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2007年8月22日 (水)

広島に行ってきた①

 8月17日金曜日の夜、会社を普段よりも早くひけていったん自宅へ帰り、シャワーを浴びて旅装を整え、東京駅八重洲口へ。夜21:00発の夜行バスに乗り込み、翌朝7:30頃に広島へ到着。バスセンターのある建物を出ると、まだ朝とはいえジリジリと暑い。寝不足の頭がさらにだるくなる。気温は今日もだいぶ上りそうだ。予めメモを書き込んでおいた文庫サイズの地図帳を手に、行動開始。

 まだ時間が早いせいか、平和記念公園に人影はまばら。原爆ドームの前に立つと猫がお出迎えしてくれた(写真1)。大正モダンの様式で親しまれたかつての産業奨励館、世界遺産に指定されてあまりにも有名な建物だが、間近で見るのは今回が初めてだ(写真2写真3写真4)。原爆ドームの元安川寄りは残り、反対側が崩れている。その崩れている方向に爆心地がある。なお、近くに原民喜の文学碑があった(写真5)。佐藤春夫の筆による。

 エノラ・ゲイ号は大田川・元安川にかかるT字型が特徴的な相生橋を原爆投下の目印にしていた。実際にはやや東南側にずれ、島外科病院の上空約580メートルのあたりで原爆は炸裂したと推定されている(写真6写真7)。見上げても夏の青空が広がっているばかりで、雲ひとつない。島外科病院は被爆当時にもあった。たまたま往診に出ていた院長は難を逃れ、瓦礫の山となったここに戻り、応急治療に力を尽くしていた姿が被爆者の手記にあったのを記憶している。

 再び原爆ドームに戻った。原爆の衝撃波に耐えるほど頑丈な造りだったとはいえ、時の経過による劣化は著しく、内部補強を施されている(写真8)。立入禁止なので柵の外から中を覗き込んでいたら、猫がノソノソと入って堂々と寝転んだ。廃墟の中で、不思議にのどかな寝姿(写真9)。

 相生橋を渡る(写真10)。すぐそばに鈴木三重吉の文学碑があった(写真11)。大田川を渡った向こう側、本川国民学校(小学校)では多くの子供たちが亡くなった。被爆校舎の一部は残され、現在は平和資料館となっている。

 相生橋に戻ると、8:15を知らせる鐘が鳴った。大田川沿いに北上。河岸は緑地として整備されている(写真12)。こうの史代『夕凪の街・桜の国』の舞台となっているバラック街はこの辺りだろう。広島市街地の目抜き通りである相生通りの北側、広島城の周辺にはかつて陸軍の練兵場があった。家を失った被災者が避難してきて、行き場がなくそのまま住み着いたようだ。

 戦前、広島は日本でも有数の軍都であった。陸軍の第五師団が設置され、日清戦争に際しては広島城内に大本営が移転してきた(写真13写真14)。すなわち、統帥の最高権限を持つ明治天皇がやって来たわけで、国会も一緒について来て戦時予算の審議が行なわれている。東京以外の地で国会が開かれたのは広島だけだろう。太平洋戦争末期になると、陸軍第二総軍司令部(司令官・畑俊六)や中国総監府(総監・大塚惟精)も置かれた。いずれも、本土決戦で国土が分断されて東京との連絡が困難となった場合に独自の指揮権を持つとされた組織である。そうした政治的・軍事的重要性が原爆を広島へ招き寄せてしまったとも言える。

 広島城から東へ歩く。県立美術館で「生誕100年 靉光展」が開催されており後ろ髪が引かれたが、時間が限られているので素通りせざるを得ない。縮景園の前を通りかかった。旧藩主浅野家の庭園として一般公開されているが、まだ開園時間前のようで観光客が何人か並んでいた。ふと、この近くに住んでいた原民喜の『夏の花』に、縮景園(作中では当時の呼び名の泉邸)へ逃げてきたら多数の死体が転がっているのを目撃した光景が描かれていたのを思い出した。さらに行くと、幟町小学校にぶつかる。折り鶴の碑(写真15写真16)。被爆して白血病を発症し、祈りながら折り鶴を折り続けた少女サダコの話は日本だけでなく海外でも知られている。そのモデルとなった佐々木偵子さんが通っていた小学校である。

 相生通りに出て西進。相生橋を中島へと渡り、平和記念公園に戻る。10時近くともなるとさすがに人出が多い。歩きづめで汗ダラダラなのでレストハウスに入り、水分補給。ここはかつて燃料会館と呼ばれ、被爆後も建物は残ったので改修して使用されている(写真24)。ここの地下室で一人だけ奇跡的に助かった人がいた。その要因は高田純『核爆発災害』(中公新書、2007年)で分析されている。

 平和記念資料館に入る(写真22)。観光客ばかりでなく、夏休みの土曜日なので家族連れでごった返している。被爆死した人の着ていた服、石階段に映った被爆者の影。遺品の数々を見てコメントは難しい。言うだけ陳腐になる。体力的にというよりも気疲れして、ビデオ上映席に座って休息。原爆の絵を描いた人々の抱えた思い入れをインタビューした番組が流れていた。崩れ落ちた建物の下敷きとなった人を助けられなかった後悔。原爆の絵を見て、娘が防火水槽に頭を突っ込んで無残に死んだであろうことに思い至り、私が助けに来るのを待っていたのだろうと自らを責める母親。見ていられなくて途中で席を立つ。

 現在は平和記念公園となっている中島、ここはかつて繁華街で、多数の人々がまさにここで焼け死んでいった。そして、そこを自分の足が踏んでいることに今さらながらに思いを致す。原爆死没者慰霊碑の前では自然と手を合わせていた(写真17)。慰霊碑は丹下健三の設計。石棺には被爆死した人々の名簿が収められている。雑賀忠義・広島大学教授(当時)による「安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しませぬから」という銘文は、誰が過ちを犯したのか主語が曖昧だという議論があったが、それはおいておこう。賽銭箱があったのが目を引いた。土地に刻み込まれた記憶、言い換えれば一種の怨念を、いつまでも忘れず戒めへとつなげていく追憶のシステムを“聖地”の条件とするなら、こうした神社的なあり方も得心がゆく。

 次に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前に立つ(写真18写真19)。もともと、この碑は大田川をはさんで平和記念公園の対岸に建てられていたが、公園の外にあるのは韓国人差別だとの声があがり、公園内へ移設された経緯がある。実は、最初にあった場所というのは朝鮮公族李鍝(金+禺)が被爆死した辺りだったという事情があるらしい。日本による韓国併合後、李王家は公族として日本の皇族に準ずる待遇を受けており、李鍝(金+禺)は陸軍将校として広島に赴任していた。韓国併合以来の複雑な政治事情が影を落としている。日本人が朝鮮半島で優位な立場をいかして商売を行なったため、そのしわ寄せで職を失った人々が広島へ多数来ていたという事情もある。さらに、朝鮮総連と韓国民団との複雑な関係なども問題としてあるが、そうした政治的論争は別として、苦難を受けたことにかわりはないわけで、やはり手を合わせる。

 仏教、キリスト教、神道などの各宗教団体が集まって合同で建立された原爆供養塔の前でも合掌してから(写真20写真21)、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ行く(写真23)。ここでは原爆死没者遺影や被爆者の体験記を集める事業が行なわれている。建てられたのは割合と新しいようだ。地下に静かな追悼空間が設けられている。

 レストハウスの前を通り、元安橋を渡った(写真25)。被爆当日、松重美人カメラマンによる数少ない写真のうち2枚が撮影されたのがまさにここだ。橋は架け替えられている。観光客が笑いささめき、橋のたもとのボート乗り場からは行楽地独特ののんびりした音楽入りアナウンスが流れている。時の隔たりに感慨深い。無残な出来事も、時を経て歴史の中で相対化されていく。もちろん忘れて去ってはいけないが、リゴリスティックに非難しても仕方ないだろう。

(続く)

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コメント

はじめまして。
広島に来られていたのですね。
2日で、これだけのスケジュールをこなされるとは。。
感服です。

私は広島に産まれ、広島に育ち、この春には「ひろしま通」なるものに認定された、生粋の広島人です。
しかも、被爆2世でありながら、
原爆のことなどについて、ここまで詳しく学習したこともなく
ちょっと恥ずかしくなってしまいました。。
広島に産まれた者として伝えていかなければならないこと。。
改めて考えさせられました。

投稿: さんちゅ。 | 2007年8月23日 (木) 14時25分

 さんちゅ。さん、コメントをありがとうございました。

 駆け足だった上に、炎天下を歩きづめ。立ち止まって考えるゆとりがなく、色々と心残りもあります。

 実は、被爆当時、大叔父が召集されて暁部隊にいました。救護で広島に入ったのですが、その時に目にしたことは話したがりませんでした。広島在住でも、思い出したくないので平和資料館へは行かない方もいると聞きます。語らせることは、その人に、目を背けたい記憶へ直面させることでもあるわけで、そうした意味でも語り継ぎの難しさを感じます。だからこそ、語ってくださる方の話は貴重ですよね。

投稿: トゥルバドゥール | 2007年8月24日 (金) 15時04分

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