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2007年8月 2日 (木)

菊池理夫『日本を甦らせる政治思想──現代コミュニタリアニズム入門』

 1980年代から主に英語圏を中心とした政治哲学では、リバタリアニズム(libertarianism)とコミュニタリアニズム(communitarianism)という二つの立場の間で交わされた議論が大きな軸となった。大雑把に言うと、リバタリアニズムとは個人の自由を最大限に保障すべきという主張で、市場原理主義もここに含まれる。対して、その弊害を指摘し、伝統やコミュニティーのつながりを重視する議論を提起したのがコミュニタリアニズムだとまとめられる。

 菊池理夫『日本を甦らせる政治思想──現代コミュニタリアニズム入門』(講談社現代新書、2007年)は、“共通善”を求める政治思想としてコミュニタリアニズムを特徴付けた上で、「家族と教育」「地域社会」「経済政策と社会保障」「国家と国際社会」といった様々な位相においてこの政治思想がどこまで応用可能なのかを論じている。コミュニタリアニズムの大きな概略図をスケッチしており、入門として手頃な本だ。

 コミュニタリアニズムに対しては、①コミュニティーにおける絆を重視→個人の自由を束縛するのではないか? ②“共通善”という名目で個人に犠牲を強いるのではないか?といった批判がある。だが、この思想が一つの立場として打ち出された事情として、リバタリアニズムが内包する①負荷なきアトム的個人というフィクションへの疑問、②自由放任経済の行き過ぎ、といった問題への批判の提起を発端としていたことを考えれば、むしろ両者の指摘を総合して歩み寄るという行き方をするのが常道なのだろう(リベラル・コミュニタリアニズム)。あまり面白みのない結論になってしまうが。

 リバタリアニズムvs.コミュニタリアニズム、“自由”重視vs.“共同体”重視、と単純な対立軸にまとめてしまえば分かりやすいが、その分、説得力は乏しくなる。どんな思想でも、一部分だけを切り取って誇張すれば何でも言えてしまう。

 たとえば、リバタリアンがバイブルのように崇拝するハイエクにしても、無条件に“自由”を称揚していたわけではない。ハイエクの自由論の背景として、人間の知性には限界があるという自覚があった。だからこそ、先人が試行錯誤を通して汲み取ってきた智慧を“伝統”として踏まえ、個人の“自由”の足場として“共同体”が必要だと指摘し、単純なアトム的個人モデルを“偽の個人主義”として否定している(ハイエク「真の個人主義と偽の個人主義」『市場・知識・自由』田中真晴・田中秀夫訳、ミネルヴァ書房、1986年)。

 リバタリアンにコミュニタリアン、仮にそれぞれが極論を唱えたとしても、そうすることで論点の掘り起こしを図り、政治をめぐる大きな議論に一層の磨きをかける。そうした意味での役割分担を通して貢献しているという自覚が必要だ。これも一種の“共通善”を求める営みとするなら、私もメタなレベルで自覚的なコミュニタリアンだと言えるだろう。

 なお、リバタリアニズムについては森村進『自由はどこまで可能か──リバタリアニズム入門』(講談社現代新書、2001年)が入門書としてよくまとまっている。他に蔵研也『リバタリアン宣言』(朝日新書、2007年)というのもあるが、あまりに質が低いので私は以前にこのブログで酷評したことがある(「リバタリアン宣言」及び「リバタリアン宣言についてもう一度」を参照のこと)。

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