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2007年8月

2007年8月30日 (木)

昔の鉄道路線図を眺める

 小学校にあがるかあがらないかくらいの幼い頃、子供向けの鉄道百科シリーズが好きだった。車両には全く興味がなく、もっぱら全駅の写真付きデータを読みふけっていた覚えがある。行ったことのない土地について想像をふくらませ、胸をワクワクさせていた。

 だが、その頃からすでに赤字路線の第三セクター化、場所によっては廃線という流れが始まっていた。鉄道路線網の総距離という点での最盛期は1970年代くらいだろうか。あの当時の雰囲気のよすがでも知りたいと思い、種村直樹『時刻表の旅』(中公新書、1979年)、『終着駅の旅』(講談社現代新書、1981年)、『駅を旅する』(中公新書、1984年)といった本を読んでみた。全線乗車の体験をもとにローカル駅の情景が書き留められている。無論、行ったことはないのだが、知っている駅名を見るだけでなつかしく感じる。

 鉄道路線網の興廃は、日本現代史の一側面を映し出している。『廃線入り 全国鉄道路線案内図』(人文社、2006年)を眺めていたら、廃線がとりわけ目立つのは北海道、ついで福岡。炭鉱地帯の路線が多い。鉄道が敷設されるには地域に応じてそれぞれの事情があるわけだが、廃線された路線をみると、①石炭・木材など資源運搬用、②軍事用、といった目的で敷かれ、戦後の情況変化によって不採算路線に転落したケースが多いようだ。

 そもそも軍事目的の場合、経営的な採算性は最初から度外視されている。先日、広島に行ったとき、広島駅と広島湾の軍港を結ぶ宇品線の廃線跡に立ったが、この路線は日清戦争直前にわずか16日間の突貫工事で完成されたものだ。しかし、戦後は旅客輸送に転用されたものの、市電に競り負けて廃線となった。

 戦争中の復刻地図が収められている『昭和19年の鉄道路線図と現在の鉄道路線図』(塔文社、2004年)を買い求め、曽田英夫『時刻表昭和史探見』(JTB、2001年)を参考書として傍らに置きながら眺めた。面白いと思ったのは、第一に現在の鉄道路線網の基本形は昭和19年の時点でほぼ出来上がっていること。第二に、樺太、台湾、朝鮮半島、そして旧満洲国の路線図まで収録されていること。

 宮脇俊三『時刻表昭和史』(角川文庫、2001年)だったと思うが、東京から旧満洲国の新京までを一本に結ぶ時刻表が掲載されているのを見て驚いたことがある。特急つばめ号で下関へ、そして関釜連絡船で釜山に出て朝鮮鉄道・満鉄直通列車という乗り継ぎ。当時の日本は大陸国家だったんだと不思議に感慨深い。

 蛇足ながら、俊三の父・宮脇長吉は陸軍出身の政治家で、政友会所属の代議士だった。退役軍人ではあるが軍国主義の風潮には批判的で、後の翼賛選挙では非推薦で立候補、しかし落選。戦局もおしせまった時期に俊三が父と一緒に列車に乗った折のこと、偉そうに座席を占領する若い将校を長吉が苦々しげに一喝するシーンが『時刻表昭和史』に描かれている。ちなみに、長吉は“黙れ事件”の当事者である。国家総動員法案の審議に政府委員として答弁にあたっていた陸軍省の佐藤賢了が、議員たちの野次に対して「黙れ!」と怒鳴りつけて問題化した事件だが、実はこの時、佐藤は「黙れ、長吉!」と言ったらしい。佐藤は、宮脇が陸軍士官学校教官だった時の教え子だった。

 昭和19年の路線図を眺めていて、淡路島と沖縄にも鉄道があったのは意外だった。沖縄は平成15年に開業したモノレールが初の鉄道とばかり思い込んでいたのだが、沖縄県営鉄道が昭和20年4月まで運行していた。しかし、沖縄戦のあまりの激しさで鉄道施設は完全に壊滅し、米軍占領下に入っても復興されることはなかったという。

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2007年8月27日 (月)

「ベクシル──2077日本鎖国」

 舞台設定は2077年の日本。10年前に徹底した“ハイテク鎖国”を断行し、日本の内情は海外に一切分からない。日本を事実上牛耳る大企業・大和(ダイワ)重鋼の不審な動きをキャッチした米国特殊部隊SWORDは、政府上層部の意向を無視して日本への潜入作戦を実行に移した。日本側の堅いガードを辛うじて生き残った工作員ベクシルは、それまでベールに包まれていた日本の恐ろしい事態を目の当たりにする。

 原作なしのオリジナル作品らしいが、なかなかよく出来ていると思う。世界から隔絶された日本に荒廃した空間が広がっているという設定は大友克洋「AKIRA」を思わせる。人間の機械化への抵抗というモチーフは松本零士「銀河鉄道999」をはじめ古典的なテーマだ。

 曽利文彦監督は、松本大洋原作の「ピンポン」を映画化するにあたり所々でCGを駆使して面白い映像を作っていた記憶があるが、今回は本格的なアニメーションである。3Dで人物の微細な動きまで再現するリアルな映像は、最初ちょっと違和感があったが、観ているうちに目に馴染んできた。以前、テレビアニメシリーズ「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」を観たとき、オープニングだけ3D映像で気持ち悪く感じた覚えがあるのだが、今回のように目に馴染んでしまうと、従来のアニメ映像がチャチに見えてきてしまう。音楽のノリも悪くない。

【データ】
監督:曽利文彦
脚本:半田はるか、曽利文彦
声の出演:黒木メイサ、谷原章介、松雪泰子、大塚明夫、他
2007年/109分
(2007年8月25日、新宿ジョイシネマにて)

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2007年8月26日 (日)

升味準之輔『昭和天皇とその時代』

升味準之輔『昭和天皇とその時代』(山川出版社、1998年)

 昭和天皇が亡くなったとき、私はまだ中学生でそろそろ世の中の問題に目を向けようかという年頃だった。私の家庭はどちらかと言うと天皇制に否定的な空気があったので、情緒的な思い入れはない。かと言って格別な反感もなく、無表情にヨロヨロ歩く老翁の姿だけが私の天皇イメージのすべてであった。

 本書は、当事者の日記や回顧録をはじめ史料根拠をふんだんに用いながら、戦前・戦後を通じた政治史の中での昭和天皇の立ち位置を跡付けようと試みる。引用が多すぎて少々読みづらい感じもするが、それだけ議論の信頼性は保証されている。しかしながら、ある年代以上の人々にとって天皇の問題というのは距離の取りづらい微妙な困難をはらむものらしい。実証研究で名高い日本政治史の泰斗にしても、自らがその中にいた“呪縛空間”との葛藤を吐露している。

 関心の焦点はやはり太平洋戦争の開戦と終戦の経緯に集まり、数ある史料の中でも『昭和天皇独白録』にしばしば言及される。昨年スクープされた“富田メモ”にしてもそうだが、これらに特に目新しい事実はない。むしろ、従来の研究を裏付ける内容である。ただ、一人称で語られる昭和天皇の肉声に著者は並々ならぬ関心を示す。これもまた、かつて体感していた“呪縛空間”のゆえでもあろうか。

 昭和天皇の積極的な政治介入は三回だけあったと言われている。張作霖爆殺事件の処理をめぐって田中義一首相を叱責、田中が恐懼して辞任してしまった“苦き経験”を反省し、以後は“立憲君主”として振舞うことを旨として、政治介入は自制してきた。二・二六事件と終戦の決断の二回は例外である。そのように昭和天皇は語る。しかし実際には、内奏と御下問、聖旨の伝達など様々な場面で天皇は政策決定の中枢にいたと著者は指摘する。そして、“苦き経験”を踏まえた“立憲君主”という言い方は、東京裁判を目前にして構成された弁明の論理だという。

 無論、天皇制が護持されたのはこうした論理構成が連合国に受け入れられたからではなく、あくまでもアメリカが政治利用の価値を認めたからに過ぎない。それからもう一点、昭和天皇がマッカーサーとの会見で、「自分の身はどうなっても構わないから国民を助けて欲しい」と述べたこともよく知られている。

 “聖断”によって終戦が実現できたなら、同様に開戦も阻止できたはずではないか、という疑問はよく提起される。だが、もしそのような意思を示していたらクーデターが起こって事態はもっと悪くなっていただろうと昭和天皇は言う。いずれにせよ、彼は政策決定の中枢にいて、その中で可能な限り戦争回避に苦慮していたが、軍部や開戦派に押し切られる形で宣戦を裁可することになる。政治というのは国益のためには戦争の可能性も排除できない、少なくとも当時はそれが常識であった。様々な意見が交錯する中で揺らぐ昭和天皇の姿が間接的ながらも本書には浮かび上がっている。

 戦後も昭和天皇は政治への関心を持ちつづけ、首相や閣僚からの内奏によく耳を傾けていたらしい。勿論、そこで語られた天皇の言葉が外部に漏れることはなかった(田中角栄内閣の増原防衛庁長官がうっかり記者団に話して政治問題化したことがある)。しかし、新憲法の確立によりそうした機会はかつてに比べると断然少なくなり、昭和天皇も少々寂しい思いをしていたようだ。ヨーロッパ王室をモデルとして天皇に権力を集めた明治から昭和初期という時代は皇室の歴史の中でむしろ例外的で、戦後、権力から隔絶された現在の方が伝統にかなっているという趣旨のことを高松宮が述べており、興味深い。

 『昭和天皇独白録』は寺崎英成のメモを基にしているが、昭和天皇の回想を側近が書き留めた『拝聴録』が宮内庁に存在するという噂がある。私もぜひ読んでみたいという気持ちに駆られる。昭和天皇は、たとえば西園寺公望のようなオールド・リベラリストの薫陶を受け、バランス感覚に富んだ人だったという印象を私は持っている。軍部が政府を引きずり回し、政党政治は自滅していく、そうした下々の諍いを苦々しく眺めざるを得なかった苦衷はいかばかりであったろうか。

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2007年8月24日 (金)

広島に行ってきた③

(承前)

 翌朝、7:30頃に宿舎を出た。市電に乗って広島港へ行く。江田島まで船で行くつもりなのだが、ちょうど8:07発が出航してしまったばかり。次の便は9:24までない。旅客ターミナルは割合と新しく、パン屋兼喫茶店のような店があったので朝食がてら時間をつぶす。

 ファーストビーチ号に乗り込み、江田島の小用港へ向かった。広島湾には小島が多く、潮の香りはするものの、見た感じは海というよりは大きな湖という印象を持った(写真51)。小用港までは20分ほどで到着。港前のバス停にちょうどバスがいたので乗り込み、海上自衛隊第一術科学校前で降りた。見学ツアーが10:00から始まることは事前に調べてあったのだが、ギリギリ間に合った。意外と大勢集まっている。案内者は、おそらく退役間近なのだろうか広報の腕章をつけた年配のおじさん。適宜ダジャレを織り込みながら一人一人に語りかける話術は磊落にユーモラスで好感を持った。

 江田島にかつてあった海軍兵学校は陸軍士官学校と同様にエリート軍人養成校であり、旧制高等学校以上の難関だったことで知られる。イギリスのダートマス兵学校、アメリカのアナポリス兵学校と共に世界三大兵学校と言われたそうだ。現在は海上自衛隊の幹部養成校および第一術科学校となっている。

 当時から残っている大講堂(写真52)や校舎を一通り見る。赤レンガの校舎(写真53)はイギリスのダートマス兵学校を、もう一つ白亜の校舎はアメリカのアナポリス兵学校を模して建てられている。沿岸へ行くと、戦艦陸奥の大砲(写真54)や高射砲、砲弾などが記念碑のような感じに置いてある。ここから練習艦にじかに乗り込むことができ、卒業式の日にはそのまま遠洋航海に出かけてしまうそうだ。教育参考館という建物も古そうだが、現在、改装工事中。脇に、いわゆる“人間魚雷”回天(写真55写真56)・海竜(写真57写真58)の2機が置かれていた。説明板での表記は“特殊潜航艇”となっている。教育参考館の仮設展示室には、ゆかりの海軍軍人たちの史料、そして特攻隊として散華した人々の遺影及び遺書がある。

 小用港に戻り、フェリーに乗って今度は呉に向かった。瀬戸内海はどこもそうなのだろうが、対岸が見えるので海という実感がわかない。呉港に近づくにつれて、大型船、工場のクレーン、海上保安大学校などが見えてきて、いかにも軍港というイメージを裏切らない。

 港湾旅客ターミナルに隣接する大和ミュージアムに入った。かつて呉海軍工廠で戦艦大和が建造されたことにちなんだ博物館である。海軍の歴史と呉の街の成り立ちとを絡ませた展示は情報量という点でなかなか充実している。とりわけ技術水準の高さをアピールするのがこの博物館のコンセプトのようで、船の力学を遊びながら体験できるコーナーなどよく工夫されている。名誉館長の一人として松本零士も名前を連ねており、「宇宙戦艦ヤマト」に絡めて未来の科学をテーマとした展示もあった。家族連れで込み合っていた。

 道路を挟んで向かい側にある、海上自衛隊史料館「うみのくじら館」にも寄る。新しくできた施設で、潜水艦の仕組み、機雷と掃海活動の重要性の解説など、海上自衛隊の任務についてのPRを目的としている。潜水艦の実物(写真67)が置かれていて、艦内を実際に歩いて体感できるのが面白い。

 呉の市街地を歩く。思っていた以上に都市としての規模は大きい。高い所から眺めると、住宅地が平地に収まりきれず、山すそをいくぶんか登るあたりまで広がっている。海軍呉鎮守府の城下町として、軍需産業を中心に発展した過去がうかがえる。かつては市電が走っていたらしく、道路の幅員は広いのだが、その分、閑散と寂しい感じもした。私は観ていないのだが「男たちの大和」「海猿」といった映画のロケが行なわれたらしく、観光案内を見ると町興しのテーマとして強調されている。

 もう二時を過ぎたので昼食を摂ろうとI屋に入った。“海軍さん”の味を売り物にしている店だ。昔の洋食はこんな感じだったのかなあと思いながらハヤシライスを食べた。肉じゃがはなかなかうまかった。

 入船山記念館へ行った(写真59)。呉鎮守府司令長官の官舎が記念館として一般公開されている(写真62写真63)。和室と洋室が組み合わされた典雅な建物だ。他にも、衛視詰所(写真60)や弾薬庫(写真61)など、旧海軍を彷彿とさせる建物を実見できる。東郷平八郎の暮らした家(写真64)というのも移築されていた。

 ここからさらに海寄りの方向へ歩くと、海上自衛隊呉方面総監部の前に出た(写真65)。この敷地内にかつての呉鎮守府の建物がある。見学時間からははずれていたので、近くの歩道橋の上から撮影(写真66)。戦前ならスパイ容疑で連行されたろうな。

 広島は陸軍の街、呉は海軍の街、それぞれ軍都としての性格を戦前は持っていた。不幸にして原爆が投下され、廃墟から再生した広島には、戦後、平和のシンボルとしての役割が期待されることになった。対して呉は、軍事の中でも技術という側面に誇りを持たせようとしているのが特徴的である。戦後再出発した日本の二つのイメージ、“平和国家”としての日本と“技術立国”としての日本が、この隣り合わせの二つの街に象徴的に表われているようにも感じられる。

 呉駅に行き、15:45発の快速電車に間一髪のタイミングで飛び乗った。広島には16:20頃に着。乗車予定の新幹線は19:26発なので、もう少し広島の市街地を歩くことにした。旅先では必ず書店をチェックすることにしているので、JR広島駅前福屋百貨店上のジュンク堂と、紙屋町の紀伊國屋を見て回った。両方ともそれなりに充実している。市電に乗って広島駅に戻ろうとしたら、雲行きが怪しくなってきて空に稲妻が走るのが見えた。嫌な予感がしていたら、案の定、落雷による送電線事故で新幹線のダイヤが大幅に乱れていた。東京駅には夜中の12:30頃に到着。中央線の終電にギリギリ間に合い、何とか帰宅できた。

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2007年8月23日 (木)

広島に行ってきた②

(承前)

 昼を過ぎた。昨晩から何も食べてないことを腹の腑が訴えてきたので、地下街のMという店に入り、広島焼きで朝食兼昼食を済ます。再び暑い地上に出て、市街地を南下。袋町小学校(旧袋町国民学校)平和資料館へ行った(写真26)。

 本川国民学校と同様、こちらも当時としては珍しいコンクリート造の建物なので爆発の衝撃波にも耐え、校舎の一部が残されて資料館となっている。行方不明者の消息を尋ねる伝言が一面に書きつめられた壁が保存されている。ボランティアのおじいさんが親切に解説してくれた。生徒たちはほぼ全滅したが、原爆が落ちた瞬間にたまたま地下室に下りていて助かった生徒のことは手記か聞き書きかで読んだ記憶がある。その地下室も保存されており、資料ビデオが流されていた。行方不明となった親族の名前をここの壁に残された伝言で見つけたという人を取材した番組だった。

 たまたま東京の大学生と同席していて、被爆地を訪れた人々のアンケート調査をしているので協力して欲しいと頼まれた。真面目な口ぶりだったので了解。「広島へ来た理由は何ですか?」うーん、言葉につまる。「気になっていたから」と漠然とした返答。「実際に来てみて、初めて知ったことはありますか?」「うーん、知識として驚くことはなかったが、ただ、遺品の原物を見て、現地で足を踏みしめて、まさにここで亡くなったのだという実感があったかな。」当たり障りのない陳腐な返答だ。だから言葉に出したくない。「それでは、国民投票法が制定されて、三年後以降、憲法改正が可能となりますが、第九条についてはどのようにお考えですか?」頭の中で、“出た!!!”とエクスクラメーションマークが3つ並んだ。もちろん、顔には出さない。「うーん、難しい質問ですねえ。取り敢えずペンディングというか、護憲・改憲双方ともそれなりに筋が通っていると思うので、現時点ではどちらとも言えません。」

 彼は色々と興味深い話を聞かせてくれた。外国人と日本人とでの意識の違いが浮き彫りにならないか、それをテーマにインタビューしているという。あるイタリア人など、広島はまだ焼け野原のままだと思っていたらしく、大都会ぶりに驚いていたらしい。「日本人はまだチョンマゲを結っている、みたいな発想なんですかねえ」という彼の突っ込みに納得。海外の人は割合とフランクに答えてくれるようだが、日本人観光客に話を聞こうとすると、胡散臭げに見られてなかなか難しいという。暑い最中、本当に大変だ。

 しばらく雑談しながら、先ほどのアンケートで違和感を持った点を率直にぶつけてみた。「原爆の問題と憲法問題、どちらに力点を置いているのか? 質問の流れとして、非核三原則や核拡散の問題を尋ねるなら分かるが、憲法問題は唐突な印象があった。広島の原爆の問題と憲法第九条の問題とは、君の頭の中ではどのようなロジックで結びついているのだろうか?」彼は「広島のことを考えるにしても、今現在の問題を絡めたかった」という。もちろん、平和問題というテーマで概括できるという前提を自明なものとみなす気持ちは分かる。だが同時に、憲法問題には微妙な政治性がにじんでいる。日本人観光客が忌避しようとしたのはそうした政治性への無意識的な拒否反応だったのではないかという印象を私は感じていた。ただ、付け加えておくと、彼は、たとえば平和記念資料館で遺品を見てショックを受けた直後の人には、感情的にたかぶった状態に土足で踏みにじるのは避けたいのでインタビューしないという。そういう配慮はきちんとしている。「頑張ってください」と声をかけて別れた。

 近くの頼山陽史跡記念館に寄る(写真27)。山陽が脱藩騒ぎをおこして幽閉された居室がここにあったらしい。ここで『日本外史』執筆に着手したという。戦前に記念館が建てられたが、原爆により大破。収蔵品の多くは焼失してしまったが、1995年に現在の形で開館した。ちなみに、岩波文庫版『日本外史』は一応持っているのだが、ほとんど目を通したことはない。古典読解の訓練を受けていないのでなかなか難しい。展示されている書を見ても、実のところよく分からない。

 先日、中島岳志『パール判事』(白水社、2007年)を読んで本照寺という日蓮宗のお寺にパール判事の碑文があることを知ったので地図をみながらたどり着いた(写真28)。原爆慰霊碑にある「過ちは繰返しませぬから」をパールは見て、主語を曖昧にしてアメリカの責任を濁していることは、戦後日本人のアメリカ依存の表われだという趣旨の感想を述べたという。それを聞いたここの住職が碑文をお願いしたらしい(写真29)。英訳は通訳のA・M・ナイル(彼はラシュ・ビハーリ・ボースの秘書役を務めていた)による。

 広島赤十字・原爆病院へ行った(写真31)。ここの建物は爆風に何とか耐えたが、その後建て替えたため一部だけ保存されている。爆風で歪んだ窓枠(写真30)。壁に突き刺さったガラス片が生々しい。被爆者の手記を読んでいると、ガラス片がびっしり体中に突き刺さったという描写がよく出てくるが、コンクリート壁に深くめり込んだ様子を見ると、そのすさまじい勢いが窺われて恐ろしい。なお、この病院の保管庫にあったレントゲン撮影用のフィルムが感光していたことからおびただしい放射能が放出されたことが分かり、広島に落とされたのが原子爆弾であったと確認された。

 東へ歩き、広島大学旧校舎へ行った。戦前の広島文理科大学で、東京文理科大学(後の東京教育大学・筑波大学)と並んで教育系大学の名門であった。ここの建物も被爆に耐えて現存している(写真32写真33)。ただ、大学キャンパスの移転後、使い途が決まっていないようで文字通りの廃墟と化している。被爆当時、この建物の一部は接収されて中国総監府が置かれていた。前にも触れたように、中国総監は本土決戦において東京との連絡が絶たれた場合に独自の指揮命令権を持つとされた。総監となった大塚惟精は内務省警保局長を務めたエリート官僚である。大田洋子『屍の街』には、インテリ肌の人ということで彼の赴任を好意的に受け止めている記述があった(大田の父も役人だったので伝え聞いたらしい)。大塚総監は自宅で被爆、家族を逃がした後に彼一人亡くなった。

 さらに東へ歩く。土地勘がないと徒歩は不安だが、地図をたよりに何とか比治山へたどり着いた。さらに坂道や階段を登る。木々の隙間から照射される午後の陽射しが肌に熱い。足取りは重く、滴る汗が目に入ってしみる。頂上に出ると公園があり、ジャングルジムで若い夫婦が小さな子供を遊ばせていた。ペットボトルのスポーツドリンクを飲み干して一息つく。

 比治山は桜の名所として広島では知られている。陸軍墓地があるのだが(写真34)、その一角をつぶす形でアメリカ占領軍により原爆障害調査委員会、略称ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)の施設が建てられた(写真35)。これは要するに、原爆の兵器としての効果を測定することが目的で、集められた被爆者たちの診察はするが治療はしてくれず、怨嗟の的となっていた。現在は日米共同研究機関 放射線影響研究所となっている。

 近くの展望台では、猫がいかにもだるそうにベンチの下で転がっていた(写真36)。比治山を降りる途中に、頼山陽(1780~1832)没後100年を記念して建てられた山陽文徳殿という建物がある(写真37写真38)。辺りは草ぼうぼうで打ち捨てられた感じ。屋根上の九輪の塔が少しねじれているが、これは原爆の爆風によるという。ここの麓にある多聞院という寺院には、被爆当日、県や総監府の生き残った幹部が集まり、一晩だけ臨時県庁の役割を果たした。

 比治山下という停留所で市電に乗り、宇品へと向かう。寝不足だったのでついウトウトしてしまい、気付いたらいつの間にか終点の広島港まで来ていた。市電を降り、海岸と並行している道路を歩く。マンションなども建っているが、船荷積み下ろし用の倉庫や空き地が広がる、殺風景な通りだ。やけにぼろくて風情のある建物があった(写真48)。一応、広島港湾局所属になっている。堤防に出て海を見る(写真39写真40)。

 地図に書き込んだメモを頼りに、宇品波止場公園に行った。宇品には陸軍船舶司令部、通称“暁部隊”があった。基本的に兵站を担当する部隊で、宇品近辺には軍需物資の生産工場も多かった。広島駅からここまで軍事目的の鉄道が引かれており、日清戦争以来、多くの兵士を運んできた。その後、国鉄宇品線となり1986年に廃線。宇品駅のポイントが残っている(写真41写真42)。宇品線に揺られてきた陸軍の兵士はここから船に乗り込む。出征する者、そして幸いにして復員できた者はこの六管桟橋をその都度踏みしめることになった(写真43写真44写真47)。歌人の近藤芳美による記念碑がある(写真45)。桟橋そのものは現在使われていないが、すぐ近くに海上保安庁の艦船が停泊している(写真46)。

 再び市電に乗り込み、広島の中心街へ戻った。予約しておいた宿舎で着替えてから繁華街へ出る。旅先ではその土地の名物を必ず食べろという恩師の教えを忠実に守り、B屋で広島つけ麺(写真49)を、G屋で広島焼き(写真50)とはしごした。ノドがからからだったのでビールをがぶ飲みして寝た。

(続く)

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2007年8月22日 (水)

広島に行ってきた①

 8月17日金曜日の夜、会社を普段よりも早くひけていったん自宅へ帰り、シャワーを浴びて旅装を整え、東京駅八重洲口へ。夜21:00発の夜行バスに乗り込み、翌朝7:30頃に広島へ到着。バスセンターのある建物を出ると、まだ朝とはいえジリジリと暑い。寝不足の頭がさらにだるくなる。気温は今日もだいぶ上りそうだ。予めメモを書き込んでおいた文庫サイズの地図帳を手に、行動開始。

 まだ時間が早いせいか、平和記念公園に人影はまばら。原爆ドームの前に立つと猫がお出迎えしてくれた(写真1)。大正モダンの様式で親しまれたかつての産業奨励館、世界遺産に指定されてあまりにも有名な建物だが、間近で見るのは今回が初めてだ(写真2写真3写真4)。原爆ドームの元安川寄りは残り、反対側が崩れている。その崩れている方向に爆心地がある。なお、近くに原民喜の文学碑があった(写真5)。佐藤春夫の筆による。

 エノラ・ゲイ号は大田川・元安川にかかるT字型が特徴的な相生橋を原爆投下の目印にしていた。実際にはやや東南側にずれ、島外科病院の上空約580メートルのあたりで原爆は炸裂したと推定されている(写真6写真7)。見上げても夏の青空が広がっているばかりで、雲ひとつない。島外科病院は被爆当時にもあった。たまたま往診に出ていた院長は難を逃れ、瓦礫の山となったここに戻り、応急治療に力を尽くしていた姿が被爆者の手記にあったのを記憶している。

 再び原爆ドームに戻った。原爆の衝撃波に耐えるほど頑丈な造りだったとはいえ、時の経過による劣化は著しく、内部補強を施されている(写真8)。立入禁止なので柵の外から中を覗き込んでいたら、猫がノソノソと入って堂々と寝転んだ。廃墟の中で、不思議にのどかな寝姿(写真9)。

 相生橋を渡る(写真10)。すぐそばに鈴木三重吉の文学碑があった(写真11)。大田川を渡った向こう側、本川国民学校(小学校)では多くの子供たちが亡くなった。被爆校舎の一部は残され、現在は平和資料館となっている。

 相生橋に戻ると、8:15を知らせる鐘が鳴った。大田川沿いに北上。河岸は緑地として整備されている(写真12)。こうの史代『夕凪の街・桜の国』の舞台となっているバラック街はこの辺りだろう。広島市街地の目抜き通りである相生通りの北側、広島城の周辺にはかつて陸軍の練兵場があった。家を失った被災者が避難してきて、行き場がなくそのまま住み着いたようだ。

 戦前、広島は日本でも有数の軍都であった。陸軍の第五師団が設置され、日清戦争に際しては広島城内に大本営が移転してきた(写真13写真14)。すなわち、統帥の最高権限を持つ明治天皇がやって来たわけで、国会も一緒について来て戦時予算の審議が行なわれている。東京以外の地で国会が開かれたのは広島だけだろう。太平洋戦争末期になると、陸軍第二総軍司令部(司令官・畑俊六)や中国総監府(総監・大塚惟精)も置かれた。いずれも、本土決戦で国土が分断されて東京との連絡が困難となった場合に独自の指揮権を持つとされた組織である。そうした政治的・軍事的重要性が原爆を広島へ招き寄せてしまったとも言える。

 広島城から東へ歩く。県立美術館で「生誕100年 靉光展」が開催されており後ろ髪が引かれたが、時間が限られているので素通りせざるを得ない。縮景園の前を通りかかった。旧藩主浅野家の庭園として一般公開されているが、まだ開園時間前のようで観光客が何人か並んでいた。ふと、この近くに住んでいた原民喜の『夏の花』に、縮景園(作中では当時の呼び名の泉邸)へ逃げてきたら多数の死体が転がっているのを目撃した光景が描かれていたのを思い出した。さらに行くと、幟町小学校にぶつかる。折り鶴の碑(写真15写真16)。被爆して白血病を発症し、祈りながら折り鶴を折り続けた少女サダコの話は日本だけでなく海外でも知られている。そのモデルとなった佐々木偵子さんが通っていた小学校である。

 相生通りに出て西進。相生橋を中島へと渡り、平和記念公園に戻る。10時近くともなるとさすがに人出が多い。歩きづめで汗ダラダラなのでレストハウスに入り、水分補給。ここはかつて燃料会館と呼ばれ、被爆後も建物は残ったので改修して使用されている(写真24)。ここの地下室で一人だけ奇跡的に助かった人がいた。その要因は高田純『核爆発災害』(中公新書、2007年)で分析されている。

 平和記念資料館に入る(写真22)。観光客ばかりでなく、夏休みの土曜日なので家族連れでごった返している。被爆死した人の着ていた服、石階段に映った被爆者の影。遺品の数々を見てコメントは難しい。言うだけ陳腐になる。体力的にというよりも気疲れして、ビデオ上映席に座って休息。原爆の絵を描いた人々の抱えた思い入れをインタビューした番組が流れていた。崩れ落ちた建物の下敷きとなった人を助けられなかった後悔。原爆の絵を見て、娘が防火水槽に頭を突っ込んで無残に死んだであろうことに思い至り、私が助けに来るのを待っていたのだろうと自らを責める母親。見ていられなくて途中で席を立つ。

 現在は平和記念公園となっている中島、ここはかつて繁華街で、多数の人々がまさにここで焼け死んでいった。そして、そこを自分の足が踏んでいることに今さらながらに思いを致す。原爆死没者慰霊碑の前では自然と手を合わせていた(写真17)。慰霊碑は丹下健三の設計。石棺には被爆死した人々の名簿が収められている。雑賀忠義・広島大学教授(当時)による「安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しませぬから」という銘文は、誰が過ちを犯したのか主語が曖昧だという議論があったが、それはおいておこう。賽銭箱があったのが目を引いた。土地に刻み込まれた記憶、言い換えれば一種の怨念を、いつまでも忘れず戒めへとつなげていく追憶のシステムを“聖地”の条件とするなら、こうした神社的なあり方も得心がゆく。

 次に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前に立つ(写真18写真19)。もともと、この碑は大田川をはさんで平和記念公園の対岸に建てられていたが、公園の外にあるのは韓国人差別だとの声があがり、公園内へ移設された経緯がある。実は、最初にあった場所というのは朝鮮公族李鍝(金+禺)が被爆死した辺りだったという事情があるらしい。日本による韓国併合後、李王家は公族として日本の皇族に準ずる待遇を受けており、李鍝(金+禺)は陸軍将校として広島に赴任していた。韓国併合以来の複雑な政治事情が影を落としている。日本人が朝鮮半島で優位な立場をいかして商売を行なったため、そのしわ寄せで職を失った人々が広島へ多数来ていたという事情もある。さらに、朝鮮総連と韓国民団との複雑な関係なども問題としてあるが、そうした政治的論争は別として、苦難を受けたことにかわりはないわけで、やはり手を合わせる。

 仏教、キリスト教、神道などの各宗教団体が集まって合同で建立された原爆供養塔の前でも合掌してから(写真20写真21)、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ行く(写真23)。ここでは原爆死没者遺影や被爆者の体験記を集める事業が行なわれている。建てられたのは割合と新しいようだ。地下に静かな追悼空間が設けられている。

 レストハウスの前を通り、元安橋を渡った(写真25)。被爆当日、松重美人カメラマンによる数少ない写真のうち2枚が撮影されたのがまさにここだ。橋は架け替えられている。観光客が笑いささめき、橋のたもとのボート乗り場からは行楽地独特ののんびりした音楽入りアナウンスが流れている。時の隔たりに感慨深い。無残な出来事も、時を経て歴史の中で相対化されていく。もちろん忘れて去ってはいけないが、リゴリスティックに非難しても仕方ないだろう。

(続く)

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2007年8月17日 (金)

広島の原爆について色々と

 このお盆休みには原爆関連の本を、特に広島について読みあさっていた。

 原爆というテーマで取り合えず一冊手に取るとしたら何を選ぶだろうか。原民喜『夏の花』がまず思い浮かんだ。『原民喜戦後全小説』(上下、講談社文芸文庫、1995年)に目を通す。原は妻を亡くして広島の実家へ戻っていた折に被爆。目の当たりにした光景をとにかく書きつけたノートが「夏の花」のもととなっている。「美しき死の岸に」は亡くした妻への想いを綿々とつづっているが、何か女々しいなあと思いながらパラパラめくっていたら、不遇をかこつ中、不器用で傷つきやすい感受性がどこか放っておけない感じで、いつしか読み込んでいた。とりわけ、自殺を目前にして事実上の遺書となった「心願の国」。被爆体験をもひっくるめて自らの人生をリリカルに昇華させようと不思議にロマンティックな切迫感がすごく良い。

 原と同様、被爆した作家として書かねばならないという義務感から生まれた作品として大田洋子『屍の街』(私は『ふるさと文学館第四十巻 広島』ぎょうせい、1994年で読んだ)も知られている。具体的な描写はGHQのプレスコードにひっかかって出版までには紆余曲折があったらしい。筆致は冷静で、たとえばこんなくだりもある。「あたりまえな人たちは、怪我をしていないというそれだけの違いでも、負傷者たちを、元々きたない乞食ででもあるように扱った。言葉や態度を横柄にし、見下げたようにしか扱わなかった。このような人間心理をも、それから罹災者たちは罹災者たちで、まだ焼け出されて二日か三日しか経っていないのに、元々自分が哀れな人間ででもあったかのように卑屈になってしまう心理をも、私は奇異に思わないではいられなかった。」だから人間は醜いと決め付けるつもりはなく、極限状態にあった人間心理を突き放して見つめる視線はいかにも作家らしい。

 井伏鱒二『黒い雨』(新潮文庫、1970年)は、原爆症を疑う義理の娘の結婚問題をきっかけに、主人公がそのやりきれない思いを込めて8月6日から15日までの出来事を手記につづるという形式で、原爆の惨状が細かに描かれている。井伏自身は被爆者ではないが、実際に被爆した人々の手記を組み合わせているらしい。

 原爆症のおそれと結婚問題というテーマはよく取り上げられる。井上ひさしの戯曲『父と暮せば』(新潮文庫、2001年)やこうの史代のベストセラー漫画『夕凪の街・桜の国』(双葉社、2004年)では、原爆症の懸念ばかりでなく、8月6日の光景がいつまでも脳裏から離れず「自分だけ幸せになるわけにはいかない」という呪縛との葛藤が描かれている。

 なお、こうの作品のタイトルは大田洋子の過去の作品とかぶるが、意識して付けられたのだろうか。漫画といえば中沢啓治『はだしのゲン』はわざわざ言及するまでもあるまい。最近公開されたスティーヴン・オカザキ監督「ヒロシマナガサキ」にも中沢氏は出演していた。

 被爆者の手記を読むのはやはりきつい。『原爆体験記』(朝日選書、1975年)は原爆投下から5年後にすでに編まれていたが、大田洋子『屍の街』と同様、GHQのプレスコードにひっかかって出版にこぎつけるまでかなりの時間を要している。原爆をめぐるGHQのプレスコードについては堀場清子『原爆 表現と検閲』(朝日選書、1995年)に詳しい。長田新編『原爆の子』(上下、岩波文庫、1990年)は被爆後6年目に子どもたちの書いた手記を集めている。語彙は乏しくとも、その分、余計な修飾がないだけに端的につづられた記録は身につまされる。神田三亀男編『原爆に夫を奪われて──広島の農婦たちの記録』(岩波新書、1982年)は、義勇隊として動員されていた夫がみな被爆死した農村の女性たちの聞き取りで、これも貴重な記録である。

 林重男『爆心地ヒロシマに入る』(岩波ジュニア新書、1992年)は原爆投下後二ヶ月ほどの時点での広島と長崎の写真を自ら撮影した経緯を記している。廃墟の光景しか映っていないが、それだけ破壊力のすさまじさが窺われる。被爆直後の広島の写真というのは意外と少なく、中国新聞カメラマンだった松重美人(よしと)氏の撮った5枚があるくらいで、『ヒロシマはどう記録されたか』(NHK出版、2003年)にその背景解説と共に収録されている。黒焦げになった赤ん坊を抱えた女性の姿が映っており、眼を思わずそむけてしまった。さらにショッキングなのは、『写真で見る原爆の記録』(原水爆資料保存会、1956年)である。松重カメラマンによる広島の写真も収録されているが、長崎に関しては広島とは異なり被爆直後の写真が多く残されている。気の弱い人は見ない方が良い。なお、映画「ヒロシマナガサキ」でも映し出される。

 広島についてはヴィジュアル的な記録が少ないため、記憶を絵に描きとめておく試みがなされた。『原爆の絵──広島の記憶』(NHK出版、2003年)にその経緯がまとめられているが、図書館で貸出中だったので私は未読。丸木位里・俊『ピカドン』という絵本もよく知られている。私は大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(岩波新書、1965年)の各章扉カットに使われているので見たが、原本はやはり未見。

 『写真で見る原爆の記録』は原水協の編纂になる本だが、冒頭に三人の被爆者の手記が掲載されている。いずれも、被爆者であるがゆえに差別された経験が吐露されている。風呂屋で二度と来ないでくれと言われ、夫にも捨てられた女性。結婚したものの姑から邪険にされる女性。体の不調を訴えると怠け者と上司から言われてしまう男性。被爆者であると分かると就職や結婚に響くので被爆者手帳の交付を敢えて受けないという人もいた。中条一雄『原爆と差別』(朝日新聞社、1986年)はさらに踏み込み、“平和運動家”の“善意”がかえって被爆者に特殊な烙印を押す結果となってしまう逆説を激しい口調でえぐりだしている。“平和運動”の不毛な政治性については大江健三郎『ヒロシマ・ノート』でも取り上げられている。

 広島の原爆をめぐる問題の全体像をつかむには『ヒロシマはどう記録されたか』がとても便利だった。NHK広島支局と中国新聞の原爆報道の軌跡をたどるという趣旨だが、分厚い本だけに様々なテーマが網羅されている。七月に撃墜されて捕虜となった米兵が「ここにいたら死ぬ、近いうちに広島が全滅するような爆弾が投下される」と言っていたこと、原爆投下直後に政府から調査団が派遣された経緯などは初めて知った。放送というテーマでは『幻の声──NHK広島8月6日』(岩波新書、1992年)という本もある。

 高田純『核爆発災害──そのとき何が起こるのか』(中公新書、2007年)の第一章は放射線科学の立場から広島の核爆発の瞬間を分析している。爆心地のすぐ近くでも生き残った人がいたが、生死を分けた偶然の原因が科学的に解明されており、興味深い。

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2007年8月16日 (木)

「ヒロシマナガサキ」

 資料映像がしばらく流れた後に映るのは渋谷・原宿の若者たち。「1945年8月6日に何があったのか知ってる?」とマイクを向けられ、屈託なく「分からない」と答える。“若い世代は歴史を忘却している”というお決まりのパターン。そういうお説教映画かとイヤな感じの出だし。

 しかし、全篇を通して見ると良心的に作られているように思う。被爆者と、原爆投下に直接関わったアメリカ人、それぞれのインタビュー映像を組み合わせて構成されており、余計なナレーションは一切ない。過剰な感傷は排して、観客はひたすら彼らの語りをかみしめる。原爆が炸裂した瞬間を、投下した側、被爆した側、両方の回想を並べて浮き彫りにしているあたりなど興味深い。

 資料映像を通して、アメリカ側の日本イメージが簡潔に示される。たとえば、元駐日大使ジョゼフ・グルーの「日本人は我々とは思考回路の全く異なる狂信者だ」という趣旨の演説からは、日本への原爆投下やむなしというアメリカ側の空気がよくうかがわれる。ただ付け加えると、知日派としてのグルーはアメリカ政府の対日政策をまだマシな方へ舵取りしたキーパーソンであったことにも留意しておこう(たとえば、平川祐弘『平和の海と戦いの海』(講談社学術文庫、1993年)や五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫、2005年)を参照)。

 自らの体に刻印された被爆の傷跡をカメラの前にさらけ出しながら語られる肉声。単に被爆した瞬間だけでなく、60年にもわたって続いてきた苦しみにはコメントなどできない。ある女性は、姉妹二人生き残ったが、その後の貧しさ、そしてはっきりとは言わないが周囲から向けられる偏見により、妹が鉄道自殺してしまったという。「ギリギリになると人には死ぬ勇気と生きる勇気が並べられるのだと思います。妹は死ぬ勇気を選び、私は生きる勇気を選んだのです」という言葉が胸に残った。

 岩波ホールで観たのは本当に久しぶりだ。上映開始30分前に行ったのだが、すでに受付には行列ができており、満席。観客の年齢層は高めだった。

【データ】
原題:White Light/Black Rain
監督:スティーヴン・オカザキ
2007年/アメリカ/86分
(2007年8月16日、岩波ホールにて)

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2007年8月15日 (水)

中島岳志『パール判事』

 昨晩、NHKスペシャル「パール判事は何を問い掛けたか──東京裁判 知られざる攻防」を見た。東京裁判は必ずしも初めに結論ありきで行なわれたわけではなく、判事の間でも激しい論争があって判決も流動的であり得た様子を描き出しており、興味深かった。ディレクターの高木徹は『戦争広告代理店』(講談社文庫、2005年)『大仏破壊』(文春文庫、2007年)といった素晴らしいノンフィクション作品で記憶している。

 この番組のキーパーソンの一人、オランダ出身のレーリンク判事のことが気にかかった。確か、『レーリンク判事の東京裁判』(小菅信子訳、新曜社、1996年)が本棚にあったはずだと探したのだが、東京裁判関連の文献はまとめて実家に預けっぱなしのようで見つからない。

 レーリンクは飛行機上から広島の廃墟を目撃し、あまりのことに心を動かされたという。日本に同情したということではなく、勝者の裁きの不毛を実感し、その点でインド出身のパール判事の意見に共鳴した。判決に際しては多数派意見とは別に少数意見を提出、“人道に対する罪”“平和に対する罪”は事後法として否定、ただし通例の戦争犯罪としての残虐行為は重く見て軍人9名に死刑を求めた。多数派意見で死刑とされた中で唯一の文官であった広田弘毅については無罪としている。

 先日買い求めたばかりの中島岳志『パール判事──東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社、2007年)を通読した。本書は、田中正明『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫、2001年)や映画「プライド」(伊藤俊也監督、1998年)をはじめ、日本に都合よく強引に解釈されてきたパールの論理を読み直そうと意図している。

 パール判事による東京裁判批判の第一点は、「法によらない正義」をあたかも「法による正義」であるかのように押し付ける偽善へ向けられている。罪刑法定主義に照らすと、国際法に依拠しない“人道に対する罪”“平和に対する罪”を以て被告の責任を問うことはできない。政治的意図で法をまげるのは単なる報復であり、下手すると戦争に勝ちさえすればやりたい放題ということになりかねず、将来の戦争防止につながらない。また、日本は無条件降伏したとはいえ、国家主権を全面的に委譲することはあり得ない。従って、占領統治にもおのずと一定の制限があるはずで、事後法で裁いてよいという理屈にはならない。パリ不戦条約では自衛権の判断が曖昧で国際法として機能しておらず、現時点で戦争そのものを違法として裁くべき根拠はどこにもない。

 張作霖爆殺をはじめとした一連の軍事行動、とりわけ南京事件やバターン死の行進など個々の事件に関しては通例の戦争犯罪としての事件性を認定している。ただし、被告の責任を問うには証拠不十分であり、すべてを“共同謀議”として結び付けてしまうのは強引に過ぎるとしている。

 ここで注意すべきなのは、パール意見のポイントは、道義的な戦争責任と法的な戦争犯罪とを別個の次元で捉えていることだ。裏返せば、日本の道義的責任を免罪しているわけではない。

 同時にパールが問うているのは、その道義的責任というのは日本だけに限られるものなのかという点だ。日本は確かに侵略戦争を行なった。しかし、たとえば満州国を保護国としたやりくちなどを見ても、他ならぬ西欧諸国の真似である。しかし、これまで世界各地で植民地戦争をふっかけてきた西欧諸国の行為は国際法上の犯罪とはみなされていない。日本の帝国主義を断罪する一方で、自らの植民地を手放そうとはしない、それどころか新たな植民地戦争を行ないつつある(当時、日本敗北後の空白を埋めるようにフランス軍がインドシナ半島へ、オランダ軍がインドネシアへ戻り、独立運動を軍事制圧しようとしていた)。このように、西欧帝国主義の欺瞞に対する非難が込められている点が第二の特徴としてあげられる。

 第三に、国際法遵守を促すための国際機構として世界連邦という理想に触れていることは判決意見書としては異例である。

 パールの思想の根幹にはガンディーの非暴力主義、“真理の把握”がある。パールは戦後、4度にわたって訪日しているが、そのたびに日本がアメリカに依存し、アメリカの言うがままに再軍備へと舵をきろうとしていることに対して警告を発していた。「悪を制するに悪を以てする」発想で戦争という“悪”にコミットすることへのラディカルな批判である。

 また、広島に行った時のこと。原爆慰霊碑の銘文「安らかに眠ってください 過ちは 繰返しませぬから」を見てパールは激昂したという。「まつられているのは原爆の被害者であり、原爆を落としたのは日本人ではない。落としたものの手はまだ清められていない。…過ちを繰返さないということは将来武器を取らないことを意味するなら非常に立派な決意だ。日本がもし再軍備を願うなら、これは犠牲者の霊を冒涜するものである。」著者はこれを、原爆の責任の所在を曖昧にし、アメリカの顔色をうかがう日本人への苛立ちと解している。

 なお、アメリカを一つの象徴に見立てた物質文明批判という点では、パールと同様に、日本でも大川周明が早くからガンディーの思想に注目していたことが思い出される(たとえば、大川周明『復興亜細亜の諸問題』(中公文庫、1993年)を参照)。本書の著者も示唆しているが、パールと大川との比較論というのも興味深いテーマだ。

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2007年8月14日 (火)

『八月十五日の神話』『東アジアの終戦記念日』

 8月15日は終戦記念日、これを私なども自明なことと疑いもしなかったが、佐藤卓己『八月十五日の神話──終戦記念日のメディア学』(ちくま新書、2005年)を読んで目からウロコが落ちた。

 どの時点を以て戦争が終わったとみなすのか、意外と単純には決められない。時系列的に整理すると、ポツダム宣言受諾を連合国側へ正式に伝達し、終戦詔書が起草されたのは8月14日。その終戦詔書を天皇自らの声で録音した、いわゆる“玉音放送”が流れたのが8月15日で、一般にこの日を“終戦記念日”と呼んでいる。ミズーリ号上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が降伏文書に調印したのが9月2日である。

 戦闘行動の停止という意味では各地の事情によってタイムラグがある。大本営から停戦命令が出されたのは8月16日。しかし、沖縄では、沖縄守備隊司令官牛島満中将が自決し、日本軍の組織的抵抗がほぼ終わった6月23日を慰霊の日としており、残存日本軍が正式に降伏文書に調印したのは9月7日である。また、ソ連軍は日本のポツダム宣言受諾後の8月15日に千島作戦を発動させ、歯舞諸島を完全占領した9月5日まで戦闘行動が続いた。大陸や南方各地でもそれぞれ日付は異なるはずだ。

 終戦のシンボルとして“玉音放送”がよく取り上げられる。しかし、戦争というのは相手があってのことであり、交戦相手に意思表示をした時点で終戦と考える方が理屈にかなう。その意味では8月14日、もしくは9月2日を終戦記念日とする方が妥当だし、そうでなければ海外の人々とこの戦争について議論する際の前提が共有できない。それにも拘わらず、日本人はあくまでも対内的なメッセージに過ぎない“玉音放送”を以て終戦とみなしているのは一体なぜなのか?

 本書は、“玉音放送”を聴いてうなだれている人々を撮影したとされる“玉音写真”の虚実、新聞報道の終戦特集企画記事、歴史教科書などの問題を取り上げているが、とりわけラジオ放送の分析を通して“玉音放送”の古層を掘り起こしているのが興味深い。1939年以来、英霊供養の盂蘭盆会法要のラジオ放送が8月15日に行なわれており、ここに“玉音放送”がイメージ的に重ねあわされたという。テレビや新聞の終戦特集企画、いわゆる“八月ジャーナリズム”はこのイメージを固定化させた。丸山眞男・宮沢俊義の8月15日革命説などによる断絶の強調は、彼らの意図は別として、かえって戦時下から戦後にかけてのメディアの連続性を隠蔽する効果を持ったと言える。

 こうした結論を踏まえて著者は、お盆の「8月15日の心理」を尊重しつつ、公式に戦争が終わった「9月2日の論理」とを両立させるため、この二つの日付をそれぞれ「戦没者追悼の日」「平和祈念の日」として“政教分離”することを提案する。

 以上の佐藤書を受けて、日本ばかりでなく朝鮮半島や台湾、中国など東アジア各地での“終戦”の捉え方を共同研究した成果が佐藤卓己・孫安石編『東アジアの終戦記念日──敗北と勝利のあいだ』(ちくま新書、2007年)である。

 沖縄はラジオ放送ができない状態にあったため、いわゆる“玉音体験”から排除されていた。戦後日本という“想像の共同体”を成り立たせた神話として“玉音放送”を捉えるなら、ここから見えてくる沖縄の位置付けもまた再考の必要がある。

 朝鮮半島や台湾でも“玉音放送”は流れた。私などには解放のニュースに国中が欣喜雀躍しているイメージがあったのだが、実際にはこれをどう受け止めたら良いのか人々は戸惑い、むしろ静かだったという。複雑な政治力学的なプロセスを経て時間をかけながら解放を実感することになるのだが、戦勝記念日、独立記念日をめぐって各地域それぞれの事情に応じてシンボル化されていく経緯がたどられている。

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2007年8月12日 (日)

夏休みを思い出させる作品

 夏休みシーズンに入ると、電車にガキンチョどもの姿が急に増える。通勤時間帯に乗り慣れていないヤツラの騒々しさ。寝ぼけまなこの私は少々いらつきながら、小学生の頃、電車に乗って遠出するこ自体がちょっとした冒険のようでワクワクしたなあ、などと妙に感傷にふけったりもする。

 夏休みという日常のルーティンから切り離された時間は子供心に様々な心象を呼び起こし、ファンタジーの舞台として格好な題材となる。もののけたちとの交流を描いた宮崎駿監督「となりのトトロ」(1988年)、宇宙人との出会いをVFXを駆使してSF物語に仕立て上げながら、同時に小学生の夏休みの光景をも描きこんだ山崎貴監督「ジュヴナイル」(2000年)などを思い出す。小さい頃の心象風景をくすぐられるのか、ノスタルジックな気分にひたってしまう。最近観た根岸吉太郎監督「サイドカーに犬」(2007年)は一夏限り、かけがえのない擬似家族体験を描いているが、これも一種のファンタジーのようにも思える。

 銀林みのる『鉄塔武蔵野線』(新潮文庫、1997年)は日本ファンタジーノベル大賞受賞作。鉄塔マニアの少年が、送電線の鉄塔にはそれぞれに番号がふられていることに気づき、第一号をつきとめてやろうとたどっていく。夏休みという非日常的な時間にかき立てられた少年の探究心。大人になってしまえば何でもないが、子供心には未知の世界を切り開いていこうというドキドキ感が良い。長尾直樹監督によって映画化されている(1997年)。なお、私自身は鉄塔マニアでも何でもないが、『東京鉄塔』(自由国民社、2007年)という写真集をパラパラめくっていたらなかなか風情があって面白かった。

 湯本香樹実『夏の庭』(新潮文庫、1994年)は大好きな小説だ。人間が死ぬってどういうことなのだろう?と好奇心を募らせた三人の小学生が、ある一人暮らしの老人を見に行く。いわば、日本版「スタンド・バイ・ミー」という感じか。ところが、いまにも死にそうだったその老人は、少年たちに観察されていることに気づくと、生きる張り合いが出たのか、かえって元気になる。やがて親しくなった彼らは、戦争体験をきっかけに孤独な過去を背負った老人の死を見届けることになる。相米慎二監督によって映画化されている(1994年)。

 小学生の夏休みを思い出させる作品として他にどんなものがあるだろうか?

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2007年8月11日 (土)

「鴨とアヒルのコインロッカー」

 仙台の大学へ進み、不安の入り混じった気持ちで引越し作業をする椎名(濱田岳)。玄関先でダンボール箱を紐でゆわきながらボブ・ディラン「風に吹かれて」を口ずさんでいたら、「ディラン?」と背後から声をかけられた。その男、隣室の“河崎”に誘われて彼の部屋に入るとこう言われる、「一緒に本屋へ広辞苑を奪いに行かないか」

 何やら不条理、ナンセンスという感じの出だしだが、これには様々な伏線が張られている。二年前におきた不幸な事件をめぐる、“河崎”、ブータン人のドルジ、その恋人の琴美という三人の物語、そこに椎名は飛び入り参加させられたという形。二年前と現在とが交互に入れ替わりながら話題は進む。伊坂幸太郎の原作小説『鴨とアヒルのコインロッカー』(創元推理文庫、2007年)はいくつもの寓話的エピソードがたくみによりあわされてストーリーテリングのうまさに感心する。

 瑛太が色々な役柄を演じ分けているのが目を引いた。最初に登場した時のくだけた色男風、かと思うと物語を唐突に語り始める棒読み口調、日本語のたどたどしいブータン人、空想シーンで一瞬出てきただけだが麻薬の売人となって彫りの深い顔をしかめる表情など板についていて、なかなか良い。

【データ】
監督:中村義洋
原作:伊坂幸太郎
出演:濱田岳、瑛太、関めぐみ、松田龍平、大塚寧々
2006年/110分
(2007年8月8日レイトショー、テアトル銀座にて)

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2007年8月 9日 (木)

原爆の記録をいくつか

 黒焦げとなって性別不明な死体が川の中に折り重なっている。息のある者も、服は焼けて裸に近い状態。皮膚がずるむけになってぶら下がり、「水をくれ、水をくれ」とうめいている。ガラスの破片が体中にびっしりと埋まっている人、眼球が飛び出してぶら下がっている人。顔がボールのようにふくらんで、声を出さねば誰なのか分からない。体中からにじみ出る膿はひどい臭いを放ち、薬もなく、救護にあたる人々はただ途方にくれるばかり。──こうやって書き出していくだけでも気が滅入ってくる。

 生き残った人々にも苦難がはだかっていた。ケロイドの残った顔や体に向けられる眼差し、原爆症への周囲からの差別意識。何よりも、家族や近所の人たちや学友や職場の同僚が変わり果てた姿で息絶えていくのをまさに目の前で見ていた。その光景と、助けられなかった負い目とを一生ひきずらねばならなかった。同情する、などとは軽々しくは言えない。何か、言葉に出すこと自体が冒涜に当たるような、難しい気持ちだ。

 『原爆体験記』(朝日選書、1975年)の原本は原爆投下の五年後に被爆者から寄せられた手記をまとめて印刷された。ところが、そのあまりに凄惨な内容が占領軍の嫌忌に触れ、核戦略上の思惑もあったのだろう、出版は許可されずしばらくの間広島市役所の倉庫に埋もれていたという。職業、年齢を異にする様々な人々の体験は、被爆の記憶がまだ鮮やかな時期に記されたものだけに生々しい。

 神田三亀男・編『原爆に夫を奪われて──広島の農婦たちの証言』(岩波新書、1982年)は広島市北郊の農家のおばあさんたちからの聞き書き。みな、夫は義勇隊として広島市内に動員されていた時に被爆死した。中には、夫を探して市内に入り、黒焦げとなった姿を見つけて連れ帰った人もいる。単に原爆の記録というだけでなく、一般に注目される機会のない農家の女性たちの人生もまた戦争や原爆によっていかにねじ曲げられたかを書き残しておこうという意図に特色がある。

 林秀男『爆心地ヒロシマに入る』(岩波ジュニア新書、1992年)は原爆投下から二ヶ月ほど経った広島と長崎の写真を収めている。著者は原爆災害調査団に参加したカメラマン。とにかく何もかもが吹き飛ばされて更地となった光景から、原爆の破壊力のすさまじさが窺える。この何もない瓦礫の広がりの下に多くの死者が埋もれているわけだ。

 白井久夫『幻の声──NHK広島8月6日』(岩波新書、1992年)。原爆投下直後に流れたラジオ放送、「こちらは広島中央放送局でございます。広島は空襲のため放送不能となりました。どうぞ大阪中央放送局、お願い致します。大阪、お願い致します、お願い致します…。」悲しくも美しい、女性の声だったという。どなたの声だったのか確かめて欲しいという投書をきっかけに、NHKディレクターである著者が戦時下の放送体制の問題へと分け入る。結局、誰の声だったのか、そもそも本当に流れたのかすらも分からない。だが、その声を聞いたという人が何人もいたという事実、そうした人々の思い入れの強さが印象付けられる。

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2007年8月 7日 (火)

「天然コケッコー」

 小中学生あわせてたった6人の分校に東京から転校生がやって来る。歓迎準備で教室は上を下への大騒ぎ。最上級生、中学二年生の右田そよ(夏帆)も初めての同級生ということでそわそわと落ち着かないが、現われた大沢広海(岡田将生)のつっけんどんな態度に反発してしまう。つかず離れずの関係となる二人、しかし青春ものにありがちな甘ったるい感じは意外としない。一年間という時間が徐々に経過する中で、それぞれに抱えた戸惑いが少しずつ変化していく様子がほの見えてくるのが良い。

 私にはいわゆる田舎というのがないので、こうした山あいにある村の風景には過剰にあこがれを持ちやすい。たとえば、河瀨直美監督「萌の朱雀」に対して抱いた思い入れがそうだった。逆に、最近観た「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」ではうっとうしくまとわりつく過去の足かせという感じ。ゆったりと包まれるぬくもりを感じるか、忌々しい拘束と感じるか、人によって受け止め方は違う。

 この映画では、人の関係がとにかくゆっくりしている。そよは父(佐藤浩市)の不倫を疑う。分かってか分からないでか、母(夏川結衣)はさらりと受け流す。子供心には深刻に受け止めざるを得ないことであっても、村の鈍感と言ってしまえるほどにゆるい空気は大きく包み込んでしまう。

 そよを演じる夏帆は、むしろ都会っ子としか思えないくらいに線が細い。だが、良い意味で泥くさい感じに馴染んで(どんな意味だ?)制服姿が素朴にかわいい。何よりも、ほんの些細なことにも過敏となって、時には空回りしかねない気持ちの揺らぎを表情でよくあらわしていた。とても良い。

 毎朝繰り返される集団登校の光景。しかし、四季の移り変わりは彼女たちの姿を決して単調なものにしない。「もうすぐ消えてしまうと思うと、ひとつひとつがいとおしくなってくる」というセリフが印象に残る。中学卒業の、最後の日の教室。広海とぎこちないキス。今まで自分たちを見守ってきてくれた教室の黒板に、落ち着いた面持ちでキス。白いカーテンが風にはためき、陽光が教室へおだやかに差し込む。カメラの視点がゆっくりと動き、高校の制服を身にまとったそよが窓から教室の中をのぞき込んでいる。これから彼女がどんな人生を歩むにせよ、ここで過ごした時間が、踏みしめるべき確固たる足場となっていることは間違いない。

 くらもちふさこの原作漫画を読んだのはかなり前で、内容はほとんど忘れていた。主人公の右田そよという名前だけはなぜかしっかり記憶していたので妙にもどかしく思っていたところ、そよがいつも面倒を見ていた女の子が「そよちゃーん!」と甘えるように抱きつくシーンで原作のタッチが急に思い出された。渡辺あやの脚本は原作の良さをうまく引き出している。

【データ】
監督:山下敦弘
原作:くらもちふさこ(集英社)
脚本:渡辺あや
2007年/121分
(2007年8月6日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2007年8月 6日 (月)

「夕凪の街 桜の国」

 以前にこのブログでもコメントしたことがあるが、こうの史代の原作が好きなので観に行った。昭和30年代、まだ原爆の傷跡が生々しい広島を舞台とした「夕凪の街」。現代に時を移し、原爆症で亡くした姉・皆実の知り合いを訪ね歩く父・旭(堺正章)と、その父がぼけたと思ってあとをつける娘・七波(田中麗奈)の真夏の旅を描いた「桜の国」という二本立て。

 原作の「桜の国」で、かつて被爆者たちの暮らす掘っ立て小屋が並んでいた川岸に旭がたたずむシーンがあった。大きく見開きで、片方のページに昔の家並みが、もう片方に同じ場所だが現代のきれいに整備されて桜の咲きみだれる光景が描かれていた。時の経過が持つ切ない情感を何となく感じさせて印象に強い。原作漫画のやわらかくのほほんとしたタッチが私は好きだった。映画の方は、ストーリーとしては忠実にたどってはいるものの、絵柄の雰囲気までは再現すべくもない。それでも、実写映像の持つ力は現代と過去の空気の違いを感情移入しやすい形で描き出しており、悪くないと思う。

 文部省選定映画のようなコンヴェンショナルなつくりという感じがしないでもない。が、テーマがテーマなだけに、ハンカチで目頭を押さえて鼻をすすらせる音が周囲から聞こえてきたし、かく言う私自身、少々涙腺が危うかった。皆実役の麻生久美子が原作のイメージにぴったりでとても良かった。

【データ】
監督:佐々部清
原作:こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社、2004年)
2007年/118分
(2007年8月4日、新宿、シネマスクエアとうきゅうにて)

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2007年8月 4日 (土)

「キサラギ」

 アイドル・如月ミキが謎の自殺を遂げてから一年目。彼女の追悼という名目で、如月ミキ応援サイトに書き込みをしていた常連の家元(小栗旬)、スネーク(小出恵介)、オダユージ(ユースケ・サンタマリア)、安男(塚地武雅)、イチゴ娘(香川照之)の5人が都内のある一室に集まった。思い出話でもしようと軽いノリだったところ、「彼女は自殺したんじゃない、殺されたんだ」というオダユージの一言をきっかけに、トゲトゲしい空気が部屋にわだかまる。

 時間がたまたま合ったので事前情報なしに観たのだが、意外と面白かったので驚いた。5人の会話だけで進む密室劇。それぞれが語る回想を通して如月ミキの死の真相に迫るのだが、徐々に一人ひとりの如月との個人的な関係が明らかとなって、互いに「お前が犯人だ!」と疑心暗鬼をつのらせる。どんでん返しが何回も繰り返され、追及の攻守はクルクルと回転。テンポもはやく、映画というよりも舞台を思わせる。何気なく発せられたセリフの一つ一つが後の展開の伏線となっており、脚本がよく練り込まれていることに感心した。5人の掛け合いも絶妙、所々で観客から爆笑が沸き起こっていた。

 ネット上では知り合っていたが初めて顔を合わせるという設定は今では違和感なく受け入れられるが、もう10年くらい前になるか、森田芳光監督「(ハル)」(1996年)では、顔を合わせるまでのプロセスをドラマチックに盛り上げていたのを思い出した。ジジくさい話だが、時代も変わったものだと妙な感懐が沸き起こってしまった。

【データ】
監督:佐藤祐市
脚本:古沢良太
2007年/108分
(2007年8月3日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2007年8月 2日 (木)

菊池理夫『日本を甦らせる政治思想──現代コミュニタリアニズム入門』

 1980年代から主に英語圏を中心とした政治哲学では、リバタリアニズム(libertarianism)とコミュニタリアニズム(communitarianism)という二つの立場の間で交わされた議論が大きな軸となった。大雑把に言うと、リバタリアニズムとは個人の自由を最大限に保障すべきという主張で、市場原理主義もここに含まれる。対して、その弊害を指摘し、伝統やコミュニティーのつながりを重視する議論を提起したのがコミュニタリアニズムだとまとめられる。

 菊池理夫『日本を甦らせる政治思想──現代コミュニタリアニズム入門』(講談社現代新書、2007年)は、“共通善”を求める政治思想としてコミュニタリアニズムを特徴付けた上で、「家族と教育」「地域社会」「経済政策と社会保障」「国家と国際社会」といった様々な位相においてこの政治思想がどこまで応用可能なのかを論じている。コミュニタリアニズムの大きな概略図をスケッチしており、入門として手頃な本だ。

 コミュニタリアニズムに対しては、①コミュニティーにおける絆を重視→個人の自由を束縛するのではないか? ②“共通善”という名目で個人に犠牲を強いるのではないか?といった批判がある。だが、この思想が一つの立場として打ち出された事情として、リバタリアニズムが内包する①負荷なきアトム的個人というフィクションへの疑問、②自由放任経済の行き過ぎ、といった問題への批判の提起を発端としていたことを考えれば、むしろ両者の指摘を総合して歩み寄るという行き方をするのが常道なのだろう(リベラル・コミュニタリアニズム)。あまり面白みのない結論になってしまうが。

 リバタリアニズムvs.コミュニタリアニズム、“自由”重視vs.“共同体”重視、と単純な対立軸にまとめてしまえば分かりやすいが、その分、説得力は乏しくなる。どんな思想でも、一部分だけを切り取って誇張すれば何でも言えてしまう。

 たとえば、リバタリアンがバイブルのように崇拝するハイエクにしても、無条件に“自由”を称揚していたわけではない。ハイエクの自由論の背景として、人間の知性には限界があるという自覚があった。だからこそ、先人が試行錯誤を通して汲み取ってきた智慧を“伝統”として踏まえ、個人の“自由”の足場として“共同体”が必要だと指摘し、単純なアトム的個人モデルを“偽の個人主義”として否定している(ハイエク「真の個人主義と偽の個人主義」『市場・知識・自由』田中真晴・田中秀夫訳、ミネルヴァ書房、1986年)。

 リバタリアンにコミュニタリアン、仮にそれぞれが極論を唱えたとしても、そうすることで論点の掘り起こしを図り、政治をめぐる大きな議論に一層の磨きをかける。そうした意味での役割分担を通して貢献しているという自覚が必要だ。これも一種の“共通善”を求める営みとするなら、私もメタなレベルで自覚的なコミュニタリアンだと言えるだろう。

 なお、リバタリアニズムについては森村進『自由はどこまで可能か──リバタリアニズム入門』(講談社現代新書、2001年)が入門書としてよくまとまっている。他に蔵研也『リバタリアン宣言』(朝日新書、2007年)というのもあるが、あまりに質が低いので私は以前にこのブログで酷評したことがある(「リバタリアン宣言」及び「リバタリアン宣言についてもう一度」を参照のこと)。

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2007年8月 1日 (水)

岡潔という人

 藤原正彦『国家の品格』(新潮新書、2005年)は異例のベストセラーとなったが、文化論としてはあちこち粗が目立ち、あまり良い本とは思っていない。ただ、論理的思考の基礎は情緒にある、そして情緒は歴史や風土の中で育まれるという藤原の年来の主張は傾聴に値する。

 この藤原のアイデアにはタネ本がある。岡潔(1901~1978年)である。藤原と同様に数学者で文化勲章も受章している。研究テーマは「多変数解析函数論」ということだが、何のことやらさっぱり分からない。ドストエフスキーの愛読者。若い頃、「計算も論理もない数学をやりたい」と言って周囲から怪訝に思われたそうだ。

 岡は随筆でよく知られた。『春宵十話』(光文社文庫、2006年)では、数学もまた自らの情緒を外に表現する一つの形式だとした上でこう記している。「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと言って来た」。なかなか良い感じ。

 私が岡潔の名前を初めて意識するようになったきっかけは、昨年、日本経済新聞に掲載された辻原登のエッセー「四人の幻視者(ボワイヤン)」(2006年1月22日)。そこでは、「ロシア・ソビエトSFの父」ツィオルコフスキー、独特な日本語学者・三上章、戦争末期にボルネオのジャングルで姿を消した文化人類学者・鹿野忠雄と共に、岡潔について触れていた。岡のめぐらした不思議な日本民族論を辻原はこうまとめている。

われわれ日本民族は三十万年ほど前に他の星から地球にやってきて、マライ諸島あたりに落下した。一万年くらい前に黄河の上流にいた。それから南下して、八千年くらい前にペルシャ湾からマライ諸島を回っていまの日本諸島にたどり着いた。ところが、われわれはそのことを忘れている。他の星の住人だったことも忘れている。しかし、忘れているということを知っている。知っているがどうしても思い出せない。この狂おしいばかりのなつかしさ。

 岡の原文で読みたければ、『春宵十話』所収の「ある想像」や『日本の国という水槽の水の入れ替え方』(成甲書房、2004年)所収の「日本民族の心」を参照のこと。

 なお、岡は熱烈なナショナリストでもあった。日本民族滅亡の危機を憂え、時折猛り狂って極論へと暴走してしまう。日本民族起源論のファンタスティックなイメージも含めて岡は大真面目なのだが、そこがかえって無邪気でかわいらしい。しかし、前掲した『日本の国という水槽~』の編集方針は“憂国の随筆集”。岡の猪突猛進を真に受けてしまうと何だか妙な違和感がある。

 岡と小林秀雄との対談が「人間の建設」というタイトルでまとめられている(『小林秀雄全集第十三巻』新潮社、2001年)。奔放に飛躍しかねない岡から、小林はバランスよくたくみに言葉を引き出しており、読みやすい。小林は、岡の話は理論ではなくビジョンとして非常に面白い、と評している。まさに岡は言語で表現しがたいレベルの問題をイメージで語ろうとしており、誤解されかねない危うさそのものもひっくるめて興味深い。

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