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2007年7月27日 (金)

選挙について適当に

 私は国政選挙の開票特別番組が大好きで、投票日当日は真夜中までテレビにかじりついてチャンネルをカチャカチャ変えている。それこそ、選挙権のない中学生のときからだ。夕方を過ぎる頃にはジュースやお菓子を、今はビールとおつまみをそろえてスタンバイ。野党が得票をのばすと手を打って面白がる。別に自民党が嫌いなわけではない。それどころか、色々と問題があっても自民党が一番まともな政党だとすら思っているのだが、票を投じたことは一度もない。天邪鬼なもんで。

 選挙は大好きでも、投票を通じた民意の反映などという原則論を素朴には信じていない。投票のたびに思い出すのはルソー『社会契約論』にあるこんな言葉。「イギリス人は選挙キャンペーン中は自由である。しかし、選挙が終わった途端にすべては奴隷となる」。ルソーの口ぶりは非難がましい。だが、議会制民主主義とはそもそも社会体制の革命を防止するために設計されている。人々の不満をガス抜きするためのアブソーバーに過ぎない。そして、それはそれで悪いこととは私は思っていない。

 “政治”の定義は色々とあるが、一つの要素として支配・被支配の関係が挙げられる。明示的にせよ、黙示的にせよ、複数の人間が集まれば必ずこの関係が現われるが、力ずくで行なわれれば専制と呼ばれ、当事者の同意があればリーダーシップと呼ばれる。選挙とは、“民主主義”という名目の下、この支配関係に正当性を与える手続的なセレモニーである。

 二十世紀初頭の社会学者ロベルト・ミヘルスは“寡頭制の鉄則”を指摘した。彼はドイツ社会民主党の分析を通して、“民主的”といわれる政党であればあるほど、むしろ党幹部の専制的指導力が強くなるという逆説を剔抉し、政治学史に独特な位置を占めている(ミヘルス(南・樋口訳)『現代民主主義における政党の社会学』木鐸社、1990年)。

 民主主義とは、一面において個人主義とイコールである。封建時代の桎梏を脱し、自由の空気を味わいつつある近代人にとって、自分以外の誰かに支配されるということは、たとえ実害がなかったとしても、そのこと自体がプライドを傷つける。だが、政治は、一定の支配関係を形成することで秩序を守らなければならない。この矛盾をどのように考えるか?

 二十世紀における法哲学・憲法学の泰斗ハンス・ケルゼンは、投票による代表制を通じて“民意”という抽象的な権威を形成し、具体的な誰かに支配されているわけではないと有権者が納得する、そうした一連のフィクショナルな手続きとして議会制民主主義を擁護する(ケルゼン(西島訳)『デモクラシーの本質と価値』岩波文庫、1966年)。

 フィクションというのは非常に大切だ。我々は自由である、かのように思う。民意は政治に反映される、かのように思う。その他もろもろの“かのように”の積み重ねによって辛うじて我々の社会生活は成り立っている。こうした立場を西洋哲学史では新カント主義というらしいが、詳しいことは知らない。ハンス・ファイヒンガー〟Die Philosophie des Als Ob〝(“かのように”の哲学)の邦訳はないが、このエッセンスを森鴎外が紹介してくれている(森「かのように」、『阿部一族・舞姫』新潮文庫、1968年、所収)。

 日本で普通選挙法が制定されたのは1925年。当時、高畠素之という思想家がいた。マルクス『資本論』を邦語で初めて全訳したことで知られるが、翻訳と同時にマルクスを批判して国家社会主義を提唱。戦後の左翼全盛の歴史学界ではほぼ黙殺に近い扱いを受けた。高畠はその頃、シニカルで辛口の社会時評でも名前を売り出しており、議会制度についても容赦なく本質を衝く。彼はドイツ語が堪能で、ミヘルスやケルゼンもしっかりと読み込んでおり、議会制度とは指導者支配を有権者多数による政治とみせかける擬制であると喝破した上で次のように述べている。

「羊頭狗肉、言い換えれば、羊の皮を着た狼である。国民の自我意識が或る程度まで進むと、こんな手練手管も支配上の必要不可避な条件となって来る。必然の悪だ。」「議会政治、政党政治は、斯くの如き羊頭狗肉の実を示す限りに於いてのみ存在の意義を有つ。」「節制あるデモクラシー国民は、デモクラシーの本分的限界を忘れないから、議会政治を葬る必要をも感じない。デモクラシーをオートクラシーの仮面として利用する国民のみが、議会政治を無難に維持し得るのである。」(高畠「議会政治の正体と将来」、『論・想・談』人文会出版部、1926年、所収)

 自民党が負けようが、民主党が勝とうが、たいした問題ではない。どちらが政権を担当したところで、妥協の積み重ねを通して国民誰もが満足できない、だけど不満をできるだけ軽減する、そうした形で政治は進む。そういうものだ。肝心なのは、選挙を通して政治に関与している、かのようなフィクションにどれだけ国民が馴染んでいるかどうかだ。選挙というフィクションそのものに対する正当性を測るという意味で、選挙結果なんかよりも投票率の方がはるかに重要だと私は思っている。

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