「殯の森」
「殯(もがり)の森」
見終わってすぐに浮かんだ印象は、緑のやわらかなてのひらにあたたかく包み込まれた感じ、と言ったらいいだろうか。
河瀨直美監督初の長編「萌の朱雀」がカンヌでパルムドールを受賞してからもう十年が経つのか。早いものだ。この作品は本当に好きだった。吉野の緑深い山村を舞台に、父の自殺を契機として家族が静かに崩れていく姿を描き出していた。息子の義母に寄せる想い、妹の兄に寄せる想い、それぞれの淡い気持ちもすべて山の鬱蒼たる木々の中に包み込まれている、そうしたイメージがとにかく胸にやさしくしみわたってきた。父親役の國村隼以外はすべて素人を起用していたが、この作品に出演したのをきっかけに尾木真千子は女優を目指したという。素朴にかわいらしく思っていたが、今回、「殯の森」では大人に成長しつつある姿を見せてくれる。
「萌の朱雀」の後も、河瀨監督が「火垂」(2000年)、「沙羅双樹」(2003年)と新作を発表するたびにきっちりとチェックしていた。ただ、情念的なものが濃すぎて、私にはちょっと入り込めないなあと戸惑ったことを覚えている。
今回の「殯の森」は、「萌の朱雀」と同様の吉野の山あいに舞台が戻った。幼い子供を死なせてしまったという負い目を抱えた真千子は、慣れない手つきでグループホームの老人たちの世話をしている。しげきというクセの強い老人とトラブルを起こすが仲直りし、彼の外出の付き添いをすることになった。
しげきの妻が亡くなって三十三年が経つ。彼の亡き妻への想いは余人には窺い知れぬほどに強い。三十三回忌は仏になってこの世を離れるときだと和尚さんから聞き、妻の墓へ行こうと道なき山道をはいつくばるようにして進む。雨に打たれ、寒さに震え、暖を取るため真千子は裸になって肌を密着させる。それは決してエロチックな姿ではない。人と人とのつながりを手応えとして実感する姿として、たとえば「火垂」に見られるように濃厚な情念が良い形でこの姿に流れ続けているように思う。
茶畑でしげきと真千子が隠れんぼをするシーンが印象深い。朗らかな明るさというだけではない。二人の姿を俯瞰するように映し出すと、背景の山が大きくせり出してくる。風にさわめく木々の緑の中に、二人の姿も包み込まれる。時に山のせせらぎは濁流に変貌し、冷たい雨で人間を打つ。しかし、様々な想いを抱えた人間の生き死にを、時には厳しくとも、全体としておおらかに包み込んでくれる。その中で、人は人とのつながりを、そしてもっと大きなものとのつながりをかみしめる。吉野の山々のおかげもあろうが、こうしたイメージを静かに説得的に描き出してくれる作り手を他に知らない。
上映館は満席で見づらい席に座らされたし、隣の変な兄ちゃんは落ち着きなく持っているビニール袋をさかんにガサガサいわせてうるさかったし、プログラムは売切れだし、と、かなり不愉快な状況の中で観た。でも、いまこうやって反芻していると気持ちが落ち着いてくる。それだけ魅力的な作品だった。
【データ】
監督・脚本:河瀨直美
2006年/日本・フランス/97分
(2007年7月16日、渋谷シネマ・アンジェリカにて)
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