のだいたいの位置を確認。遠くはないようなので、取りあえず出発。街並みはやはり寂しい。最初、昭和30年代の地方の商店街はこんな感じなのかなと思いながら歩いていたのだが、ところどころ明らかに戦前に建てられたおぼしき店屋がある。タイル貼りの店構えに、やたらと大きなショーウィンドー。しかし、すでに廃業しており、中はほこりだけ。そうした古い店構えでまだ営業中の薬屋さんがあった。写真を撮ろうと思ったのだが、隣の理髪店の腰が曲がったご老人が店先で背伸びしており、気兼ねして素通り。歩きながら何となく、チリンチリンと静かな風鈴の音がこの商店街には似つかわしく感じた。

 大本本部は駅から歩いて15分くらいだろうか。私は信者ではないので入るのに少々ためらいがあったのだが、「犬を連れての入苑はご遠慮ください」という立て札がある。一般人でも気軽に入っていいみたいだ。ここは梅松苑というらしい。弥勒殿という大きな建物がすぐに目に入った(写真20)。その向こうにある池を取り囲むように、鳥居のような社がしつらえてある(写真21)。

 弥勒という言葉には仏教的な末法思想がうかがわれるが、鳥居の横の説明板には神道的な神名が書かれていた。五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』(ちくま学芸文庫、2007年)によると、こうした配置には大本教なりの世界観が表現されているらしい。学生の頃、『大本神諭』(平凡社・東洋文庫、1979年)にざっと目を通したことがある。ただしその時は、「世の立て替え」という言葉だけをピックアップして、近代化に対して土着的な革新を求める反応という枠組みでフィルターをかけて大本教をみていたので、教義の詳細はよくわからない。

 弥勒殿は木造家屋をそのまま巨大化したような感じ。縁側ぞいのガラス戸はみな開け放たれて、中にあちこち扇風機が置いてあるのが見える。何となく、古い湯治場の休憩広間を思い出した。今日は行事などもないようで、事務室以外に人の姿はまったく見えない。

 私は近代の新興宗教団体の拠点施設をいくつか見に行ったことがある。某S学会の本部は信濃町にあるが、八王子もどういうわけだか“聖地”扱いを受けている。S大学やF美術館も含む大規模建築群を見て、よくこんなに金をつぎこんだものだと驚いた。港区飯倉にあるR会の神殿はキッチュな上にとにかくでかくて、何となくスペースオペラのロケに使いたくなる感じ。天理市に行った時の光景は実に不思議だった。全国から集まる信者のために五階から十階くらいまでありそうな大きな宿泊施設が街のあちこちに建てられているのだが、相応に大きな屋根瓦が葺かれている。電車で天理市に入ってくると、それが実に壮観だった。それにしても、建築基準法はクリアしているのだろうか。

 新興宗教団体はそうした感じに大きな建物を立てる傾向があるが、綾部の大本本部をみると、むしろ質素に小作りという印象がある。亀岡や東京は見ていないのではっきりしたことは言えないが。五十嵐『新宗教と巨大建築』によると、戦前の弾圧で建造物が徹底的に破壊された後、記憶を残すため敢えて再建しなかった区画もあるらしい。出口なおの夫・政五郎の職業は大工で、大本なりに建築へのこだわりもあるらしく、「立て替え」という言葉遣いには、大工の家族としての影響があると言われている。

 大本本部から道路を挟んだ向かい側の住宅密集地に、頭一つ突き出た十字架が見えた。行ってみると、カトリックの教会堂だった。近くにはプロテスタントの教会もある。このあたりは宗教的霊性の強い土地柄なのだろうか。「世界が平和でありますように」という世界救世教のお札の貼ってある家も結構見かけた。教祖・岡田茂吉はもともと大本教の信者だった。それから舞鶴で生長の家の施設を見かけたのだが、教祖・谷口雅春もやはり大本教出身者である。

 綾部駅から特急たんご号に乗って京都駅まで戻る。山あいの細長い平地に田んぼの緑が広がり、そこに夕暮れの黄昏色が染みている色合いは、見ていて実に心地よい。

 京都駅から東京駅に向けてのぞみに乗車。ところが、岐阜県の集中豪雨で米原に停車したまま2時間半も待たされた。その間、保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』を読了、同じく保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』を読み始めた。東京駅には夜中の12時過ぎに到着。中央線の終電にギリギリで飛び乗り、何とか帰宅できた。先日、広島からの帰りでもやはり同様に新幹線が遅れて終電を逃しそうになったことがあり、妙なジンクスになりそうでいやな後味の悪さが残った。

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2007年9月11日 (火)

出張ついでに寄り道②舞鶴

(承前)

 翌朝、6:50起床。大きな荷物は京都駅のコインロッカーに入れて、7:47発の嵯峨野線(山陰本線)に乗った。目的地は舞鶴。動機は三つ。第一に、こちらへ来る新幹線の中で保阪正康『瀬島龍三──参謀の昭和史』(文春文庫、1991年)を読んでいて、シベリア抑留にまつわるエピソードから舞鶴を連想したこと。第二に、先日、広島へ行ったついでに呉に寄ったのだが、いっそのこと旧海軍四鎮守府を制覇してやろうという妙な野心がわいたこと。横須賀にはいつでも行けるので、残すは佐世保のみとなる。第三に、頭がじっとりとかたまって憂鬱なので、とにかく海が見たい!と、解放感を求める魂の叫び(笑)

 京都から舞鶴までは、まず嵯峨野線で綾部まで行き、小浜線に乗り換える。列車本数が少ない上、単線なのですれ違い等による各駅での停車時間も長く、距離に比して時間は相当にかかる。東舞鶴駅に着いたのは10:30頃、3時間近く列車にゆられていたことになる。しかも混雑していて、車窓の風景を眺めることはほとんどできなかった。

 駅を出た途端、雨が降り始めた。初めての町に来た時は、できるだけ足を使って歩き回ることにしている。折り畳み傘はあるものの、気分はすっかりブルー。気を取り直し、市内周遊バスに乗ってまず舞鶴引揚記念館に向かった。

 舞鶴は日本海沿いのリアス式海岸が内陸に入り込んだ二又の湾に面した港町で、東舞鶴と西舞鶴と二つの中心がある。古いのは西舞鶴の方で、細川幽斎や京極氏、牧野氏の城下町として栄えた。これに対して、東舞鶴は明治になって軍港としてつくられた新しい町。かつては旧海軍の鎮守府が置かれ、現在も海上自衛隊舞鶴地方総監府や海上保安大学校がある。東西二つの舞鶴が合併したのはそんなに古くはなく、1943年、戦争遂行のため軍需・民需一体化が求められてのこと。舞鶴市役所は東舞鶴の方にある。なお、時間の都合で西舞鶴には行けなかった。

 日本海に面した最大の要港として、大陸からの引揚者の大半は舞鶴の土を踏むことになった。引揚船の着岸した桟橋、いわゆる“岸壁の母”たちが佇んだあたりだが、そこを見下ろす丘の上に舞鶴引揚記念館は建てられている(写真7)。ただし、周遊バスの発着時間により見て回る時間に制限があり、桟橋まで降りることはできなかった。雨も降っていることだし。館内は、シベリア抑留者が身に付けていた日用品や写真・説明パネルを通して、抑留者もその家族も共に味わわざるを得なかったつらさをしのばせる展示がされている。シベリアや中央アジアばかりでなく、コーカサスや黒海沿岸まで連行された人々がいたのは初めて知った。記念館の図録を一部購入。

 周遊バスが市街地に戻り、昼食休憩時間に入ったところで、運転手さんにことわってグループを離れることにした。一枚500円で施設の入館料(引揚記念館、赤レンガ博物館それぞれ300円)込みなので、すでにもとはとった。何よりも、この辺りは列車の本数がやたらと少ない。帰りを考えるとゆっくりもしていられない。駅前でもらった観光マップを片手にバスにゆられながら、市街地近辺の距離感はだいたいつかんでいる。もう一つの目標、海軍記念館まではそんなに遠くはないと見当をつけ、ちょうど雨もあがったので、歩こうと判断。カロリーメイトとミネラルウォーターでエネルギーを補給してから行動開始。

 舞鶴港はかなり奥まったところにあるので海という実感がわかない(写真8)。舞鶴湾東港沿いに、海上自衛隊の艦船を遠くに見ながら歩く(写真9)。さっきとは打ってかわって陽射しが結構照りつけてきた。汗がワイシャツをジトジトとぬらし、スーツのズボンが肌にはりつく。上着を京都駅のコインロッカーに入れてきたのは正解だったが、ズボンはクリーニングに出さねばならない、着替えのGパンを持ってくりゃよかったなあ、などと取り留めなく考えながら足を進めていたら、赤レンガづくりの大きな建物が見えてきた。赤レンガ博物館である(写真10)。

 ここはレンガをテーマとした全国でも珍しい博物館だ。明治期に建てられた旧海軍の爆薬庫を改装の上活用しており、これは日本に現存する赤レンガの建造物としては最古級のものらしい。辺りは工場地帯となっているのだが、今でも多くの古い赤レンガ建築が現役として使われている(写真11写真12)。赤レンガというと文明開化期日本における産業のシンボルというイメージがあるが、これを舞鶴のまちおこしの素材に使おうとしているようだ。館内の展示はなかなか充実しており、古代文明の発生から現代に至るまで、レンガを軸とした建築史の通史が一望できて面白い。時間さえ許せばもっとゆっくりしたかった。舞鶴は大連市と姉妹都市提携をしているそうで、ヤマトホテルや満鉄本社など、日本人がかつて大連でつくったモダン建築の写真が並べられているのも興味を引いた。

 赤レンガ倉庫群の横をしばらく歩いていくと、再び海が見えてきた。さっきは遠くに見えた自衛隊艦船の近くである。沿岸の桟橋は海上自衛隊の施設となっているのだが、明らかに一般人とおぼしき家族連れがゲートを通って中に入っていく。歩哨に立っている人に聞いたら見学できるという。名簿に名前を記入し、許可証を首にぶら下げて入構。護衛艦すずなみの威容(写真13写真14)。近くから見るのは初めてかもしれない。向こう側には修繕ドックがあるらしく、パナマ船籍のタンカーが見えた。

 さらに歩き、海上自衛隊舞鶴地方総監府に出た。先ほどの桟橋と同様の手続きを取った上で敷地内の海軍記念館に入る(写真15)。戦前に造られたらしい大講堂の一部に海軍関係の展示品が置かれている。歴代の舞鶴鎮守府長官ゆかりの品が置かれているが、とりわけ初代長官・東郷平八郎の顕彰が目立つ。

 記念館入口の前に、まだ入隊間もないのだろうか、白い制服に身を包んだ朴訥とした感じの女の子が歩哨に立っていた。展示を観ても何となくもの足りなかったので、「かつての鎮守府の名残を感じさせる建物は残っていないのですか?」と尋ねた。来館者が近づくたびにハキハキと挨拶していた口調が困ったようによどみ、「あちらの方に古い建物はあるんですけど、職場なのでお見せするわけには…」。了解。お礼を言って立ち去る。

 近くのバス停で時刻表を見たところ、次のバスは30分以上来ない。土地勘はだいたいつかめたつもりなので歩いて駅まで行くことにした。が、やはり自惚れは禁物。迷った。歩いても歩いても、むしろだんだん寂しくなってくる。焦るとますます早足になって傷口をいっそう広げてしまう。引き返そうとしていたら、近くの家から出てきたおばさんが「どちらへいきはるんですか?」と声をかけてくれ、親切に道を教えてくれた。あるいは、不審者と思ったのかもしれないが。

 迷子になった途中、東郷平八郎が仮住まいしていたという碑文を見つけた(写真16)。現在建っているのは何の代わり映えもしない普通のアパートというのも妙に感慨深い。また、赤レンガ造りの大きな自転車・歩行者用トンネルも通った(写真17)。このサイクリングロードは不自然なほどきれいに街を横切っている。気になって、帰宅後に廃線地図で確認したら、予感した通りに東舞鶴駅から沿岸のおそらく旧鎮守府近くにあった中舞鶴駅まで以前は鉄道が延びていた。廃線後にサイクリングロードとして再利用されたのだろう。あの赤レンガ造りのトンネルももともとは鉄道用だったと思われる。迷子は迷子なりに収穫はあるものだ。

 東舞鶴駅に着いたのは14:00過ぎ。土産物売場に寄ったら、「海軍さんの珈琲」を見かけた。先日、呉に行った時も全く同じものを見かけ、シャレのつもりで「戦艦大和サブレ」と一緒に家族用に土産として買った覚えがある。肉じゃがが名物料理というのも同様。ひょっとしたら、横須賀でも佐世保でも全く同じものが売られているのだろうか?

 疲れたので、帰りの特急まいづる号の指定席を取ってから市街地をぶらつくつもりでいた。ふと、発着表示板が目に入った。14:15発綾部行き列車がホームに入っている。その場の思いつきで飛び乗った。

(続く)

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2007年9月10日 (月)

出張ついでに寄り道①大阪

 先週、出張で大阪に行った。初日の夕方、時間があったので北浜の適塾を見てこようと思い立つ。手もとに地図がないので、以前に行った時の「確か淀屋橋駅の裏手にあったはずだが…」というおぼろげな記憶だけが頼り。

 案の定、迷った。しかし、途中、懐徳堂の跡を示す碑文を発見したのは収穫だった(写真1写真2)。もともとは大阪商人たちがつくった学問所だが、幕府からも公認、冨永仲基や山片蟠桃など独特な学者を輩出したことでも知られる。中之島近辺は大阪の行政やビジネスの中心地だが、江戸時代には町人階層と結びつく形でアカデミック・センターでもあったことがうかがわれる。

 さて、何とか適塾にたどり着いたものの、すでに観覧時間は終わっていた。ため息をつき、取りあえず一枚撮っておこうと思ったら、説明板の前に違法駐車の図々しい姿。大阪人の交通マナーの悪さに悪態をつきながらパチリ(写真3写真4)。もう五、六年前だろうか、以前に入館した時の記憶では、大きめだが普通の商家という佇まいで、二階の上に物干し場があったりと割合に生活感があったのが印象に残っている。

 適塾の横はちょっとした公園となっており、緒方洪庵先生の胸像がある(写真5)。背後に映るのは、件の物干し場(写真6)。手塚治虫『陽だまりの樹』(小学館文庫、1995年)は適塾で学ぶ人物群像を描き出しているが、この物干し場にかかる急傾斜の階段を若き日の大鳥圭介(後に幕府陸軍奉行等を経て明治新政府に出仕)が転がり落ちるシーンがあったのをなぜか思い出した。本当にどうでもいい話で恐縮だが。

 ちなみに、手塚は大阪大学医学部の出身だが、適塾の管理も大阪大学。さらにちなみに、適塾の塾頭となり『陽だまりの樹』にもキーパーソンとして登場する福沢諭吉は大阪の中津藩蔵屋敷で生まれている。中之島の西寄りに福沢諭吉生誕碑があるはずで(一応、母校の創立者なのだが、大阪に来てもなぜか忘れてしまい、今回も含めて一度も見に行ったことがない)、こちらも現在は大阪大学の敷地となっている。

 この後、堂島およびヒルトンプラザのジュンク堂書店、梅田のブックファースト、阪急梅田駅下の紀伊国屋書店とハシゴしながら、阪急三番街の古書店を目指した。ところが、何とお休み…。この一画は水曜日休業なのであった。失意の中、お好み焼きとビールで憂さ晴らしをしてから宿舎に戻った。

 土曜日にようやく任務終了。明日は日曜日、せっかく関西まで来ているのにこのまま帰るのはもったいない。現地で上司と別れ、私はひとり京都に向かった。体力的にはどうってことはないのだが、精神的な疲労は激しい。宿をとり、テレビをつけたら黒澤明のリメイクドラマ「天国と地獄」をやっていたので、観ながらウトウト。緊張感から解放されたせいか、いつしかグッスリ。

(続く)

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2007年9月 6日 (木)

岩田正美『現代の貧困』を読んで

 近年になって社会格差論が急浮上し、その中で貧困の問題も今さらながらにクローズアップされてきた。バブルの崩壊、構造改革の行き過ぎなど原因探しの議論も活発となってはいる。しかし、岩田正美『現代の貧困──ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)によると、かつては“総中流化”といわれる社会的風潮のかげで覆い隠されていただけで、貧困はずっと問題であり続けていた。

 可能性の問題でいうなら、もちろん誰しも人生の転変で貧困状態に陥ることはあり得る。だが、実際には特定の不利な条件を抱えた人々に統計的に集中しているという点で、ある種の構造的な問題であるといえる。

 第一に学歴の問題。中卒、高卒だと現実問題として就業機会に恵まれない。かつて“金の卵”と呼ばれた頃は、企業内でスキルを身に付けさせるという慣行があった。しかし、それは“即戦力”志向の中で崩れてしまい、学歴も含めて教育上の投資を十分に受けてきた者を企業は採りたがるようになった。また、職人のように、学歴がなくとも“腕一本”、技能と経験の蓄積で立っていく自営業も衰退してしまった。こうした人々は不安定雇用に結びつきやすい。

 第二に家族構成の問題。統計的にみると、非婚と貧困は結びつきやすい。それはまず、収入が低いから結婚できないという解釈もできる。ただもう一つ、支え合う家族がいないため、病気、失業など人生上のリスクへ対応できず、そのまま貧困状態に転落してしまうケースが考えられる。離婚したシングルマザーなどは就業上の関門が極めて狭い。

 また、結婚していなくとも、親など家族からの扶助が期待できれば立ち直れる可能性は高くなる。行政の対策も、基本的には家族福祉を織り込んだ上で立てられている。さらに因果関連の問題として考えると、資産や学歴は家族を通して継承される傾向が統計的にもみられ、貧困転落可能性の階層格差は歴然としている。これは、佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000年)をはじめ、多くの論者が指摘するようになってきた問題である。

 自助努力はもちろん正論だが、機会の均等が大前提である。と言うと、規制緩和等の問題に結びつける向きもあるが、資産や学歴、広い意味での社会的ステータスの継承による“見えない格差”がある限り、むしろ格差は幾何級数的に拡大・固定化され、それは“見えない”がゆえに正当化もされてしまう。貧困等の問題を固定化された階層、いわゆる“社会的排除”というキーワードが対象とする人々の間には何をやってもムダだという諦めをもたらし、山田昌弘『希望格差社会』(筑摩書房、2004年)が指摘していたように社会の分裂につながりかねない。

 人間が様々な社会的因果連関の網の目の中にいる一つ一つの要因を腑分けしていくのが社会科学の使命であろう。しかしながら、最近、政府の政策に影響力を持つ一部の経済学の議論では、自己責任を強調するばかりで、前提としての個人のケイパビリティー(潜在能力、ただし意味合いに注意)についての考え方がつめられていない。人間の可能性に全幅の信頼を置くのはまことに結構なことではあるが、その極めて楽観的で単純な人間認識は、それこそ“なせばなる”的な精神論としか思えず、私は理解に苦しんでいる。

 以前、知り合いから誘われてホームレスの実態調査に参加したことがある。社会調査の経験など全くないのだが、人手が足りないからと質問項目のペーパーを渡され、いきなり面接調査をやらされて戸惑った。

 「なんか仕事ないかねえ」「あんたから役所に文句言ってよ」とか話してくれる人はまだいい。そうした中、一人いまだに忘れられない人がいた。老けて見えたが、まだ三十代後半だったと思う。何を尋ねても一問一答に終わってしまう。話が続かず、沈黙の間に私は焦った。季節は春、公園の桜の木が目に入ったので、世間話のつもりで「桜がきれいですね」と語りかけた。「そういう人もいるね。俺には関係ないけど」と、話の接ぎ穂がない。完全に心を閉ざしている。無論、初対面なのだから当たり前だろうが、それでも少しずつ聞き出した。何かをして欲しいということにはもう関心がなく、こんな状態に落ちてしまったこと自体が耐え難い、そしてそれは他ならぬ自分のせいなのだから仕方ない、そういう完全な諦めが感じられた。

 衣食住の問題は財政的な余裕さえあれば何とかなる。仕事に就く上で支障となっている住所や保証人の問題も制度的な対応を考えることはできる。しかし、そういった物理的・法制度的問題はともかく、本人の後悔、自尊心の問題、これは他人には手をつけることはできない。どうしたらいいのかさっぱり分からず、いまだに気にかかっている。

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2007年9月 5日 (水)

ワーキングプアについて

 若き日の鎌田慧が北九州の飯場に潜り込んで書き上げた『死に絶えた風景』(ダイヤモンド社。後に現代教養文庫、1994年、版元倒産)が刊行されたのは1971年のことだった。ピンハネ、低賃金による拘束、そして使い捨て──這い上がる可能性すら完全につまれてしまったアリ地獄のような困窮状態を読み、私自身がまだ生まれてもいない頃の話だが暗澹たる気持ちになったのを覚えている。

 貧困から這い上がることの難しさという点ではアメリカが世界でもダントツだろう。バーバラ・エーレンライク(曽田和子訳)『ニッケル・アンド・ダイムド──アメリカ下流社会の現実』(東洋経済新報社、2006年)は、ジャーナリストである著者が経歴を隠して一定期間、ウェイトレス、清掃婦、スーパー店員などの仕事に就いた体験を記した潜入ルポである。少々あざとくてイヤな感じがしないでもないが、安定した中流生活に馴染んでいた著者のカルチャー・ショックが素朴に浮き彫りにされ、そこが一つの読みどころとなる。たとえば、同僚が1日40~60ドルの簡易宿泊所に泊まっていると聞いて、なんと無駄なことをしているのかと驚く。自分は1月500ドルの部屋を見つけたのに、と。しかし、著者の場合は敷金などまとまった初期費用を予め用意できたからであり、その日暮しの収入しかない同僚にはできない相談であった。貧しさゆえに足もとを見られて節約すらできない、こうした外部からはなかなか気付きづらい日常的なことを一つ一つ描き出していく。

 こういったことは、残念ながら過去のことでも海外のことでもない。つい最近でも、某派遣会社が「データ装備費」なる名目でピンハネしていたり、厚労省調査でネットカフェ難民5千数百人(調査には必ず漏れがあるから潜在的にはもっといるのではないか)という数字が報じられたりしている。社会的弱者にしわ寄せされる構造的問題は、装いを新たにしているだけで基本的には解決されないままである。

 まさに問題となっている今現在の当事者に直接インタビューして生の声を拾い上げているのが雨宮処凛『生きさせろ!──難民化する若者たち』(大田出版、2007年)である。雨宮自身、フリーターとしてイヤな思いをした経験があり、また弟が企業で使い捨てにされて体を壊した経緯も綴られていて、それだけ共感的に話を引き出している。ネットカフェ難民の問題も取り上げているほか、派遣労働の実態など、かつての飯場のシステムを思い起こさせる。雨宮自身の経歴からすれば当然だが、メンタル系の問題を抱え込んでしまった人への思いやりは優しい。「もやい」というNPOの活動を取り上げて、いざとなった時に生活保護を申請するノウハウを紹介しているのは実践的だ。

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2007年9月 4日 (火)

『アルフォンス・ミュシャ作品集』

 アールヌーボーという言葉を聞いて、大方の人が思い浮かべるのはアルフォンス・ミュシャの描く優美な女性像であろう。パリの大女優サラ・ベルナールのポスターをはじめ、洗練されたイラスト風のスタイルは、20世紀初頭、商業美術というジャンルの急速な拡がりと共に文化史において一時代を画した。

 同時代の日本にも影響は及んでいた。今年、「美人のつくりかた」という近代日本の商業ポスターをテーマとした企画展示が印刷博物館で行なわれていたが、明らかにミュシャを意識したデザインのものを見かけた。また、雑誌『明星』の扉にもミュシャ風の女性像が描かれている。

 私はミュシャの絵が結構好きで、『アルフォンス・ミュシャ作品集』(ドイ文化事業室発行、三省堂書店発売、2004年)が手もとにある。興味を持ったきっかけは、三省堂書店で本を買うとはさんでくれる、ミュシャの絵が入った栞。それで目にした「イヴァンチッツェの思い出」という作品の幻想的に暗いタッチで描かれた女性像が印象深く、ミュシャという名前が脳裏に刻み込まれた。三省堂の販売戦略にまんまとひっかかったわけだ。買ったのは紀伊国屋書店だったけどね。

 ミュシャはアメリカ滞在中、ボストン交響楽団が演奏するスメタナ「わが祖国」を聴いて、民族意識を激しく鼓舞するようなインスピレーションを得たらしい。1910年、故郷ボヘミアへ戻り、「スラヴ叙事詩」という連作に取り組んだ。パラツキーの歴史書を紐解き、バルカン各地やロシアを旅行するなど綿密な取材を基に構成された大作群は、かつての優美な作風とは打って変わり、荘厳に重々しい宗教画風。セルビア王ステファン・ドュシャンの即位式のワンシーンなど、明らかにロシア皇帝を模している。

 ミュシャが「スラヴ叙事詩」に取り組んでいる間に第一次世界大戦が勃発し、世界情勢は大きく変わった。祖国は念願の独立を果たすのだが、新生チェコスロヴァキア共和国はマサリク大統領の下、中東欧で最も近代的な先進国家として注目を浴びつつあった。その一方で、ミュシャの大時代的な「スラヴ叙事詩」は同国民から困惑の眼差しを受けることになる。

 アールヌーボーの旗手が民族的土着性に目覚めた途端、一転して中世的な厳かさへと向かったという振幅の極端さがとても興味深い。しかし、いずれにしても現実離れしたファンタジックなイメージという点では共通しており、どちらも私は好きだ。

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2007年9月 3日 (月)

「たとえ世界が終わっても」

「たとえ世界が終わっても」

 集団自殺に参加したOLの真奈美(芦名星)。集合場所に現われた自殺サイト管理人を名乗る妙田(大森南朋)は自殺の手はずを整えているはずなのだが、彼の奇妙な振舞い(おそらく計算されたものだろう)に振り回されるうちに、他の参加者たちは自殺の意欲を失って脱落していった。一人残った真奈美は睡眠薬を飲むが、目覚めるとまだ生きている。再び現われた妙田がこう言った、「どうせ捨てる無駄な命なら、誰かの役に立って死にませんか」。ガンの手術が必要だが金のないカメラマン・長田(安田顕)を紹介され、彼を生命保険金の受取人とするよう偽装結婚を持ちかけられる。

 自殺はいけないことだと口で言うのは簡単だ。しかし、死を望む人にとってそんなお説教は何ら説得力を持たない。説教する側は、死を望むだけの理由がないという特権的な立場にいるのだから、そのギャップを見せつけられて自殺願望者はますます追いつめられる。

 情緒的な意味で自分の足場が崩されていると感じている人は、些細な困難にぶつかっただけでも容易に死を望みやすい。足場を回復できるのかどうかは分からない。人それぞれの問題なのだから。ただ、勘当されていた長田が両親と再会するのを横でみつめる真奈美の視線、眉ツバ的な妙田が語る“前世の記憶”、そういったエピソードには、自身が密接に絡み合っているつながりを想い起こす、もしくは再構築する可能性がほのめかされている。

 無論、普通はこの映画のように美しいものではない。しかし、何か大切に思えるものを自身の中に呼び覚ますことさえできれば、生きるか死ぬかという単純な二者択一ではなく、生きるも死ぬもそのなりゆくままを引き受けることができるのだろう。

 大森南朋の怪演が突出した存在感を持ち、他の出演者がかすんでしまっている。童顔と言ってもいい面立ちが、時におどけ、時に不気味なすごみを放つ変幻自在ぶりに、妙田というトリックスターがストーリー全体を支配している雰囲気が不思議と納得させられる。

 物語としては割合と地味だし、大スターが出ているわけでもないのに、なぜか上映館は立ち見が出るほどの盛況だった。

【データ】
監督・脚本:野口照夫
出演:芦名星、安田顕、大森南朋、平泉成、白川和子、他
2007年/98分
(2007年8月31日レイトショー、渋谷、ユーロスペースにて)

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2007年9月 2日 (日)

上杉隆『官邸崩壊』

 第二次安倍政権の閣僚名簿に与謝野、高村、町村といった名前を見て、不覚にも(?)頼もしく感じたのは私としては奇妙な経験であった。よくよく考えてみると特に感心するような人事でもない。それだけ、第一次政権のぶざまな体たらくが目に余ったということだ。

 上杉隆『官邸崩壊──安倍政権迷走の一年』(新潮社、2007年)は参院選惨敗に至る政権内部の混乱した人物模様を描き出している。どこまで信憑性があるのか確認する術は私にはないが、報道記者や議員秘書を務めた著者の経歴からすると、独自のネットワークも駆使して肉薄しているのだろう。

 安倍晋三という人物個人に対して私は悪意を持っていない。著者も彼の優しい性格を折に触れて書き留めている。しかし、カリスマ的な小泉の跡目をつぐのに力不足だったことは否めない。側近たちの“勘違い”ぶりが政権の傷口をますます広げてしまう醜態を、これでもか、これでもかとばかりに活写される筆致をたどっていると、唖然とするのを通り越して、何やら不可思議な喜劇を見ているような気分になってくる。

 もちろん、側近たちの個人としての力量不足、経験不足がたたっているのは確かだろう。しかし、それ以上に、小泉が従来的な自民党政治を徹底的にぶち壊すことで作り出された例外状況に対応するのは、彼らでなくとも難しかったようにも思われる。それだけに、安倍政権をテーマとしているにも拘わらず、小泉の特異さが浮き彫りになってくるのがちょっと不気味ですらある。

 小泉という人の確信犯的なニヒリズムは政治家としての基準にはならない。本書を読みながら最も印象付けられたのは、安倍首相も含めて、登場人物の誰もがいたって凡人であることだ。政策立案能力という点では、たとえば塩崎前官房長官のような切れ者もいる。しかし、彼らが真に国を憂えているようには思えない。口で美辞麗句を並べるのは誰だってできるが、態度は自ずと表われる。

 かつてマキャヴェリは、フィレンツェという国家の生き残りを図るためあらゆる手段を取らねばならないという強い意志のもと、その前提として自国をめぐる内外の状況をリアルに把握すべく、善悪是非という倫理的判断を相対化させた。政治現象のリアルな認識を求めたという点でマキャヴェリは近代政治学の始祖と目されることになった。しかし、彼にとってそれは、他ならぬ“国家のため”という極めて切迫した動機が一切の楽観を許さなかったからである。つまり、切実な愛国心こそが権謀術数主義を生み出したのである。

 安倍側近たちに戦略は事実上皆無であった。楽観的な判断によって政権の傷口を広げ、個人的な功績争いに浸っているようなゆるい官邸の空気。そのこと自体、切迫した愛国心が欠如した他ならぬ証拠である。

 付け加えると、偉そうにいう私自身は日本が滅んでも構わないと思っている。ただし、その時は一蓮托生、逃げ出さずに心中するつもりでいるが。しかし、“正統保守”を自称する政治家たちがこんなたるい心構えであってはまずいだろう。

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2007年9月 1日 (土)

スメタナ「わが祖国」を思い出して

 チェコの文化といったら誰を思い浮かべるだろうか? 思いつくままに並べると、スメタナ、ドヴォルザーク、カレル・チャペック、アルフォンス・ミュシャ、ヤン・シュヴァンクマイエル。チェコ人ではないがカフカの名前もはずせない。

 例によってCDショップの試聴コーナーをふらついていたら、スメタナの連作交響詩「わが祖国」をみかけた。ラファエル・クーベリック指揮によるCDが廉価版で出されていた。“ビロード革命”で共産党政権が崩壊し、亡命先から四十年ぶりに帰国したクーベリックの凱旋ライヴを収録した名盤である。なつかしくて、思わずヘッドホンを耳に当てていた。

 私がチェコという国を最初に意識したのはスメタナの「わが祖国」だった。この中の第二曲「モルダウ」の美しいメロディーはあまりにも有名だが、他は意外と知られていない。全六曲を通して聴いたのは高校生の頃だったと思う。第一曲「ヴィシェフラト」はプラハの城を描いている。ハープで始まるメロディーはゆったりとして居丈高なところがなく、しかし荘厳さを失っていない。なかなか良いと思った。「モルダウ」以外は評価されていないと何かで読んだことがあったのだが、ウソつきやがってと腹立たしかった。

 初めて聴いたときは第五曲「ターボル」と第六曲「ブラニーク」がお気に入りだった。CDのライナーノーツに、フス戦争の闘士が甦ってチェコ民族の独立を勝ち取るというテーマが込められていると書かれていた。曲そのものよりも、民族解放というドラマチックなイメージに私は胸を湧き上がらせていた。

 19世紀、ロマン主義の流れをくむ国民楽派はナショナリズムの音楽的表現でもある。フランス革命およびナポレオン戦争をきっかけとしてヨーロッパ全土にいきわたったナショナリズムは、抑圧されてきた小民族の政治的解放の要求を喚起した。それは同時に、自分たちの伝統を見直そうという文化運動と結びついた。アカデミックには言語学や民俗学が成立し、さらに民族的感情を直截に訴えるものとして文学、美術、そして音楽も時代の風潮の例外ではなかった。そうしたパッションはやはり胸を打つ。たとえば、シベリウスの「フィンランディア」も私の大好きな曲である。

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